一言芳談 九
有云、我(われ)臨終の時は、すは、たゞいまとみゆるはなどいふべきにあらず。無始(むし)よりをしみならひたる命なれば、もし、心ぼそくおぼゆる事もあらむか、たゞ念佛をすゝむべき也。
[やぶちゃん注:「すは」は感動詞で、相手を驚かす時、また、突然の出来事に驚く時、また、今、改めて気が付いた時に発する言葉である。臨終という現象に対し、これらの自己感懐を持つことを総て否定するのである。「無始」仏家ではしばしば、無始曠劫(こうごう)、始まりのない遠い昔の謂いとして、禅の公案「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の面目」即ち、自我の存在しない絶対無差別の無我の境地を示したりするが、ここは単に「遠い昔」の謂いで、以下の「をしみならひたる命なれば」を修飾し、命を「をし」むこと(対象を愛するあまり執着を覚えること)に「ならひたる」(ついつい狎れ親しんでしまった→そうした執着心の連続によって違和感を感じなくなり、それが当たり前のこととなってしまう)という、生の妄執の断ち難い理(ことわり)を述べている。『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には、「一言芳談句解」にも(新字を正字に代え、「句解」原文の歴史的仮名遣の誤りを直した)『をしみならふは凡夫のつねにて生々流轉の衆生とはなれ』とある、とする。「心ぼそくおぼゆる事もあらむか」の「か」は一種の反語で下に続き、心細く感じることもあろうか――いや、それは、あってはならないこと――ただひたすら、念仏を心静かに行うことに専心せよ、との謂いである。]

