一言芳談 十六
十六
又云、いたづらにねぶりゐたるは、させる德はなけれども、失(しつ)がなきなり。
[やぶちゃん注:「又云」という形はここで初めて出るが、勿論、これは前の明禅の言の続きであることを示す。湛澄の「評注増補一言芳談抄」では分類別に組み替えてあるため、「明禪法印云」と書き改められている。私はしかし、少なくともこの部分は「十五」の内容と連続した謂いとして読むべきであると思う。やはり、現世の使用に利するような図書館学的分野別分類は為されるべきではなかったというのが、ここでの私の感想である。
俗臭紛々たる世界に生きた「名僧」「権力僧」明禅は、自らを含めて、現世での僧侶としての名声を持つ者を偽物として全否定し、唯一の往生の修行の、これといった極楽往生への働き(「德」)とはならぬが、少なくとも妨げにならぬ(「失がなき」)のは「眠り」のみ、と言い放つ。……しかし、どうであろう、本当に眠りに失はないであろうか?……
私は曾て、この条を読んだ時、即座に、
或夜の感想
眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)
という、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の掉尾を思い出していた。芥川曰く、だただ眠ることは、死に比べれば愉快であり、容易である点に於いて、死の妨げとなる(「一言芳談」調に則るなら往生の最後の妨げになる)と芥川は言っているのである。そもそも、明禅などより遙かに禁欲的な世界に生きた明惠でさえ、夢に多彩な自己理想を観想したではないか! フロイトやユングを持ち出すまでもない、古来より夢は向後に起こる起きつつある現象やあるべき世界を表象するものとして、現にあったのである。とすれば夢は――「失がなきなり」どころではない。死に就く前に概ね昏睡があるとすれば、そこにある夢は、必ずしも楽観的な解釈としての浄土欣求の夢ではなく、現世の快楽への強い回帰願望、生への執着そのものである可能性が高いことになろう(無意識下の願望は精神分析なんぞが登場する以前、イエスの時代から既に認識されていたではないか)。さすれば、私は死を既に決していた芥川龍之介のこの言葉の方が、先の明禅の言葉よりも遙かに「一言芳談」的なるものとして聴こえて来るのである。――しかし――しかし、それでも芥川はこう書くことによって――「すて物」たるものであるはずの(と彼は認識していたと断言出来る)作家芥川龍之介の名声が――死後、永き光栄として残ることもまた――間違いなく認識していた。……いや……だからこそ明禅よりも煩悩即菩提という語を好んだ芥川龍之介の方が、遙かに私には親しく感じられるのである……]