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2012/11/01

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 寿福寺 ~雨の日は御老公さま英勝寺内にて袈裟のお勉強

   壽 福 寺

 山號ハ龜谷山、英勝寺ノ南隣、源氏山ノ下也。今按ニ龜谷ハ總名ニテ、扇谷・泉谷ナドト云ハ其内ノ小名也。壽福寺ヲ龜谷山卜云へバ、東鑑ニ義朝ノ龜谷ノ御舊跡トアルハ、壽福寺ノ事ナリトモ云。詞林采葉云、是山鎌倉中央第一ノ勝地也。寺ハ源實朝建保三年ニ建立、開山ハ千光國師、天童虛庵ノ嗣法也。元亨釋書ニ詳ナリ。本尊ハ釋迦・文殊・普賢、コノ釋迦ヲ籠釋迦卜云。カゴニテ作リ、上ヲハリタリ。陳和卿トイフ唐人ノ作也。前ハ十刹ノ位ニテ有シヲ、後ニ鎌倉五山ノ第三ニ列セリ。七堂加藍ノ石ズヘノ跡今ニアリ。御當家御朱印八貫五百文有、斛ニシテ三十石餘也ト云。古昔イボナシ鐘ト云名鐘アリ。開山千光ノ唐土ヨリ取來ル也。小田原陣ノ時、鐵砲ノ玉ニ鑄テ、今ハ亡タリ。積翠庵ノ後ニ小堂アリ。法雨塔卜云額アリテ、内ニ千光ノ木像アリ。

 寺寶 松風玉〔内ニ佛舍利三粒アリ。金色ノ光リアリト云〕

 後ノ山ノ上ニ、ヱカキヤグラトテ、實朝ノ石塔アリ。四方卜上ヲ極彩色ニ牡丹・カラ草ナドヱガキタル巖窟也。今ニ慥ニ能ミユル。風霜ニアハザル故カ。石塔少モ不損(損ぜず)、又祖師塔ノ岩窟一ツアリ。又桂陰庵ト云寺アリ。住僧以天ト云。千光ノ畫像コヽニアリ。新筆ニテ唐僧隱元ガ讚アリ。坐禪堂ニ鎌倉六地藏卜云名佛ノ中ノ一躰アリ。一木ニテ蓮華座迄作付ナリ。此寺ニ石窟ヲ開テ浴室トナス。方九尺許。又石窟ヲ厨トナス。僕奴ヲ此窟中ニヲキ、以天ハ日夜禪堂ノ繩床ニノミ坐スト也。ソレヨリ出テ寺ノ南ニ歸雲洞トテ洞有。其中ヲ通リ、南方へ行コト二町許ニ山有。石切山ト云。石岨※矻タリ。強テ此ニ登テ海邊ヲ眺望スルニ、萬里ノ波濤寸眸ニ入ル。暫ク行厨ヲ設ケ、微醺吟詠而庵ニ歸ル。

[やぶちゃん注:「※」=「石」+「聿」。

「※矻」は「ロツコツ」と読み、「※」は岩石の高く危な気なさま、「矻」は岩石の固いさまを言う。]

 四日、昨夜ヨリ大ニ風雨シテヤマズ。外ニ出ガタシ。金澤稱名寺ノ僧ヲ呼テ律宗ノ衣袈裟ヲ見テ、人ヲシテ其製ヲ問シム。僧曰、大衣二十五條〔九品アリ〕、下々品〔九條兩長一短〕、下中品〔十一條〕、下上品〔十三條〕、中下品〔十五條〕、中々品〔十七條〕、中上品〔十九條〕、上下品〔廿一條〕、上中品〔廿五條四長一短〕、以上七條〔兩長一短〕、五條縵衣〔兩品〕、七條五條沙彌用之(之を用ふ)、縫目ニ葉ヲ石入、但フセヌヒ計ニ風呂敷ノ如ニスル也。褊袗〔此ハ本ノギシ覆肩ノ二衣ヲ縫合テヘンザント云也。是コロ也。モハ別也。裳ヲ又ハ裾卜云ナリ。〕

[やぶちゃん注:「其製」袈裟は小さく裁断した布を縫い合わせたものを素材とし、小さな布を縦に繋いだものを条と呼んで、これを横に何条か縫い合わせて作る。ここではその条数と一部の形状が九品九生に対応していることが解説されているのだが、上品上生がなく、「以上七條」とある「以上」の意味が分からない。調べてみると、この「大衣(だいえ)」は袈裟の分類で最も正式な、衆生を教化する際に掛ける「僧伽梨」と呼ばれるものを指していると思われ、そこには実際に九種存在し、二十三条のものが本文には抜けていること、本文で中品に相当する三種の袈裟の長短(一条を構成する長条と短条の組み合わせをいう)も欠けていることが分かった。即ち、ここは「大衣」の後の「二十五條」を抜き、欠落を補い、

大衣〔九品アリ〕、下々品〔九條兩長一短〕、下中品〔十一條〕、下上品〔十三條〕、中下品〔十五條三長一短〕、中々品〔十七條〕、中上品〔十九條〕、上下品〔廿一條〕、上中品〔廿三條〕、上々品〔廿五條四長一短〕、以上七條

