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今年最後で最大の仕儀、「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」(+縦書版)を「心朽窩新館」に公開した。
これは先般ブログで終えた「芥川龍之介漢詩全集」に、私の秘蔵っ子にして中国語に堪能なT・S・君の評釈(全篇初公開)を加えた、謂わば、僕の企画した「芥川龍之介漢詩全集」の教え子との共作になる完全決定版である。彼の絶妙な「詠み」を是非、この年末年始の穏やかな心で、凝っくりと味わって戴きたいと思う。
これを以って――藪の「野人」と化した僕の、最初の一つの憂鬱が――完成したと言ってよい。
淨 知 寺
明月院ノ西北ナリ。金峯山ト號ス。五山ノ第四也。寺領七貫文餘アリ。相摸守師時ノ建立。開山佛源禪師、詳ニ元亨釋書ニ見へタリ。本尊釋迦・彌勒・彌陀ナリ。龜山院ノ細字、文應元年ニ佛源禪師ハ宋ニ歸ル。附法ノ弟子眞應禪師ハ壯年ナルヲ以テ、徑山石溪和尚ノ法嗣佛源禪師言ヲ殘シケル故ニ、眞應・佛源兩師ヲ開山トモ云ナリ。寺へ上ル坂ノ下南ノ方ニ甘露水ト云名水アリ。
寺寶
竺泉畫像 一幅
佛源木像 一軀
伊達天像 一軀〔澤間法眼作〕
地藏 一軀〔運慶作〕
平貞時證文 二通
此外寺寶ドモ有シガ、度々ノ囘祿ニ亡シト也。
[やぶちゃん注:「淨知寺」は「淨智寺」の誤り。
「澤間法眼」は「宅間法眼」の誤り。]
松 岡 山
山門。東慶總持禪寺ト額アリ。本尊ハ釋迦・文殊・普賢、金銅ニテ鑄之(之を鑄る)。此寺ハ平ノ時宗ノ室、尼ト成テ學山和尚ト云。二代目ハ後醍醐天皇ノ姫宮、薙染シ玉ヒ、住持アリシトナン。或ハ學山已前ヨリモ尼寺ニテ有ケルガ、學山住テヨリ世上ニ名高クナルト也。今モ百廿貫文ノ寺領アリ。
[やぶちゃん注:「學山和尚」は「覺山和尚」の誤り。]
同じく「いなご」類のものに「七節(なゝふし)」といふ昆虫がある。これは體が棒狀に細長く、足を前と後とに一直線に延ばすと、全身が恰も細い枝の如くに見えて頗る紛らはしい。中央アメリカに産する「七節」の類には、體の表面から苔の如き形の扁平な突起が澤山に出て居るが、常に苔の生えて居るやうな場所に住んで居るから、見分けることが特に困難である。「かまきり」の類にも巧みに木の葉を眞似て居るものがある。内地産の普通のものでも色が綠または枯葉色であるから、綠葉や枯草の間に居ると容易には分らぬが、東インドに産する一種では胴の後半も扁平であり、後足の一節も扁たくなつて居るので、灌木の枝に止まつて居ると、その葉と紛らはしくて到底區別が出來ぬ。更に巧なのは、蘭(らん)の花に似たものである。これも印度の産であるが、身體の各部がそれぞれ蘭の花の各部に似て、全部揃ふと形も色も蘭の花の通りになる。胸部は幅が廣くて上向きの花瓣の如く、腹部も扁たくて下向きの花瓣の如く、前翅と後翅は兩側に出て居る花辨の如くで、且常にこれを左右に開いて居るから、餘程注意して觀察せぬと蟲か花か識別が出來ぬ。この「かまきり」はかく花に紛らはしい形をして、花に交つて居ると、多くの昆蟲が花と誤つて近よつて來るから、容易に捕へて食ふのである。
[やぶちゃん注:「七節」節足動物門昆虫綱ナナフシ目
Phasmatodea(又は Phasmida)に属する昆虫の総称。草食性昆虫で木の枝に擬態した姿が特徴的である。「七」は単に多いの意で実際に体節を七つ持っているわけではない。目の学名は幽霊の意のギリシア語“phasma”に由来。英名“stick-incect”・“walking-stick”、仏名にある“baton du diable”(バトゥン・ド・ジャブル)は「悪魔の棒」、独名“Gespenstschrecken”(ゲシュペンスト・シュレッケン)は“Gespenst”(幽霊)+“schrecken”(驚かす)。中文名「竹節虫」(以上は、ウィキの「ナナフシ」及び荒俣宏氏の「世界大博物図鑑1 蟲類」を一部参考にした)。
『中央アメリカに産する「七節」の類』形状からするとユウレイナナフシExtatosoma tiaratum 若しくはその仲間か。ネット上の複数画像を見ると、大型の枯葉そっくりのものの他に、緑色の突起物を体中から生やした、まさに緑色の苔そのものとしか見えない個体などを見ることが出来た(後者には「中央アメリカ」のタグが附されていた)。しかしながら、Extatosoma tiaratum は英語版ウィキ分布域にオーストラリアの“Queensland and New
South Wales”及び“New Guinea”とあるので、この緑色のものは本種ではないようだ。識者の御教授を乞う。
『「かまきり」の類にも巧みに木の葉を眞似て居る』「東インドに産する一種」は、カマキリ目Mantidae 科 Deroplatyinae 亜科Deroplatyini 族カレハカマキリ Deroplatys spp. の類を指していると考えられる。掲げられた図の種はかなり特徴的で専門家なら同定出来そうだが、昆虫の苦手な私にはここまでである。因みに、カマキリ目の学名“Mantidae”(マンティダエ)はギリシア語“mantis”(占いの仕方)を意味するが。これは元来は“Mantwv”(マントー)という名の女予言者(「月から啓示を受けた者」の意)で、古代テーバイにおいて神託を告げた巫女たちの称号であったという(TOMITA_Akio氏のHP「バルバロイ!」のこちらのページに拠る)。そこには『マントーのように魔力を持っていた人物の霊魂は、再び人間となって生まれ変わるまで、昆虫の姿をとると考えられていた』とあり、前脚を振り上げて左右の鎌を合わせる習性が神託を得るために祈禱を捧げている占い師の姿に見えたのであろう。
「かまきり」「蘭の花に似たもの」これはしばしば華麗な擬態として映像で見ることのあるハナカマキリ Hymenopus coronatus である。以下、ウィキの「カマキリ」の当該種の記載によれば、分布は東南アジアで、一齢幼虫は花には似ておらず、赤と黒の二色で同地域のカメムシの一種に似ており、ベイツ型擬態(自己防衛を目的として他の有毒種に擬態すること)と見られる。二齢幼虫は脚の腿節が水滴型に平たくなり、体色もピンクや白で、ラン科の花に体を似せており、英名も“Orchid Praying Mantis”(蘭を装うカマキリ)と呼ばれ、擬態をしている昆虫として代表的な種である。但し、成虫になると体が前後に細長くなってカマキリらしくなり、あまりランの花には似なくなる。ヒメカマキリ科だが日本のヒメカマキリとは性質が大きく異なり、共食いもする。オスは体長三センチメートルほどで、メス(約七センチメートル)の半分にも満たない、とある。属名“Hymenopus”は恐らくラテン語の婚礼の神“Hymen”(これは処女膜の語源でもある)由来、種小名“coronatus”は“corona”(花環・古代ローマで戦勝を祝して授けた花の冠。無論、太陽のコロナも同語源)であろう。]
四十七
敬佛房云、後世の學問は後世者にあひてすべき也。非後世者(ひごせしや)の學生(がくしやう)は人を損ずるがをそろしき也。虵(へび)の心をば虵がしるやうに、後世の事をば後世者がしるなり。たとひわが心をば損ずるまではなくとも、人の欲をましつべからむ物をば、あひかまへてく不可持之(これをもつべからず)。
〇非後世者、智解(ちげ)胸に滿ちたりとも、無常を知らず、辯論世にすぐるゝとも、來生の事を思はぬ人は非後世者なり。
〇虵の道をば虵が知る、世話にいふ事なり。智論偈曰、智人能知智、如虵知虵足。
[やぶちゃん注:Ⅱは「學生」を「學問」とするが、Ⅰ及びⅢを採った。「蛇」の表記も同じ。
「後世者」念仏によって救われるという純粋「智」を知る者。
「非後世者」Ⅱの大橋氏脚注に「一言芳談句解」には、
非後世者の學生とは、身と口と心とあはざる學者の事をいふ。
とある(正字化した)。ところが氏は、これを『念佛行者でないもの』と訳しておられる。こうしてしまうと、浄土教以外の僧衆を指し、極めて偏狭なファンダメンタリズムに堕すように思われる。ここは前段を受けて、学識に奢った学僧を言っているものと私は解する。
「人の欲をましつべからむ物」人の欲をそそるような対象。
「智論偈曰、智人能智、如虵知虵足。」Ⅰの訓点を参考に書き下す。
智論の偈に曰はく、智人は能く智を知る、虵の虵足を知るがごとし。
「智論」は「大智度論」(龍樹の著作とされる書で「摩訶般若波羅蜜経」(大品般若経)の百巻に及ぶ注釈書)で、これは同書の「巻第十之下」に以下のようにある。
復次唯佛應供養佛。餘人不知佛德。如偈説
智人能敬智 智論則智喜
智人能知智 如蛇知蛇足
以是故諸佛一切智。能供養一切智
個人tubamedou氏のHP「つばめ通信」にある「大智度論入門」の訓読には以下のようにある。
また次ぎに、ただ仏のみ、まさに仏を供養すべし。余人は仏の徳を知らず。偈に説くが如し、
『智人は、能く智を敬い、智論ずれば則ち智喜ぶ
智人は、能く智を知り、蛇の蛇足を知るが如し』、と。
ここを以っての故に、諸仏の一切智は、よく一切智を供養したもう。
また、そこには以下のような現代語訳が示されてある(一部の改行を続け、字配を変えさせて戴いた)。
また次ぎに、ただ、『仏』のみが、『仏を、供養する』に相応しいというのは、その他の人は、『仏の徳』を、知らないからです。これを、歌にして説いてみましょう、――
『智慧をもて智慧を敬い、論議せば智慧は喜ぶ、
智慧にして智慧を知るとは、蛇なれば蛇足知るべし』、と。
この故に、『諸仏の一切智のみが、一切智を供養できる』のです。
また、「偈の別訳」として文語定型訳も併記されおられる。これも引用させて戴く。
智慧ある人は敬わん、智慧ある人を敬わん、
智慧ある人の論ずれば、智慧ある人ぞ喜ばん、
智慧ある人は知りぬべし、智慧ある人を知りぬべし、
蛇なればこそ知りぬらん、蛇の足をば知りぬらん。
この「虵(じや)の虵足(だそく)を知るがごとし」とは面白い謂いである。「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」の諺(この語源説には大蛇(「じゃ」)の通る道は小蛇(「へび」)さえもよく知っていると蛇の読みによる差別化した説もある)に知られた「戦国策」の「斉策」の逸話から生まれた「蛇足」(まさに本条にぴったりの、「知足」(足ることを知れ)で、余計な事や不必要な事の譬えである)を合体させてあり、謂わば――蛇は蛇だからこそ自分に足などないことを知っている、則ち、蛇のような畜生でさえ、足ることを知っているのだ――というのである。実に面白い。]
僕の愛してやまない映画「誓いの休暇」をこれより語り始める(なお、新たにブログ・カテゴリ『ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ』を創始し、『映画』ではなくそちらで掲載することとする)。これは僕が野人となる直前に「約束」したことであったが、結局、今日まで実践し得なかった。それには僕なりの「覚悟」が必要であったから、と弁解しておくに留めよう。僕にはそれなりに「覚悟」が出来た気がする。それだけのライフ・ワークにこれはなるということである。
本プロジェクトを――そう言上げした際に――エールを送って呉れた――古い教え子の上海在住の知喜君及び新しい教え子のイタリア留学中の研太君――の二人に捧げる 藪野直史
*
私の愛してやまない映画「誓いの休暇」は、原題を
“БАЛЛАДА О СОЛДАТЕ” (バラーダ・ア・ソルダット 「ある兵士のバラード」)
と言い、そのスタッフは、
製作:モスフィルム Мосфильм
監督:グレゴーリー・チュフライ Григорий Чухрай
脚本:ワレンチン・イエジョフВалентин Ежов/グレゴーリー・チュフライ
撮影:ウラジミール・ニコラエフ Владимир Ивашов/エラ・サベリエワ Эра Савельева
美術:ボリス・ネメチェク Борис Немечек
音楽:ミハイル・ジフ Михаил Зив
キャストは、
スクヴオルツォフ・アレクセイ(アリョーシャ)Скворцов Алексей(Алёша):ウラジミール・イワショフ Владимир Ивашов
シューラ Шура:ジャンナ・プロホレンコ Жанна Прохоренко
アリョーシャの母エカテリーナ Катерина:アントニーナ・マクシモーワ Антонина Максимова
将軍:ニコライ・クリュチコフ Николай Крючков
負傷兵ワーシャ Вася:エフゲニイ・ウルバンスキイ Евгений Урбанский
その妻:エリザ・レジデイ Эльза Леждей
軍用列車の兵士ガヴリルキン Гаврилкин:アナトリイ・クズネツォフ Александр Кузнецов
軍用列車の少尉:エフゲニイ・テレリン Евгений Тетерин
他によるもので、フルシチョフの雪解け時代、
1959年製作
になる、
モノクローム 1時間35分 ソヴィエト映画
である。因みに本邦での初公開は、昭和35(1960)年11月(因みに私はこの時、3歳と9ヶ月であった。無論、初公開は見ておらず、恐らく実見はNHKのTVで小学校高学年の時と記憶する。その後、三度程、同じNHKで観た後、大学生になった1975年頃に初めて映画館で見、その後、映画館ではもう一回、ヴィデオ・レーザー・DVD等、発売されたソフトは総て所持しており、全篇の総視聴回数は映画化を含めて恐らく二十回を下らない)。
本作は1960年のカンヌ映画祭最優秀特別作品賞・サンフランシスコ国際映画祭監督賞・ロンドン国際映画祭監督賞・テヘラン国際映画祭銀メダル(監督賞)・ミラノ国際映画祭名誉賞及び同イタリア批評家連盟賞などを受賞、同年第三回全ソヴィエト映画祭でも最優秀作品賞及び同最優秀監督賞と映画評論家特別賞の三賞を受けた。
執筆に際しては、2000年IVC発売のRUSSIAN CINEMA COUNCIL企画・制作のDVD(RCFF-1018)「誓いの休暇」所収の本編及びチュフライ監督のインタビュー等の特典の映像と邦訳字幕及び英語字幕、映画評論紙「イスクゥストヴォ・キノ(映画芸術)」一九五九年四月号に掲載された同作のキノ・ポーベスチ(文学シナリオなどと訳される。通常の日本で公開される際のパンフレットに載る外国映画のシナリオはスーパー用台本の翻訳に画面を採録して追加したものであるが、これは脚本家の書き下ろしたシナリオそのもののこと)の田中ひろし氏訳になる『〈文学シナリオ〉「ある兵士のバラード」』の全訳(共立通信社出版部発行の雑誌『映画芸術』一九六〇(昭和三五)年十一月号(第八巻第十一号)掲載)を用いた。字幕は極力英語字幕を参考にして私のオリジナルなものとし、邦文訳の著作権を侵害しないよう勤めたが、田中ひろし氏訳の文学シナリオは必要上、多くの引用をさせて戴いたので、特に田中氏には謝意を表しておきたい。
手順としては、それぞれのシークエンスごとに、私のオリジナルな映像解析を含めた映像再録を行った上で(但し「□」で示したものは大きなシークエンスの場合もあり、時に1ショット1カットの場合もあり、通し番号全体には絶対的規定属性はない。あくまで、私の再現上での便宜のために仮に附したものに過ぎない)、「■やぶちゃんの評釈」として、私の附言したい解析や「文学シナリオ」との比較などを行った。【始動 2012年12月29日】
□1 プロローグ
〇田舎道。春。
手前の日向の中に、何れも真っ白な十数羽の鶏とアヒルが三々五々に群れを作って、何かを啄みつつ、ゆっくりと動いている。鶏とアヒルの鳴き声。
左奥の向こうの道奥から、黒っぽい服と黒いショールを纏った女性(主人公アリョーシャの母でエカテリーナである。以下、「エカテリーナ」とする)が木蔭の中をゆっくりと、しかし何か毅然とした雰囲気を漂わせながら歩んでくる。
左(左には画面外の左奥に斜めに延びる道があるらしい)から三人の乙女が笑いながら走ってインすると同時に鳥たちが吃驚して少し跳ね飛ぶ。インした三人が画面右手母の方に踵を返すが、その時、右手から更に二人の乙女が彼らに加わる。それに更に加えて、画面右手のやや高くなった方(奥に田舎のログ・ハウスとその手前に車の前半分が見える)から、やはり三人の乙女が五人と等速度の小走りで加わって笑い声が最高潮に達する。その際、娘たちは道の右手に四人、左手に四人に別れる。
エカテリーナを認めて、すれ違う際、彼女たちの笑い声は一瞬途絶え、彼女たちも、何か、神妙な感じで歩む。
が、エカテリーナを行き過ぎると、笑い声が、再び起こり、娘たちはまた陽気なスキップになる。
左の高い位置にも道があり、そこを左手前(自家用車の手前)からインした自転車の男が、速いスピードで奥へと走り抜け、右手にある並木(電柱も立っている)の奥を、娘たちの歩むこちらの道へ抜け、娘たちの彼方へ消える。
この時、カメラはさっきの自家用車の全景が写る位置まで手前に移動している。
さらにここで我々は初めて腹部の前で掌を重ねて(左手で右手を押さえて)いるエカテリーナの表情を認めるが、それはひどく悲しげで、視線は虚ろである。
右手前から赤ちゃんを抱いた若い女が、右に夫らしい若い男を連れてインする。
二人の左手を通過する間際になって、二人が母に気づいて二人同時に軽く会釈をする(しかし何かそれはひどく軽いもので、それは、二人がこの母に対して挨拶を交わすことを躊躇させる何かがあるような感じを与えるものである)。母も女に気づいて、視線をそちらに向けて、これも軽い会釈のような挨拶の雰囲気が表われる(ここと次の母が赤ん坊を見るシーンから彼女が母のかなり親しい知人であることが観客には分かる)。但し、その表情の憂愁に変化は起こらない。寧ろ、娘の顔を認めた時には(その視界には若き夫も入っている)、硬い表情である。
但し、次の瞬間、娘の抱く赤ちゃんの顔に一瞬眼を落とした、その一瞬だけ――本来、きっととても美しいであろう――この母の笑みが射す。
しかし、再び前を俯いて愁いの虚ろな表情に戻り、等速度で行き過ぎ、画面の左へアウトする。
この行き過ぎた辺りで、二人は立ち止まって、左回りで画面正面を向く。映像上、若い男の顔をはっきりと出すために、男は奥で少し左に移動し、女は画面手前右寄りに近づく。女は去ってゆく母の後ろ姿を追っている。
ここでバスト・ショットになる女は如何にも若い。しかし、母である。そして、その表情には、何かいたましいものを見つめるような悲しさがある(彼女は作品の最後の帰郷シーンに登場するアリョーシャの家の隣人の娘ゾイカ(Зоя:ヴァレンティーナ・マルコバ Валентина Маркова 演)である)。[ここまで1シーン1ショット54秒で撮っている。]
〇村外の一面の麦畑の中の田舎の一本道に向かってゆっくりと歩むエカテリーナ(ここは一種のゾイカの見た目になり、前のシーンとの編集が上手い)。
道は一回左にカーブしながら、その先で右に向いた直線となり、その道が一回丘陵上の頂点で見えなくなっている。その彼方にはぼんやりとした高圧鉄塔があって、中央よりやや左にずれて、一種のパースペクティヴの消失点として機能している。なお、道の消えたその遙か向こうには、そこよりもやや高い丘陵が左右に延びているようにも感じられる。
エカテリーナの足音。約2秒後に、本作の印象的なメイン・タイトルの音楽が始まる。
画面中央上寄りまで、エカテリーナが道を進んだところで。
〇煽りのショットで奥から手前へエカテリーナが進んでくる。背後には丘陵の遠景。左右に遠く森が見える。
カメラは左右に見えていた森の尖端が少し見える位置まで、ややティルト・アップして、エカテリーナのバスト・ショットで止まる。この時、彼女は最初は手を左右に垂らしており、バスト・ショットで前で先と同じように腹部の前で手を組む(一度、握って、緩めて、また握っている)。
ここでメイン・テーマが一回切れて、不安を感じさせるテーマが流れる。
なお、服装はショールが(恐らく)黒、黒っぽく見えた服は小さな格子状に編まれたものである。
〇左へのカーブが終わって右に延びる少し手前からの田舎道。(エカテリーナの見た目)
消失点の高圧鉄塔は、今度は画面中央よりもかなり右に寄ってある。
右手前の、道右側の麦の穂が風に揺れている。
音楽はメイン・テーマに戻る。
ナレーションが始まる。
「この道は町へ続いている……」
「この村から出て行く者たち……」
「この村へ帰って来る者たち……」
「旅立ちも帰還もこの道に拠る……」
〇エカテリーナの右手から。肩から上のアップ。痛ましく眉根を顰ませるエカテリーナ。
左の空を電線が四本変わった形(彼女の背後に電信柱が隠れており、そこで直角に電線が折れているようにも見える)右手奥には森と電信柱様のもの、そして別な集落とおぼしいものが見える。
「しかし彼女は誰も待ってはいない……」
エカテリーナは何度か瞬きをするが、その悲痛な眼には涙が光っている。
「彼女の息子――アリョーシャは――戦場から遂に帰らなかった……」
道を見ていたエカテリーナが少し、左の方、広がる麦畑の彼方へと顔と視線をゆっくりと向ける。
と同時にカメラは右回りに回転を始める。
麦畑の向こうに丘陵をすべって、直ぐ近くの麦の中に痩せた木(白樺か)、遠い森、を撮って、
「故郷から遠く離れたロシアの名も附されぬ異邦の地に葬られた……」
また道の左側に戻って、
「彼の墓には見知らぬ人々が花を供えにやって来る……」
道の左カーブが右直線になるところが写し出される(ここまでカメラは九〇度以上右に回った計算になる。最後の位置は、先の同様の画面位置よりもやや後ろの下がった道の左側からの撮影のように思われる。高圧鉄塔は再び画面中央よりやや左手にある)。
その後、カメラは停止せずに、何か、道を撫でるような女性的なやさしい視線(焦点を道の地面に合わせている関係上、下向きの人の視線のように見える)で道を撮りながら、ゆっくりと今度は右側に後退し始め、
「人々は彼を『英雄』『ロシアの解放者』と讃えるけれど……」
「彼女にとってはただ――彼女の一人の息子であり――彼女の可愛い子供――だった……」
この時、画面の右から、道の《右側に立っているエカテリーナの後ろ姿》が現われるのだ!
彼女の黒いスカートが風に搖れている。
「彼が生まれたその日から――前線に旅立ったその日まで――ずっと一緒だった……」
「彼は私たちの親しい友であった……」
「私たちはこれから彼についての話をしたい……」
エカテリーナは左から振り返ってこちらに向く(その時、左肩に掛けた黒いスカーフを何故か、一度、外して、また掛けかける)。
「彼女さえ――彼の母親であるこの女性でさえ――知らないことを……」
そして、黒装束にしか見えないエカテリーナは、眼を落しながら、画面の左方向へ消えて行く。
〇雲のある空に題名“БАЛЛАДА О СОЛДАТЕ”。“Б”及び“Д”の頭が右に大きく伸びた印象的な字体である。ここは静止画像と思われる。音楽、高まる!
〇丘にマリア像のように毅然と佇む、エカテリーナを右に配した、煽りのショット。強い風が彼女に吹き荒ぶ。空の雲は中央に空隙があり、その雲の左には太陽が隠れているように見える。カタストロフのテーマ!
ところが、ここでのエカテリーナのスカーフは《白い》!
〇エカテリーナの眼をしっかりと見開いた顔のアップ!
白で! しかも模様の入った如何にもお洒落なスカーフ!
そして彼女の顔は明らかに《若い》!
その、彼女は表情は何かを目撃したような!
その顏が更にアップになりながら、一瞬、ブレて、また焦点が合う! その間、彼女の眼は何かをはっきりと見据えるように、眉が上がり、グッと見開かれる!
目と鼻と鼻唇溝のみまでクロース・アップ!(途中、ピントが外れて、また合う! 皮膚の皺まで見える究極のアップ!)
そこに、向かってくる戦車がオーバー・ラップして!……
■やぶちゃんの評釈
アリョーシャの母を演ずるアントニーナ・マクシモーワは作品の最初と最後にしか出ないが、私は彼女こそが本作の、もう一人の主人公であると考えている。それが、本論の「待つ母というオマージュ」という副題の意味である。
画面に登場する車は、当初、ボンネットしか映っていないために、農耕用トラックのように見えるが、実は自家用車であることが後で分かるようになっている。これは、まさに大祖国戦争(第二次世界大戦をソヴィエトやロシアはかく呼ぶ)後、数年、ゾイカの結婚と出産から五年年以上は経っていないと推せば、上限1946年から下限は1950年がこの冒頭のシーンであろうかと思われる。則ち、ここでは、若い娘たちが、賑やかな笑い声を立て、農民の中には自家用車まで持つようになっていること、このサスノフスカ(後にアリョーシャが語る村名)という田舎の村さえ十全に近代化されて、平和と豊饒の時代が到来していることを示す。但し、最後のシーンのゾイカの家は、居間の上に電灯線のようなものが下がっており、既に電化されている気配がなくはない。もしかすると、これはランプ掛けなのかも知れないが。私ならそこでランプを配し、その時期の、この村の貧しさを示したい感じはする。当時の日本でもそうだったから。
ゾイカはエカテリーナの息子であるアリョーシャと幼馴染みで、そして、その最後のシーンを見ても、恐らくはアリョーシャが好きだったのである。父のいない母子家庭のエカテリーナの隣人として、ゾイカは高い確率で、美少年のアリョーシャと結ばれることを自然と考えていた「娘」であったのだと私は確信する。このトラウマを持った哀しい表情に、私はそれを初回に見た瞬間から、直感してきたのである。
今一つ、驚くべきカメラ・ワークに着目したい。それは、
その後、カメラは停止せずに、何か、道を撫でるような女性的なやさしい視線(焦点を道の地面に合わせている関係上、下向きの人の視線のように見える)で道を撮りながら、ゆっくりと今度は右側に後退し始め、
「人々は彼を『英雄』『ロシアの解放者』と讃えるけれど……」
「彼女にとってはただ――彼女の一人の息子であり――彼女の可愛い子供――だった……」
この時、画面の右から、道の《右側に立っているエカテリーナの後ろ姿》が現われるのだ!
