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2012/11/24

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート4〈阿津樫山攻防戦Ⅲ〉

泰衡が郎従伴(ばんの)藤八は六郡第一の大力、武勇の名隱れなし。狩野(かのゝ)五郎を討取りて勢(いきほひ)八方に耀く所を、工藤小次郎行光馳竝(はせなら)べてむずと組み暫(しばらく)爭ひけるが、藤八遂に下になり、行光之が首を取る。城中の兵折來るを木戸口に追込み、静々(しづしづ)と引取りしは大剛勇力(だいがうゆうりき)の名士なりと皆感じてぞ稱美しける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅲ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月九日の条。

〇原文

九日丙申。入夜。明旦越阿津賀志山。可遂合戰之由被定之。爰三浦平六義村。葛西三郎淸重。工藤小次郎行光。同三郎祐光。狩野五郎親光。藤澤次郎淸近。河村千鶴丸。〔年十三才。〕以上七騎。潛馳過畠山次郎之陣。越此山。欲進前登。是天曙之後。與大軍同時難凌嶮岨之故也。于時重忠郎從成淸伺得此事。諫主人云。今度合戰奉先陣。拔群眉目也。而見傍輩所爭。難温座歟。早可塞彼前途。不然者。訴申事由。停止濫吹。可被越此山云々。重忠云。其事不可然。縱以他人之力雖退敵。已奉先陣之上者。重忠之不向以前合戰者。皆可爲重忠一身之勳功。且欲進先登之輩事。妨申之條。非武略本意。且獨似願抽賞。只作惘然。神妙之儀也云々。七騎終夜越峯嶺。遂馳著木戸口。各名謁之處。泰衡郎從〔下部〕伴藤八已下強兵攻戰。此間。工藤小次郎行光先登。狩野工藤五郎損命。伴藤八者。六郡第一強力者也。行光相戰。兩人並轡取合。暫雖爭死生。遂爲行光被誅。行光取彼頸付鳥付。差木戸登之處。勇士二騎離馬取合。行光見之。廻轡問其名字。藤澤次郎淸近欲取敵之由稱之。仍落合。相共誅滅件敵之。兩人安駕。休息之間。淸近感行光合力之餘。以彼息男可爲聟之由。成楚忽契約云々。次淸重幷千鶴丸等。撃獲數輩敵。亦親能猶子左近將監能直者。當時爲殊近仕。常候御座右。而親能兼日招宮六兼仗國平。談云。今度能直赴戰塲之初也。汝加扶持。可令戰者。仍國平固守其約。去夜。潜推參二品御寢所邊。喚出能直。〔上臥也。〕相具之。越阿津賀志山。攻戰之間。討取佐藤三秀員父子〔國衡近親郎等。〕畢。此宮六者。長井齊藤別當實盛(埼玉県妻沼町)外甥也。實盛屬平家。滅亡之後。爲囚人。始被召預于上總權介廣常。廣常誅戮之後。又被預親能。而依有勇敢之譽。親能申子細。令付能直云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

九日丙申。夜に入り、明旦、阿津賀志山を越え、合戰を遂ぐべきの由、之れを定めらる。爰に三浦平六義村・葛西三郎淸重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・藤澤次郎淸近・河村千鶴丸(せんつるまる)〔年十三才。〕の以上七騎、潛かに畠山次郎の陣を馳せ過ぎ、此の山を越えて前登に進まんと欲す。是れ、天曙(あ)くるの後、大軍と同時に嶮岨(けんそ)を凌ぎ難きの故也。時に重忠が郎從の成淸(なりきよ)、此の事を伺ひ得て、主人に諫めて云はく、「今度の合戰に先陣を奉ること、拔群の眉目なり。而るに傍輩の爭ふ所を見て、温座し難からんか。早く彼の前途を塞ぐべし。然らずんば、事の由を訴へ申し、濫吹(らんすい)を停止(ちやうじ)し、此の山を越へらるべし。」と云々。

重忠云はく、「其の事、然るべからず。縱ひ他人の力を以つて敵を退くと雖も、已に先陣を奉るの上は、重忠が向はざる以前の合戰は、皆、重忠一身の勳功たるべし。且は、先登に進まんと欲するの輩の事、妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且は、獨り抽賞(ちうしやう)を願ふに似たり。只だ惘然(ばうぜん)を作(な)すこと、神妙の儀なり。」と云々。

