鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鉄井/鉄の観音/志一上人の石塔
鐵 井
鶴岡町屋ノ西南ノ隅、路傍ニアル井ナリ。此地ヨリ鐵觀音ヲ掘出タル故ニ名トス。
鐵ノ觀音
鐵井ノ西向ヒニ小堂アリ。觀音ノ鐵像首計有ヲ小堂ニ入置ク。極テ大ナル首ナリ。新淸水ノ觀音卜號ス。
志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕
右ノ石塔若宮ヨリ西脇ノ町屋ノ後ロノ山上ニアリ。土俗ノ云ルハ、志一ハ筑紫ノ人也。訴訟有テ下ラレ、スデニ訴訟モ達シケルニ、文状ヲ古里二忘置テ如何セント思ハレシ時、常々ミヤヅカヒセシ狐アリシガ、一夜ノ内ニ故郷ニ往キ、彼文状ヲクハヘテ曉ニ歸り、志一ニタテマツリ、其マヽ息絶テ死ケリ。志一訴訟叶ヒシカバ、則彼狐ヲ稻荷ニ祭リ、社ヲ立ツ。坂ノ上ノ脇ニ小キ社有。是其小社也。志一ハ左馬頭基氏ノ代ニ、上杉崇敬ニヨリ鎌倉へ下ラレケルト無極抄ニ見へタリ。太平記ニ仁和寺志一坊トアリ。又志一細川相摸守淸氏ニタノマレ、將軍ヲ咒咀シケルトアリ。此僧ノ事歟、未審(未だ審らかならず)。又此所ヲ鶯谷トモ云トナン。
[やぶちゃん注:「無極抄」は近世初期の成立になる「太平記評判私要理尽無極抄」という「太平記」の注釈書である。
「細川相摸守淸氏」細川清氏(?~正平一七/康安二(一三六二)年)は室町幕府第二代代将軍足利義詮の執事。官位は左近将監、伊予守、相模守。参照したウィキの「細川清氏」によれば、『正平九年・文和三年(一三五四年)九月には若狭守護、評定衆、引付頭人に加え、相模守に補任される。翌正平一〇年/文和四年(一三五五年)の直冬勢との京都攻防戦では東寺の敵本拠を破る活躍をした。正平一三年/延文三年(一三五八年)に尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、二代将軍足利義詮の最初の執事に任ぜられた』。『清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動があり、幕府内には前執事頼章の弟仁木義長や斯波高経らの政敵も多かった。正平一五年/延文五年(一三六〇年)五月、南朝に対する幕府の大攻勢の一環で清氏は河内赤坂城を陥れるなど活躍した。この最中に畠山国清ら諸将と反目した仁木義長が分国伊勢に逃れ追討を受けて南朝に降ると、清氏は幕政の実権を握ったが、将軍義詮の意に逆らうことも多かったという』。『同年(康安元年、三月に改元)九月、将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぐと、清氏は弟頼和・信氏らと共に分国の若狭へ落ち延びる。これについて、「太平記」は清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世(了俊)の「難太平記」では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。清氏は無実を訴えるものの、十月には斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津天王寺に至り南朝に降った。十二月には楠木正儀・石塔頼房らと共に京都を奪取するが、すぐに幕府に奪還された』。『正平十七年/康安二年(一三六二年)、清氏は細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐へ移った。清氏追討を命じられた従弟の阿波守護細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町、坂出市)に拠って宇多津の頼之勢と戦った。「太平記」によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。但し、「新編鎌倉志卷之四」には、
〇志一上人石塔 志一上人の石塔は、鶴が岡の西、町屋の後(うしろ)、鴬谷(うぐひすがやつ)と云所の山の上にあり。里人云、志一は、筑紫の人也。訟へありて鎌倉に來れり。已に訟へも達しけるに、文状を本國に忘置て、如何せんと思はれし時、平生志一につかへし狐ありしが、一夜の中に本國に往き、明くる曉、彼の文状をくわへて歸り、志一に奉り、其まゝ息絶へて死しけり。志一訟へかなひしかば、則ち彼の狐を稻荷の神と祭り祠(し)を立つ。坂上(さかのうへ)の小祠是也。志一は、管領(くはんれい)源の基氏の他に、上杉家、崇敬により、鎌倉に下られけるとなん。【太平記】に、志一上人鎌倉より上て、佐々木佐渡の判官入道道譽(だうよ)の許へおはしたり。細川相模守淸氏にたのまれ、將軍を咒詛(しゆそ)しけるとあり。
と記す。「太平記」巻三十六「淸氏叛逆の事」によれば、志一は佐々木道誉のもとにあって、細川清氏に頼まれて荼枳尼天の外法(ウィキの「荼枳尼天」に『狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている』とあり、志一と稲荷のラインが美事に繋がる)を以って将軍を呪詛したことが記されている。]