と、私が解説した部分である。これはカメラ位置を十全に認識している鋭い観客から見ると、不思議なのだ。則ち、ここでチュフライはエカテリーナ役のアントニーナ・マクシモーワにカメラの後ろを廻って右手に行くことを指示し、観客がエカテリーナが画面の「左」にいるものと思っている観客の「意識を裏切って」、右から出現させるのである。私はこれと同じ手法を多用する映画作家を知っている。私の愛するアンドレイ・タルコフスキイである。そして、実はチュフライはタルコフスキイの師――それが正しくないとすれば、兄弟子に相当する人物であり、タルコフスキイは終生、彼への敬意を忘れなかった相手なのである。タルコフスキイ作品を語る者は、チュフライを語らずんばあらず――これが私の発見した深い感懐なのである。タルコフスキイの場合は、この手法はある霊的な意味を確信犯で込めているのだが、しかし私は、それをこの法然チュフライから授けられたのだと見る。チュフライは超自然的な力を映画が確かに持っていることを、知っていた。それがこのシーンであり、親鸞タルコフスキイはそれを恐ろしいまでに純化して自身の映像に反映させた――異論のある方は、いつでも応じよう。
次に、文学シナリオを見よう。
冒頭には、
この映画を祖国のための戦いに散った、我々の仲間である兵士に捧げる。
とある(以下、田中ひろし氏訳になる『〈文学シナリオ〉「ある兵士のバラード」』の全訳からの引用)。ここに、チュフライの映画製作の、「心」が示されており、それは、ナレーションの最後に相当する。これをソヴィエト映画の強制的常套語だ、などと言う輩は、これ以上、私の本論を読むことを辞められたい。これは、大祖国戦争を実体験として経験した人間にとって、言わねばならぬ真意であったのである。
《引用開始》
現在の農村。陽気な休日の宵。暮れかけたばかりなのに、家々の窓にはもう灯が明るく輝いている。遠く離れたコルホーズのクラブでは、若者達が集っている。そこでは街灯があかあかと燃え、音楽が聞えて来る。しかし、ほかの村角は空虚と静寂に沈んでいる。こんな時間には路上で人に会うことも稀である。お客に行く若い夫婦者が赤ん坊を抱いて通り過ぎるか、恋人達が黙ってすれ違うか、クラブヘ急ぐ娘達のグループが走り去って行くか、そのくらいのものである。
《引用終了》
実際の映像は『宵』ではないことは明白である。これは光量の問題もあるが、実際の映像の方が、確かに効果的である。「コルホーズのクラブ」という記載は、脚本検閲への配慮のように私には思われる。この時代でも、勿論、ソヴィエトは社会主義的政策への讃歌的内容の有無を脚本に求めていた。
「お客に行く若い夫婦者が赤ん坊を抱いて通り過ぎる」という部分に子を持った母ゾイカを登場させ、本作全体の中に美事に有機的に位置づけて、同時に、本作が如何なる物語となるかを――則ち、私の言う『母の物語』としての――伏線として提示した手腕は、これ、絶妙である。
《引用開始》
一人の黒い衣裳をまとった婦人が村の通りを歩いて行く。娘達は、すれ違う時、一瞬笑声を止めた。しかし、この婦人と挨拶をかわすと、また自分達の道を駆けて行く。ほかの通りで婦人は若い夫婦者と会う。若者は彼女に丁寧に挨拶する。彼女は、ほほえみながら返礼して行き過ぎてゆく。村の囲いを出ると、彼女はそこにたたずむ。そして、広々とした耕地の中を遥かに遠い丘に続いている道を、見つめている。
(ナレーション)
『この道は我々の州都に通じている。そこには、二つの高等学校と一つの工場、そして鉄道の駅もある。我々の村を出て行く者も、やがて故郷に帰って来る者も、この道を通って行き、また通って来るのである。』
『彼女がそこに現れるようになってもう何年の年月が経つだろう。いや、彼女は誰も待ってはいない。彼女が待った息子のアリョーシャは戦争から帰って来なかった。彼女は息子が帰って来ないことを知っている。彼の遺体は、ふるさとを遠く離れた外国の村に葬られた。春がやって来ると異郷の入々は、彼の墓に花をたむけた。人々は彼を、ロシヤの兵士、英雄、また解放者と呼んだ。しかし彼女にとって、彼はただの息子のアリヨーシャであり、生れてから戦場へこの道を去って行くまで、そのすべてを知っていた可愛い子供なのであった。彼は我々の仲間であった。我々は、彼とともに前線にいた。だから我々は、彼の母親もそのすべてを知らない、彼の物語を始めよう。』
《引用終了》
ナレーションは文学シナリオをほぼ忠実に再現している。則ち、このナレーションこそが、どうしてもチュフライの言いたかったことである、ということを我々は心せねばならぬのである。
《引用開始》
……黒い衣裳の婦人の姿が、ゆっくりと変る。それははるかに若いが同一の婦人である。彼女は同一の場所に立っている。しかし、彼女の背景には新しい村の明るい家屋はない。そこには、戦時中の陰鬱な百姓家が建っている……。
強風が彼女の着物の裾を吹き上げ、頭からネッカチーフを吹き飛ばす。黒雲が空に渦巻いている。
婦人は遠くを見つめている。風は、さか立ち、ひん曲った大地を吹きまわる。バラ線に唸りを上げ、黒々とした塵埃を原野に吹き上げる、
ここは戦場の最先端である。
《引用終了》
ここは脚本を忠実に再現する(というか、文学的な時間の跳躍を映像化する)ことが難しい。実際の映像はそれを、エカテリーナの若返りで、非常に上手く表現している。ただ、過去への回帰が、非常に短い映像であることから、観客には十全にそれが理解されなかった可能性は拭えない。実際に愚鈍な私は、三度目ぐらいで、初めて、彼女のスカーフの違いや表情の若々しさに気づいた。それにしても、メイクもさることながら、汗腺まで見えるような超アップでも怖気ぬアントニーナ・マクシモーワの「若さ」の演技に、私は脱帽するのである。
最後に。実は、これらのシークエンス全体にはオープニング・タイトルが被る。その解説は一切、行っていない。この時代としては普通な仕儀ではあるのだが、私としては、折角の印象的な冒頭シークエンスなだけに、少し残念な気がしている。
四十六
敬佛房云、非人法師の身に學問無用といふことも分齊(ぶんざい)あるべき事也。器量あらむものは、如形(かたのごとく)往生要集の文字よみ風情の事をもて、生死無常のくはしきありさま、念佛往生のたのもしき樣など、時々はくり見るべき也。されば、僧都御房も念佛者の十樂おぼえざらんは、無下の事也など仰せられたる也。又學問すべしといへばとて、一部始終を心得わたし、文々句々分明(ぶんみやう)に、存知(ぞんじしら)せむなどいふ心ざしは、ゆめゆめあるべからず。たゞ文字よみなどしたるに、やすらかに心得らるゝ體(てい)なり、大要(たいえう)貴(たつと)き所くりみるほどの事なり。此(この)故實を得つれば、相違なし。教(をしえ)の本意(ほんい)後世にすゝむ、大なる要(かなめ)となる也。又これ程の事なりとも、我執名聞(がしうみやうもん)もまさる樣におぼえば、一向に可停止之(これをちやうじすべし)。藥を毒となす事、返々(かへすがへす)をろかなる事也。一文一句なれども、心得によりて念佛もまめにおぼえ、後世の心もすゝみ、いそぐ樣なる心ばへいでくる體におぼえば、たうとき文どもをも、時々ははみるべき也。但(ただし)、天性(てんせい)器量おろかならんものは、これはどの學問もなくとも、一向稱念すべき也。行(ぎやう)を眞心(まごゝろ)にはげまば、教(おしへ)の本意(ほんい)にたがふべからず。信心道心(しんじんだうしん)も、行(ぎやう)ずればおのづからおこる事なり。
〇非人法師、和俗に、遁世の僧を非人といふなり。金剛寶戒(こんごうほうかい)章にもあり。
〇形の如く、おほかたにならふ事なり。
〇十樂、聖衆來迎(しやうじゆらいがう)、蓮華初開(れんげしよかい)、身相神通(しんさうじんづう)、五妙境界、(ごめうきやうがい)、快樂無退(けらくむたい)、引接結緣(いんぜふけちえん)、聖衆倶合(しやうじゆぐゑ)、見佛聞法(けんぶつもんぽふ)、隨心僕佛(ずゐしんぐぶつ)、増進佛道(ぞうしんぶつだう)。
〇我執、われありがほにおもふ心なり。
〇停止、やめやむるなり。
〇たふとき文、往生極樂をすゝむる經釋の事なり。
〇天性、うまれつきの事なり。
〇まごゝろ、まことの心なり、眞心。
〇行ずればおのづから、信心道心をこしらへて後に念佛せんと思ふは未練のゆゑなり。たゞまづ行ずべきなり。稱名こゑすみぬれば、いかにも信心うごかずといふ事なし。されば覺鑁(かくばん)上人も信は聲をいだすにおこるとのたまへり。
[やぶちゃん注:本条はその結論から言えば、学識の無効性を述べていると言って差し支えない。冒頭、才能や理解力のある人間はと限定して、その才覚を以って「往生要集」の素読をせよ、と言っているように思えるが、私はこれは大橋氏が訳されるような「素読ぐらいは」の謂いではないと考える。実際、次に敬仏房は「たゞ文字よみなどしたるに、やすらかに心得らるゝ體なり、大要貴き所くりみるほどの事なり。」(大橋氏訳『ただ、素読などしたときに、容易に理解できるぐらいのことでよく、大事なところ、貴いところは本をひらいて見るぐらいでよいのです。』)と述べており、これは実はアカデミックに解釈したり、湛澄や大橋氏や私が注を附したりするようなことは、敬仏房は否定しているのである。即ち、「素読」こそが「肝要」なのである。言わずもがな乍ら、往々にして知識欲の増大は奢りへと容易に変化する。だからこそ、やはり敬仏房は「又これ程の事なりとも、我執名聞もまさる樣におぼえば、一向に可停止之」と述べ、「藥」(学識)がかえって「毒」(往生の障り)となるようなことは致命的に「返々をろかなる事也」とまで言うのである。そもそも智に奢る者こそが、無辺の大慈悲心という仏法の真意から見れば、実は「天性器量おろかならんもの」であるのだから、即ち、我々「天性器量おろかならんもの」たる衆生は須らく「一向稱念」、只管、念仏を唱えるがよい、そのように「行を眞心にはげまば、教の本意にたがふべからず。信心道心も、行ずればおのづからおこる事なり」と述べている、最終章こそが敬仏房の真意であると読むべきである。
「分齊」Ⅰは「分際」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。
「文字よみ」素読して。
「生死無常のくはしきありさま」Ⅰは「生死無常のいとふべきことわり」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。
「僧都御房」Ⅰは「明遍僧都御房」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。
「十樂」念仏行者の十種の楽しみを言う法数。標註にあるが、それぞれを解説すると、「聖衆來迎」楽(仏様が迎えに来る楽しみ)、「蓮華初開」楽(己自身の仏性花である蓮華が花開く楽しみ)、「身相神通」楽(己自身に神通力が具わる楽しみ)、五妙境界、(眼耳鼻舌身の五感が清浄になる楽しみ)、「快樂無退」楽(以上の様態の変化によって極まりのない快楽を受ける楽しみ)、「引接結緣」楽(自由自在に人を救えるようになる楽しみ)、「聖衆倶合」楽(至善の仏と出逢う楽しみ)、見佛聞法(仏を正しく見、その正法を聞く楽しみ)、隨心僕佛(思うままに素直な供養が出来る楽しみ)、増進佛道(さらに仏法の世界が深まり広がってゆく楽しみ)。
「此故實を得つれば、相違なし。大なる要となる也。」Ⅰは「此故實を得つれば、教(けう)の本意(ほんい)に相違せずして、後世にすゝむ大要(だいえう)となるなり。」とある。意解に過ぎ、「大要」などの言辞も生硬で採らない。Ⅱ・Ⅲに拠った。この場合の「故実」とは、そうした(素読による直観的理解や要綱要所の披見という)習慣の謂いである。
「金剛寶戒章」法然の奥義書とされるが、偽書説も強い。
「覺鑁上人」(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四四)年)は真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡は興教(こうぎょう)大師。平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を真言教学においていかに捉えるかを理論化、西方浄土教主阿弥陀如来とは真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であると規定した。真言宗の教典中でも有名な「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」、空思想を表した「月輪観(がちりんかん)」の編者としても知られ、本邦で五輪塔が普及する契機となった「五輪九字明秘密釈」の著者でもある(以上は、ウィキの「覺鑁」に拠った)。]
私ごとながら、一ヶ月前から左中指の第一関節に痛みがあり、右の薬指の第一関節にもこの数日違和感が出たので、今日の午前、リュウマチを疑って、リハビリに通っている整形で診てもらったところ、幸い、リュウマチではなかったものの、変形関節症(妻は変形股関節症)の一種であるへバーデン結節の診断を受けた。レントゲンを見る限りでは骨変形(棘状の突起が生ずるらしい)はまだ現認出来なかったが(ということは結節は出来ていない初期ということである)、指の関節が左右とも全体に詰まって(軟骨がすり減って)いる状態にはあった。
へバーデン結節――僕好みの、このカタカナ名(発見した医師の名)はクソ事大主義的で――「いいね!」だ――。
今のところ、生活の不便は特になく、必ずしも強い変形にならない場合もあるようだし、ともかくもまずはリュウマチではなかったので安心した。
なお診察とリハビリに半日かかったため、本日起動する予定だったあるプロジェクトは明日に延期する。
四十五
敬佛房云、後世者(ごせしや)はいつも旅にいでたる思ひに住するなり。雲のはて、海のはてに行(ゆく)とも、此身のあらんかぎりは、かたのごとくの衣食住所なくてはかなふべからざれども、執(しふ)すると執せざるとの事のほかにかはりたるなり。つねに一夜のやどりにして、始終のすみかにあらずと存ずるには、さはりなく念佛の申さるゝ也。
いたづらに、野外にすつる身を、出離のためにすてゝ、寒熱(かんねつ)にも病患(びやうげん)にもをかさるゝは、有がたき一期(いちご)のおもひ出かなと、よろこぶ樣なる人のありがたきなり。
〇始終のすみかにあらず、十因云、實一生假棲、豈期永代乎。
世の中はとてもかくてもおなじこと、宮も藁屋もはてしなければ。
〇よろこぶやうなる人のありがたきなり、身命を惜しまぬ人、世にまれなり。
[やぶちゃん注:「つねに一夜のやどりにして」私なら次の発句を示して注としたい。
世にふるも更に時雨のやどりかな 宗祇
世にふるも更に宗祇のやどりかな 芭蕉
「野外にすつる」Ⅱの大橋氏は脚注で、『風葬(曝葬)のたぐい。』とされ、「一言芳談句解」に『いたづらに野外にすつるとは、鳥べ山のけぶり、立去らぬ共云、かゝらん後は何にかはせんと、みさゝぎ(陵)をなげきし心なり』とある、とする。
「十因云、實一生假棲、豈期永代乎。」Ⅰの訓点を参考にしながら訓読すると、
十因に云く、實(げ)に一生は假の棲か、豈に永代を期(ご)せんや
となる。「十因」は「往生拾因」。平安後期の三論宗の東大寺僧侶、永観(ようかん 長元六(一〇三三)年~天永二(一一一一)年)の撰。一巻。念仏が決定往生の行であることを十種の理由(因)をあげて証明し、一心に阿弥陀仏を称念すれば、必ず往生を得ると明かした書で、法然の専修念仏の先駆として注目される。Ⅱの大橋注では「一實に一生は假の棲」となっている(正字化して示した)が、電子化されたそれで確認すると、同書の「序」にある言葉で「籠石室人 終遭別離之歎。實一生假棲 豈期永代乎。而今倩思 受何病招何死哉。重病惡死一何痛哉。」である(正字化した)。
「世の中はとてもかくてもおなじこと、宮も藁屋もはてしなければ」は「新古今和歌集」の蝉丸(生没年不詳。平安前期の歌人にして隠者)の和歌(一八五一番歌)。
世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋もはてしなければ
「はてしなければ」は「結局、最後にはなくなってしまうのだから」の意。諸本に載るが、第三句を、
世の中はとてもかくてもありぬべし宮も藁屋もはてしなければ
世の中はとてもかくてもすぐしてむ宮も藁屋もはてしなければ
とする本が少なくない(水垣氏の「やまとうた」の「蝉丸」を参考にした)。]
東日本大震災後、三陸沖に派遣された米原子力空母ロナルド・レーガンの乗組員8人が27日までに、東京電力福島第1原発事故の影響が正確に伝えられず被ばくし健康被害を受けたとして、同社を相手に計1億1000万ドル(計約94億円)の損害賠償を求める訴えをカリフォルニア州サンディエゴの米連邦地裁に起こした。米メディアが伝えた。
乗組員らは、米軍による被災地支援の「トモダチ作戦」で急派され、搭載機が発着する飛行甲板などで作業していた。東電によると、事故収束作業をめぐり、海外の裁判所で同社が訴えられたケースはないという。
東電は「訴状が届いておらず、コメントは差し控えたい」としている。
訴えたのはロナルド・レーガン乗組員のリンゼイ・クーパーさん(階級不明)ら。米兵8人のほか、その家族1人が原告に加わっている可能性もあるという。
原告側は、東電が米軍や市民に対し、事故で放出された放射性物質の危険などについて「事実と異なり、誤解を招く情報」を広めたと主張。米軍側は安全だと信じてトモダチ作戦を遂行したため、乗組員が被ばくし、がんのリスクが高まったなどとしている。
米メディアによると、8人は実際の被害に対する金銭補償としてそれぞれ1000万ドルを請求。これとは別に、算定不能な精神的苦痛や再発防止に向けた抑止効果を狙った「懲罰的賠償」として、全員で合わせて3000万ドルを請求した。
トモダチ作戦は震災発生2日後の昨年3月13日から開始され、空母などを投入し支援物資を輸送するなどした。在日米海軍司令部(神奈川県横須賀市)は「こうした訴えがこれまでに起こされたという話を聞いたことはない」としている。(共同)
おっぱじめようか! ♪ふふふ♪
三十三
異花開絶域
滋蔓接淸池
漢使徒空到
神農竟不知
〇やぶちゃん訓読
異花(いくわ) 絶域(ぜついき)に開く
滋(しげ)れる蔓(つる) 淸池に接す
漢使 徒(いたづ)らに空しく到る
神農(しんのう) 竟(つひ)に知らず
[やぶちゃん注:これは芥川龍之介が残した現在知られる生涯に最後の漢詩である。龍之介満三十二歳。以下、当時の事蹟その他については、前の「三十二」の注冒頭を参照のこと。
本詩は前の「三十二」と同じく、
大正十三(一九二四)年九月十八日に書かれた芥川龍之介のノート「ひとまところ」
の、掉尾に置かれているものである。以下、前の「三十二」の注に掲載した「ひとまところ」全文を参照されたい。
――実は本詩について私は前の「三十二」と同様、既に二〇一一年五月七日のブログ「龍之介よ、スマトラのわすれな草の花、見つけたよ」で論評しており、その内容以外の新しい附言をする必要を殆んど認めないのだが、「三十二」と同じく、本頁での評釈に合わせて記載をし直して示すこととする。
まず、本詩については平仄と韻を調べた。
異花開絶域
滋蔓接淸池
漢使徒空到
神農竟不知
●○○●●
○●●○◎
●●○○●
○○●●◎
これは平起式の五言絶句の平韻平仄式の、
◐○○●●
◑●●○◎
◑●○○●
◐○◑●◎
に則っており、韻字である「域」「知」はともに詩韻百六種の平声上平の第四韻「支」である。
次に、私の勝手な自在なる現代語訳を示す。
*
……不可思議な一つの花が……遙か遠い……絶海の孤島に……言葉に尽くせぬ美しさで……咲いている……
茂ったその蔓は……あくまで透き通った……そこにある……秘かな……清らかな池に……乙女が美しい手を挿すように……浸っている……
――漢からやって来た勅使――彼らはただ……徒らに空しく……そこに辿り着くだけ……彼らの眼に……その花は……見えぬ……
いや――かの本草の神たる神農でさえも――遂にその花を「示す」ことはおろか……「名指す」ことさえも……出来ぬのだ……
邱氏は「芥川龍之介の中国」の「第四章 中国旅行後の芥川文学」の『「女仙」への帰着』で、本詩を同年に発表した「第四の夫から」と関連させて解読されており、それによれば「絶域」は同作の舞台チベットであり、花はやはり同作に描写される仙境のシンボル桃花とされる。そうして龍之介は『中国に対する幻想を中国旅行によって破壊された芥川は、愛する田園詩人陶淵明らが生きた時代より、さらに古い漢の時代の中国の使者についてゆき、遠い西域で古き美しい夢をみようとしたのである。しかしこのような精神的な旅も、やはり「漢使」とともにしなければならないところが意味深い。芥川及び芥川文学と中国古典の世界とは切っても切れない関係にあることを物語っているのである』とし、先の「第四の夫から」の話との高い近似性を述べた上で、『夢が破れても、なお東洋のエピキュリアンとして、夢のような精神世界を求めずにはいられない芥川がのぞかれる』。そんな『他の誰にも劣らない生命力を持っていた』はずの『芥川からすべてを奪い去り、』『死に追い込んだのは「時代」である。中国旅行後の漢詩』(邱氏の推定を含め「三十一」から本「三十四」まで)『はわずか四首に過ぎないが、芥川文学の神話構築と崩壊の実態が示唆される点で不可欠な資料だと言える』と、この「第二章 芥川と漢詩」の「第二節 芥川の漢詩」を結んでおられる。「第三節 まとめ」などを含め、ここまでお付き合い戴いた方は、是非、邱氏の「芥川龍之介の中国」をお読み戴きたい。
さて、以上の邱氏の「異花」についての見解は至当で十全に腑に落ちる解釈であるとは思うのだが、私は本詩を一読して、
「これこそ、あのスマトラのわすれな草の花だ!」
と思わず独りごちたことも事実なのである。――あの芥川龍之介の「沼」に現われる――スマトラのわすれな草の花――である。
*
沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、 Invitation au voyage の曲が、絶え絶えに其處から漂って來る。さう云へば水の匀や蘆の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匀を送って來はしないであらうか。
*
この「スマトラの忘れな草の花」は、私が非常に高く評価する小沢章友氏の小説「龍之介地獄変」(二〇〇一年新潮社刊)の、龍之介が自死を間近に控えた終盤の、印象的なシークエンスで以下のようにも現れる(地の文は私の要約、『 』は引用)。
*
――龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして、
『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた』。
訝る多加志に龍之介はこう言う。
『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』
『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』
『その花はね、魂なんだよ』
『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』
と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆく――
*
と描かれた、あの花である。私はこの漢詩の「異花」こそ、あの、「スマトラのわすれな草の花」なのだと――大真面目に――信じて疑わないのである。それは邱氏に言わせれば、中国神話の世界の仙境の霊花たる桃の花と同じだ、とされるであろうが――やはりこれは――絶望を知った者だけに見える島「ファタ・モルガーナ」の――常人には見えぬ「非在の異花」――「ときじくの花」――なのだ、と私は最後まで拘りたいのである。……私はかつて、「芥川多加志略年譜」の最後に、後、ビルマで戦死することとなる龍之介の次男『多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――』と書いた……よろしければ、そちらもお読み戴きたい。……さすれば、芥川龍之介と芥川多加志の二人の「スマトラのわすれな草の」花供養とも……なろうかと……存ずる……。]
四十四
敬佛房云、むかしの人は世をすつるにつけて、きよくすなほなるふるまひをこそ、したれ。近來(このごろ)は遁世をあしく心えて、かへりて、氣(き)きたなきものに成(なり)あひたる也。
後世者といふものは、木をこり水をくめども、後世をおもふものゝ、木こり水をくむにてあるべきなり。
某(それがし)は事にふれて、世間の不定(ふじやう)に此身のあだなる事をのみ思ふあひだ、折節につけて、起居のふるまひまでに、あやうき事おほくおぼゆるに、御房(ごばう)たちは、よにあぶなかりぬべきおりふしにも、いさゝかも思ひよせたる氣色(けしき)もなき也。まして、うちふるまひたるありさまなど、よに思ふ事もなげにみゆるなり。さればたゞ、無常の理(ことわり)も、いかにいはむにはよるべからず。さゝかなりとも心にのせてのうへの事也。
〇遁世をあしく心えて、されば今の世の遁世者には貪(どん)の字をかくべしといへり。
〇木をこり水をくめども、是は本と末とを知るべしとの心なり。やゝもすれば末が大事になるなり。世俗は身を愛して世をいとなむ。後世者は後世のために萬をいとなむなり。
〇世間の不定に、世間も不定なり。此身もあだなりとなり。
〇あぶなかりぬべき、わが身に病をうけたる時も、又人の死をきく時、世のさはがしき時などなり。
