鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 報国寺
封 國 寺
澤間山ト號ス。杉本ノ向ヒノ谷也。建長寺ノ末、十刹ノ内、五山ノ第二也。中尊釋迦、左ハ文殊、右ハ普賢、阿難・迦葉・大帝・大權・感應(カンイン)使者ナドノ木佛アリ。澤間ノ迦葉トテ、極テ妙作也。澤間ノ法眼作ナリ。寺領十三貫文アリ。伊與守源家時建立、開山佛乘禪師、内ニ當寺開山敕謚佛乘禪師天岸慧廣大和尚ト書タル位牌幷佛乘源家時ノ木像アリ。舊記ニ漸入佳境ノ額有トアレドモ、今ハ失セテ無之(之れ無し)。前ニ滑川流タリ。〔東海道名所記ニ此次ニ杉ガ谷ト云地アリト云。〕
[やぶちゃん注:標題の「封」は「報」の誤り。
「澤間山」報国寺のある場所は宅間ヶ谷と呼称されるから、「澤」は「宅」の誤りであるが、報国寺の山号は今も昔も「功臣山」(こうしんざん)で誤りである。但し、本文にある宅間法眼作の迦葉はかなり有名で、「鎌倉市史 社寺編」にもこの寺は宅間寺ともいったとあるから、それを山号に聴き間違えたものと思われる(但し、この迦葉像は明治二三(一八九〇)年の火災で焼失、現存しない)。
「十刹ノ内、五山ノ第二也」誤り。五山の第二は御存じの通り、円覚寺であり、関東十刹(=鎌倉十刹)にも含まれていない。これは憶測であるが、報国寺の寺格は五山・十刹に次ぐ「諸山」(五山・十刹に加えられなかった禅林に対して与えられたもので、原則、五山同様に室町幕府将軍御教書によって指定された)である、という話を聴き違えたものかとも思われる。
「大權」恐らくは道教の神の一人である太帝か太元であろう。太帝は特に太湖地方で絶大な信仰を集めた水神系の土地神であった祠山張大帝を指し、太元は恐らくは大元神と同じで、道教の最高神の一人太一神のことを言う(なお、次注参照)。
「感應使者」元は道教の土地神の一人。前注に示した太帝・太元とともに、本邦の禅宗寺院にはしばしば伽藍守護神として祭られている。
「伊與守源家時」幕府御家人であった足利伊予守家時(文応元(一二六〇)年~弘安七(一二八四)年)。彼は弘安八(一二八五)年の霜月騒動で敗死した安達泰盛に与みしていたが、一説には泰盛の強力な与党で姻族であった北条一門の佐介時国の失脚に関与して自害したのではないかとも言われる。彼の墓は報国寺に現存するが、実際の報国寺開基は南北朝期の上杉重兼で、家時と関係の深い上杉氏が供養したものと推測される(以上はウィキの「足利家時」に拠った)。「伊豫(伊予)守」はしばしば「伊與守」とも書かれる。
「漸入佳境」「漸く佳境に入る」で、「晋書」の「顧愷之(こがいし)伝」に基づく故事成句。画家の愷之は甘蔗(=サトウキビ)を食べる際、甘みのない先の方から食べるのを常としていたが、それをある人に訊かれたその答えに由来する。一般には話や状況などがだんだんと興味深い部分にさしかかってくることを言うが、ここでは禅の三昧境を意味している。
「杉ガ谷」現在、鎌倉市二階堂小字に「杉ケ谷(すぎがやつ)」が残る。]