とあるべきところなのであり、そうすると「以上」は「大衣」は「以上。」であると私は判読するものである。

「七條〔兩長一短〕」これは「鬱多羅僧」という袈裟で、堂に於いて衆生とともに修行する際に掛ける普段着である。

「五條縵衣〔兩品〕」これは「安陀会(あだらえ)」という袈裟で、肌に直接纏い、作務や行脚の際に用いる作業着である。「縵衣(まんえ)」とは大きな一枚の布の四辺に縁を縫い着けただけの模様のない最もシンプルな縫い方を指す。なお、この割注「兩品」というのは解せない。調べてみると、安陀会の条の形状は一長一短であるから「兩条」とするところを、上の「品」に引かれた誤字と読む。

「縫目ニ葉ヲ石入」底本には『(ママ)』表記がある。一読すると、袈裟の縫い目に何かの植物の葉を縫い入れるような感じに読めてしまうが、そうではない。条を構成する長条や短条の重なる部分を「葉」と呼び、ここの仕立て方を言っているらしい(「石」は誤字の可能性が強い)。この部分の縫い方には「鳥足縫い」「馬歯縫い」「縁参」といった飾り縫いがあるが、ここではそうしたものではない極めてシンプルな縫い方を言っているものと思われる。

「褊袗」は「ヘンサン・ヘンザン」と読み、「褊衫」とも書く。僧衣の下着の一種で、垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らして引き合わせて着用すること。)で背が割れている主に上半身を覆う法衣(下半身には以下に述べられる裙子(くんす)を着用する)。上に袈裟を掛ける。

「ギシ覆肩」「ギシ」は恐らく「祇支」で、元来は尼僧が袈裟の下に附ける長方形の布衣を言う語。袈裟を掛けるように、左肩に掛けて左肘を覆い、一方は右の脇の下に通して着用する。宗祇支・僧祇支とも書く。「覆肩」は「ふくけん」と読み(次の説明に現れる)、前の祇支の様態からも尼の反対側の右肩を覆う布衣と考えてよいであろう。後文を読むと、男僧もこれらを用いている。

「是コロ也。モハ別也。裳ヲ又ハ裾卜云ナリ」考えたこともなかったが、成程、「ころも」とは「ころ」と「裳」であったのか! 「ころも」の語源について、「日本国語大辞典」には、

①キルモ(着裳)が転呼(松岡静雄「日本古語大辞典」)。

②キルモノ(服物・着物)の義(「日本釈名」・「名言通」・「和訓栞」・「紫門和語類集」)

③クルムモ(包裳)の意。(大島正健「国語の語根とその分類」)

を挙げるが、①や③からは、光圀のように「ころ」と「も」を上下に分離する考え方はおかしくない。]

裙〔律ノ興ル魏ノ世ヨリ始ル。本ハ袖ナシ。故ニ尼衣乳ノミ見ユルコトヲ制シテギシフクケンヲ用フ。ヘンサンニハアラズ。魏ヨリ以來袖ヲソフ間ノ水ヲモラス心ナリ。〕尼ニハ制衣、僧ニハ聽衣〔ヌイメヲ外邊ヲヒラクト云田。〕仕立ルニ古來周尺ヲ用ユ。今ノ匠尺ノ八寸ヲ以一尺トナス。周尺ハ南都ニテ六物ニソヘ用ユ。四度ノ制アリ。一ニハ袈裟ヲウチカケテ着ス。ケサノマへ象ノ鼻ノ如シト外道ノ誹謗アリ。二ニハ謠女ノ衣ノ如シト云。於是(是に於いて)改テ座具ヲ以テヲサユ。三ニハ座具ヲ肩ニカケ袈裟ノ上ニヲクコトヲソシル。於是(是に於いて)座具ヲ袈裟ノ下ニヲク。是四度ノ制也。裳ハ右マヘ、コロハ左マヘニ着ス。コロハ前後ニ紐アリ。

[やぶちゃん注:「裙」これで「クン」又は「クンス」と読んでいよう(文脈から見ると、「モ」と読んでいる可能性もある)。裙子で、僧侶がつける、黒色で襞の多い主に下半身用の衣服。内衣(ないえ)・腰衣(こしごろも)とも言う。

「律」刑罰法令としての律令は魏晋南北朝時代に発達、七~八世紀の隋唐期に整備されて当時の本邦や朝鮮諸国(特に新羅)の律令の形成へ影響を与えた。

「尼衣乳ノミ見ユルコトヲ制シテギシフクケンヲ用フ」「尼衣」は「ニエ」と読んでいるか。「ミ」は衍字か。

「袖ヲソフ間ノ水ヲモラス心ナリ」「ソフ」は付け加えるの意であろう。「水ヲモラス心ナリ」が分からない。「水をさす」で乳の覗けてしまうのを邪魔して見えぬようにするの意、という意味か? 識者の御教授を乞うものである。