〇打ち振舞ひたる、常になすわざ、支度する事、おほかた常住の思あるに似たりとなり。
〇いかにいはんには、口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。
[やぶちゃん注:師と思う相手から、かく言われる「彼の弟子を自認する」者の気持ちは、いかばかりであったろう。
――「わが身に病をうけたる時も、又人の死をきく時、世のさはがしき時」であっても、ましてや、「おほかた常住の」日常にあっても何も感じていない連中には、「無常の理も」、どんなに説いたとしても、そなたたちには、分かるまいの、だから、「さゝかなりとも」心にかけておくしか、これ、あるまいよ――
ガツンとくる強烈なパンチ、である。
「〇いかにいはんには、口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。」という標註について、Ⅱの大橋氏の脚注には、この文ではなく、
是はいふといはぬとにはとあるべきを、かきあやまりたるなるべし
とあるとする。これはどうもⅠとⅡを合体させたものが、本当の註の全文であるように思われる。即ち推測であるが、この標註は、
〇いかにいはんには、是はいふといはぬとにはとあるべきを、かきあやまりたるなるべし。口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。
というのが正しいのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]
七日源敬公ノ月忌ナル故、早晨ニ光明寺ノ衆僧ヲ招キ齋饌ス。齋シ畢テ卯刻ニ及テ庵ヲ出、東北ノ方へ行。
[やぶちゃん注:現在の亀ヶ谷坂。「源敬公」右に光圀自身による『尾張大納言義直公ノ道號也』という傍注が附されている。これは家康の九男、尾張藩初代藩主徳川義直(慶長五(一六〇一)年~慶安三(一六五〇)年五月七日)のこと。光圀の父徳川頼房は家康の十一男であるから、伯父に当たる。]
龜 井 坂
淨光明寺ノ北東ニアリ。此地ヲ龜井谷ト云。龜井坂ノ入口ニ勝榮寺ト云寺ノ跡アリ。
[やぶちゃん注:「勝榮寺」「鎌倉廃寺事典」に禅宗で所在地未詳とする。元応元(一三一九)年に北条貞時夫人覚海緣成尼の強請により、夢窓疎石が当時に寓したことが「夢窓国師年譜」にあるのが最古の記録で、後には建長寺正統庵の末寺となり、廃年は未詳とする。]
長 壽 寺
龜井坂ノ下ニアリ。建長寺ノ末寺、尊氏ノ建立也。尊氏ヲ長壽寺殿ト云。束帶ノ影像アリ。
官領屋敷
明月院ノ馬場ノ南隣ノ畠也。
[やぶちゃん注:「官領屋敷」の「官」は「管」の誤り。]
明 月 院
龜井坂ノ東北ナリ。建長寺ノ首塔頭也。高嶽院ト明月院ト建長寺ヲ輪番ニ勤ル也。上杉安房守憲方建立、法名道合明月院ト號ス。開山密室禪師、諱ハ守嚴、大覺ノ孫弟子也。密室ノ木像アリ。建長寺百貫ノ御朱印ノ内ニテ、三十一貫文此寺ニ附スト也。
寺寶
指月和尚畫像 一幅
二十八祖唐繪 一大幅ニ畫ス
趙昌畫 三幅對
〔中ハ鶴ニ岩木、左右ハ種々ノ牡丹花、細字ニ牡丹ノ名ヲソレゾレニ書付ル。〕
徽宗鳩畫 一幅
仲峯自畫自讚 一幅
〔贊云、天目山下不遠、遠山有眉※、要識幻住眞、畫圖難辨別、春滿錢塘潮、秋湧西湖月、覿面不相瞞、也是眼中屑、遠山華居士冩幻影、請汚老幻、旧本信筆。今ノ住持長老碩岷曰、仲峯國師名ハ明本和尚ト云、旧ハ明ノ字ナルべシト云。〕
[やぶちゃん注:「※」=「目」+「健」。但し、「新編鎌倉志卷之三」の当該項では「睫」である。「旧」は文脈から正字「舊」とはしなかった。]
布袋木像 一體〔運慶作、極テ奇ナリ。〕
源義經守ノ佛舍利
藕絲九條袈裟 一ツ
黄龍ヨリ千光へ傳へ、千光ヨリ大覺へ傳ルト云。
氏滿在判ノ明月院地圖 一枚
寺内ニ織田三五郎長好ガ寺トテ、長好院ト云アリシガ、今ハ破レ亡ヌ。其跡トテモナシ。長好院ノ名寶モ皆他所へ散ズト也。明月院ノ寶物モ古ハ多カリシガ、今ハ散失シテ此外ハナシト云。庭除ノ風景殊ニ勝レタリ。方丈ノ西北ニ上杉憲方ガ石塔ノ岩室アリ。十大羅漢ヲ切付タリ。其東ノ畠、古ノ明月院ノ遺跡也トゾ。明月院前住、寛文十二年子ノ十月ニ卒ス。遺偈ノ寫シ。
建長前住大年寛和尚遺偈、示寂八十一歳、十月廿九日、滅却正法驀直現出、白日靑天寒風拂地
[やぶちゃん注:「寛文十二年」西暦一六七二年。この「大年寛和尚」なる人物と遺偈については「新編鎌倉志卷之三」には不載。この偈の「驀直」は禅語では「まくじき」と読み、真っ直ぐに、の意である。何故、この最近の住持の遺蹟を光圀が記したのか不詳であるが、どうも、現住職碩岷に見せられた、この前住の偈自体に光圀は打たれたのではあるまいか。なお、建長寺絡みでは検索で大年碩寛なる人物の名前だけが検索で引っ掛かるが、現住の「碩岷」という名といい、本人の「大年寛和尚」という名といい、何となく気になる。識者の御教授を乞う。]
禪 興 寺
明月院ノ門ノ北ニアリ。本ハ十刹ノ第一ナリシガ、今ハ頽破シテ、僅ニ古ノ堂バカリ殘テ、明月院ノ持分也。福源山ト號ス。平時賴建立。開山大覺禪師也。最明寺崇公禪門覺靈トアル位牌アリ。蘭溪ノ付ラレタルト云。筆者モ蘭溪カ或ハホウリンカト云。
最明寺建立故ニ寺ヲ最明寺トモ云。本尊ハ釋迦、首ハ惠心作ナリト云。
寺寶
伊達天像 一軀 運慶作
蜀大帝像 一軀
地藏像 一軀 運慶作
土 佛 一軀 隆蘭溪作
上杉重房木像 一軀
北條時宗・時賴木像 二軀
大覺禪師木像 一軀
〔傍ニ開山建長大覺禪師ノ坐ト書付シ位牌アリ。大覺ノ自筆ト云。〕
[やぶちゃん注:「伊達天」は「韋駄天」の誤り。
「蜀大帝」は関羽のことか。]
三十三
有客來相訪 通名是伏羲
泉石烟霞之主
但看花開落 不言人是非
與君一夕話 勝讀十年書
天若有情 天亦老 搖々幽恨難禁
悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖
書外論文 睡最賢
虛窓夜朗 明月不減故人
藏不得是拙 露不得醜
〇やぶちゃん訓読(一行中の二句の間は二字分の空きを入れた)
客有り 來つて相ひ訪ふ 通名 是れ 伏羲(ふつき)
泉石烟霞の主なり
但だ看る 花の開落せるを 言はず 人の是非
君と一夕を話すは 十年書を讀むに勝(まさ)る
天 若し情有らば 天も亦 老いん 搖々たる幽恨 禁じ難く
悲火 常に心曲を燒く 愁雲 頻りに眉尖(びせん)を壓す
書外論文(しよぐわいろんぶん) 睡(すゐ) 最も賢し
虛窓(きよそう) 夜(よ) 朗らかにして 明月 故人を減ぜず
藏(かく)し得ざるは 是れ 拙(せつ) 露はし得ざるは これ 醜
[やぶちゃん注:龍之介満三十二歳。この詩が書かれた大正十三(一九二四)年九月十八日前後を管見すると、その六ヶ月前の大正一三(一九二四)年四月発行の『女性改造』に「岩見重太郎」、七月一日の『サンデー毎日』には「桃太郎」(この二作は中国旅行との関連が極めて濃厚な作である)が、当該九月一日には後の「長江游記」が「長江」として『女性』に発表されている。同年中では一月の「一塊の土」、四月の「寒さ」・「少年」等が意欲作と見えるが、全体に「野人生計事」や「新緑の庭」などのアフォリズム的な小品(それらがまたよいのであるが)が多い。龍之介の創作停滞への焦燥が見える一年ではある(リンク先は総て私の電子テクスト)。
私はこの詩は、龍之介の中で非常に大きな意味を持っているものであると考えている。それは何故か?――実は本詩について私は既に二〇一一年五月七日のブログ「芥川龍之介と李賀の第三種接近遭遇を遂に発見した」で論評しており、その内容以外の新しい附言をする必要を殆んど認めないのだが、本頁での評釈に合わせて記載をし直そうと思う。実は、この年の夏、龍之介は軽井沢で運命的な邂逅をしているのである。即ち、
かの「越し人」片山廣子との出逢い
である。片山廣子について、私は多くのテクストや論考を重ねてきたので、ここではもう詳述しないが(私のブログ・カテゴリ「片山廣子」等を是非、参照されたい)、私は、本詩を龍之介が創ったその時、龍之介の中では「越し人」廣子への、掻き毟りたくなりような切ない思いが、正に「悲火 常に心曲を燒く」如く燃え上がって、そのじりじりと焼け焦げるような焦燥の中にあったという事実を、この詩の背景として感じないわけにはいかないからである(その辺りの具体的な事実を、本詩を正当に訂正され評釈された邱氏が理解しておられたかどうかは定かではない。評釈の書き様からはそうした印象はあまり感じられないのが、やや残念ではある)。これが信じられない方のために、一つだけ言い添えるならば、恐らくはこの詩を創作する十三日前、龍之介は廣子から、あの情熱的な手紙(九月五日附)を受け取っているという事実を示すだけで足りよう。以下、私の電子テクスト「片山廣子芥川龍之介宛書簡《やぶちゃん推定不完全復元版》」から「片山廣子芥川龍之介宛書簡Ⅰ 大正一三(一九二四)年九月五日附(抄)」を引用する(記号類の意味や私の論考はリンク先を参照されたいが、論考は結構な量であるから覚悟されたい)。
〔略〕あんなに長いお手紙をいただいてたいへんにすみませんでした〔略〕
二十三日にお別れする時に、もう當分あるひは永久におめにかゝる折がないだらうと思ひました。それはたぶん來年はつるやにはおいでがないだらうと思つたからです わたくしがあそこにゐるといろいろうるさくお感じになるかもしれないと思つたのでした。それでたいへんおなごりをしくおもひました。夕方ひどくぼんやりしてさびしく感じました(略)
二十四日もたいそうよく晴れてゐました。もみじの部屋ががらんとして風がふきぬいてゐました。通りがかりにあすこの障子際にステッキが立つてゐないのを見るとひどくつまらなく感じましたそしてつるやぢゆうが靜になつたやうでした。(略)
二日か三日の夜でした氣分がわるくて少し早くねました星が先夜ほどではなくそれでもめについて光つてゐましたふいとあなたのことを考へて今ごろは文藝春秋に小説學の講義でも書いていらつしやるかしらと思ひました それから何も考へずにしばらくねてゐましたがそのあとでとんでもない遠いことを考へましたそれは(おわらひになつては困ります)むかしソロモンといふえらい人のところへシバの女王がたづねて行つて二人でたいへんに感心したといふはなしはどうしてあれつきりになつてゐるのだらうといふうたがひでした。(略)
わたくしたちはおつきあひができないものでせうか〔……〕あなたは今まで女と話をして倦怠を感じなかつたことはないとおつしやいましたが〔……〕
即ち、相愛の関係に発展していた廣子への、内なる恋情の炎の只中にあった龍之介の秘密の感懐、それが本詩なのである。
搖々幽恨難禁 悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖
とはまさに、その廣子への思いそのものである。そしてまたこの詩の中にこそ、龍之介がが愛し、私が愛する――李賀がいる――のである。……それは以下の語注に譲ろう。
本詩は、
大正十三(一九二四)年九月十八日に書かれた芥川龍之介のノート「ひとまところ」
に所載する。このノートは冒頭に以下の如き明確なクレジットを有するので、創作時期はこの時期と確定出来る。次の「三十三」も含まれるが、全体が一つの連続した龍之介の詩想の中で書かれたものと考えられることから、取り敢えず、ここにその旧全集所載の全文を示しておきたい。なお、底本は旧全集を元としつつ、現在所蔵する山梨県立文学館のものを底本とした新全集の字配(特に冒頭の前書きなど)で示した、
という前書きがある。
大正十三年九月十八日如例胃を病んで臥床す 「ひとまところ」は病中の閑吟を錄するもの也
澄江子
小庵
朝寒や鬼灯のこる草の中
秋さめや水苔つける木木の枝
旅中
秋風や秤にかゝる鯉の丈
手一合零餘子貰ふや秋の風
碓氷峠
水引を燈籠のふさや秋の風
枕べに樗良の七夕の畫贊を挂けたり
風さゆる七夕竹や夜半の霧
枕頭にきりぎりす來る
錢おとす枯竹筒やきりぎりす
煎藥の煙をいとへきりぎりす
有客來相訪 通名是伏羲
泉石烟霞之主
但看花開落 不言人是非
與君一夕話 勝讀十年書
夭若有情 天亦老 搖々幽恨難禁
悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖
書外論文 睡最賢
虚窓夜朗 明月不減故人
藏不得是拙 露不得醜
一目怪、人魂、傘、のつぺらぼう、竹林坊、
異花開絶域 滋蔓接淸池
漢使徒空到 神農竟不知
この内、俳句部分については、既に私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 発句拾遺」で「ひとまところ」所収分として抽出、語注を附してあるので参照されたい。
次に漢詩の間に挟まれた、不思議な「一目怪、人魂、傘、のつぺらぼう、竹林坊、」なる妖怪の名の羅列は、芥川龍之介画になる「化け物帖」(日本近代文学館蔵)の八点の題名とほぼ完全に一致する。当該画は一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したが、その解説書(産經新聞社刊)十四頁に全図(「1-7」~「1-12」)が載り、そこには一枚を除き、妖怪の絵に添えて題名が脇に添えてあって、
「一目怪」(1-9)、「人魂」(1-7)、「化傘」(1-11)、「のつぺらぼう」(1-10)、「竹林坊」(1-12)
とあるからである。無名の「1-8」は実は「1-7」を元にした彩色画と思われるもので、構図その他が酷似するから、正にこのメモは自画の「化け物帖」全画の備忘録(目録?)として書かれたものと断定出来るのである。
そして、既に、お気づきのことと思われるが、本詩の、
天若有情 天亦老 搖々幽恨難禁
が
夭若有情 天亦老 搖々幽恨難禁
となっていて異なることにお気づきになろう。これは、
旧全集も新全集も「夭」表記
となっているもので、旧全集ではなく現物に当たった新全集がこう表記しているということは、実際に現物が「天」ではなく「夭」に見えるということ
なのであろうが、これは邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」の本詩の「解説」で、初めて邱氏によって、
《引用開始》
書き間違いか誤植か不明であるが、第六句「夭若有情」の「夭」は「天」の間違いである。
《引用終了》
と指摘されたものである。邱氏がわざわざ『書き間違いか誤植か不明であるが』としながら、『間違いである』と断定なさっているのは、これが李賀の「金銅仙人辭漢歌」からの引用であり、中国語として「夭」では意味が通らないということが判然としており、「天」以外に文意が通じないからでもあろう。これは、実際に本詩を読もうした際、どうしても意味不明な事実からも明白であったなずなのだが、中国人の邱氏がこれを指摘なさるまで、これまで誰もこのことに気づかなかったというのは(邱氏に先行する村田秀明氏の「芥川龍之介の漢詩研究」(一九八四年三月刊雑誌『方位』七)で指摘されているかどうかは、当該論文を未見なため不明。芥川龍之介の、容易には目に入らないような研究者の論考での指摘は過去にあるのかも知れないが、一般人の目に入らないというだけで、その論文は――アカデミズムの所産であろうが何だろうが――「糞」でしかないと、私は考えている)、私を含めて「芥川龍之介を愛する日本人」として恥ずかしいことであると私は思うのである。それだけ、この奇抜な詩を本気で読もうとした自称「芥川龍之介研究者」が一人もいなかった、という衝撃的な哀しい事実が暴露されたことにほかならないからである。
以下、本詩については語釈を示さず、邱氏の現代語訳を参考にしながら書いた私の訳を示す(訳中で語彙の分かるように勤めたつもりではある)。特に邱氏のそれでは、私のよく分からなかった最後の六句「書外論文 睡最賢/虚窓夜朗 明月不減故人/藏不得是拙 露不得醜」で啓示を得た。ただ私は、これを牽強付会と知りつつも、この「故人」を「旧知・旧友」(又は古き詩人の意か?)ではなく、「心焦がれる恋人」(勿論、廣子のこと)と採って訳したことを言い添えておく。
*
客があったんだ――やって来てさ、私を訪ねたその相手は、通称伏羲、何と! かの中国の原初の神々の長(おさ)じゃないか! 天然自然の山水を愛する隠者だ!……
彼と二人、ただ花が咲き、そして、散るのを見てるんだよ……誰彼(たれかれ)の人の、その善し悪しなんどは、口にしないでね……
君と一晩語らって得たもの――それは、十年書物を読み続けたのにも勝るものだった!……
天という存在に、もし情というものがあったとするなら、天もまた僕の宿命を悲しむ余り一気に年老いるに違いない! 目が眩むような激しい愁いが僕の胸の中にはあって、どうにもならないんだ!……
その悲しみは、火の如く心中に炎を上げてる! 僕の眉は、その愁いのために何時だって顰められてる!……
書物なんか、うっちゃっちまえ! 人の書いたものを批評するなんてぇのも、もう、やめだ! 何より遙かに賢いのは……ただ……眠ること、さ……
――今宵……明月は紗のカーテンの掛かった窓を照らし……その光りは焦がれる恋人の窓下にも同じ如、射している……
――隠し得ぬのは……これ、如何にもな私の「拙劣さ」であり……あなたに見せ得ぬのは……これ、私の真実(まこと)の「醜さ」である……
*
以上の私の訳への疑義があれば、是非とも御教授願いたい。特に「明月不減故人」の部分はあやしい。
一つ、付け加えると
「客があったんだ――やって来てさ、私を訪ねたその相手は、通称伏羲、何と! かの中国の原初の神々の長(おさ)じゃないか! 天然自然の山水を愛する隠者だ!……/彼と二人、ただ花が咲き、そして、散るのを見てるんだよ……誰彼(たれかれ)の人の、その善し悪しなんどは、口にしないでね……」という部分は訳を考えながら、この年の夏の、軽井沢での廣子との思い出の情景のインスパイアに間違いないと、私には直感的な確証が生まれた。また、
「君と一晩語らって得たもの――それは、十年書物を読み続けたのにも勝るものだった!……」の部分は、
正に龍之介と廣子の関係、ソロモンとシバの女王の関係(先の「片山廣子芥川龍之介宛書簡《やぶちゃん推定不完全復元版》」及び芥川龍之介「三つのなぜ」の「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」を参照)、そして、「或阿呆の一生」の、
三十七 越
し 人
彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。
風に舞ひたるすげ笠(がさ)の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
の前書冒頭の「彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女に遭遇した」の一言を思い出させずにはおかないものであった。更に、
「天という存在に、もし情というものがあったとするなら、天もまた僕の宿命を悲しむ余り一気に年老いるに違いない!」には廣子との大きな年齢差(龍之介満三十二歳、片山廣子四十六歳で廣子が十四歳年上)が意識されているようにも思われる。
さて、本詩の中に「いる」李賀について以下に述べる。芥川龍之介が李賀を愛読していたことは古くから知られていたことなのだが、私は未だ嘗て、それを裏付ける芥川龍之介自身の筆になる一次資料を見たことがない。邱氏の本詩の「評価」の欄の指摘によって、この「天若有情 天亦老」の部分こそが、李賀の「金銅仙人辭漢歌」からの援用であることが分かって初めて、私は芥川龍之介の作品の中に、明らかな「李賀の存在を現認した」のである。だからこそ「夭」は真正の誤りだと言えるのでもある。以下、李賀の「金銅仙人辭漢歌」を引用する(「序」があるが省略した)。
金銅仙人辭漢歌 李賀
茂陵劉郎秋風客
夜聞馬嘶曉無跡
畫欄桂樹懸秋香
三十六宮土花碧
魏官牽車指千里
東關酸風射眸子
空將漢月出宮門
憶君淸涙如鉛水
衰蘭送客咸陽道
天若有情天亦老
攜盤獨出月荒涼
渭城巳遠波聲小
○やぶちゃんの訓読
金銅仙人漢を辭するの歌 李賀
茂陵の劉郎 秋風の客
夜 馬の嘶(いなな)くを聞くも 曉(あかつき)に跡無し
畫欄 桂樹 秋香を懸け
三十六宮 土花碧(みどり)
魏官 車を牽きて千里を指せば
東關の酸風 眸子(ぼうし)を射る
空しく漢月と將(とも)に宮門を出づれば
君を憶ひて 淸涙 鉛水のごとし
衰蘭 客を送る 咸陽の道
天若し情有らば 天も亦老いん
盤を攜(たづさ)へて獨り出づるに 月 荒涼
渭城 巳に遠く 波聲小なり
この十句目に芥川が用いた、
天若有情天亦老
が現われるのである。我々は遂に芥川龍之介の直筆のラインに李賀を見出したのである。
さて、この詩自体の解釈はそれだけで膨大なスペースが必要なので専門家の諸本に譲るが、要は人が非情無情とするところの対象(仙人の銅像)にも悲痛慷慨の思いがあるとし、李賀はそれに代わってその悲しみを詠んだものであり、私は――龍之介はこの金銅仙人の、否、その李賀の「思い」を――自身の廣子へのやるせなき「思い」と――ダブらせたのだと解釈するのである。
なお、邱氏はその「評価」で、この漢詩全体が、幾多の中国古来の常套句や諺、複数の詩人の詩文からの「集句詩」であるということも指摘しておられ、諺や慣用句を逐一指摘(私は邱氏の著作権を侵害することを欲しない。当該書を参照されたい)、李賀以外では、『「悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖」の部分が白楽天の「朱陳村詩」の「悲火焼心曲 愁霜侵髯根」を典拠とし』、「虛窓夜朗 明月不減故人」が『明代陳継儒(一五五八~一六三九)の詩句「幽堂昼深清風忽来好伴虚窓夜朗明月不減故人」の後半部によっている』と指摘され、最後に『中国旅行後に書かれたこの詩』は『作者が失われた神話世界に尚執着していたことを物語っている』の述べておられる。なお、邱氏が指摘しておられない部分で、私が新たにネット上から見出した部分がある。それは冒頭の「有客來相訪 通名是伏羲」の二句で、これは正に邱氏が「虚窓夜朗 明月不減故人」の部分で指摘された陳継儒の、また別の文「岩幽栖事」にそのままある句である(その全文は例えばこの中文サイトなどにある)。その文脈は「問是何往還而破寂寥 曰有客來相訪 通名是伏羲」である。最後に多くの霊感を頂戴し、引用をさせて戴いた邱雅芬氏に心より謝意を表して終わりとしたい。
……「天若有情 天亦老」……しかしもう……彼の宿命の時間は余り残されては、いなかったのである……]
四十三
敬佛房云、資緣無煩人(しえんむほんにん)も、のどかに後世のつとめするは、きはめてありがたき也。これをもておもふに、資緣の有無によらず、たゞ心ざしの有無による也。然ば、某(それがし)は資緣の悕望(けまう)は、ながく絶(たえ)たる也。たゞ後世ばかりぞ大切なる。又自然(しぜん)にあれば、あらるゝ也。後世を思ふ人は、出離生死のほかはなに事もいかにもあらばあれと、うちすつる意樂(いげう)に、つねに住するなり。佛の御心に眞實にかなひて、誠の供養なる事、たゞいさゝかも、出離の心をおこすにある也。有待身(うたいしん)、緣をからずといふことなければ、紙衣(しえ)、自世事おりにしたがひて、いとなめども、大事がほにもてなして、後世のつとめにならべたる樣に思ふ事、返々(かへすがへす)無下(むげ)の事也。
〇敬仏房云、資緣(しえん)の氣遣をやめよとのすゝめなり。
〇資緣、衣食住(えじきじゆう)のたすけなり。
〇悕望ねがひのぞみなり。
〇又自然にあればあらるゝなり、佛藏經の説のごとく、釋尊白毫相(しやくそんびやくがうさう)の餘輝(よき)をたまはるゆへに、成り次第にしてもなるものなり。
〇誠の供養、華嚴行願品云、諸供養中法供養最。所謂、如説修行供養、乃至不離菩提心供養。
〇有待の身、衣食(えじき)をかる血肉の身。
〇後世のつとめにならべたる樣に、今の世の僧はまづ衣食を大事として、後世の事を思はぬなり。浮世(ふせい)の小節(しようせつ)と出離い大事とをわきまふべし。
[やぶちゃん注:「資緣無煩人」Ⅰの本文では「資緣煩ひ無き人」と訓読している。私はⅠの方が直言としてはいいと思う。「無煩人」は心配のいらない人。
「資緣の有無によらず」Ⅱの大橋氏脚注に、「一言芳談句解」に、
峰の通ひ路にすみやき谷のけはしきに、いづみをつるも、すて人の手ばさ(き)なるべし。我雪山童子の仙人につかへたるも、資緣はなく、漁父が澤畔にさまよひしも、たすけある躰にはきこえず、たゞ有ればあらるるまでの事なり。所詮資緣によらず、心による也。
とあるとする(引用に際して正字化した)。
「有待身」Ⅱの大橋氏脚注に、「一言芳談句解」に、
有体身は無常の身をいふ。一年一月一日をおくり、まづは死をとぐる身なれば也。生死の大事と自然にあればあらるゝ世の中とを、同じく思ふは、無下の事といふ。まことに有がたき言葉なり。
とあるとする(引用はママ。「待」でなく「体」とある)。
「自世事」Ⅰは「自」がなく分かり易い。Ⅱの大橋氏は、『「みづからの世事」と読むべきか』とし、続群書類従本でも「紙衣自世事」とある、と記す。
「誠の供養、華嚴行願品云、諸供養中法供養最。所謂、如説修行供養、乃至不離菩提心供養。」の評註をⅠの訓点を参考に書き下しておく(「 」は私の推定)。
誠の供養、華嚴行願品に云はく、「諸々の供養の中に法供養を最もとす。」と。所謂、如説修行供養、乃至、不離菩提心供養。]
三十二
買酒窮途哭
誰吟歸去來
故園今泯泯
廢巷暗蛩催
〇やぶちゃん訓読
酒を買ひ 窮途(きゆうと)に哭す
誰(たれ)か吟ぜん 歸去來(かへりなんいざ)
故園 今 泯泯(びんびん)たり
廢巷(はいかう) 暗蛩(あんきよう) 催(もよほ)す
[やぶちゃん注:龍之介満三十一歳。恐らくは関東大震災直後の嘱目絶唱である。
