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2012/11/25

耳嚢 巻之五 關羽の像奇談の事

 

 關羽の像奇談の事


 寬政八年番頭を勤仕なしける坪内美濃守物故(もつこ)せしが、彼家には御朱印の内へ御書加(かきくは)への同苗(どうめう)家來、無役(むやく)にて知行美濃に住居せし由。美濃守物故跡式(もつこあとしき)等の儀に付、右の内坪内善兵衞とかいへる者江戶表へ出、親族に小石川邊の與力を勤ける者ありて、彼(かの)方へ滯留して日々番町の主人家へ通ひけるが、或る夜の夢に、壹人唐冠(たうくわん)着し異國人と見ゆる者來りて、我は年久敷(ひさしく)水難に苦しみて難儀なれば、明日御身に出合ふべき間右愁を救ひ給はるべし、厚く其恩を報んといひしと覺(おぼえ)て夢覺(さめ)ぬ。不思議には思ひしかど可取用(とりもちふべき)にもあらざれば、心もとゞめず主人家へ明日も至り、夕陽に至り歸路の折柄、水道橋の川端を通りしに、定浚(ぢやうさらへ)の者土をあげて有しが、右土埃(つちぼこり)の中に壹尺餘の人形やうの物有(あり)しを、立寄(たちより)みれば唐人の像也。夜前(やぜん)の夢といひ心惡(こころあし)く思ふ故、定浚の人足に右人形は仔細あれば我等貰ひたし、酒手にても與へんといひしに、揚土(あげつち)の埃にて何か酒手に及ぶべきとて不取合(とりあはざれ)ば、則(すなはち)右木像を持歸りて泥を洗ひしに、何(いづ)れ殊勝なる細工なれば、池の端錦袋園(きんたいゑん)の隣成(となりなる)佛師方へ持行て、是はいかなる像ならんと尋問(たづねと)ひしに、佛師得(とく)と熟覽して、是は日本の細工にあらず、異國の細工也、蜀の關羽義死の後、呉國に其靈を顯しける故、別(べつし)て吳越の海濱にては海上を守る神と尊敬(そんぎやう)して關帝と唱(となへ)ける由、此像は關羽の像也と甚(はなはだ)賞美しける故、莊嚴(しやうごん)厨子等を拵へ故鄕へ持歸りしと、彼(かの)與力のかたりけるとや。


□やぶちゃん注


○前項連関:「時の廻り」を企略とした似非稲荷神霊事件から、「時の廻り」で見出された異国の神霊像の霊譚で連関。……しかし……私がこの話を初めて読んだ時、一番に何を想起したか……この水辺で関羽像を拾った男のもとへ、その日の夜中、関羽の霊が訪れて……礼と称してオカマをホられてしまう、という顛末であった。……そう、私の大好きな、あの落語の「骨釣り」であったのだ(リンク先はウィキ)。……♪ふふふ♪……

・「關羽」(?~二一九年)は中国後漢末の武将。河東郡解(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。三国時代の蜀(蜀漢)の創始者劉備に仕えた武将。その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。孫権(呉の初代皇帝)との攻防戦で斬首されたが、後世、神格化されて関帝(関聖帝君・関帝聖君)となった。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。算盤を発明したという伝説まである。「三国志演義」では、雲長・関雲長或いは関公・関某と呼ばれて一貫して諱を名指しされていない点や大活躍する場面が極めて壮麗に描写されている点など、関帝信仰に起因すると思われる特別な扱いを受けて描かれている。見事な鬚髯(しゅぜん:「鬚」は顎ひげ、「髯」は頬ひげ)をたくわえていたため、「三国志演義」などでは「美髯公」などとも呼ばれている(以上はウィキの「関羽」冒頭を参照した)。

 

・「坪内美濃守」坪内定系(さだつぐ 寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)。寛政五(一七九三)年、御小性版頭(岩波版長谷川氏注による)。普通、官位は名目であって、実際の知行地とは無関係であるが、ここは「知行美濃」とあって、偶然、一致していたものらしい。これも「時の廻り」か。

 

・「御朱印」岩波版長谷川氏注には、『知行充行状をいうか』とある。「知行充行状」(知行宛行状)は「ちぎょうあてがいじょう」と読み、石高所領の給付を保証した文書のこと。

 