「聽衣〔ヌイメヲ外邊ヲヒラクト云田。〕」底本には「聽衣」の横に『(ママ)』と傍注、「田」の右に『云カ』と傍注する。これは尼には前述のような胸を隠すための「制衣」が、男僧には「律衣(りつえ)」(自ら僧として修行し、戒律を守る為に着用する僧衣の謂い)が定められているという謂いの誤字か? 「ヌイメヲ外邊ヲヒラク」の謂いが分からない。男僧の場合は、胸が見えても問題がないので、袖の部分が開放になっているの謂いか? 若しくはここは禅宗で改良された僧衣の一つ「法衣(ほうえ)」=「直綴(じきとつ)」のことを指しているか。直綴とは褊衫と裙子を腰のところで縫い合わさせた一体型の僧衣のことを指す。但し、それを「ヌイメヲ外邊ヲヒラク」とは言うまい。また「律衣」や「法衣」は褊衫を含むので、ここで明白に「ヘンサンニハアラズ」という謂いとも矛盾してしまう。ここも識者の御教授を乞うものである。

「周尺」周代に用いられたとされる尺。周尺単位は短かったという漢人の説により一尺を曲尺(かねじやく)で六寸(一八・一八センチメートル)或いは七寸六分(二三・〇三センチメートル)ほどとするものをいう。漢尺は八寸(二四・二四センチメートル)程度。

「六物」は「ろくもつ」と読む。初期仏教に於いて比丘(出家者)が所有を義務づけられた六つの生活用品、種類の袈裟と鉢(合わせて「三衣一鉢(さんねいつぱつ)」)・漉水囊(ろくすいのう:飲水から虫を除くための水濾(こ)し)と坐具(敷物)を指す。比丘六物。その形状や大きさ・材質などに厳しい制限があった。

「坐具」は本来、禅宗と時宗以外では用いない。]

 コロヲ覆肩(フクケン)卜云。左ヲギシト云。ギシハ古來ノコロ也。フクケンハ右ヲ覆也。故ニ左ヲ下ニシ右ヲ上ニス。是興正菩薩ノ制ナリ。興正ハ思圓上人也。招提寺ノ開山大悲菩薩ノ制ハ内衣ノ如ク左ヲ上ニス。周尺西大寺ニハ定テ可存(存すべき)歟。六物圖書一册靈芝ノ作幷ニ本書有、律三大部六十卷ノ内行事抄ノ内衣藥二衣篇ヨリ拔書廿部、律ノ内四律ヲ立分通大乘是ナリ。採分摘三册有。右ノ末書也。教戒議比丘ノ行事ノ作法ヲ云物ナリ。一册有。南山道宣作ナリト云ナリ。南都西大寺ノ末、眞言律ハ稱名寺ト極樂寺ト也。又觀音寺ノ第子圓通寺トテ金澤ニ有。泉涌寺ノ末禪待ハ淨光明寺ナリ。是ハ袈裟ハ西大寺同樣ニテ、コロモノ威儀カハル也。

[やぶちゃん注:「興正菩薩」は「こうしやうぼさつ」と読む。真言律宗僧叡尊(建仁元(一二〇一)年~正応三(一二九〇)年)。興正菩薩は謚号、思円は字。興福寺の学僧慶玄の子。戒律を復興、奈良西大寺の中興開山。弘長二(一二六二)年には執権北条時頼の招聘により鎌倉にも下向している。

「六物圖書」不詳。平安時代の作とされる「仏制比丘六物図」のことか?

「採分摘」不詳。寛文七 (一六六七)年板行の「仏制比丘六物図採摘」のことか?

「南山道宣」律宗の中で最も広まり,鑑真によって日本へ伝えられた南山律宗の開祖とされる僧。

「又觀音寺ノ第子圓通寺トテ金澤ニ有」底本には「第」の右に『弟カ』と傍注するが、「弟子」でも意味が通らない。そもそもこの「圓通寺」は現在の横浜市金沢区瀬戸にあったものを指すと考えられるが(金沢文庫駅から見える廃寺)、新編鎌倉志八」には、

○圓通寺 圓通寺(エンツウジ)は、引越村(ヒキコヘムラ)の西にあり。日輪山と號す。法相宗。南都法隆寺の末寺なり。開山は法印法慧、寺領三十二石、久世(クゼ)大和の守源の廣之(ヒロユキ)付するなり。

とあって「觀音寺」なるものものが現われない。法隆寺は本来、法相宗であった(第二次大戦後に聖徳宗を名乗って離脱している)が、「觀音寺」と通称されたという記載はない(そう呼ばれてもおかしくはないとは思うが)。この部分も識者の御教授を乞うものである。]

 淸書ニハ此袈裟衣制ハ別卷ニス。宰相殿依着圖(着圖に依る)也。

[やぶちゃん注:先にも述べたが、この「鎌倉日記」にはここに示された「別卷」が存在し、そこには「宰相」光圀自身が実際に各種の袈裟を着装して図とした絵があったのである。この絵が見かったものである。そこでは本文の幾つかの不審箇所も明らかとなるであろうに。この条、御老公さまのマニアックな知的好奇心の旺盛さが垣間見られる興味深い記述である。]

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