本詩は、大正一二(一九二三)年(年次推定)九月二十一日附高橋竹迷宛絵葉書(岩波版旧全集書簡番号一一四一)
に所収する。但し、本絵葉書は、
未投函
のものである。従ってこれは死後の全集の「書簡」で初めて日の目を見たものである(旧全集後記には本書簡に関する注記は一切ない)。以下にその書簡(絵葉書の絵は不明)を示す。
買酒窮途哭誰吟歸去來故園今泯泯廢巷暗蛩催
乞玉斧
芥川龍之介
ワタシノウチハブジデスガ親戚皆燒カレマシタ
高橋竹迷(明治一六(一八八三)年~昭和二六(一九五一)年)は曹洞僧で文人。山梨県北巨摩郡秋田村(現在の北杜市長坂町大八田)の清光寺住持。本名矢島定坦、幼名喜一。岐阜生。美濃市の永昌院高橋慧定の養子となり、得度して定坦を名乗る。盤えんは書画に親しみ、多くの文人と親交があった。芥川と知り合ったのは、この前月の大正一二年八月二日に北巨摩郡教育委員会が主催した夏期大学講座の講師として招かれた(五日まで滞在し、毎日二時間の文学論を講義)際で、短い期間であったが、龍之介とは肝胆相照らす仲となった。到着したその日八月二日附の小穴隆一宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一一三四)には、『この山中の淸光寺にあり日々文學論なるものを講じ居り候淸光寺の方丈さんは高橋竹迷氏と申し曹洞宗中の文人なり 方丈さん畫を書き僕句を題す この間多少魔風流ありと思召され度候』とあり、また三日後の五日の、知り合いで南画家の岸浪靜山に宛てた書簡(岩波版旧全集書簡番号一一三六)では竹迷と寄せ書きまで成し、『夏期大學の先生に來たところ思ひかけず庵主は竹迷上人なり、爲に教育會のお客だか竹迷上人のお客だかわからぬやうに相成候』ともあって、龍之介が竹迷の名僧文人としての評判(もしかするとおの岸浪を介してかも知れない)逢う前から既に聴いていたことが窺われる(以上は主に新全集人名解説索引及び鷺年譜に拠った)。
邱氏は本詩についてかなりの分量の記載をなさっており、本詩を龍之介の漢詩中でも、エポック・メーキングな眼目の詩と捉えておられるのがよく分かる。従って、ここでは例外的に邱氏の評を多く引用、提示したい。
邱氏は、当該詩の「解説」で、『この詩はやはり中国旅行後の心情と深く関連するものと思われる。他の漢詩と違い、行分けせずに一行になっている異例な詩形にしてあるのは、自身の真の気持ちを隠したかったからか。「未投函」であることもその点を暗示している』とされ、『自身の真の気持ちが素直に表れたこの漢詩』を『告白を恥じる芥川は中国文化について深い造詣を持つ「曹洞宗中の文人」高橋に送る勇気を持たなかったのである』と記されておられる。これは非常に優れた洞察と私は読んだ。
「窮途哭」邱氏は『恵まれない酷い境遇にあることを指す』とされ、南北朝の宋の劉義慶の編になる小説集「世説新語」の、竹林の七賢の指導的人物であった阮籍(二一〇年~二六三年)の故事を部分的に引用されておられるが、ここで私は当該項である「棲逸第十八」の冒頭の、私の大好きな阮步(阮籍)の逸話に附された冒頭註である「魏志春秋」からの引用を以下に全文提示することとする(原文は明治書院の「新釈漢文大系 七十八 世説新語 下」を用いたが、訓読は私の勝手なものである)。
魏志春秋曰、阮籍常率意獨駕、不由徑路、車跡所窮、輒慟哭而反。嘗遊蘇門山、有隱者莫知姓名、有竹實數斛杵臼而已。籍聞而從之、談太古無爲之道、論五帝三王之義、蘇門先生翛然曾不眄之。籍乃嘐然長嘯、韻響寥亮。蘇門先生乃逌爾而笑。籍既降、先生喟然高嘯、有如鳳音。籍素知音、乃假蘇門先生之論、以寄所懷。其歌曰、日沒不周西、月出丹淵中、陽精晦不見、陰光代爲雄、亭亭在須臾、厭厭將復隆、富貴俛仰閒、貧賤何必終。
〇やぶちゃんの書き下し文
魏志春秋に曰く、「阮籍、常に意に率して獨り駕し、徑路に由らず、車跡、窮むる所、輒(すなは)ち慟哭して反(かへ)る。嘗て蘇門山に遊ぶに、姓名の知る莫き隱者有り、竹の實數斛と杵と臼と有るのみ。籍、聞きて之に從ひ、太古無爲の道を談じ、五帝三王の義を論じるも、蘇門先生、翛然(いうぜん)として曾て之を眄(かへりみ)ず。籍、乃ち嘐然(こうぜん)として長嘯、韻響、寥亮(れうりやう)たり。蘇門先生、乃ち逌爾(いうじ)して笑ふ。籍、既に降り、先生、喟然(きぜん)として高嘯、鳳の音(ね)のごとく有り。籍、素より知音(ちいん)なれば、乃ち蘇門先生の論を假りて、以て所懷を寄す。其の歌に曰く、
日は沒す 不周の西
月は出づ 丹淵の中(うち)
陽精 晦く 見えざれば
陰光 代りて 雄と爲す
亭亭として在るは須臾(しゆゆ)
厭厭として將に復隆せんとす
富貴 俯仰(ふぎやう)の閒
貧賤 何ぞ必ずしも終はらんや
と。
以下、底本の語注や訳を参考に語注を附しておく。
・「阮籍常率意獨駕、不由徑路、車跡所窮、輒慟哭而反」龍之介がこの「窮途哭」の典拠とした部分である。私なりに訳すなら、
阮籍は、常に気が向く儘に馬車を走らせて――その時には既にある道に依らず、未だ誰も(たれ)一人通ったことのない道を切り開いては行き――遂に馬車の行かれぬ場所に行き当たってしまうと、大声を挙げて泣きながら帰った。
である。真理を求めた佯狂の隠逸人阮籍の面目躍如たるポーズではないか。
・「蘇門山」河南省輝県西北にある山。
・「五帝三王」神話伝説時代の帝王。三皇五帝。異説が多いが、例えば伏羲・神農・黄帝を三帝、五帝は嚳(こく)・堯・舜・禹・湯などとする。
・「翛然」ものに捉われないさま。
・「寥亮」高らかに。
・「逌爾」表情を和らげて笑うさま。
・「知音」ここは文字通り、音・音楽を解する能力を持っているの謂い。阮籍が鳳凰の鳴き声のような仙人の長嘯に込められた神韻を瞬時に悟ったことをいうのであろう。
・「不周」不周山。崑崙山の西北にあるとされた伝説の山。
・「丹淵」阮籍の「詠懐詩」の「其二十三」にも出る。月の出る伝説上の淵か。明治書院版注には「山海経」の「大荒南経」に載る『甘淵の誤りか。甘淵は日輪の御者である羲和の女(むすめ)が浴する所』とある。
・「陽精」太陽。
・「陰光」月。
・「亭亭」高いさま。
・「須臾」ほんの一時。
・「厭厭」幽かで昏いさま。
・「將に復隆せんとす」(陽光が射しても直に)また昏い闇がまた降りて来て深くなる、という、夜の更けることの繰り返しの方で示したものか。私は訓読を誤っているかも知れない。
・「俯仰閒」うつむくことと仰ぎ見る間、見回している間であるが、ここは、一瞬の間の意。
・「何ぞ必ずしも終はらんや」(富貴もあっという間に凋落するように)貧賤と言ったって、そのままに終わるとは限らぬ、の謂い。
・「誰吟歸去來」「歸去來」は無論、陶淵明の「歸去來の辞」を指す。ここで、芥川龍之介は、深い愁いに、酒に酔うている――しかも愁いは、その酔いによって銷(け)されぬばかりか――より増幅され自覚され――遂に彼は「道」に「窮」し、慟「哭」している。その慟哭の底から――龍之介の――声が聴こえて来るのである……震災の累々たる死骸の山……荒蕪と化した帝都東京……(しかしそれは龍之介が震災以前から抱いてきた何もかも壊れてしまうがよいという現実世界への強烈な呪詛の体現だったのではなかったか? ひいては彼の自死へと繋がる近代軍事国家と変貌しつつあった日本という現存在への深い絶望感へと直結するものではなかったか? と私[やぶちゃん]は直感しているのだが。この私の感懐は勝手なものであろうか? 最後に示させて戴いた邱氏の評言をお読みあれ)……「今の世に一体、誰があの「歸去來の辞」を吟ずるであろうか!?」……『最早、今となっては誰一人として「歸去來の辞」を吟ずることは、もう、ない――ああっ! 「田園將蕪」(田園將に蕪(あ)れんとす)――いや――田園――故郷――この世界は既に消え去ってしまおうとしているではないか!』……という龍之介の声である。
ここで私は叫びたくなる。……
芥川龍之介にとって、かの関東大震災は、我々にとっての三・一一のカタストロフと同じなのだ! 事実、帰るべき故郷を消失した福島第一原発の周辺の民を見るがよい! 故郷は見えない悪魔によって永遠に容易に消失するではないかッ!――しかし、間違ってはいけない!――決して震災は物理的な「喪失」の原因なのではない! この震災後の「喪失感」自体が、ずっとそれ以前からの、そして、それずっとそれ以後の、現代人の宿命的「喪失感」そのものの、一つの象徴であると私は言いたいのだ!……
再度、断言する。
関東大震災は、芥川龍之介にとって、魂や精神としての「日本という原風景としての故郷」の、永遠の喪失の一つのシンボルであったのである。
「泯泯」滅びること、消え去ること。
「暗蛩催」「蛩」はコオロギであるから、闇の瓦礫山の間から聴こえて来る蟋蟀の音(ね)だけが、「催」、せきたてるように高く、真っ黒な画面に鳴り響いて、本詩は終わるのである。
邱氏はその「評価」で、『多くの典故を用い、故郷に帰る望みのない悲しさを如実に反映した作品である。中国旅行後の心情の変化が表われ、芥川文学の神話構築と崩壊の実体が示唆される作品であろう』とまで述べられ、次に、後に既に自死を決しつつあった芥川龍之介が書いた「病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」(『文藝春秋』大正一五(一九二六)年二月。後に『侏儒の言葉』に所収。リンク先は私の電子テクスト)の中の「二」、
僕の神經衰弱の最も甚しかりしは大正十年の年末なり。その時には眠りに入らんとすれば、忽ち誰かに名前を呼ばるる心ちし、飛び起きたることも少からず。又古き活動寫眞を見る如く、黄色き光の斷片目の前に現れ、「おや」と思ひしことも度たびあり。十一年の正月、ふと僕に會ひて「死相がある」と言ひし人ありしが、まことにそんな顏をしてをりしなるべし。
の前半部を引用されて、起句の「買酒窮途哭」の評言は『この記述を思わせる』と述べておられる。一般的には龍之介の神経衰弱の原因の一つは、大正十(一九二一)年三月末から七月中旬迄の四ヶ月に亙る大阪毎日新聞社海外特派員としての中国旅行後の、過剰にして無理な創作活動に原因したとも言われている。邱氏は続けて言う。
《引用開始》
……芥川にとって、阮籍、陶淵明らに代表される中国古典の世界がいかに重要であったかが想像されよう。人間の強欲により、中国と日本のとの間に悲惨な戦争が起り、芥川も永遠に自己の精紳の故郷を喪失した。「窮途」で慟哭した芥川はついに自殺を決するに至るのである。二十一世紀に入った今日でも、この詩を読むと芥川の純粋で一途な魂の同国がいまだに荒野に響いているように思われてならない。
《引用終了》
なお、震災からその直後の芥川龍之介の感懐については青空文庫所収の芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際して」を参照されたい。但し、これは筑摩書房全集類聚版によるもので、恐らくは作品集「百艸」に載った震災関連作品を一つにし、上記のような題名を誰か(芥川龍之介ではない)が勝手に作成したものと考えられ(但し、閑連作品を総覧出来る便宜は頗るよい)、岩波版旧全集及び宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)にはこのような題名は所載していないことを付記しておく。]
またまた愚昧な知事が傷だらけの清盛に塩を塗り込んで喜んでいるのを見て、首長がこれだから学校のイジメはなくならんと、暗澹たる気分になって――「井戸敏三 バカ」で検索を掛けてみたら……これ! 実に! 溜飲が下がる記事を見つけた!
ブログ「黒田英雄の安輝素日記」の「№1948 虫が蠢く~バカ知事井戸敏三~」
一年近く前の記事であるが――この歌人であられるらしい御仁……実に僕の魂に似ているという気がする……是非、お読みあれ!
○諸將連署して梶原長時を訴ふ
同十月下旬の比、結城(ゆふきの)七郎朝光(ともみつ)御殿の侍所に伺公(しこう)の折から、傍輩(ぼうはい)の輩(ともがら)に語りけるは、「古(いにしへ)より書(かき)傳へたる言葉にも忠臣は二君(じぐん)に仕へずと云へり。普く人口に膾炙して稚子嬰兒(ちしえうに)までも知りたる事ぞかし。我殊更に故賴朝卿の厚恩を蒙り、誠に有難き御憐愍(ごれんみん)の程身に餘りて忘るべからず。その上御近侍として、晝夜、朝暮(てうぼ)御前に伺公し、種々の御歎訓種々(しゆじゆ)の御教訓樣々の仰事(おほせごと)今に耳の底に殘り候なり。故殿御薨去の時節に御遺言おはしましけるあひだ、出家遁世せしめずして、後悔その限(かぎり)なし。この比の世間の有樣高きも卑(ひく)きも只薄氷を踐(ふ)むがごとし、危きかな」とて、懷舊の至(いたり)涙を流しければ、當座の諸侍(しよさふらひ)皆共に、「さもこそ」と計りにて打止(や)みぬ。梶原景時是(これ)を立聞(たちき)きて、賴家卿の御前に參り、讒訴しけるやう、「結城七郎朝光こそ、先代を慕(した)うて當時を誹(そし)り、忠臣は二君に仕へずとやらん申して、傍輩の人々にも、その心根を勸(すすめ)語る、是我が君の御爲内より亂す賊敵なり。かゝる者を宥置(なだめおか)れんは狼を養(やしな)うて愁(うれへ)を待つと申すべき歟。傍(かたはら)の輩(ともがら)を懲(こら)しの爲(ため)早く罪科を斷り給ふべし」とぞ勸めける。賴家卿聞給ひて「惡(にく)き朝光が詞(ことば)かな。己(おのれ)出家遁世したればとて、國家に於て何の爲にか事を闕(かく)べき。身の程を自讃して當代を誹る不覺人(ふかくにん)は、なかなかに是(これ)柱(はしら)を食(は)む蠹蟲(とちう)、稻を枯(から)す蟊賊(ほうぞく)なり。石の壺に召(めし)寄せ討て棄つべし」とぞ仰(おふせ)付けられける。近習(きんじゆ)の輩(ともがら)その用意に及ぶ所に、阿波局(あはのつぼね)とて女房のありけるが、結城には遁れざる一族なり、この事を聞(きき)付けて、潜(ひそか)に朝光に知(しら)せたり。朝光熟(つらつら)是を思案しけれども、如何にとも爲方(せんかた)なし。前(さきの)右兵衞尉義村は朝光と斷金(だんきん)の友なりければ、行(ゆき)向ふて案内す。義村出合ひて、「さて何事か候」と云ふ。朝光「さればこそ火急の事候。我(われ)亡父政光法師が遺跡(ゆいせき)は傳領(でんりやう)せずといへども、將軍家の恩賜として數(す)ヶ所の領主となる。その厚恩を思ふに山よりも高く海よりも深し。この故に徃事(わうじ)を慕ひて、一言を傍輩の中にして嘆傷(たんしやう)せしに、梶原景時讒訴の便(たより)を得て御前へ申し沈めしかば、忽(たちまち)に逆心(ぎやくしん)に處せられ、誅戮(ちうりく)を蒙らんとす。只今この事を知らせ候。如何(いかゞ)思慮をも廻(めぐら)して給(た)べ」と云ふ。義村聞きて、「縡(こと)既に重く甚(はなはだ)危急に迫れり。殊(こと)なる計略にあらずは、禍(わざわひ)誠に攘難(はらひがた)からん歟。凡そ文治より以來(このかた)、景時が讒(ざん)に依て命を殞(おと)し、門(かど)を滅せし人勝(あげ)て計(かぞ)ふべからず。その中に又今に見存(ながらへ)てある輩も祖父親父(しんぷ)、子孫に及びて愁(うれへ)を抱き、憤を含む事甚(はなはだ)多し。景盛も去ぬる比彼(かれ)が讒を以(もつ)て既に誅せらるべきを不思議に遁れて候。その積惡必ず賴家卿に歸(き)し奉らん事疑(うたがひ)なし。世の爲(ため)君の爲彼を對治(たいじ)せずはあるべからず。但し弓箭(きうせん)の勝負を決せば、邦國(ほうこく)の騷亂を招くに似たり。宿老等(とう)に談合すべし」とて、和田左衞門尉、足立藤九郎入道を呼びてこの事を語る。兩人聞も敢(あへ)ず、早く同心連署(れんじよ)の狀を以て將軍家に訴へ、若(もし)彼(かの)讒者を賞して御裁許なくば、直に死生(ししやう)を爭ふべきなりとて、前右京(の)進仲業(なかなり)は文筆の譽(ほまれ)ありとて呼(よび)寄せて語る。是も景時に宿意ありければ、手を撲(うつ)て喜び、軈(やが)て訴狀を書認(かきしたゝめ)しに、千葉常胤、三浦羲澄、同義村、畠山重忠、小山朝政、同朝光、足立遠元、和田義盛、同常盛、比企能員、所(ところ)右衞門尉朝光、民部丞行光、葛西淸重、小田知重、波多野忠綱、大井實久、澁谷高重、山内經俊、宇都宮賴綱、榛谷(はんがへの)重朝、安達盛長入道、佐々木盛綱人道、稻毛重成入道、藤九郊景盛、若狹兵衞尉忠季、岡崎義實入道、土屋義淸、東(とうの)平太重胤、千葉胤正、土肥先(のせん)次郎惟光、河野通信、曾我祐綱、二(の)宮四郎、長江四郎、諸(もろの)次郎、天野遠景入道、工藤行光、右京進仲業以下の御家人六十六人、鶴ヶ岡の廻廊に集會して、一味同意の連判をぞ致しける。その訴狀の中に「鷄(にはとり)を養(か)ふ者は狸(たぬ)を畜(か)はず、獸(けもの)を牧(か)ふ者は犲(やまいぬ)を育(やしな)はず」と書きたり。義村この句を感ずとかや。小山五郎宗政は姓名(しやうみやう)を載せながら判形を加へず、舍弟朝光が事を慮(おもんぱか)る所なり。和田左衞門尉義盛、三浦兵衞尉義村之を持參して、因幡前司廣元に付けたり。廣元連署の訴狀を請取り、暫く思案しけるは、「景時佞奸(ねいかん)の讒に於ては右右陳謝するに所なし。さりながら故將軍賴朝卿に眤近(じつきん)の奉公を勤む。今忽に罪科せられんは如何あらん。潜(ひそか)に和平の義を廻さん」と猶豫(いうよ)未だ決せずして披露するに及ばず、和田左衞門尉御所に參會して廣元に近(ちか)付きて申しけるは、「彼の狀定(さだめ)て披露候か。御氣色如何候」と。廣元「いまだ申さず」と答ふ。義盛居直り、目を瞋(いから)して「貴殿は關東御政道の爪牙股肱(さうげここう)、耳目(じぼく)の職に居(ゐ)て、多年を經給へり。景時一人の權威に恐れて、諸將多輩(たはい)の鬱胸(うつきよう)を閣(さしお)かるゝ條、寧(むしろ)憲法(けんはう)の掟(おきて)に契(かな)はんや」といひければ、廣元打(うち)笑ひて、「全く怖るゝ所なし。只彼(かの)滅亡を痛(いたは)り、同くは和平の義を調へんと思ふ故にて候」と申されしかば、義盛愈(いよいよ)怒(いかり)をなし、傍(そば)近く居寄(ゐよつ)て、「怖(おそれ)なくば、何ぞ數日を過し給ふぞ。披露せらるべきか否や、只今承り切るべし」と云ふ。廣元「この上は申し上くべし」とて座を立ちつゝ賴家卿に見せ奉れば、即ち景時に下されたり。景時更に陳謝すべき道なくして、子息親類を相倶し、相州一宮に下向す。然れども三郎景茂は暫く鎌倉に留めらる。その比(ころ)賴家卿は比企六衞門尉能員が宅(いへ)に渡御あり。南庭に於て御鞠(おんまり)を遊(あそば)しける。北條五即時連(ときつら)、比企彌四郎、富部(とべの)五郎、細野四郎、大輔房源性(げんしやう)、御詰(おんつめ)に參らる。その後御酒宴(ごしゆえん)に及びて、梶原三郎兵衞尉景茂御前に候(こう)ず。右京進仲業銚子(てうし)を取りて座にあり。賴家卿即ち景茂を召して、「近日、景時、權威を振ふの餘(あまり)、傍若無人の有樣なりとて、諸人一同に連判の訴狀を上げたり。仲業その訴狀の執筆を致しけるぞ」と宣ふ。景茂申しけるは「景時は故殿の寵臣として今はその芳躅(はうしよく)なき上は何(いづれ)の次(ついで)に非義を行ふべき。仲業が翰墨(かんぼく)は只諸人の誡(いましめ)を記せるなるべし」と事もなげに申しければ、聞人皆御返事の神妙(しんべう)なる事を感じける。賴家卿斯程(かほど)まで慮(おもんぱかり)の拙(つたな)くおはします故に、國主の器量は葉(は)よりも薄く、政道の智惠は闕果(かけは)て給ひ、只常々は遊興を事とし、鞠(まり)の友十餘人歌の友十餘人この外には近仕(きんじ)する人是(これ)なし。諸將、諸侍、次第に疎くなり、言語(げんぎよ)、行跡(かうせき)非道なるを見聞き奉りて、上を輕しむる故によりて、かゝる珍事は起出(おこりい)でたる。猶是より行末は又いかゞあるべきと賴なくこそ覺えける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年十月二十五日・二十七日・二十八日、十一月十日・十二日・十三日などの記事に基づく。前話に続いて源頼家の暗愚を徹底的に剔抉する。順に「吾妻鏡」を見よう(今回は「北條九代記」の筆者の効果的なシナリオ化を学んで会話文を改行し、直接話法の末の訓読を恣意的に変更してある)。
《発端》
〇原文
廿五日甲申。晴。結城七郎朝光於御所侍。稱有夢想告。奉爲幕下將軍。勸人別一萬反彌陀名號於傍輩等。各擧而奉唱之。此間。朝光談于列座之衆云。吾聞。忠臣不事二君云々。殊蒙幕下厚恩也。遷化之刻。有遺言之間。不令出家遁世之條。後悔非一。且今見世上。如踏薄氷云々。朝光。右大將軍御時無双近仕也。懷舊之至。遮而在人々推察。聞者拭悲涙云々。〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日甲申。晴る。結城七郎朝光、御所の侍(さむらひ)に於いて、夢想の告有りと稱し、幕下將軍の奉爲(おんため)に、人別一萬反(にんべついちまんべん)の彌陀の名號を傍輩等に勸む。各々擧(こぞ)つて之を唱へ奉る。此の間、朝光、列座の衆に談じて云はく、
「吾、聞く、忠臣は二君に事(つか)へず。と云々。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化の刻(きざみ)、遺言有るの間、出家遁世せめしざるの條、後悔、一(いつ)に非ず。且つは今、世上を見るに、薄氷を踏むがごとし。」
と云々。
朝光、右大將軍の御時、無双の近仕(きんじ)なり。懷舊の至り、遮(さいぎ)つて人々の推察に在り、聞く者、悲涙を拭(のご)ふと云々。
・「結城七郎朝光」「賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート2〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉」に既注済。当時は満三十一歳で、先に記したように、彼は建久元(一一九〇)年に奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定に参加して以後は梶原景時(本事件当時は五十前後)と並ぶ故頼朝の側近中の側近として自他ともに認めた栄誉を担う人物であった。
・「人別一萬反」各人一人ひとりが一万遍、南無阿弥陀仏と念仏を唱えること。
《景時の讒訴》
〇原文
廿七日丙戌。晴。女房阿波局告結城七郎朝光云。依景時讒訴。汝已擬蒙誅戮。其故者。忠臣不事二君之由令述懷。謗申當時。是何非讐敵哉。爲懲肅傍輩。早可被断罪之由。具所申也。於今者。不可遁虎口之難歟者。朝光倩案之。周章斷膓。爰前右兵衞尉義村。与朝光者断金朋友也。則向于義村亭。有火急事之由示之。義村相逢。朝光云。予雖不傳領亡父政光法師遺跡。仕幕下之後。始爲數ケ所領主。思其恩。高於須彌頂上。慕其往事之餘。於傍輩之中。申忠臣不事二君由之處。景時得讒訴之便。已申沈之間。忽以被處逆惡。而欲蒙誅旨。只今有其告。謂二君者。不依必父子兄弟歟。 後朱雀院御惱危急之間。奉讓御位於東宮〔後冷泉〕御。以後三條院被奉立坊。于時召宇治殿。被仰置兩所御事。於今上御事者。承之由申給。至東宮御事者。不被申御返事云々。先規如此。今以一身之述懷。強難被處重科歟云々。義村云。縡已及重事也。無殊計略者。曾難攘其災歟。凡文治以降。依景時之讒。殞命失職之輩不可勝計。或于今見存。或累葉含愁憤多之。即景盛去比欲被誅。併起自彼讒。其積悪定可奉皈羽林。爲世爲君不可有不對治。然而决弓箭勝負者。又似招邦國之亂。須談合于宿老等者。詞訖。遣專使之處。和田左衞門尉。足立藤九郎入道等入來。義村對之。述此事之始中終。件兩人云。早勒同心連署狀。可訴申之。可被賞彼讒者一人歟。可被召仕諸御家人歟。先伺御氣色。無裁許者。直可諍死生。件狀可爲誰人筆削哉。義村云。仲業有文筆譽之上。於景時插宿意歟。仍招仲業。仲業奔來。聞此趣。抵掌云。仲業宿意欲達。雖不堪。盍勵筆作哉云々。群議事訖。義村勸盃酌。入夜。各退散云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日丙戌。晴。
女房阿波局(あはのつぼね)、結城七郎朝光に告げて云はく、
「景時の讒訴に依つて、汝、已に誅戮を蒙らんと擬す。其の故は、
『忠臣二君に事へざるの由述懷せしめ、當時を謗(そし)り申す。是れ、何ぞ讐敵(しうてき)に非ざらんや。傍輩を懲肅(ちようしゆく)せんが爲に、早く断罪にせらるべし。』
との由、具さに申す所なり。今に於ては、虎口の難を遁るべからざるか。」
てへれば、朝光、倩(つらつら)之を案じ、周章、膓(はらわた)を断つ。爰に前右兵衞尉義村、朝光とは斷金の朋友なり。則ち、義村が亭に向ひ、火急の事有るの由、之を示す。義村に相ひ逢ひ、朝光云はく、
「予は亡父政光法師の遺跡を傳領せずと雖も、幕下に仕ふるの後、始めて數ケ所の領主と爲る。其の恩を思へば、須彌(しゆみ)の頂上よりも高し。其の往事を慕ふの餘り、傍輩の中に於いて、忠臣二君に事へざるの由を申すの處、景時、讒訴の便りを得、已に申し沈むるの間、忽ち以つて逆惡に處せられて、誅を蒙らんと欲すの旨、只今、其の告げ有り。二君と謂ふは、必ずしも父子兄弟に依らざるか。後朱雀院の御惱危急の間、御位を東宮〔後冷泉。〕に讓り奉り御(たま)ひ、後三條院を以つて立坊し奉らる。時に宇治殿を召され、兩所の御事を仰せ置かる。今上の御事に於いては、承るの由、申し給ふ。東宮の御事に至りては、御返事申されず、と云々。先規、此くの如し。今一身の述懷を以つて、強(あなが)ちに重科に處せられ難からんか。」
と云々。
義村云はく、