七騎は終夜峯嶺を越え、遂に木戸口に馳せ著く。各々名謁(なの)るの處、泰衡が郎從〔下部。〕伴藤八(とものとうはち)已下の強兵、攻め戰ふ。此の間、工藤小次郎行光、先登す。狩野工藤五郎は命を損(おと)す。伴藤八は、六郡第一の強力の者なり。行光相ひ戰ひ、兩人、轡(くつわ)を並べ取り合ふ。暫く死生を爭ふと雖も、遂に行光のために誅せらる。行光、彼(か)の頸を取りて鳥付(とつつけ)に付け、木戸を差して登るの處、勇士二騎、馬を離れて取り合ふ。行光、之を見て、轡を廻らし、其の名字を問ふ。藤澤次郎淸近、敵を取らんと欲するの由、之を稱す。仍つて落ち合ひ、相ひ共に件の敵を誅滅し、之(ゆ)く。兩人、駕を安んじ、休息の間、淸近、行光の合力(かふりよく)を感ずるの餘り、彼(か)の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽(そこつ)の契約を成すと云々。

次で淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲(え)たり。

亦、親能は猶子(いうし)左近將監能直者、當時、殊なる近仕として、常に御座右に候ず。而るに親能、兼日、宮六兼仗(きゆうろくけんぢやう)國平を招き、談じて云はく、「今度、能直は戰塲に赴くの初めなり。汝、扶持を加へ、戰はしむべし。」てへり。仍つて國平、固く其の約を守り、去ぬる夜、潛かに二品の御寢所邊へ推參し、能直〔上臥(うへぶし)なり。〕を喚び出し、之を相ひ具して、阿津賀志山を越え、攻め戰ふの間、佐藤三(さとうざ)秀員父子〔國衡が近親の郎等。〕を討ち取り畢んぬ。此宮六は、 長井齊藤別當實盛が外甥(がいせい)なり。實盛、平家に屬し、滅亡の後、囚人と爲(な)る。始め、上總權介廣常に召し預けられ、廣常誅戮の後、又、親能に預けらる。而るに勇敢の譽れ有るに依つて、親能、子細を申して能直に付けしむと云々。

以降、武将を一々注しているとなかなか進まないので、私が気になる人物やシークエンスでの主要人物のみをチョイスするのをお許し戴きたい。

・「工藤小次郎行光」(生没年未詳)は工藤景光の子で、頼朝の強兵に呼応して父とともに甲斐で挙兵、後、頼朝に仕えた。この阿津賀志山木戸口攻めの功により、陸奥岩井郡を与えられている。

・「藤澤次郎淸近」藤沢淸親と同一人物であろう。木曽義仲の嫡男義重(義高)が頼朝の人質にされた際に一緒に鎌倉へ下った家臣の一人であったが、義高誅殺後は幕府御家人となった。後に弓の名手として坂額御前(はんがくごぜん)を射たことでも知られる。因みに坂額御前(生没年未詳)は越後国の有力豪族城氏の一族の女武将。父は城資国、兄弟に資永・長茂らがいる。坂額の兄長茂の幕府打倒計画に呼応した建仁元(一二〇一)年の建仁の乱で、坂額の甥城資盛(資永の子)の越後国での挙兵に随う。その弓は百発百中であったと伝えられる)(坂額は両足を射られて捕虜となり、同時に反乱軍は制圧された。以下、参照したウィキの「坂額御前」によれば、『彼女は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾され』、『義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている』『同時代に書かれた『吾妻鏡』では「可醜陵園妾(彼女と比べれば)陵園の美女ですら醜くなってしまう)」「件女面貌雖宜」、すなわち美人の範疇に入ると表現されている』とある。

