一言芳談 十三
十三
明遍云、所詮眞實をねがひ、穢土(ゑど)を厭(いとふ)心候はゞ、散心稱名(さんしんしようみやう)をもて往生候事うたがひなく候、其心眞實ならずば、百千の不審をひらきて、甚深(じんしん)の義理を悟(さとり)候とも、往生かなひがたく候か。佛道修行には、功(こう)が大切なるなり。一度機(とき)をかゞみて、一行におもひさだめて後、人の、とかくいへばとて、変改(へんかい)の条無下(むげ)の事なり。
〇散心稱名、散亂の心、妄念まじりの口稱(くしよう)なり。
〇其心眞實ならずば、前に眞實の言あるをうけて見るべし。厭欣(えんごん)は眞實ならずして、義解(ぎげ)を詮にするは往生せぬ人なり。
〇功が大切なるなり、たとひ散心なりとも、その功をつめば往生するなり。
〇かゞみて、あんがへみてか。(句解)
[やぶちゃん注:「功」これはは「功徳」の「功」であろう。従って仏果を受けるに足るまことの善行としての修行の持続性を言うのであろう。
「一度機(とき)をかゞみて、一行におもひさだめて後」国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像を見ると「度機」に「とき」の読みが振られているが、不詳。「かゞみて」も「一言芳談句解」が注するように意味が通らない。大橋俊雄氏は『一たび自分の素質を見定め、ただ一つの修行法でいくと決めたのちは』と訳しておられる。至当であろう。
・「無下」全く以って問題にもならぬこと。論外。]
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