「縡(こと)已に重事に及ぶなり。殊なる計略無くんば、曾て其の災を攘(はら)ひ難からんか。凡そ文治以降、景時の讒に依つて、命を殞(おと)し職を失ふの輩、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。或ひは今に見存(げんぞん)し、或ひは累葉(るいえふ)、愁憤を含むは、之れ多し。即ち、景盛、去ねる比、誅せられんと欲す。併(あは)せて彼(か)の讒より起る。其の積悪、定めて羽林に皈(き)し奉るべし。世の爲、君の爲に對治せずんば有るべからず。然れども、弓箭(きうせん)の勝負を决せば、又邦國の亂を招くに似たり。須らく宿老等に談合すべし。」
てへれば、詞、訖りて、專使を遣はすの處、和田左衞門尉、足立藤九郎入道等、入り來る。義村、之に對し、此の事の始中終(しちゆうじゆう)を述ぶ。件の兩人云はく、
「早く同心の連署狀を勒(ろく)し、之を訴へ申すべし。彼の讒者一人を賞せらるべきか。諸御家人を召仕はらるべきか。先づ御氣色を伺ひて、裁許無くんば、直(すぐ)に死生(ししやう)を諍(あらそ)ふべし。件の狀、誰人(たれひと)の筆削(ひつさく)たるべきや。」
と。義村云はく、
「仲業(なかなり)、文筆の譽れ有るの上、景時に於いて宿意を插(さしはさ)むか。」
と。仍つて仲業を招く。仲業、奔り來つて、此の趣きを聞き、掌を抵(う)つて云はく、
「仲業が宿意を達せんと欲す。不堪(ふかん)と雖も、盍(なん)ぞ筆作を勵まざらんや。」
と云々。
群議、事訖りて、義村、盃酌を勸め、夜に入り、
各々退散すと云々。
・「阿波局」北条政子の妹で源実朝の乳母、頼朝の異母弟阿野全成(後、頼家と対立した北条方に組みしたため、建仁三(一二〇三)年五月、頼家の命によって謀反人として捕縛殺害された)の妻。
・「懲肅」こらしめいましめること。
・「斷金の朋友」金をも断ち切るほど硬い友情。「易経」の「繋辞 上」の「二人心を同じうすれば、其の利(と)きこと、金を断つ」に基づく。
・「予は亡父政光法師の遺跡を傳領せずと雖も、幕下に仕ふるの後、始めて數ケ所の領主と爲る」彼の父太田(小山)政光は下野国国府周辺の小山荘に住し、小山氏の祖となって広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていたが、その遺跡は兄朝政が継いでいる。朝光は既に見てきたように阿津賀志山の戦いで敵将金剛別当を討ち取るなどの活躍を見せ、その功によって奥州白河三郡が与えられている。因みに彼の後妻で三男であるこの朝光の母寒河尼は頼朝の乳母で、朝光は実は頼朝の落胤という俗説さえもある。
・「讒訴の便りを得、已に申し沈むるの間」景時は讒訴するに絶好の機会と心得、そのまま直ちに粛清するよう、頼家様に申し上げたがために。
・「後朱雀院の御惱危急の間、御位を東宮〔後冷泉。〕に讓り奉り御ひ、後三條院を以つて立坊し奉らる。時に宇治殿を召され、兩所の御事を仰せ置かる。今上の御事に於いては、承るの由、申し給ふ。東宮の御事に至りては、御返事申されず、と云々」「宇治殿」は藤原頼通(道長長男)で、後朱雀天皇・後冷泉天皇の二代に亙って関白を勤めたが(構造上は後朱雀の生前の「命」があったから子後冷泉には連続した「一君の命」としての忠誠で仕えたが、三代目の予定の立太子である「二君」までは感知しなかったということで、「二君に仕えず」ということか)、晩年は失意のうちに失脚、彼とは対抗勢力にあった後三条天皇(後冷泉天皇異母弟)が即位し、宇多天皇以来一七〇年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇となって藤原摂関家は衰退へと向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移っていった(以上は主にウィキの「藤原頼通」に拠った)。
・「強ちに重科に處せられ難からんか」無理矢理、重い罰に処せられるというのは、これ、どうみても理不尽で、出来ない相談、有り得ぬ話ではないか。
・「累葉」子孫。
・「勒し」書き記す。
・「仲業」中原仲業(生没年不詳)。幕府吏僚。鎌倉幕府に参じた京下り官人。建久二(一一九一)年の前右大将家政所開設記事の公事奉行人の項に名が見える。中原親能の家人であり、前年の源頼朝上洛をきっかけに下向したのであろう。主に文筆をもって仕え、政所職員として政所発給文書の執筆や地方巡検の使節などを務めた。頼朝以降も政所に伺候し、頼家の政所始には吉書を清書、実朝の代には問注所寄人も兼ねた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。彼が景時に遺恨を抱いていたとあるが、その具体な理由は不明。
「蠹蟲(とちう)」木食い虫。鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属するキクイムシ類などの、木材穿孔性の食害虫類(成虫や幼虫)を指す通称。
「蟊賊(ほうぞく)」根切り虫。鱗翅(チョウ)目ヤガ(野蛾)科 Noctuidae に属するカブラヤガやタマナヤガなどの幼虫の総称としてあるが、ここでは広く、そうした農作物の根や茎の食害虫類(成虫や幼虫)を指す通称。
「石の壺」御所内の北にあった部屋の名。
「結城には遁れざる一族なり」結城朝光とは深い縁のある一族である、の謂いだが、具体的にどのような縁戚関係にあったのか、調べてみたものの私にはよく分からない。識者の御教授を乞うものであるが、寧ろ、これは梶原氏の勢力の排除を目論んでいたと思しい北条時政已下の幕府内の対抗勢力による、芝居仕立ての筋書きの臭いが、いや濃厚である。
《景時弾劾状六十六人連判》
〇原文
廿八日丁亥。晴。巳剋。千葉介常胤。三浦介義澄。千葉太郎胤正。三浦兵衞尉義村。畠山次郎重忠。小山左衞門尉朝政。同七郎朝光。足立左衞門尉遠元。和田左衞門尉義盛。同兵衞尉常盛。比企右衞門尉能員。所右衞門尉朝光。民部丞行光。葛西兵衞尉淸重。八田左衞門尉知重。波多野小次郎忠綱。大井次郎實久。若狹兵衞尉忠季。澁谷次郎高重。山内刑部丞經俊。宇都宮彌三郎賴綱。榛谷四郎重朝。安達藤九郎盛長入道。佐々木三郎兵衞尉盛綱入道。稻毛三郎重成入道。藤九郎景盛。岡崎四郎義實入道。土屋次郎義淸。東平太重胤。土肥先次郎惟光。河野四郎通信。曾我小太郎祐綱。二宮四郎。長江四郎明義。諸二郎季綱。天野民部丞遠景入道。工藤小次郎行光。右京進仲業已下御家人。群集于鶴岡廻廊。是向背于景時事一味條。不可改變之旨。敬白之故也。頃之。仲業持來訴状。於衆中。讀上之。養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。義村殊感此句云々。各加署判。其衆六十六人也。爰朝光兄小山五郎宗政雖載姓名。不加判形。是爲扶弟危。傍輩皆忘身。企此事之處。爲兄有異心之條如何。其後。付件狀於廣元朝臣。和田左衞門尉義盛。三浦兵衞尉義村等持向之。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日丁亥。晴る。巳の剋。千葉介常胤・三浦介義澄・千葉太郎胤正・三浦兵衞尉義村・畠山次郎重忠・小山左衞門尉朝政・同七郎朝光・足立左衞門尉遠元・和田左衞門尉義盛・同兵衞尉常盛・比企右衞門尉能員・所右衞門尉朝光・民部丞行光・葛西兵衞尉淸重・八田左衞門尉知重・波多野小次郎忠綱・大井次郎實久・若狹兵衞尉忠季・澁谷次郎高重・山内刑部丞經俊・宇都宮彌三郎賴綱・榛谷四郎重朝・安達藤九郎盛長入道・佐々木三郎兵衞尉盛綱入道・稻毛三郎重成入道・藤九郎景盛・岡崎四郎義實入道・土屋次郎義淸・東平太重胤・土肥先次郎惟光・河野四郎通信・曾我小太郎祐綱・二宮四郎・長江四郎明義・諸二郎季綱・天野民部丞遠景入道・工藤小次郎行光・右京進仲業已下の御家人、鶴岡の廻廊に群集(ぐんじゆ)す。是れ、景時に向背(きやうはい)する事一味するの條、改變すべからずの旨、啓白(けいびやく)するが故なり。頃之(しばらくあ)つて、仲業、訴狀を持ち來り、衆の中に於いて、之を讀み上ぐる。
「鷄(にはとり)を養(やしな)ふ者は狸(たぬき)を畜(か)はず。獸(けもの)を牧(か)ふ者は豺(やまいぬ)を育(やしな)はず。」
の由、之を載す。義村、殊に此の句に感ずと云々。
各々署判を加ふ。其の衆六十六人なり。爰に朝光の兄小山五郎宗政、姓名を載すと雖も、判形(はんぎやう)を加へず。是れ、弟の危きを扶けんが爲に、傍輩、皆、身を忘れ、此の事を企てるの處、兄として異心有るの條はこれ、如何(いかん)。其の後、件の狀を廣元朝臣に付す。和田左衞門尉義盛・三浦兵衞尉義村等、之を持ち向ふ。
[やぶちゃん注:六十六人としながら三十九名の名しか載らない。また、「北條九代記」では何故か千葉胤正の位置が、ずっと後の東平太重胤の後にある。人数も含めて、気になるといえば気になるのである。]
「小山五郎宗政は姓名を載せながら判形を加へず、舍弟朝光が事を慮る所なり」という叙述は、「吾妻鏡」とは正反対の叙述である。長沼宗政(姓は下野国長沼荘(現在の栃木県真岡市)を領したことに始まる)は結城朝光(姓は下総の結城したことに始まる)の実兄(ともに小山政光の子)であるが、「吾妻鏡」ではにも拘らず花押を押さなかったことを厳しく批判しているのに対し、ここではそれは逆に弟朝光のことを思いやってのこと、と述べているのである。しかし、何故、それが思いやりになるのか、やや分かり難い。親族だからこそ冷静な立場から、他の連中と違ってやや中立的立場を守って、いざ事態が逆転した際には小山の血脈を守ろうとしたといった謂いか? しかしだとすると、次の次の「勝木七郎生捕らる 付 畠山重忠廉讓」の最後で糞味噌に言われたままになっている(筆者もいいぱなしにしている)のはすこぶるおかしい気がするのである。私は筆者が「是れ、弟の危きを扶けんが爲に、傍輩、皆、身を忘れ、此の事を企てるの處、兄として異心有るの條はこれ、如何。」という批判を「弟」「兄」の叙述から誤読したのではあるまいかと秘かに疑っている。
《大江広元の連署状上達躊躇》
〇原文
十日戊戌。晴。兵庫頭廣元朝臣雖請取連署狀。〔訴申景時狀。〕心中獨周章。於景時讒侫者雖不能左右。右大將軍御時親致昵近奉公者也。忽以被罪科。尤以不便條。密可廻和平儀歟之由。猶豫之間。未披露之。而今日。和田左衛門尉與廣元朝臣。參會御所。義盛云。彼狀定披露歟。御氣色如何云々。答未申之由。義盛瞋眼云。貴客者爲關東之爪牙耳目。已歷多年也。怖景時一身之權威。閣諸人之鬱陶。寧叶憲法哉云々。廣元云。全非怖畏之儀。只痛彼損亡許也云々。義盛居寄件朝臣之座邊。不恐者爭可送數日乎。可被披露否。今可承切之云々。殆及呵責。廣元稱可申之由。起坐畢。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日戊戌。晴る。兵庫頭廣元朝臣、連署狀〔景時を訴へ申すの狀。〕を請け取ると雖も、心中、獨り周章す。
『景時の讒侫(ざんねい)に於いては左右(さう)に能はずと雖も、右大將軍の御時、親(まのあた)りに昵近(ぢつきん)の奉公致す者なり。忽ち以つて罪科にせられんこと、尤も以つて不便の條、密かに和平を廻らすべきか。』
の由、猶豫(いうよ)の間、未だ之を披露せず。而るに今日、和田左衛門尉と廣元朝臣と、御所に參會す。義盛云はく、
「彼の狀、定めて披露するか。御氣色は如何(いかん)。」
と云々。
答へ未だ申さずの由、義盛、眼を瞋(いか)らして云はく、
「貴客は關東の爪牙耳目(さうがじもく)として、已に多年を歷(ふ)るなり。景時一身の權威を怖れ、諸人の鬱陶(うつたう)を閣(さしお)くは、寧(いずくん)ぞ憲法(けんぱふ)に叶はんや。」
と云々。
廣元云はく、
「全く怖畏(ふい)儀に非ず。只だ彼(か)の損亡を痛む許りなり。」
と云々。
義盛、件の朝臣の座邊に居寄(ゐよ)り、
「恐れずんば、爭(いかで)か數日(すじつ)を送るべきか。披露せらるべきや、否や、今、之を承り切るべし。」
と云々。
殆んど呵責(かしやく)に及ぶ。廣元、申すべきの由を稱し、坐を起ち畢んぬ。
《連署状上達と景時への申し開きの下知》
〇原文
十二日庚子。晴。廣元朝臣持參件連署申狀。中將家覽之。即被下景時。可陳是非之由被仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日庚子。晴る。廣元朝臣、件の連署申狀(まうしじやう)を持參す。中將家、之を覽(み)、即ち景時に下され、是非を陳ずべきの由、仰せらると云々。
・「爪牙耳目」爪や牙となり耳や目となって身を輔弼けるところの臣。
・「憲法」掟。ここは「道理」でよいであろう。
《景時黙秘し、所領一宮へ下向》
〇原文
十三日辛丑。陰。梶原平三景時雖下給彼状。〔訴状〕不能陳謝。相卒子息親類等。下向于相摸國一宮。但於三郎兵衞尉景茂。暫留鎌倉云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日辛丑。陰る。梶原平三景時、彼(か)の状〔訴状。〕を下し給はると雖も、陳謝に能はず、子息親類等を相ひ卒いて、相摸國一宮に下向す。但し、三郎兵衞尉景茂に於いては、暫く鎌倉に留まると云々。
《頼家の蹴鞠の宴での出来事》
〇原文
十八日丙午。晴。中將家渡御比企右衞門尉能員宅。於南庭有御鞠。北條五郎時連。比企彌四郎。富部五郎。細野四郎。大輔房源性等候之。其後御酒宴之間。梶原三郎兵衞尉景茂候御前。又右京進仲業取銚子同候。羽林召景茂。仰云。近日景時振權威之餘。有傍若無人之形勢。仍上諸人一同訴狀。仲業即爲訴狀執筆也云々。景茂申云。景時。先君之寵愛。殆雖越傍人。於今無其芳躅之上者。以何次可行非儀乎。而愼仲業之翰墨。軼怖諸人之弓箭云々。列坐傍輩。景茂御返事趣神妙之由。密談云々。羽林今夜御逗留也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十八日丙午。晴る。中將家、比企右衞門尉能員の宅へ渡御、南庭に於いて御鞠(おんまり)有り。北條五郎時連・比企彌四郎・富部五郎・細野四郎・大輔房源性等、之に候ず。其の後、御酒宴の間、梶原三郎兵衞尉景茂、御前に候ず。又、右京進仲業、銚子を取り同じく候ず。羽林、景茂を召し、仰せて云はく、
「近日、景時權威を振ふの餘り、傍若無人の形勢有り。仍て諸人一同、訴狀を上ぐ。仲業、即ち、訴狀の執筆(しゆひつ)たるなり。」
と云々。
景茂、申して云はく、
「景時、先君の寵愛、殆んど傍人を越ゆと雖も、今に於いては其の芳躅(はうちよく)無きの上は、何の次(ついで)を以つて非儀を行ふべけんや。而るに仲業の翰墨(かんぼく)を愼(つつし)み、軼(たが)ひに諸人の弓箭(きうせん)を怖る。」
と云々。
列坐の傍輩、景茂が御返事の趣き神妙の由、密談すと云々。
羽林、今夜、御逗留なり
・「芳躅」先人の業績・行跡を讃えていう語。
・「非儀」非道な所行。
・「仲業の翰墨を愼み」連署状の仲業の文章は誠に謹み深く穏やかに書かれてあり、の謂いか。「養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。」をさえ、かく論ずれば、これはもう、私でさえその場にあれば「景茂が御返事の趣き神妙」と感嘆するであろう。]
四十二
又云、裘荷(きうか)・籠負(ろうふ)など執しあひたるは、彼(かれ)を用(もちゆ)る本意(ほい)をしらざる也。あひかまへて、今生(こんじやう)は一夜のやどり、夢幻(ゆめまぼろし)の世、とてもかくてもありなむと、眞實に思ふべきなり。生涯をかろくし、後世をおもふ故、實(まこと)にはいきてあらんこと、今日ばかり、たゞいまばかりと眞實に思ふべきなり。かくおもへば、忍(しのび)がたきこともやすく忍ばれて、後世のつとめもいさましき也。かりそめにも、一期(いちご)を久からむずる樣にだに存じつれば、今生の事おもくおぼえて、一切の無道心のこと出來(いでくる)也。某(それがし)は二十餘年、此(この)理(ことわり)もて相助(あひたすけ)て、今日まで僻事(ひがこと)をしいださざるなり。今年ばかりかとまでは思しかども、明年(みやうねん)までとは存ぜざりき。今は老後也。よろづはたゞ今日ばかりと覺(おぼゆ)る也。出離(しゆつり)の詮要(せんえう)、無常を心にかくるにある也。
〇裘荷、つゞら、かはごのたぐひ。
〇籠負、竹のかごの笈(おひ)なり。修行者の負ひまはるものなり。
〇忍がたきことも、新拾遺の歌に、世のうさもいかばかりかはなげかれん、はかなきゆめとおもひなさずば。新續古今に、是もまたありてなき世と思ふをぞ、うきをりふしのなぐさめにする。兼好家集に、うきこともしばしばかりの世の中を、いくほどいとふわが身なるらん。
[やぶちゃん注:「彼を用る本意をしらざる也」それをどのような目的で用いるのかという本来の意味を分かっていないのである、の意。無論、言わずもがなである。只管、念仏をするため、只管、速やかな極楽往生を「する」ためにのみ、それらは「在る」のである。即ち、「今生は一夜のやどり、夢幻の世」を生きる「便(よすが)のため」に、では、ない。「今生は一夜のやどり、夢幻の世」であることを自覚するためにこそ、ためだけに、それらは「在る」、と敬仏房は謂うのであろう。
「夢幻の世」Ⅱの大橋氏の脚注によれば、「一言芳談句解」には、
ほとけは如露電と説給ひ、一生は唯一そく(息)きたらざれば、死につく事、めのまへの境也。まことにいみじき位に職し、寶心にしたがひしも、かぎり有て、それより年ふりしは、碑の銘きえて、苔のしづく所也き。はては木はたき木、地は畑となる事、いにしへいまはからざりき。とにかくたのむましきは此身、住はてぬはうき世。はてぬこそたのもしなんど、おもふ人はまれなれ。しかし無常もよくよくみれば常にて、つねといへばはやうつり行無常、所詮夢幻の世
とあると記す(引用に際して正字化し、踊り字「〱」は正字に直した)。
「生涯をかろくし、後世をおもふ故、實にはいきてあらんこと」Ⅰでは、
後世をおもふ故實には、生涯をかろくし、生きてあらんこと、
とある。また、大橋氏脚注によれば、「続群書類従」第二十八輯下に所収する版本では、
生涯をかろく後世をおもふ故、實にはいきてあらんこと
とあるとする旨の記載がある。文意は変わらないがⅠの「故實」は、敬仏房の直談の法語としては、私は生硬に思われる。
「いさましき也」心が奮い立つのである。
「一期を久からむずる樣にだに存じつれば」生死の一期――命――というものが永遠に続くもののように思ってしまっただけで。
「僻事」道理に外れたこと。
「今年ばかりか」「明年まで」「今日ばかり」総て主体は隠されており、勿論、総て「己が命」である。
「出離の詮要」生死出離の肝心な大事の意。生死の相対世界の煩悩を離脱し、常住涅槃の境に入ること。
「世のうさもいかばかりかはなげかれん、はかなきゆめとおもひなさずば」国際日本文化研究センター和歌データベース「新拾遺和歌集」の00866番に番外作者として以下の標記で載る。
よのうさも いかはかりかは なけかれむ はかなきゆめと おもひなさすは
「是もまたありてなき世と思ふをぞ、うきをりふしのなぐさめにする」国際日本文化研究センター和歌データベース「続新古今和歌集」の01933番に式子内親王の歌として以下の標記で載る。
これもまた ありてなきよと おもふをそ うきをりふしの なくさめにする
「うきこともしばしばかりの世の中を、いくほどいとふわが身なるらん」国際日本文化研究センター和歌データベース「兼好法師集」の00232番に番外作者として以下の標記で載る。
うきことも しはしはかりの よのなかを いくほといとふ わかみなるらむ
私は以上の三つの歌集本を所持しないので以上以外には注すべき私の側の内実を持たない。悪しからず。]
三十一
山徑誰相問
開窓山色靑
山頭雲不見
山際一游亭
〇やぶちゃん訓読
山徑(さんけい) 誰(たれ)か相ひ問ふ
窓を開けば 山色 靑し
山頭 雲 見えず
山際(さんさい) 一游亭
[やぶちゃん注:龍之介満三十歳。これ以前、大正一〇(一九二一)年の三月末から初夏にかけて毎日新聞特派員としての念願であった中国旅行を終えている。そこで龍之介は「多くの大陸の実相を見、感懐を得、それは「上海游記」(同年八月~九月)・「江南游記」(翌大正一一年一月~二月)・「長江游記」(大正一一年二月)・「北京日記抄」(大正一四(一九二五)年六月)・「雜信一束」(大正一四(一九二五)年十一月)といった中国紀行文集「支那游記」に結実したが、同時に、この旅は龍之介の肉体と精神を著しく消耗させ、結果として死期を早めさせた遠因の一つにも数えられている。作家としては、円熟期に入り、多くの作品集刊行と、この大正一一年一月の「藪の中」・「俊寛」・「将軍」・「神々の微笑」、三月の「トロツコ」など、数々の新たな試みを施した名作群を生み出している。但し、大正一〇年の中国旅行後は、下痢や神経衰弱に悩まされ、同年末には睡眠薬をなしには眠れない状況に陥っている。それにはまた、「藪の中」のモデルともなった、秀しげ子が弟子格の南部修太郎とも関係を持っていたことが露見するというショッキングな私生活での変事にも起因している(龍之介の中国旅行決断の動機の一つは、彼にとってストーカー的な淫女として変貌し始めていたしげ子から距離をおくためであったとする見方もある。南部との三角関係は私の電子テクスト「我鬼窟日錄 芥川龍之介 附やぶちゃんマニアック注釈」の注釈を参照されたい)。
本詩は、
大正一一(一九二二)年四月二十四日附小穴隆一宛(岩波版旧全集書簡番号一〇二四)
に所載する。なお、龍之介はこの翌日から翌五月一杯、京都を経由した長崎再訪の旅に出ている。
「一游亭」は四阿(あずまや)であるが、同時に小穴の俳号でもある。即ち、本詩は彼へ、一時の旅の離別への挨拶の戯詩である。]
四十一
敬佛房云、遁世者は、なに事もなきに、事闕(かけ)ぬ樣(やう)をおもひつけ、ふるまひつけたるがよきなり。
〇なにごとも、人も道具もありあひにすべきなり。衣食住もありあひがよきなり。物をもてあそべば志をうしなふ。無ければ、なかなか心やすきなり。
[やぶちゃん注:これは短いが、本文は分かり難い。標註がそれを解いて如何にも分かり易いように見えるが……いや、これ、なかなか……この湛澄の在り合せで済ませなさいという解は、後に見る兼好法師の解と全く同じく、現実に堕した偽解のように私には思われるのである。
「なに事もなきに」は、如何なる事態にあっても、それに対処するに足る「もの」が全くない場合でも、の意。
「事闕ぬ樣をおもひつけ」不足しているなどと不満を漏らすことなく、対処出来ぬと思うたものを用いて――いや、寧ろ対処するに足る何物も持たないという存在のままに――何としてもその事態に対処し、切り抜けることをのみ心掛けて、の意であろう。実際には無一物即無尽蔵なればこそ如何様にも対処出来るのだという悟りをこそ、ここでは述べているように私には思われる。
「ふるまひつけたる」常に平常心で振る舞うようにする。
なお、本条は、冒頭に示したように「徒然草」に引かれているのであるが、それは、
一、 遁世者は、なきにことかけぬやうをはかひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
とあって、引用ではなく、兼好流に解釈・変形したものなのである。これは本文の謂いとはかなり異なった印象を受ける。即ち、本文の核心にある、
――無一物即無尽蔵故の自在無礙(むげ)という物質的貧の中にこそある――無限の心の豊かさをこそ、理想とせよ――
という哲学を、兼好は、よりプラグマティックに「分かり易く変造」し、
……そのぅ、まあ、なんだ、な……物がないから不自由だ、なんて思ちゃあ、これ、いけないんだ、な……ともかくも、いろいろと使えそうなものをだな、これ、自分で工夫采配してだ、な……そうして、その、何とかしてだ、な、うまく自他を誤魔化してでも、だ……所謂、辻褄合わせをして、そのぅ、何でもいいから間に合わせをして、だわ……そんな風に人生、暮らすんが、これ、最上なんだと思うんだ、な……
と述べているのである。どこかの如何にもな立志伝中の経済界偉人の名言集に出るみたような「徒然草」のこの言葉は、私には、似非も似非、所謂、噴飯物にしか、これ、思われんのだ、な。……]
杜 戸
小壺村ノ東南ノ濱ニ小社アリ。三嶋明神ヲ勸請シタルト云。御當家四代ノ御朱印高七石アリ。祭禮ハ治承四年九月八日ニ賴朝勸請アリシ故ニ、今モ此日ヲ祭日トス。
神寶
猿田彦面 一ツ 運慶作
靑葉ノ笛ノ寫シ 一管
アコヵ小鼓筒 一ツ
[やぶちゃん注:「アコヵ」「阿古が」。但し、正しくは「阿古(あこう)」と読み、鼓胴作りの名工の名。初世の阿古は室町中期将軍義政の頃に在世した。]
駒角 一本
古證文 一通
〔文和二年六月廿六日、相模國葉山郷内オリ田云々平判トアリ。相傳テ和田義盛ガ狀ト云トナン。〕
證文 一通
下 婦神禰宜職、奧ニ暦應二年十二月十六日トアリ。婦神ト云ハ何ノ義ゾト社司ニ問へバ、社司モシラズ。只是ハ此神ノ名ナリト云。
[やぶちゃん注:「〔此ヲ二位尼ノ袖判ノ狀ト云。其文ニ云ク。〕」という割注は、底本では花押の下にある。以下に、「新編鎌倉志卷之七」の「杜戸明神」の条にある花押を以下に示しておく。
これはもう、花押としては全く別物という感じである。]
後鳥羽院々宣 一通
〔勅使左中辨則實トアリ。其内ニ嘉元々年守殿明神トアリ。又刑部少輔物部恆光ノ字アリ。守殿ト書テ、モリトヽヨムカ、又モリトノト云カ、未審ラズ。此院宣文字漫滅、紙巳ニ朽幣シテ、何事トモシレ難シ。〕
[やぶちゃん注:「朽幣」は「朽弊」の誤り。]
社ノ北ニ飛柏槇ト云樹アリ。三嶋ヨリ飛タルトテ岩ヨリ木へ倒レ懸リテアリ。社ノ西ニ千貫松、同ク南ニ腰懸松トテ、賴朝ノ憩タル木ト云。濱へ差出タル石ヲ高石ト云。高石ノ後ノ山ヲ心無(シンナシ)山ト云。御殿山・御城山ト云ハ所ノ總名ナリ。社ノ西ノ岩ニ、賴朝遊館ノ柱ノ穴アリ。賴朝ノ泉水トテ、岩間ニ淸キ所アリ。遊魚アリケルト云。左リ卷ノ采螺、昔ハアリシガ、今ハナシト也。若是ヲ取レバ神物也トテ、其僅海へ歸シ入ルト云。カケヒ疫神ト云木二本アリ。今ハナシト云。神主守屋和泉、物語シケルハ、不動・金迦羅・勢多迦・獅子等昔ハ有タリシガ、今ハスタレテナシト也。此地海中へ出張テ、水石至テ淸シ。類ヒナキ絶景ナリ。出崎ニ離レタル嶋ヲ夷磯ト云。杜戸ノ南ノ海上ニ名嶋ト云アリ。折シモ夕陽波ニ浮ンデ日ヲ洗フガ如シ。又舟ニ駕シテ歸ル。路次ニ濱邊ヲ見ル。杜戸ノ濱ニ添テ心無山、其西ノ村ヲアブツルト云。山ヲアブツル山ト云。其西ハ小壺村ナリ。