・「河村千鶴丸」後の河村秀淸(治承元・安元三(一一七七)年~?)。相模出身、通称四郎。承久の乱では北条泰時に従って京の宇治橋で戦っている。

・「成淸」榛澤成淸(はんざわなりきよ ?~元久二(一二〇五)年)武蔵榛沢郷(現在の埼玉県深谷市及び大里郡寄居町)の住人。

・「伴藤八」秀衡の代からのトップ・クラスの家臣の一人。

・「鳥付」馬の鞍の後輪(しづわ)に附けた紐。尻懸(しりがい)を結ぶための輪状になったもので前輪の同様の装置を総称して鞖(しおで)とも呼ぶ。

・「彼の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽の契約を成す」とは藤澤淸近は工藤行光が手助けしてくれたことに感謝する余り、その休息の間に、その場で、行光の息子を自分の娘の婿とすることを即行、約束してしまった。

・「淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲たり」葛西淸重は、この奥州藤原氏滅亡後の九月に頼朝による論功行賞で勲功抜群として胆沢郡・磐井郡・牡鹿郡など数ヶ所に所領を賜った上、初代奥州総奉行に任じられている。当時、彼は満二十八歳であった。その彼と同等に「幷」べて河村千鶴丸が挙がっていることは注目に値しよう。満十二歳の少年千鶴丸が勲功第一の淸重と同等の首級を挙げたということである。

・「親能」中原親能(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)。文官の御家人。公家方とのパイプ役として働き、文治二(一一八六)年に京都守護に任じられている。後、建久二(一一九一)年に政所公事奉行に任ぜられ、後の十三人の合議制の一人ともなった。

・「左近將監能直」大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)は相模国愛甲郡古庄郷司近藤(古庄)能成の子として生まれ、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗ったが、能成が早世したため、母の姉婿中原親能の養子となり、中原能直とも名乗った。文治四(一一八八)年に十七歳で元服、この年の十月十四日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。当時は病いのために相模の大友郷にあって、十二月十七日になって初めて大倉御所に出仕、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べているが、この阿津賀志山の戦いはそれからたかだか八月後のことに過ぎない。「吾妻鏡」では能直を、頼朝の『無双の寵仁』(並ぶ者のないお気に入り)と記している。その後も頼朝の近習を務め、建久四(一一九三)年の曾我兄弟仇討ち事件では曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守っている。建久七(一一九六)年一月には豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、現地へ下向、承元元(一二〇七)年頃には筑後国守護に任ぜられているが、任地への在国は一時的なものであったと考えられ(九州には守護代を配していたと見られる)、京と鎌倉を頻繁に往来している(以上はウィキ大友能直に拠る)。

・「宮六傔仗國平」宮道国平(みやじのくにひら 生没年不詳)。幕府御家人。斎藤実盛の外甥。ウィキ宮道国平から引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『宮道氏は、物部氏庶流とも日本武尊末裔とも伝えられる氏族であるが、国平の系譜関係は不明である。一方で斎藤実盛の弟・実員の子とする系図があることから、本姓藤原氏の斎藤氏の一族とする見解もある』。当初は『実盛に付き従い治承・寿永の乱で平家方であったが、平家滅亡の後、囚人として上総広常に、一一八三年(寿永二年)に広常が謀殺された後は中原親能に預けられた。その後勇敢さを見込まれ、親能の養子大友能直付きとなった。一一八九年(文智五年)の奥州合戦に従軍し戦功により奥州に所領を与えられ、一一九〇年(文治六年)の大河兼任の乱に際しても出陣している。『吾妻鏡』では、一一九一年(建久二年)に奥州より牛を献上したとの記事を最後に登場しなくなる』。『一方、実盛死後に武蔵国幡羅郡長井庄(現埼玉県熊谷市)を継ぎ、実盛創建に係る聖天山歓喜院(埼玉県熊谷市)に十一面観音と御正躰錫杖頭を寄進したことが同院の縁起に見える。また、八幡神社(秋田県大仙市)には中原親能と連名の棟札が現存していることから、奥州だけでなく出羽国山本郡にも所領をもっていた可能性が高い』とある。この「宮六傔仗」という呼称は不詳。「傔仗」は本来、律令制で辺境の官人に与えられた護衛武官を指し、姓氏の一つにはなった。識者の御教授を乞う。

・「上臥」本来は宮廷用語で、宮中や院中などで宿直(とのい)することをいう。

・「佐藤三秀員」「三(ざ)」は三郎の略。]

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