・「錦袋園」下谷池の端にあった薬店勧学屋。正しくは「錦袋圓」で、これは屋号ではなく、勧学屋オリジナルの売薬の名。底本の鈴木棠三氏注に『黄檗僧道覚(字は了翁)は修行を達成するため、淫慾を断つべく羅切した』(「羅切(らせつ)」とは摩羅(陰茎)を切断すること。「らぎり」とも読む)。『その傷口が寒暑に際して痛爛したが、霊夢によって薬方を知り、自ら調剤して治癒した。この薬を売って仏道弘布の大願を成就することを決意して、世間の非難を意とせず、六年間に三千両を貯えた。これによって文庫を設け、勧学寮を建て学徒を勉学させ、さらに池の端に薬店を開いて薬を売り、二十四か寺に大蔵経を納経した。宝暦四』(一七五四)『年寂、七十八。権大僧都法印。錦袋円の名は錦の袋に入っていたところから付けられたという』とある。かなり力の入った脱線注である。……遂にお逢いすることが叶いませんでしたが(先生は鎌倉郷土史研究の碩学としても知られ、先生御自身から鎌倉を一緒に歩いてもよい、という話が当時、私が大学時分、所属していたサークル「鎌倉探訪会」にあった)、棠三先生、この手のお話、大層、お好きなようですね……いや、私もそうです……夢告という点でも、決して脱線注では御座いませんね、何より、読んで楽しい注です。私も、こうした注を心掛けたいと思っています。……

 

・「莊嚴(しやうごん)」かく読む場合は、仏像や仏堂を天蓋・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)といった附帯仏具によって厳かに飾ること、また、その物をいう。


■やぶちゃん現代語訳


 関羽の像奇談の事


 寛政八年のこと、番頭を勤仕(ごんし)なさっておられた坪内美濃守定系(さだつぐ)殿が物故なされたが、かの坪内家には、御朱印の内に書き加えられて御座るところの、直参の、同じ坪内と申す苗字の家来が御座って、無役(むやく)のまま、知行地美濃に住まいして御座った由。

 

 美濃守殿御逝去の跡目相続御儀式等がため、この坪内善兵衛とか申す者、江戸表へと出でて、その親族で小石川辺に与力を致いて御座る者があった故、その方へ逗留致いては、毎日、番町の主家へと通って御座った。

 

 その彼が、ある夜、見た夢に、

 

……一人の、唐冠を被(かむ)り、異国人と思しい偉丈夫、これ、来たって、

 

「――我は、永年、水難に苦しめられ、難儀致いておる。――明日(みょうにち)、御身に出逢うこととなっておるからして――どうか――この我が愁いをお救い下されたい――さすれば、厚く、その恩に報いん――」

 

と、語った……

 

と、思ったところで、目(めえ)が覚めた。

 

『不思議な夢じゃ。』

 

とは思ったものの、まあ、益体(やくたい)もない話でも御座れば、さして気にも留めず、その日の朝も主家へと至り、夕暮れに帰った。


……と……

 

……その帰るさの路次(ろし)、水道橋の川っ端を通ったところ、定浚(じょうさら)えの者が川床に溜まったを、掘って投げ上げた土が山のようになって御座った。

 

……が、その泥土の中(うち)に……

……一尺余りの人形のような物が……

 

……これ、ある……

 

……近寄って……ようく、見るれば……

 

……これ

 

――唐人の像――

 

で御座った。

 

 昨夜の夢との符合といい、聊か気味悪うも御座ったが、逆にその一致故にこそ、これ、捨て置くわけにも参らずなって、定浚えの人足に向かい、

 

「……これ、人足。……この人形……その……仔細あれば、我らが貰い受けとう、存ずる。……酒手(さかて)と引き替えにては、これ、如何(いかが)か?……」

 

と声を掛けたところ、

 

「川ん底(ぞこ)からぶち揚げた泥んこの山ん中のガラクタでぇ! 何で、酒手に及ぶもんけぇ!」

 

と、一向、とり合わねば、これ幸いと、そのまま取り上げて持ち帰った。

 

 かの宿所にて泥を洗い落し、ようく見れば、これ、なかなかに美事なる細工を施した神像で御座った。

 

 早速、池の端は例の名代の『金袋円』の薬舗の隣に住む仏師の元へと持ち行き、

 

「……これは、如何なる像じゃろか?」

 

と訊ねたところが、仏師は暫く凝っと眺めては、手に取って仔細を調べた末、

 

「……これは……我が日本の細工にてはあらず、異国の細工にて御座る。……蜀の関羽が義死した後、彼を討った呉国にもその神霊が出現致いた故……別して呉越の海浜地方にては、これ、海上を守る神と尊敬(そんぎょう)し、「関帝」と唱え祀られて御座る由、聴いたことが御座るが……いや! この像は、まさしく、その関羽の像にて、御座る。」

 

と申した上、その造作(ぞうさく)を口を極めて賞美致いた。

 

 されば、かの坪内は、この関羽像のために荘厳(しょうごん)や厨子なんどまで拵え、かの跡目の式が終わると、故郷美濃へとそれを持ち帰って御座った。……

 

 

……とは、かの坪内の親族なる与力が語って御座ったとか申す。

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