[やぶちゃん注:采螺は先にも出たが「榮螺」。光圀はこれを誤字ではなく確信犯的に「サザエ」の意で用いているようにも思われる。]
小 壺 村
漁村アリ。小壺ヲ隔テ、南ノ入ヲ多古江ノ入ト云。多古江川アリ。其川ノ南ノ小流ヲゴザイ川ト云。小壺ノ東北ノ向ニ當リタル地ヲコウノ嶽ト云。藥師アリト也。多古江川ノ東ニ六代御前ノ塚アリト云。
[やぶちゃん注:「ゴザイ川」は「ゴサイゴ川」の誤り。「御最後川」で六代御前がこの川畔で斬られたことに由来するという。]
鷺 浦
小壺ノ入ノ云ク。漁師ノ家多クアリ。片濱ニテ景地ナリ。
[やぶちゃん注:「ノ云ク」底本には右に編注で『(ヲ云ィ)』とある。この「ィ」は「意」の意か。]
飯 島
小壺村ノ西ナリ。賴朝舟着岸ノ煩ナカランメンガ爲ニ筑クト云。山ニ住吉明神ノ社アリトナリ。道寸ガ城モアリ。飯嶋ノ西ヲ和歌江嶋ト云。其西ハ材木座ノ漁村也。舟ヲ飯嶋ノ濱ニ着テ、馬ニ乘ジテ海濱ヲ歸。
下宮ノカリ屋ノ前ヲ行、坂ノ上ノ左ニ無熱池ト云アリ。天笠ノ無熱池ヲカタドルト云。岸邊ニ蝦蟆(カイル)石トテ蝦蟆ニ似タル石アリ、昔慈悲此山ニ籠リシ時、蝦蟆障礙ヲナシケル故、加持シケレバ、終ニ此石ニナリケルトナン。池ノ右ノ方ノ坂ヲ上ル、道ノ左ニ福石ト云アリ。參詣ノ輩此石ノ前ニテ、或ハ鳥目、或ハ貝魚類ナドヒロフ時ハ、必ズ豐貴ニナルトナン。慈悲ノ木像アリ。鐘ニ金龍山與願寺鐘トアリ。土御門院ノ細字ニ、慈悲ノ宋ヨリ持來碑石此ニ納置ク。今ハ二ツニ折レテアリ。靑石ニテ幅二尺七寸、長サ四尺八寸、厚サ三寸五分也。左右ニ龍ヲ彫、中ニ古文字アリ。其文ニ曰ク
〔今案ニ楷書是ナルベキ歟。一字ノ大サ如此、コノ四字ヅヽ三行ナリ。剥缺シテ筆畫分明ナラズ。文字ノ外ニ緣アリ。極テ奇ナリ。舊記ニ屏屛風石トハ誤ナリ。〕
[やぶちゃん注:「蝦蟆(カイル)石」カエル石で「蝦蟆」は蟇蛙。
「障礙」は「しやうげ(しょうげ)」と読む。「障碍」と書く。仏教で悟りの妨げとなるものをいう。障害。現在はこれで「しょうがい」とも読める。
最後の長い割注は実際には図の下にある。以下に、「新編鎌倉志巻之六」に載る碑文図を参考までに載せておく。
この図の方がより正確である。]
寶物
緣起 五卷 畫ハ土佐、筆ハ不知。
天照太神ノ角 二ツ
〔是ハ羽州秋田常樂添狀アリ。住僧云、蛇ノ角ナランカト。浮屠ノ民俗ヲ愚カニシ誣ル、此類多ルベシ。〕
[やぶちゃん注:「天照太神」底本では「太」の右に『(大)』と誤字注をする。
「誣ル」は「しいる」と読み、事実を曲げて言う、悪意をもってありもしない事を述べる、の意。
「強いる」と同語源である。]
弘法作刀八昆沙門金像 一軀
金ノ厨子ニ入テアリ。
同阿彌陀繪 一幅
九穴貝 一ツ
二股(マタノ)竹 一本
駒ノ玉 一ツ
太田道灌軍配團扇 一本
練物ニシテ黑塗ナリ。
北條氏康證文 一通
其外禁制書ナド文狀多シ。
慶安二年御朱印 一通
〔境内山林竹木等ノ免狀、獵師町地子同船役者公役也トアリ。〕
是ヨリ舟ニ乘ジテ島ヲ廻リテ南行ス。辨才天ノ窟ノ東ニ石窟アルヲ龍池ト云。此東ニ二ツヤグラト云テ穴二ツアリ。一ツハ新田四郎富士ノ人穴ヨリ此穴へ出ケルトナン。山ノ出鼻嶮キガケヲ泣面崎(ナキツラガサキ)ト云。其東ヲ聖天嶋ト云。又其東ニ離タル所ヲ鵜嶋ト云。始メ山ノ開ケル時、鵜十二羽來テ、此ニ集ル故ニ云トナリ。今ニ辨才天ノ使者也トゾ。此ヨリ海上ヲ渡テ東ノ方へ向フヲ、順風ニシテ一瞬ノ間ニ杜戸ニ到ル。杜戸ノ東南ニ社アリ。世計酒ト云村アリ。酒ヲ造テ此社ニ奉リ、年ノ豐凶ヲ知ナリ。杜戸ノ東ニ、離デサキアルヲ、トツテガ崎ト云也。豆州ノ大嶋等見ユル。城ガ嶋ノ北ニ見タルハ見崎、其北ヲ荒崎ト云。
[やぶちゃん注:「世計酒」は「よばかりざけ」と読むが、村名というのは如何にもおかしい。光圀の聞違いか、「世計ト云社アリ」の誤りであろう。これについて記す「新編鎌倉志巻之七」の「佐賀岡」の条にも、『此の所に佐賀岡の明神と云あり。守山大明神と號す。逗子村延命院の末寺、玉藏院の持分なり。里俗、世計(ヨバカリ)の明神と云ふ。毎年霜月十五日、酒を作り置き、翌年正月十五日に、明神へ供す。酒の善惡に依て、戌の豐凶を計り知る。故に世計の明神と云ふ』とある。
「見崎」ママ。この「トツテガ崎」とは突渡崎で、現在の森戸と葉山の中間点の出先である柴崎海岸である。あそこから城ケ島は確かに見えるが、その北の剣崎が見えるというのは、やや不審な気もする。岬の頂上部が見えるということであろうか。実際に居住されおられる方の御教授を乞うものである。]
三十 甲
銅駝名惟在
春風吹棘榛
陌頭何所見
三五踏靑人
〇やぶちゃん訓読
銅駝(どうだ) 名 惟だ在り
春風 棘榛(きよくはん)を吹く
陌頭(はくたう) 何の見る所ぞ
三五 踏靑(たうせい)の人
三十 乙
銅駝名惟在
春風吹棘榛
陌頭何所見
三五射鴉人
〇やぶちゃん訓読
銅駝 名 惟だ在り
春風 棘榛を吹く
陌頭 何の見る所ぞ
三五 射鴉(しやあ)の人
[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。
本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十八」「三十九」と連続して書き込まれているものである。「底本では起句の頭に「〇」が打たれ、以下の承転結句が一字下げとなっている。手帳(五)」については「三十八」の注を参照されたい。
ここで「乙」としたものについて述べておきたい。実は邱氏は「甲」しか挙げておられない。では私の「乙」は何かというと、実は「手帳(五)」のこの詩の次の行には二字下げのポイント落ちの「射鴉」の字があり、次行からは俳句群が始まっているのである。そこを再現してみると(ポイントは同じにした)、
〇銅駝名惟在
春風吹棘榛
陌頭何所見
三五踏靑人
射鴉
〇更鉢の赤畫も古し今年竹
金網の中に鷺ゐる寒さかな
白鷺は後姿も寒さかな
茶のけむりなびきゆくへや東山
霧雨や鬼灯殘る草の中
冬瓜にこほろぎ來るや朝まだき[やぶちゃん注:以下、略。]
となる。邱氏はこの「射鴉」を後の俳句の前書と採られたのであろうと思われる。これは批判めいた謂いではない。何を隠そう、実は私も「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の当該部分でそのように処理しているのである。しかし、今回、これを素直に眺めてみると、どうも前書としては「射鴉」は如何にも前書らしからぬ気がしてきた。句の皿の赤絵には鴉を射る絵が描かれていたということになるのであろうが、こんな前書による句のイメージの拡大は甚だ邪道で、龍之介らしからぬ。また、わざわざここでそれを前書とするなら、続く数句が「射鴉」の句であるべきであろう。しかし次は「鷺」である。網囲いの鷺を鴉から守るために射ている人が描かれた赤絵というのも苦し過ぎる。鷺の句は実景だ。そもそも実はこの「皿鉢の」以下続く二十七句には一箇所も前書きはない。さすれば――この
×「射鴉」は句の前書きではなく
この前の、五絶の結句、
〇「三五踏靑人」の「踏靑」の部分の推敲形
と読むのが正しいのではあるまいか?
そこで平仄を調べると「踏靑」「射鴉」は全く同じで変化は生じないから、代字としても平仄上は全く問題がない。
更に、実は筑摩書房の全集類聚版(これは私が岩波旧全集と読んでいるものの、その前の版(通称、小型版全集)を元としていると思われる)の当該部(第八巻一四九頁)を見ると、驚くべきことに(そのままの新字で示す。底本では「射鴉」はポイント落ち)、
〇銅駝名惟在
春風吹棘榛
陌頭何所見
射鴉
三五踏青人
〇更鉢の赤画も古し今年竹[やぶちゃん注:以下、略。]
となっているのである。
以上から私は、「射鴉」は特異な語であるものの、「甲」の推敲形「乙」として挙げることとした。大方の識者の御意見を乞うものである。
「銅駝」「晋書」の「索靖傳」に載る故事に基づく。西晋の五行学者索靖(さくせい 二三九年~三〇三年)の故事(原文は邱氏の引用されたものを正字化した。書き下しは私の勝手な読み)。
靖有先知遠量、知天下將亂、指洛陽宮門銅駝嘆曰、「會見汝在棘榛中耳」。
靖、先知遠量有り、天下の将乱を知りて、洛陽宮門の銅駝を指して嘆きて曰はく、「汝と會ひ見えんは、棘榛の中に在るのみ。」と。
この銅駝とは当時の晋都洛陽の宮城門外にあった青銅製の駱駝の対像。索靖は五行に基づく予知能力によって天下の混乱を予見、その銅駝を指さし、「あなたとは荊(いばら)の茂る廃墟の中で再会することとなろう。」と慨嘆した。後、五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)の侵攻があって洛陽は半ばが灰燼に帰した。
「棘榛」荊棘。バラ・カラタチなどの棘(とげ)のある低木類の総称。
「陌頭」道のほとり。街頭。
「踏靑」中国で仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩。文字通り、青き草を踏む意で、初春の野に春をさぐる「探春」に次ぐ遊びであり、唐代以後に盛んになった。地方によっては一定の日に行う行事であったが、一般には清明節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李の咲く中で酒宴を開いて、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する(以上は平凡社「世界大百科事典」の植木久行氏の記載に基づく)。
「射鴉」見かけない熟語ではある。「踏靑」の情景には子女の彩りのある姿が垣間見えるが、「射鴉」では如何にも男子、如何にも黒い印象が強くなる。また、これはもしかすると、中国の三本脚の烏の神話との関連があるか? 以下にウィキの「三足烏」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『東アジアでは三足烏の足が三本なのは、陰陽では偶数を陰、奇数を陽とするが、三は奇数であり太陽と同じ陽となるからだといわれている』。『鳥の神話は、世界に広がっており、太陽と関連付けられていることが多』く、中国では『三足烏(さんそくう・さんぞくう 拼音: sānzúwū サンズゥウー)は、中国神話に登場する烏で、太陽に住むとされ(ただし他の神話もある)、太陽を象徴する。日烏(にちう 拼音: rìwū リーウー)や火烏ともいい、月の兎の月兎と対比される。しばしば三本の足をもつとされ、三足烏とも呼ばれる。また、金色という説もあり、金烏(きんう 拼音: jīnwū ジンウー)とも呼ばれる。なお三足烏の「金烏」の絵は、日本の一七一二年(正徳二年)刊の「和漢三才図絵」の天の部の「日」の項にも認められる』。『太陽に住んでいるとされ、太陽黒点を元にした神話であるとする説もある(中国では漢代までには黒点が発見されていた)。ただし太陽にいるのは金鶏(きんけい)であるとの神話もある。また別の神話では、太陽は火烏の背に乗って天空を移動する。ただしこれに対し、竜が駆る車に乗っているという神話もある』。また別の伝承として『このような物語もある。大昔には十の太陽が存在し、入れ替わり昇っていた。しかし尭帝の御世に、十の太陽が全て同時に現れるという珍事が起こり、地上が灼熱となり草木が枯れ始めたため、尭帝は弓の名手羿に命じて、九つの太陽に住む九羽の烏を射落とさせた。これ以降、太陽は現在のように一つになった(「楚辞」天問王逸注など)』という伝説である。さて、これが代字であるとした場合、この謎の「射鴉」、識者の御教授を切に乞うものである。
因みに、邱氏は以上の三首を中国旅行(実質の滞中は大正一〇(一九二一)年三月三十日から同年七月中旬)よりも前の作と推定した上で、それ以前の「十八」から「二十七」の漢詩を含め(この全十三首を邱氏は芥川龍之介漢詩の第三期と位置付けている)、『芸術の新天地を模索する中国旅行前の一九二〇年に、芥川が多大な情熱を持って漢詩製作に没頭し、多くの自信作を残した』と述べ、本詩は、その一つとして『超現実的な神話世界を構築する重要な舞台としての「中国」を見る熱い思いが伝わってくる』と結んでおられる。]
三十九
山嶂同月色
松竹共風烟
石室何寥落
愁人獨未眠
〇やぶちゃん訓読
山嶂(さんしやう) 月色に同じく
松竹 共に風烟(ふうえん)
石室 何ぞ寥落(れうらく)
愁人 獨り未だ眠らず
[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。
本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十八」「四十」と連続して書き込まれているものである。底本では起句の頭に「〇」が打たれ、以下の承転結句が一字下げとなっている。「手帳(五)」については「三十八」の注を参照されたい。
「山嶂」「嶂」は高くけわしい山、又は、屏風のように連なる峰。
「風烟」風煙。風と、霞や靄。又は、風に靡く霞。
「石室」ここは所謂、「窟(いわや)」「岩室(いわむろ)」の謂いで、岩壁に自然にできた洞穴、又は岩に横穴を掘って住居とした、隠者の住居を謂う。窟だとまさに龍之介の書斎「我鬼窟」も容易に連想される(しかし、「根がティヴ」――これは文字遊び――な私などはどうしても墳墓の石室の雰囲気が画面にちらついて払拭出来ないで困ってしまう)。
「寥落」荒れ果ててすさまじいこと。荒廃すること。
「愁人」素直に読むならば、起句からの寂寞たる景の中にいるのは、心に愁いを抱いた詩人自身ととれる。ところが、である。これも実は私には困った熟語なのである。何故なら、不倫相手であった秀しげ子のことを龍之介は「愁人」と呼んでいるからである。初出は龍之介の日記「我鬼窟日錄」の大正八(一九一九)年の九月十二日で(リンク先は私のマニアック注附テクスト)、
九月十二日 雨
雨聲繞簷。盡日枯座。愁人亦この雨聲を聞くべしなどと思ふ。
とある。ここの私の注も以下に引いておく。
完全に、妖艶な蜘蛛の巣に絡め捕られた芥川龍之介がここに居る。小津安二郎のようなロー・アングルで雨音だけで撮ってみたい一日である。慄っとするほど素敵だ――。
・「雨聲繞簷」は「雨聲(うせい) 簷(のき)を繞めぐる」と読む。
・「愁人」は「しうじん(しゅうじん)」で、本来は文字通り、悲しい心を抱いている人、悩みのある人の意であるが、芥川龍之介は符牒として「秀しげ子」をこう呼んでいる。それは恋をして愁いに沈むアンニュイな翳を芥川がしげ子の容貌に垣間見たからででもあろうか? ともかくもファム・ファータル秀しげ子に如何にも相応しい(それに引き替え、「或阿呆の一生」で同人を「狂人の娘」と呼んだのは、これ、逆にいただけない)。但し、芥川は「月光の女」「越し人」等、こうした如何にもな気障な愛人呼称の常習犯では、ある。なお、高宮檀氏は「芥川龍之介の愛した女性」で、この符牒について、関口定義氏が「芥川龍之介とその時代」で『芥川が彼女を虚構の世界で美化してしまったことを示すものだ』とするのに対し、『むしろ「秀夫人」の「秀」を音読みして「夫」を省略した、芥川独特の洒落だっただのだろう』とする説を唱えておられる。何れもあり、という印象である。
これがまた、邱氏の推定する大正九年であるとすれば、しげ子は龍之介の中でまだ強い嫌悪の対象にはなっていない時期であるから、この「愁人」の語に彼女を重ね合せるのは強ち見当はずれではないと言える。寧ろ、新全集の推定するように、これよりもずっと後の晩年の作とすると、「愁人」は彼女ではないと断言出来るのである。
「愁人獨未眠」邱氏も指摘しておられるように、一読、これは知られた韋応物の五絶「秋夜寄丘二十二員外」の結句に基づく。
秋夜寄丘二十二員外 韋應物
懷君屬秋夜
散歩詠涼天
山空松子落
幽人應未眠
秋夜 丘二十二員外に寄す
君を懷ひて 秋夜に屬(しよく)し
散歩して 涼天に詠ず
山 空(むな)しうして 松子(しようし)落つ
幽人(いうじん) 應(まさ)に未だ眠らざるべし
「丘二十二員外」丘氏の排行二十二男の員外郎の意。作者の友人で名は丹。蘇州の人という。員外郎は公務員の定員外に補任された補佐官。]
四十
敬佛房云、近來(このごろ)の遁世の人といふは、もとゞりきりはつれば、いみじき學生(がくしやう)・説經師となり、高野にのぼりつれば、めでたき眞言師、ゆゝしき尺論(しやくろん)の學生になり、或(あるひ)はもとは假名の「し」文字だにもはかばかしくかきまげぬものなれども、梵漢(ぼんかん)さるていに書(かき)ならひなどしあひたるなり。然而(しかうして)生死界(しやうじかい)を厭(いとふ)心もふかく、後世(ごせ)のつとめをいそがはしくする樣(やう)なる事は、きはめてありがたき也。はやもとゞりなどきりけん時は、さりとも、此心をばよもおこしたてじとおぼゆる樣なるを、我執(がしう)・名聞(みやうもん)甚しき心をさへ、おこしあひたる也。某(それがし)が遁世したりし比(ころ)までは、猶(なほ)世をのがるゝ樣にはあるをだにもこそすつれ、なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりしあひだ、世間・出世につけて、今生(こんじやう)の藝能ともなり、生死(しやうじ)の餘執(よしう)とも成(なり)て、つひに後世のあだとなりぬべきは、ちかくもとほくも、とてもかくても、あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか。されば、大原・高野にも、其(その)久(ひさびさ)さありしかども、聲明(しやうみやう)一(ひとつ)も梵字一(ひとつ)もならはで、やみにしなりと云々。たゞ、とてもかくても、すぎならひたるが、後世のためなり。
〇もとゞりきりはつれば、髮を剃り終ればなり。
〇説教師、説法者なり。
〇釋論、釋摩訶衍論なり。
〇梵漢さる體に、梵字も漢字も大方(おほかた)にかくとなり。
〇ありがたきなり、ありかぬるなり。
〇はやもとゞりきりけん時は、はやとはすぎさりし時なり。むかしの事を歌にもはやとよむなり。
〇大原高野、大原は良忍(りやうにん)上人より聲明の處となり、高野は大師より梵字の處となる。
〇すぎならひたるが、不調法(ぶてうはふ)ながらとほせとなり。
[やぶちゃん注:「學生」比叡山・高野山等の諸大寺で学問修行を専門とする学僧。
「説經師」経文や教義等を講釈しながら大衆を教化する僧。
「眞言師」密教の法によって加持祈禱を行う高野山の学僧。
「尺論」標註にある通り、「釈摩訶衍論」の略称。釈摩訶衍論は古代インドの仏教書で馬鳴(めみょう)作と伝えられるが疑問。成立年未詳。漢訳は梁(りょう)の真諦(しんだい)訳が一巻、唐の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳が二巻がある。大乗仏教の中心思想を理論と実践の両面から説いたもの。「起信論」とも。私は若い頃、珍しく仏典の中では一箇月もかけて真剣に読んだものの一つであるが、実は殆んど全く分からなかった。
「某が遁世したりし比までは、猶世をのがるゝ樣にはあるをだにもこそすつれ、なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりしあひだ」「すつれ」は「捨つれ」、「ならひあひ」は「狎らひ合ひ」であろう。私の珍しく大好きな文法である「こそ……(已然形)、~」の逆接用法がうまく効いている部分である。「某が遁世したりし比」は敬仏房の事蹟が不祥なため、定かではないが、高い確率で末法思想の蔓延った鎌倉幕府成立前後と考えてよいであろう。――私が出家した頃までは、猶お遁世するためにはありとある身の物でさえ、その一切を捨て果てたものであったが、しかし今や、出家遁世の身でありながら、あろうことか逆に「無一物たらんことを望むことは、感心せぬこと」であると皆が皆、狎れ合って合点してしまっているために――という意である。
「世間・出世」俗人だろうが出家だろうが、世の衆生はこぞって、の意。
「今生の藝能ともなり」一生を懸けた芸事。この「藝能」とは文脈から言えば、具体には冒頭にあるところの、「いみじき」(優れた)学僧・説教師や「めでたき」(立派な)真言師と呼ばれる僧になること、釈摩訶衍論の「ゆゝしき」(素晴らしい)学識僧となること(この「ゆゝし」は「尺論」ではなく「學生」にを修飾すると私はとる)、或いはまた、難しい梵字や漢字を相応の達筆で書けるような文人僧となること、を意味する。即ち、今の世の僧という僧(勿論、ここには深い自戒とともに語る敬仏房本人も含まれていよう)は、世を厭いて一切を捨てて一心に往生を願うために出家したはずの者が孤高に念仏一つを唱えることもせず、「優れた名僧」という名声ばかりを望み、学識や能書をひけらかすだけの存在に成り下がっている、と厳しく指弾しているのである。
「つひに後世のあだとなりぬべきは」Ⅱ・Ⅲによるが、Ⅰでは『つひに後世のあだとなりぬべくば』となっている。――今はこのような名声ばかりを望み、そのどうということもない下らぬ才知をひけらかすばかりという有様となって、それらが生を求め死を厭うという執念となって、遂には殆どそれが後世の極楽往生の深刻な障りとなってしまっているに違いない(Ⅰ「ということは」)(Ⅱ「ということであるならば」)――私が問題にしたいのは、敬仏房はここで実は謂いを休止しているということである。即ち、『かつては~であったのに、今は……と成り下がっているようにしか見えぬ。』《間合い》『だからもうずっと以前から私は――と心底、そう唱えて来たのである。』ということである。この間合いなしで、続けて読むと、文脈が捩じれ、時制もおかしくなるからである。
「ちかくもとほくも、とてもかくても、あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか」――今も昔も、何がどうあろうと、しっかとそこを見据えて、決してそうあってはならぬ、私はそうなるまい、ということを自(おのづ)から好み、幾たびも幾たびも心底より、念仏を唱えながら、同時にかくも心に狎れさせて来たのであった。――という謂いである。Ⅱの大橋氏のここの脚注には、「標註」(Ⅰの原本)に、
此かの字は、すみてよむべし。決定のかなり。かなといふ心。新古今の歌に、をのづからすゞしくもあるか其衣日も夕ぐれの雨の名殘に
とあるが、これは誤解で、「しか」は「こそ」の結びである、という注が附されてある(「標註」の引用は正字化した)。Ⅰで森下氏がこの項を原本から採らなかったのも、誤りであることが分かっていたからであろう。なお、私が実は前の注で問題にしたのは、まさに、この過去の助動詞「しか」の扱いだったのである。即ちここでは、
①敬仏房が「遁世したりし比まで」という謂わばフランス語の大過去(過去に於いてある時期継続していた事態)に相当する時制
がまずあり、それに続いて、
②敬仏房が、僧衆が「なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりし」という体たらくになったことの実感を持った①の後の過去のある一瞬の過去時制
があって、その後に、
③敬仏房が「あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか」が決心し、それが今話している現在まで続いているという半過去(現在も継続している過去の事態)がある
ととらないと、訳がおかしくなるということなのである。③の強意の係助詞「こそ」とその結びである過去の助動詞「き」の已然形「しか」はそうしたものとして独特なのである。私は本条の謂いではないが、湛澄の誤りは、実は単なる学才(国文法)のひけらかしに過ぎない「誤り」では毛頭なく、そうした時制の微妙な変化を感得しようとした結果の「誤り」、正しく時制を制御しようとする故の「誤り」であったように思えてならないのである。湛澄が時制に拘っていた証左は註の「はやもとゞりきりけん時は、はやとはすぎさりし時なり。むかしの事を歌にもはやとよむなり」という一文にもよく表れているではないか。但し、私は古典文法に疎い(というか嫌いだ)。だからこの私の見解は逆に、乏しい知識を牽強付会したところの――教仏房が厭うところの――大いなる救い難い痴愚の「誤り」であるのかも知れない。大方の識者の御意見を求むるものである。
「大原」現在の京都市左京区北東部比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模な盆地の名。平安京と若狭湾を結ぶ若狭街道の中継地点として栄え、また延暦寺に近かったことから、勝林院・来迎院・三千院・寂光院など多くの天台宗系寺院が建立された。また、戦争・政争による京都からの脱出のルートとしても用いられ、出家・隠遁の地としても古くから知られていた。惟喬親王や建礼門院をはじめ、大原三寂(常盤三寂)と称された寂念・寂超・寂然兄弟、藤原顕信・西行・鴨長明などの隠遁の地として知られている(以上はウィキの「大原」より)。大橋氏脚注に『中世における声明研鑽の中心地』とある。
「聲明」梵語“abda-vidy”の漢訳。仏教の経文を朗唱する声楽の総称。インドに起こり、中国を経て日本に伝来した。法要儀式に応じて種々の別を生じ、また宗派によってその歌唱法が相違するが、天台声明と真言声明とがその母体となっている。声明の曲節は平曲・謡曲・浄瑠璃・浪花節・民謡などに大きな影響を与えた。梵唄(ぼんばい)とも言う(ここまで「大辞泉」、以下はウィキの「声明」より)。日本での声明の発祥地は三千院のある大原魚山である。天平勝宝四(七五四)年に東大寺大仏開眼法要の際に声明を用いた法要が行われた記録があり、奈良時代には既に声明が盛んにおこなわれていたと考えられている。平安時代初期に最澄・空海がそれぞれの声明を伝えたが、それ以外の仏教宗派にも各宗独自の声明があって現在も継承されている。
「すぎならひたるが」如何なる才知名声も等閑し、只管、念仏を唱えることを好むことが。
「大方に」一通りは。
「良忍上人」(延久五(一〇七三)年又は延久四年~天承二(一一三二)年)天台僧で融通念仏宗の開祖。聖応大師。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。二十二、三歳の頃、京都大原に隠棲、念仏三昧の一方、来迎院・浄蓮華院を創建し(寂光院も良忍による創建説がある)、また分裂していた天台声明の統一を図り、大原声明を完成させた。永久五(一一一七)年には阿弥陀仏の示現を受けたとして「一人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあうという融通念仏を創始、称名念仏で浄土に生まれると説いては結縁した人々の名を記入する名帳を携えて各地で勧進した(ウィキの「良忍」に拠る)。]
――「事故は何が問題だ
――「福島第2は大丈
――「なぜ第1はだめだったのか、しっか
――「その上でこれから再稼働も
二十八
不負十年未醒名
也對秋風催酒情
拈筆含杯閑半日
寫成荒竹數竿聲
〇やぶちゃん訓読
負はず 十年 未醒(みせい)の名
也(また) 秋風に對して 酒情を催す
筆を拈(ねん)じ 杯を含みて 半日(はんにち) 閑たり
寫し成す 荒竹 數竿の聲
[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。また、以下に示すように芥川龍之介の真作かどうかも疑おうと思えば疑われる。しかし、私は最終的に芥川龍之介の真筆と判断する。以下を是非、お読み戴きたい。
本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十九」「四十」と連続して書き込まれているものである。
この「手帳(五)」は、
新全集後記では、大正一二(一九二三)年から晩年にかけて記されたもの
と推測している(但し、だからといって本詩の創作年代を遡ることが出来ないという理由にはならない)。邱氏のこれに大きく反するところの、
大正九(一九二〇)年前後説
というのは、後に示すように、
本詩がこの時期の複数の先行作品と類似していること
及び、
「手帳(五)」には書かれていない中国旅行中の記載が「手帳(六)」「手帳(七)」には現われていること
を証左となさっている(これはこれで説得力がある)。
但し、この「手帳(五)」に書かれたメモと関わる作品は新全集後記によれば、
「三つの宝」(一九二二年)・「貝殻」(一九二七年)・「侏儒の言葉」(一九二三年~二五年)・「玄鶴山房」(一九二七年)・「河童」(一九二七年)など、圧倒的に
大正一一(一九二二)年以降の作品群のヒントが多い
ことも事実ではある。
なお、この「手帳(五)」は現在では所在不明である。
「不負」とは負った期待に応えていないことを言う。
「未醒名」「未だ名を醒(さ)まさず」と訓ずることも出来るが(その場合は世間的な名声を得ない、若しくは、真の自身の存り方を悟っていない、といった謂いになろう)、ここは「未醒」を文字通り主人公の「名」と採りたい。そして「未醒」という雅号の持主は、芥川龍之介ではない。これは、芥川龍之介の友人であった洋画家小杉放庵(明治一四(一八八一)年~昭和三九(一九六四)年)の初期の画号である小杉未醒に他ならない。大正九(一九二〇)年当時、未醒は満三十九歳であったが前年に考え方の相違から二科会を、同年には日本美術院も脱退し、後の大正一一年には春陽会創立に参加している。また号も大正一三(一九二四)年に放庵と改めてもいる(すると、副次的にそこからも本詩が大正一三年よりも前の作であると断ずることも出来よう)。初期の画は東洋的ロマン主義の傾向を示し、また、未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えた。フランス帰国後(大正二(一九一三)年渡仏、翌年帰国)から東洋趣味に傾き、油絵をやめて墨画が多くなった。大正一四(一九二五)年に手がけた東京大学安田講堂の壁画はフランス画、特にピュヴィ・ド・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させて日本的な志向も示しているとされる。歌人としても知られ『故郷』などの歌集があり、『帰去来』などの随筆、唐詩人についての著作もある(以上の事蹟などはウィキの「小杉放庵」に拠る)。龍之介とは家が近くでもあり、また龍之介のパトロン的存在で、龍之介の加わっていた、田端の文芸サロンの中心的人物実業家鹿島龍蔵が作った道閑会のメンバーでもあったから、親しく交際していた。
さて、この経歴から見た時、本詩が芥川龍之介の作品ではなく、小杉のものである可能性がここに浮上してくるとは言えるのである。即ち、龍之介が手帳に備忘として小杉未醒の詩をメモした可能性である。
更に、芥川龍之介には大正一〇(一九二一)年三月の「小杉未醒氏」(『中央芸術』発表、発表時は大見出しが「小杉未醒論」で題は「外貌と肚の底」)があるが、そこにもそのような疑惑を起こさせる箇所があるのである。以下に全文を示す。
小杉未醒氏
一昨年の冬、香取秀眞氏が手賀沼の鴨を御馳走した時、其處に居合せた天岡均一氏が、初對面の小杉未醒氏に、「小杉君、君の畫は君に比べると、如何にも優しすぎるぢやないか」と、いきなり一拶を與へた事がある。僕はその時天岡の翁も、やはり小杉氏の外貌に欺かれてゐるなと云ふ氣がした。
成程小杉氏は一見した所、如何にも天狗倶樂部らしい、勇壯な面目を具えてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも、寧ろ未醒蠻民と號しさうな邊方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後氏に接して見ると、――接したと云ふ程接しもしないが、兎に角まあ接して見ると、肚の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た。勿論今後猶接して見たら、又この意見も變るかも知れない。が、差當り僕の見た小杉未醒氏は、氣の弱い、思ひやりに富んだ、時には毛嫌ひも強さうな、我々と存外緣の近い感情家肌の人物である。
だから僕に云はせると、氏の人物と氏の畫とは、天岡の翁の考えへるやうに、ちぐはぐな所がある譯ではない。氏の畫はやはり竹のやうに、本來の氏の面目から、まつすぐに育って來たものである。
小杉氏の畫は洋畫も南畫も、同じように物柔かである。が、決して輕快ではない。何時も妙に寂しさうな、薄ら寒い影が纏はつてゐる。僕は其處に僕等同樣、近代の風に神經を吹かれた小杉氏の姿を見るやうな氣がする。氣取つた形容を用ひれば、梅花書屋の窓を覗いて見ても、氏の唐人は氣樂さうに、林處士の詩なぞは謠つていない。しみじみと獨り爐に向つて、Rêvons……le feu s'allume とか何とか考へてゐさうに見えるのである。
序ながら書き加へるが、小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、總計十首か十五首しかない。その點は僕によく似てゐる。しかし出來映えを考へれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまづいかも知れない。
・「香取秀眞」(かとりほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は著名な鋳金工芸師。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の文字通りの隣人(実際に隣家)にして友人であった。
・「天岡均一」(あまおかきんいち 明治八(一八七五)年~大正一三(一九二四)年)は彫刻家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒で高村光雲らに学んだ。
・「天狗倶樂部」は文士を中心としたスポーツ社交クラブ。黎明期のアマチュアスポーツ、特に野球と相撲の振興に努め、後に野球殿堂入りする人物を五人輩出している他、日本初の学生相撲大会を開催するなどしていた。中心人物は家の押川春浪(以上はウィキの「天狗倶楽部」に拠った)。
・「突兀」「とつこつ(とっこつ)」と読む。高く突き出ているさま。高く聳えるさま。
・「邊方瘴煙」「へんぱうしやうえん」と読む。辺りに立ち込めた瘴気(毒のある悪しき気)を含んだ煙。
・「梅花書屋の窓」窓辺に梅の花の咲く書斎という景。
・「唐人」画中の配された画家の分身たる中国人。
・「林處士」林逋(九六七~一〇二八)。林和靖。北宋初期の詩人。和靖先生は詩人として敬愛した第四代皇帝仁宗(一〇一〇~一〇六三:彼との縁は父第三代皇帝真宗の時から。)が諡(いみな)として与えたもの。ウィキの「林逋」によれば、『西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと』二十年におよんだとし、生涯仕官せず、独身を通して、『庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた』。『林逋の詩には奇句が多』いが、『平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない』(一部誤植を正した)とある。当該ウィキの最後にその詩「山園小梅」が載るが、確かに一筋繩では読みこなせない佶屈聱牙な詩である。こちらに三野豊氏の美事な当該詩の訳がある。
・「Rêvons……le feu s'allume」フランス象徴派の詩人アルベール・サマン(Albert
Samain一八五八年~一九〇〇年)の詩“Octobre est doux”(十月は穏やかだ……)の一節。「夢見よう……灯がともっている」といった意味か。以下に原詩を示しおく(こちらの仏語サイトより。私の力では訳せないので悪しからず)。
Octobre
est doux...
Octobre
est doux. - L'hiver pèlerin s'achemine
Au
ciel où la dernière hirondelle s'étonne.
Rêvons...
le feu s'allume et la bise chantonne.
Rêvons...
le feu s'endort sous sa cendre d'hermine.
L'abat-jour
transparent de rose s'illumine.
La
vitre est noire sous l'averse monotone.
Oh !
le doux "remember" en la chambre d'automne,
Où des
trumeaux défunts l'âme se dissémine.
La
ville est loin. Plus rien qu'un bruit sourd de voitures
Qui
meurt, mélancolique, aux plis lourds des tentures...
Formons
des rêves fins sur des miniatures.
Vers
de mauves lointains d'une douceur fanée
Mon
âme s'est perdue ; et l'Heure enrubannée
Sonne
cent ans à la pendule surannée...
以上の疑惑は最後に解明したい。
「也」は発語の辞。「亦」よりも軽く、多く詩や俗語で用いる。
「催酒情」銷憂物たる酒をあおりたくなる。邱氏は、過去形で採り、『秋風に向かい、酒で憂さを紛らしたこともある』と訳しておられる。
最後に私の疑惑についての見解を述べたい。ここで着目したいのは、「小杉未醒氏」の最後にある「小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、總計十首か十五首しかない。その點は僕によく似てゐる。しかし出來映えを考へれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまづいかも知れない。」という部分である。ここから小杉は漢詩の自作をしたこと、龍之介はそれを実見していること、但し、それらが十五首ほどの「五言絶句ばかり」であったことが分かる。
さて、翻って見ると本詩の起句は「未醒」という雅号を持った本人の詩と読むのがまず自然である。しかし、この詩は七絶であるから、龍之介の、この謂いとは齟齬を生じることになる。
これが未醒の詩でないとすれば――残るのは龍之介が小杉未醒に仮託して詩を創った――という仮定は可能である。……しかし果たして、その場合、若年の龍之介が起筆から「不負十年未醒名」とやらかすかどうか、という疑問は依然として残る。
ただ、
――「未醒」という号の如く、十年一日、うつらうつらと夢幻の中を生きてきた「唐人」と思しい人物が、「秋風」に吹かれながら「酒」に憂いを散ずる景色や、酒を含んで筆を執りつつ、のんびりと半日かけて、風の中の、淋しい、竹の立てる声(ね)を描き出した――
というのは、未醒自身の自讃ととるより、龍之介の仮託による讃とする方が遙かに――詩的には――自然である、と私は思うのである。
更に付け加えると、芥川龍之介の「手帳」群には、無論、古人の俳句や措辞の断片がメモされていることは、俳句全集を編集した際に、事実としてあることは私がよく知っている。しかし、この漢詩の載る「手帳(五)」には、これらの漢詩三首の後には直に続いて多量の龍之介の俳句草稿及び三首の自作短歌が載っており、この漢詩だけが(若しくは漢詩三首だけが)小杉未醒の詩のメモであるとうるには、如何にも不自然なのである。また、調べた訳ではないがこれらが小杉の詩であるという事実も現在のところは、ないようである。
邱氏は、この詩について、
《引用開始》
前半の二句「不負十年未醒名 也対秋風催酒情」は、二十六番詩として紹介された一九二〇年九月十六日小島政二郎宛書簡中の漢詩の前半部に類似している。後半の二句「拈筆含杯閑半日 写成荒竹数竿声」は、二十七番詩として紹介された一九二〇年十二月六日小穴隆一宛書簡中の漢詩の後半部に類似している。しかし、前出二作に比べ、読者に訴える力は弱い。
《引用終了》
と、その「評価」の項に記しておられる。私は、これを全面的に支持すものである。それは――本詩が芥川龍之介自身の詩であり、且つ、彼が愛した画狂人小杉未醒への、既成の自信作を剽窃した(だから『前出二作に比べ、読者に訴える力は弱』くなってしまった、所詮、贈答詩にほかならない、という確信を持っているからである。従って以下の二つの詩についても私は芥川龍之介の詩と断じて疑わず、疑義論は論じない。]
僕はNHKの大河ドラマで二度だけ泣いたことがある。
一度目は「山河燃ゆ」の、エンディングで松本幸四郎演じる天羽賢治が自死するシーンであり、今一つは、今日の「平清盛」の藤木直人演じる西行と松山ケンイチ演じる清盛のオーバー・ラップのシーンだけである。
清盛の「侍」=軍人による本邦の革命的行動は、まさにトロツキーの「永久革命論」のそれに似ている。勿論、彼が朝廷をもその腹中に食わんとしなながら、自身が結果、ブルジョアジーに憧れてエイリアン化したところで、取り敢えずの終末は来たったのだが、その美味しいところを、巧妙に再生構築したのがスターリン的な頼朝であったとも言える。そこにはレーニンのような辛気臭い説教を垂れる孔子染みた存在も不要だったし、マルクスのような経典をせっせと綴る神も、これ、いらなかったのだ。孔子も神もいなければこそ、戦国を経て、鎌倉の幻影を実体化・大系化するプラグマティックな幻影城としての徳川幕府が生まれ、それは結局、明治天皇という後白河法皇みたような薄っぺらい御旗を掲げた輩による、先軍的「近代」国家建設へと繋がったのではなかったか?
――清盛という「武士の世」を希求する男の悲哀は、確かに、実は架空の「天羽(あもう)賢治」(山崎豊子作「二つの祖国」の主人公)の悲哀に直結していたのではなかったか?
そうして――『より強い日本』を幻想する今の日本人に、確かにそれが繋がっているのではないか?
――戦うがいい、愚かな人類よ――貴賤の差も、総ては下らぬ幻である――
結局は――殺し合って自滅する――それが我々人間という存在の――実相以外の――なにものでも――ないのだ……
○賴家安達彌九郎が妾を簒ふ 付 尼御臺政子諫言
同年七月十日三河國より飛脚到來して申しけるは「室平(むろひらの)四郎重廣と云ふ者數百人の盜賊を集め、國中に武威を振ひ、富家(ふか)に押寄(おしよせ)ては財産を奪ひ、良家に込入(こみい)りて、妻妾を侵し、非道濫行(らんぎやう)宛然(さながら)跖蹻(せきけふ)が行跡(かうせき)に過ぎにり。驛路(えきろ)に出でては徃還の庶民を惱(なやま)し、謀略既に國家を亂さんとす。早く治罸(ぢばつ)を加へられずば黨類蔓(はびこ)りて靜め難からん歟」とぞ言上しける。則ち評定を遂げられ、誰をか討手(うつて)に遣すべきとある所に、賴家の仰(おほせ)として、安達彌九郎景盛を使節とし、參州に進發せしめ、重廣が横惡を糺斬(きうざん)すべし」との上意なり。「多少の人の中に使節に仰付けらるゝ事且(かつう)は家の面目なり」とて、家人若黨殘らず相倶して參州に趣き、國中の勇士を集め、重廣を尋搜(たづねさが)し、誅戮を加へんとするに、逐電して、行方なし。彌九郎景盛が妾(おもひもの)は去ぬる春の比京都より招下(まねきくだ)せし御所の女房なり。容顏、殊に優れたりければ、時の間も立去(たちさり)難く、比翼の語(かたらひ)淺からざりしを、君の仰なれば、力なく國に留めて參州に赴きけり。賴家内々この女房の事聞召(きこしめ)し及ばれ、如何にもして逢(あは)ばやと御心を空にあこがれ給ひ、是故にこの度も使節には遣されし、その留主(るす)を伺ひて、艷書を通(かよは)し給ひて、彼(か)の陸奧(みちのく)の希婦(けふ)の細布胸合(ほそぬのむねあは)ぬ事を恨(うらみ)佗び、錦木(しにきゞ)の千束(ちつか)になれども、此女房更に靡かず。「現無(うつゝな)の君の御心や。守宮(ゐもり)の驗(しるし)も恐しく小夜衣(さよごろも)の歌の心も恥しくこそ」と計(ばかり)申しけるを、中野五郎能成を以て是非なく御所に召入れ給ひて、御寵愛斜(なゝめ)ならず。北向(きたむき)の御所石(いし)の壼(つぼ)に居(すゑ)られ、「小笠原彌太郎、比企三郎、和田三郎、中野五郎。細野四郎五人の外は北向の御所に參るべからず」とぞ仰定められける。翌月十八日に安達彌九郎歸參(かへりまゐ)る所に彼の女房は御所に取られ參らせたり。血の涙を流して戀悲(こひかなし)めども、影をだに見ること叶はねば、况(まし)て二度(たび)逢ふ事は猶かたいとのよるとなく、畫とも分かぬ物思(ものおもひ)、遣る方もなき海士小舟(あまをぶね)、焦(こが)るゝ胸の煙の末(すゑ)、立(たち)も上(あが)らで泣居(なきゐ)たり。讒佞(ざんねい)の者有て、景盛、深く君を恨み、憤(いきどほり)を含みて、野心を挾(さしはさ)む由申しければ、賴家卿、さらば景盛を討(うた)んと計(はか)り給ふ。因幡前司廣元申しけるは「是(これ)強(あながち)に憚り給ふべき事にても候はず。先規(せんき)是あり。鳥羽院は源仲宗が妻(め)に美人の聞(きこえ)有しかば、仙洞(せんとう)に召され、仲宗をば隱岐國に流され、女房をば祇園の邊(あたり)に置れ、御寵愛限(かぎり)なく、祇園女御と名付けて、御幸度々なりしが、後に此女御を平忠盛に給はりて、相國淸盛を生みたり。景盛を討(うた)せられんに何か苦しかるべき」とぞ申しける。是に依て近習の輩一同して、小笠原彌太郎旗を揚げて、藤九郎入道連西(れんさい)が甘繩の家に赴く。此時に至(いたつ)て俄に鎌倉中騷動し、軍兵等(ら)爭集(あらそひあつま)る。御母尼御臺所急ぎ盛長入道が家に渡らせ給ひ、工藤小太郎行光を御使として賴家卿へ仰せらるゝやう、「故賴朝卿薨じ給ひ、又いく程なく姫君失せ給ふ。その愁(うれへ)諸人の上に及ぶ所に、俄に軍(いくさ)を起し給ふは亂世の根源なり。然るに安達景盛は、その寄(よせ)侍りて故殿殊更憐愍(れんみん)せしめ給ふ。彼が罪科何事ぞ。子細を聞遂げられずして、誅伐し給はば、定(さだめ)て後悔を招かしめ給はん歟。若猶追討せられば、我先(まづ)その矢に中るべし」とありしかば、賴家卿澁りながらに止(とゞま)り給ふ。鎌倉中大に騷ぎ、諸人驚きて上を下にぞ返しける。尼御臺所は盛長入道が家に逗留し給ひ、安達景盛を召されて、「昨日相計(あひはから)うて一旦賴家卿の張行(ちやうぎやう)を止(やめ)たりといへども、後の宿意を抑(おさへ)難し、汝野心(やしん)を存せざるの由(よし)起請文を書きて、賴家卿に奉れ」とありしかば、景盛畏(かしこま)りて、之を獻(さゝ)ぐ。尼御臺所彼(かの)狀を賴家卿にまゐらせ、この次(ついで)を以て申さしめ給ふは、「昨日(きのふ)景盛を誅伐せられんとの御事は楚忽(そこつ)の至(いたり)と覺え候。凡(およそ)當時の有樣を見及び候に、海内(かいだい)の守(まもり)叶(かなひ)難く政道に倦(うん)じて民の愁(うれへ)を知召(しろしめ)さず、色に耽り戲(たはぶれ)に長じて、人の謗(そしり)を顧み給はず、御前近侍(きんじ)の輩更に賢哲の道を知らず、多くは侫邪(ねいじや)の屬(たぐひ)なり。その上源氏は將軍の御一族北條は我が親族なれば、故殿(ことの)頻(しきり)に芳情(はうぜい)を施され、常に御座に招き寄せて樂(たのし)みを共にし給ひて候。只今はさせる優賞(いうしやう)はなくして、剩(あまつさへ)皆實名(じつみやう)を呼ばしめ給ふの間、各々恨(うらみ)を殘す由(よし)内々その聞(きこえ)の候、物毎(ものごと)用意せしめ給はば、末代と云ふとも、濫吹(らんすゐ)の義あるべからず」と諷諫(ふうかん)の詞を盡されたり。御使佐々木三郎兵衞入道この由(よし)言上せしかば、賴家郷は何の御詞(ことば)をも出されず白けて恥しくぞ見え給ふ。
[やぶちゃん注:標題は「妾(おもひもの)を簒(うば)ふ」と訓じている。
「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年七月六日・十日・十六日・二十日・二十六日、八月十八日・十九日・二十日などに基づく。
「室平四郎重廣」は旧渥美郡牟呂村(現在の愛知県豊橋市牟呂町辺りを拠点としていた野武士で、野盗の首領のような者であったか。
「跖蹻」盗跖と荘蹻。魯と楚の大盗賊の名。
「安達彌九郎景盛」(?~宝治二(一二四八)年)は頼朝の直参安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)の嫡男。以下、ウィキの「安達景盛」によれば、この事件を詳細に「吾妻鏡」が記録した背景には『頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる』とある(以下の引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『建仁三年(一二〇三年)九月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年七月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の十一月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている』。『三代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久二年(一二〇五年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)誅殺、宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。建暦三年(一二一三年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。建保六年(一二一八年)三月に実朝が右近衛少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた』。『翌建保七年(一二一九年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久三年(一二二一年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。嘉禄元年(一二二五年)の政子の死後は高野山に籠もった。承久の乱後に三代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた』。『宝治元年(一二四七年)、五代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責し、三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族五百余名を滅亡に追い込んだ。安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。また三浦泰村は北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった』。『この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治二年(一二四八年)五月十八日、高野山で没した』。彼については『醍醐寺所蔵の建保二年(一二一三年)前後の書状に景盛について「藤九郎左衛門尉は、当時のごとくんば、無沙汰たりといえども広博の人に候なり」とある。「広博」とは幅広い人脈を持ち、全体を承知しているという意味と見られ、政子の意志を代弁する人物として認識されていた。宝治合戦では首謀者とも目されており、高野山にあっても鎌倉の情報は掌握していたと見られる』。『剛腕政治家である一方、熱心な仏教徒であり、承久の乱後に泰時と共に高山寺の明恵と接触して深く帰依し、和歌の贈答などを行っている。醍醐寺の実賢について灌頂を授けられたという』。一方、当時から彼には頼朝落胤説『があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、霜月騒動で一族誅伐に至る遠因とな』ったと記す。……既出の盛長頼朝誤殺説といい、まあ、とんでもない親子ではある……。
「彼の陸奧の希婦(けふ)の細布胸合ぬ事を恨佗び、錦木の千束になれども、此女房更に靡かず」底本頭注には『陸奧の希婦―陸奥の希婦の細布程狹み胸合ひがたき戀もするかな(袖中抄)』とある。「袖中抄」は文治二(一一八六)年から同三年頃に顕昭によって著され、仁和寺守覚法親王に奉られた和歌注釈書。また、「錦木」にも注して『一尺ばかりなる五色に彩りたる木、陸奥の俗男女に會はむとする時その門に立つ』とあるが、これは所謂、能の「錦木」などで知れるようになった奥州の錦木塚伝承を下敷きにした謂いと考えてよい。それは、
陸奥狭布(けふ)の里(架空の歌枕)に、恋する男と恋される女がいた。当地の習慣に従って男は思う女の家の門に錦木を立てる(錦木が家内にとり込められれば求婚が容れられた証左となる)。男が三年も通って、立てた錦木の数は千本に及んだが、それは顧みられることなく、女は何時も家内にあって機(はた)を織り続けるなかりであった。男は悲恋の果て、思い死してこの世を去るが、女も男の執心に祟られ、やがて世を去った。この世にて添うことの叶わなかった二人は同じ塚の下に千束の錦木と細布と一緒に葬られた。塚は錦塚と名づけられて哀れな恋の語り草となった。
というもので謡曲「錦木」は恋慕の執心が旅僧の回向によって救われる複式夢幻能。ウィキの「錦木」によれば、『昔東北地方で行われた求愛の習俗で、男が思う相手の家へ通い、その都度一束(ひとつか)の錦木を門前の地面に挿し立てたという。
女が愛を受け容れるまで男はこれを続けるので、ときには無数の錦木が立ち並ぶことになった。千束が上限であったともいう。いわゆる「錦木塚伝説」はこうした背景から生まれた伝説であり、秋田県鹿角市・古く錦木村と呼ばれた地域に今も塚が遺る』。『また、こうしたロマンチックな習俗については古くから都にも知られ、多くの歌人の詠むところともなった』。として、以下の和歌が示されてある。
錦木はたてながらこそ朽にけれけふの細布胸あはじとや 能因法師
思ひかね今日たてそむる錦木の千束(ちづか)も待たで逢ふよしもがな
大江匡房(「詞花和歌集」恋)
立ち初(そ)めてかへる心はにしきぎのちづかまつべきここちこそせね
西行(「山家集」中 恋)
「錦木」の梗概として私が参考にした、たんと氏のHP「tanto's room たんとの部屋」の謡曲「錦木」の解説頁などを参照されたい。
但し、前の「陸奧の希婦(けふ)の細布胸合ぬ事を恨佗び」の部分は、それでも解し難い。ここは、恐らく、
――あの男女が遂に逢えなかった陸奥の狭布(けふ)の里で女が織り続けたという、細い細いというその布では、細布故に胸元を合わせることが叶わない――合う(逢う)べき筈のものが合わない(逢えない)ことを深く悲しみ恨んで、
の謂いであろう。
「守宮(ゐもり)の驗(しるし)」古代中国で、男性が守宮(ヤモリ)に朱(丹砂。水銀と硫黄の化合物。)を食べさせて飼い、その血を採って既婚の婦人に塗っておくと、その婦人が不貞を働いた場合、その印(しるし)が消えるとされた。これが本邦に形状の似るイモリに取り違えられて伝わったものがこれである。この辺りのことは、私の電子テクストである南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」及び寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)及び「守宮」(ヤモリ)及び「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分等を参照されたい。
「小夜衣の歌」「新古今和歌集」巻二十の「釋教歌」にある(新編国歌大観番号一九六三)、
不邪婬戒
さらぬだに重きが上の小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまな重ねそ
に基づく謂い。「つま」は「褄」に「妻」を掛けて、不倫を戒める。
「因幡前司廣元申しけるは……」以下は「吾妻鏡」正治元(一一九九)年八月十九日の条に拠るが、あたかも大江広元が頼家を焚きつけているかのように読めるのは、ここは原典の記述の前後が逆転しているからで、筆者の恣意的な作為である。以下に「吾妻鏡」を示す。
〇原文
十九日己卯。晴。有讒侫之族。依妾女事。景盛貽怨恨之由訴申之。仍召聚小笠原彌太郎。和田三郎。比企三郎。中野五郎。細野四郎已下軍士等於石御壺。可誅景盛之由有沙汰。及晩小笠原揚旗。赴藤九郎入道蓮西之甘繩宅。至此時。鎌倉中壯士等爭鉾竸集。依之尼御臺所俄以渡御于盛長宅。以行光爲御使。被申羽林云。幕下薨御之後。不歷幾程。姫君又早世。悲歎非一之處。今被好鬪戰。是亂世之源也。就中景盛有其寄。先人殊令憐愍給。令聞罪科給者。我早可尋成敗。不事問。被加誅戮者。定令招後悔給歟。若猶可被追罸者。我先可中其箭云々。然間。乍澁被止軍兵發向畢。凡鎌倉中騒動也。萬人莫不恐怖。廣元朝臣云。如此事非無先規。 鳥羽院御寵愛祗薗女御者。源仲宗妻也。而召仙洞之後。被配流仲宗隱岐國云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十九日己卯。晴。讒侫(ざんねい)の族有り。妾女(せふじよ)の事に依つて、景盛、怨恨を貽(のこ)すの由、之を訴へ申す。仍つて小笠原彌太郎・和田三郎・比企三郎・中野五郎・細野四郎已下の軍士等、石の御壺へ召し聚め、景盛を誅すべきの由、沙汰有り。晩に及びて、小笠原、旗を揚げ、藤九郎入道蓮西(れんさい)が甘繩の宅に赴く。此の時に至りて、鎌倉中の壯士等、鉾を爭ひて竸(きそ)ひ集まる。之に依つて尼御臺所には、俄かに以つて盛長の宅に渡御、行光を以つて御使と爲し、羽林に申されて云はく、「幕下薨御の後、幾程も歷(へ)ず、姫君、又、早世し、悲歎一(いつ)に非ざるの處、今、鬪戰を好まる。是れ、亂世の源なり。就中(なかんづく)、景盛は、其の寄せ有り。先人、殊に憐愍(れんびん)せしめ給ふ。罪科を聞かしめ給はば、我、早く尋ね成敗すべし。事、問ひもせず、誅戮を加へらるれば、定めし、後悔を招かしめ給はんか。若し猶ほ、追罸(ついばつ)せらるべくば、我れ、先づ其の箭(や)に中(あた)るべし。」と云々。
然る間、澁り乍ら、軍兵の發向を止められ畢んぬ。凡そ鎌倉中、騒動なり。萬人、恐怖せざる莫し。廣元朝臣云はく、「此の如き事は、先規、無きに非ず。 鳥羽院、御寵愛の祗薗(ぎをん)の女御は、源仲宗が妻なり。而るに仙洞に召すの後、仲宗を隱岐國へ配流せらる。」と云々。
・「讒佞」人を中傷し、上の者に諂(へつら)うこと。
・「小笠原彌太郎・和田三郎・比企三郎・中野五郎・細野四郎」頼家直々の指名になる悪名高き愚連隊、五名の近習である。順に小笠原長経・和田朝盛・比企宗員・中野能成・細野四郎(名不詳。木曾義仲遺児とも)。但し、五名には宗員の下の弟比企時員を数えるものもある。
・「藤九郎入道蓮西」影盛の父安達盛長の法号。当時、満六十四歳。
・「行光」二階堂行光(長寛二(一一六四)年~承久元(一二一九)年)。二階堂行政の子で政所執事。後は彼の家系がほぼ政所執事を世襲している。
・「羽林」頼家。近衛大将の唐名。
・「幕下」頼朝。
・「寄」人望・信頼の意とも、仔細(妻を奪ったという頼家側の問題点)の意とも、両方の意味で採れるが、続く文からは頼朝以来の信任という前者の謂いである。
・「鳥羽院」は白河院の誤り。
・「源仲宗」(?~治承四(一一八〇)年)源三位頼政の子。父とともに以仁王の令旨に呼応して平家打倒の挙兵をしたが宇治平等院の戦いで平知盛・維盛率いる平家軍に敗れ、討ち死にした。白河院の寵愛を受けた祇園女御の元夫ともされる(私は年齢的な問題からこの説はハズレだと思っている)。
・「祗薗の女御」(生没年・姓氏共に不詳)は白河院の妃の一人で、別号を白河殿・東御方と言った。個人サイト「垂簾」の「白河天皇后妃」の記載によれば、寛治七(一〇九三)年頃に白河上皇に出仕したと推定されるが、正式に宣旨を受けた女御ではなく、藤原顕季(白河法皇の乳母子で院の近臣)の縁者で、三河守源惟清の妻かとも、また蔵人源仲宗の妻とも、祇園西大門の小家の水汲女とも伝えられており、当初は身分の低い官女であったものかとも記されてある。子女はもうけず、法皇の猶子であった藤原璋子を養育し、晩年は仁和寺内の威徳寺に暮したが、彼女は実は平清盛の母とも(祇園女御の妹が母という説もある)伝わるが、伝承の域をでない、とある。筆者はここで専ら清盛御落胤説を提示したかったものと思われる。また筆者は、それを歴史的事実として受け入れることで、この後に起こるところの実際の嫡流の断絶という事態を避けるためには、血を残しおくために女は機能しなくてはならない、女とはそういうものである、だからそのための如何なる破廉恥な行為も高度な政治的判断の中にあっては肯定されねばならない、といったことを暗に広元の言に絡めて述べているようにも思われる。筆者は承久の乱の記述で政子という女性の政治介入を厳しく批判している。但し、これは江戸時代に強まった婚家(源氏)が滅び、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に反するという政子への一般通説の批難に裏打ちされていることも事実ではあろう。
「尼御臺所は盛長入道が家に逗留し給ひ、安達景盛を召されて……」以下は、翌日、「吾妻鏡」正治元(一一九九)年八月二十日の条に拠る。
〇原文
廿日庚辰。陰。尼御臺所御逗留于盛長入道宅。召景盛。被仰云。昨日加計議。一旦雖止羽林之張行。我已老耄也。難抑後昆之宿意。汝不存野心之由。可献起請文於羽林。然者即任御旨捧之。尼御臺所還御。令献彼状於羽林給。以此次被申云。昨日擬被誅景盛。楚忽之至。不義甚也。凡奉見當時之形勢。敢難用海内之守。倦政道而不知民愁。娯倡樓而不顧人謗之故也。又所召仕。更非賢哲之輩。多爲邪侫之属。何况源氏等者幕下一族。北條者我親戚也。仍先人頻被施芳情。常令招座右給。而今於彼輩等無優賞。剩皆令喚實名給之間。各以貽恨之由有其聞。所詮於事令用意給者。雖末代。不可有濫吹儀之旨。被盡諷諫之御詞云々。佐々木三郎兵衞入道爲御使。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日庚辰。陰り。尼御臺所、盛長入道の宅に御逗留。景盛を召し、仰せられて云はく、「昨日計議を加へ、一旦は羽林の張行(ちやうぎやう)を止むと雖も、我れ、已に老耄(らうもう)なり。後昆(こうこん)の宿意を抑へ難し。汝、野心を存ぜざるの由、起請文を羽林に献ずべし。」と。然らば、即ち御旨に任せて、之を捧ぐ。尼御臺所、還御し、彼の状を羽林に献ぜしめ給ふ。此の次(ついで)を以つて申されて云はく、「昨日、景盛を誅せられんと擬すは、楚忽の至り、甚だ不義なり。凡そ當時の形勢を見奉るに、敢へて海内の守りに用ゐ難し。政道に倦(う)みて民の愁いを知らず、倡樓(しやうろう)に娯しみて人の謗(そし)りを顧みざるの故なり。又、召仕ふ所、更に賢哲の輩に非ず。多く邪侫(じやねい)の属たり。何をか况や、源氏等は幕下の一族、北條は我が親戚なり。仍つて先人、頻りに芳情を施され、常に座右に招かしめ給ふ。而るに今、彼の輩等に於いて優賞無く、剩(あまつさ)へ皆、實名を喚ばしめ給ふの間、各々以て恨みを貽(のこ)すの由、其の聞へ有り。所詮、事に於いて用意せしめ給はば、末代と雖も、濫吹(らんすい)の儀有るべからず。」の旨、諷諫(ふうかん)の御詞を盡さると云々。
佐々木三郎兵衞入道、御使たり。
・「老耄」北条政子(保元二(一一五七)年~嘉禄元(一二二五)年)は当時満四十二歳。であった。
・「海内」日本国。
・「剩皆實名を呼ばしめ給ふの間」北条を始めとする家臣団の連中を皆、官位や通称でなく、本名で呼び捨てになさるために、の意。本名を呼ぶのは甚だしく礼儀に反し、不吉でもある。ただ、ここは文脈上では「その上源氏は將軍の御一族北條は我が親族なれば」という前文に強く限定されているので、増淵氏の訳のように『他氏と同様に、(将軍家の縁戚でなく)単なる北条氏として呼ばせなさっているので』という、北条氏は家臣団とは別のグレードであるのに、という訳の方が説得力はあるように思われはする。
・「濫吹」狼藉。]
三十九
敬佛房云、彼兩上人明遍・明禪も、住運(にんうん)の御發心(ごほつしん)などは、みえず。たゞつねに理(ことわり)をもて、制伏(せいふく)し給し也。しからば、道理を忘れざるを、又道心といふべき也。後世(ごせ)のつとめは、心つよくてのうへの事也。よろづさはる事のみあるをば、おぼろけの心にては、いかでか、たへこらふべき。然而(しかうして)人ごとに、道理のごとく、道理をたて得ざるあひだ、皆心にまけて、はては後世もおもはぬものに成(なり)あひたるなり。道理のかひなく、道理を始終とほさぬが第一の後世のさはりにてあるなり。
世間出世至極(せけんしゆつせごく)たゞ死の一事也。死なば死ねとだに存ずれば、一切に大事はなきなり。この身を愛し、命を惜しむより、一切のさはりはおこることなり。あやまりて死なむは、よろこびなりとだに存ずれば、なに事もやすくおぼゆる也。しからば、我も人も、眞實に後世をたすからむとおもはんには、かへすぐも、道理をつよくたてゝ、心にまけず、生死界(しやうじかい)の事を、ものがましくおもふべからざるなり。されば經に、心の師となりて心を師とせざれといへる也。
〇任運の御發心、むかしの上人達も、自然(じねん)に發心して相續し給へるにあらず。下地(したぢ)が凡夫なれば、道心のたゆむこともあるべけれども、佛法の道理をつよくたて、妄心(まうしん)を禁制して相續し給へるなり。まして今の世の人は、事にふれて道心さめやすし。たゞ義理をつよくたてゝ、みづから心の師となり、妄心の私にかちて相續すべし。
〇道理を忘れざるを、意味ふかきことばなり。義にいさむ武士の討死(うちじに)するごとく、出家は出家の義にいさみて、捨邪歸正(しやじやきせい)の道理をきつと心にかくべし。
〇よろづさはる事のみ、一鉢(いつぱつ)むなしく、八風(はつぷう)しづかならず。衆苦(しゆく)身にあつまり、諸緣心にたがふ。
〇おぼろけの心にてはいかでかたへこらふべき、竹窓二筆云、先德、有言。出家大丈夫之事也。非將相之所能爲也。夫將以武功定禍亂、相以文學興太平。天下大事、皆、出將相之手。而曰出家非其所能。然則出家豈細故哉。
〇道理をつよくたてゝ、心の師となり、己に克ちて、晩節をたもち、私に負くることなかれとなり。
〇經、涅槃經。
[やぶちゃん注:本文は、Ⅱを元としながら、Ⅰを参考にしつつ、Ⅲを視認しながら、新たに私が「組み直し、読みを振った特殊なもの」であることを最初にお断りしておく。
まず、Ⅱが冒頭、
彼兩上人も、明遍・明禪 住運の御發心などは、みえず。
という不可解な配置にあるものを(明禪」の下の字空けはママ)、Ⅰの記載が「明遍・明禪」がなく、
彼兩上人も住運の御發心などは見えず、
となっていて、標註の方に「彼の兩上人、明遍、明禪」とあるのを受けて、上記の位置に恣意的に移動させたものである。これは割注のようなものとして後から加えられたものが、かくもおかしな表記として本文内に混入書写されたものと類推する。
更に、本文に示した最後の一文、
されば經に、心の師となりて心を師とせざれといへる也。
は、Ⅰ及びⅢにはない。大橋氏注によれば、これは殆どⅠのみに載る一文であるらしく、「続群書類従」本もこの一文を欠く、とある。しかし、このよく知られた名言は非常に含蓄に富んだいい台詞であり、私はどうしてもこの本文に示したかった。されば、ここにかく復元したものである。
謂わば、私は個人の思いとしては「一言芳談」の原形としてはⅠに賛同したい(但し、書誌学的には最後の一文は寧ろ後世の誰かによって追補された可能性の方が高いかも知れぬ)のだが――ところが――Ⅰでは、何と本文の前段部が「用心」の部に、改行されている後段部分が「念佛」の部に分離されてしまっているのである。――以上、私が「組み直し、読みを振った特殊なもの」をここに示した理由である。
「八風」修行を妨げる八つの現象。人が求めることによって生ずる四順(しじゅん)と、人間が避けることによって生ずる四違(しい)の八種から成る法数。ウィキの「八風」によれば、四順は利=目先の利益を得たい・誉=名誉を受けたい・称=称賛されたい・楽=様々に楽しみたい、四違は衰=肉体が衰えたり金銭及び物品を損失したりする・毀=不名誉を受ける・譏=中傷される・苦=様々に苦しむ、といった人心を動搖させるところの幸不幸の状態・傾向の総体を謂い、それらを物を動かす風に譬えたものである。
「道理のかひなく、道理を始終とほさぬが第一の後世のさはりにてあるなり」やや分り難い。ここは、
極楽往生をするのだという道理(強い信念に基づくはずの究極唯一の希求)を持っていながら、結局、その甲斐がない状態――即ち、まさに――その道理を『完全に最後まで押し通すことが出来ない』という事態が――極楽往生の、第一の障りとなるのである。
という謂いである。
「世間出世至極たゞ死の一事也」この世に生を受けた者総て一人残らず、彼らの究極の思いは、これ、「死」の一事のみである。
「ものがましく」大袈裟である。仰々しい。ことごとしい。
「竹窓二筆云……」「竹雲二筆」は明代の禅僧雲棲袾宏(うんせいしゅこう 一五三五年~一六一五年)の随筆集。当該漢文をⅠの訓点に従いつつ、Ⅱの書き下しも参考にしながら、以下に私の書き下し文を示しておく。
「竹窓二筆」に云く、先德、言へること有り、『出家は大丈夫の事なり。將相(しやうしぃやう)の能く爲す所に非ざるなり。夫れ、將は武功を以つて禍亂(くわらん)を定め、相は文學を以つて太平を興(おこ)す。天下の大事、皆、將相の手に出づ。而して出家は其の能くする所に非ず。」と曰ふ。然らば則ち出家、豈に細故(さいこ)ならんや。』と。
「細故」細かなこと。取るに足りないこと。この雲棲の語は禪語としてふさわしい強烈なパラドクッスで、小気味よい。]
二 形の僞り
[木の葉蟲]
色や模樣のみならず身體の形までが何か他物に似て居れば、敵の眼を眩ますには無論更に都合が宜しい。琉球の八重山邊に産する「木の葉蝶」が枯葉に似て居ることや、内地に普通に見る桑の「枝尺取り」〔エダシャク〕が桑の小枝にそのまゝであることは、小學讀本にも出て居て餘り有名であるから、こゝには略して二、三の他の例を擧げて見よう。東印度に産する「木の葉蟲」などはその最も著しいもので、「いなご」の類でありながら身體は扁たくて木の葉の如く、六本の足の節々までが各々扁たくて小さな葉のやうに見え、翅を背の上に疊んで居ると、翅の筋が恰も葉脈の如くに見える。そして全身綠色であるから、綠葉の間に居ると誰の目にも觸れぬ。印度コロンボの博物館には、玄關の入口に生きた「木の葉蟲」が澤山飼うてあつたが、その眞に綠色の木の葉に似て居ることは誰も驚かぬ者はない。この蟲に限らず、およそ他物に酷似するには、色も形もともにその物と同じでなければならぬから、形の似て居る場合には無論色も極めてよく似て居る。
[やぶちゃん注:「木の葉蝶」鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科コノハチョウ族コノハチョウ
Kallima inachus Boisduval, 1846。インド北部からヒマラヤ・インドシナ半島・中国・台湾・先島諸島から沖縄諸島・奄美群島の沖永良部島と徳之島にかけて分布し、コノハチョウ属(Kallima 属)の中では最も広い分布域を持つ。分布域内で幾つかの亜種に分かれており、日本に分布するものは亜種 Kallima inachus eucerca Fruhstorfer, 1898 とされ、宮崎県以南で見られる。但し、参照したウィキの「コノハチョウ」には、『翅の裏側が枯葉に似るため、擬態の典型例としてよく知られた昆虫だが、疑問を呈する向きもある。もしも枯葉に似せた姿を擬態として用いるならば、枯葉を背景に羽根の裏を見せるか、枯れ枝に葉のような姿で止まるべきだと考えられるが、この蝶は葉の上で翅を広げるか、太い幹に頭を下に向けて止まるため、枯葉に似せる意味がないだろう、と云う説による』とある。種小名“inachus”はギリシア神話のイナコス河の神でオケアノスの子、イオの父で、彼は、
Pakicetus inachus パキケトゥス・イナクス(約五三〇〇万年前の新生代古第三紀始新世初期のイーペル期(Ypresian ヤプレシアン)の水陸両域に棲息していた四足哺乳動物で、現在知られる限りで最古の原始的クジラ類の化石種であるパキケトゥス属の一種)
や、
短尾下目Majoidea 上科 Inachidae 科 Inachus 属(和名はヨツバイソガニか)の属名など多くの使用例があって好まれる名であるらしい。属名の意味は遂に分からなかった。
「枝尺取り」昆虫綱チョウ目シャクガ科 Geometridae の幼虫の総称であるシャクトリムシの内、特にエダシャク(枝尺)亜科 Ennominae にこの和名がある。ウィキの「シャクトリムシ」によれば、『シャクガの幼虫は、他のイモムシと比べて細長いものが多い。通常のイモムシは体全体にある足と疣足を使い、基物に体を沿わせて歩くが、シャクトリムシは体の前後の端にしか足がない。そこで、まず胸部の歩脚を離し、体を真っ直ぐに伸ばし、その足で基物に掴まると、今度は疣足を離し、体の後端部を歩脚の位置まで引き付ける。この時に体はU字型になる。それから再び胸部の足を離し、ということを繰り返して歩く。この姿が、全身を使って長さを測っているように見えることから、「尺取り虫」と呼ばれる』とあり、『エダシャク亜科には、木の枝に擬態するシャクトリムシがいる。そのような種では、体表が灰褐色の斑など、樹皮に紛らわしい色をしている。そうして、自分より太い木の枝の上で、後端の疣足で体を支え、全身を真っ直ぐに緊張させ、枝の上からある程度の角度を持って立ち上がり、静止すると、まるで先の折れた枯れ枝にしか見えなくなる。昔、農作業の際、茶を土瓶に入れて持参し、枯れ枝のつもりでこのようなシャクトリムシに引っ掛けると、当然ながら引っ掛からずに落ちて土瓶が割れる。それで、この様なシャクトリムシを「土瓶落とし」と呼んだという』とあるので、丘先生が尺取虫とせずに『枝尺取り』としたのは極めて正確であることが分かる。亜科名“Ennominae”はギリシア語の“ennomos”(法にかなった)で、いやこりゃもう、謂い得て妙である。
「木の葉蟲」ナナフシ目コノハムシ科 Phyllidae の昆虫で、熱帯アジアのジャングルに広く分布しており、二十種ほどが確認されている。ウィキの「コノハムシ科」によれば、『草食性で、メスは前翅が木の葉のようになっており、翅脈も葉脈にそっくりで、腹部や足も平たく、飾りのための平たい鰭もあり、木の葉に擬態することができる。一方、オスは細長い体型で、腹部のほとんどが露出しているため木の葉に似てないが、後翅が発達していて飛ぶことが出来る。周囲の色によっては、黄色や茶色の個体も見られる』とある。科名“Phyllidae”はギリシア語で「葉」を意味する“phyllon”に由来する。]
江 嶋〔或榎嶋或ハ繪島工作ル〕
龍口ヨリ嶋マデ十一町四十間也。潮ノ落タル時ハ砂濱也。徒歩ニテモ渡ル。潮盈タル時ハ六町計モ水ヲ踰ル也。嶋ノ入口ヨリ辨才天ノ岩窟マデ十二町半、嶋ハ方廿五町餘有ト也。坂ノ上三石ノ華表アリ。金龜山ト云額アリ。辨才天ノ巖窟甚廣大ナリ。此巖窟ヲ江嶋ノ神トス。社壇ノ下ニ蛇形ト云テ、寶殊ヲ蛇ノ纏ヒタル躰ニ作リテアリ。弘法ノ作ト云。故ニ弘法ヲ巖窟ノ開基トス。嵯峨帝弘仁五年ニ弘法此窟中ニ參寵シテ、天照太神・春日・八幡等ノ諸神ノ像ヲ刻テ、勸請セラル。窟中暗黑、松明ヲ振テ入ル。胎藏界ノ穴、金剛界ノ穴トテ窟中ニ堺アリテ左右ニ分レ行、入事一町餘ニシテ石佛アリ。此ヨリ奧へハ、穴隘シテ立テ行べカラズ。行タル人モナシト云。ソレ迄ノ路ノ側ニ、弘法ノ祈出タルトテ、巖間ヨリ落ル淸泉アリ。蛇形ノ池、弘法ノ臥石アリ。手ヲ以テ授ルニ人肌ノ如ク、濕ニシテ滑膩ナリ。護摩ノ爐トテアリ。觀音アリ。弘法ノ作ト云。石ノ獅子、弘法歸朝ノ時、取來ルト云。
[やぶちゃん注:「天照太神」底本では「太」の右に『(大)』と誤字注をする。
「隘シテ」「せまくして」と訓じているように思われる。
「滑膩」は「カツジ」と読み、滑らかで光沢のあること。]
長明海道記
江ノ嶋ヤサシテ鹽路ニ跡タルヽ神ハ誓ヒノ深キナルヘシ
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
江の島やさして潮路に跡たるる神は誓ひの深きなるべし
「跡たるる」は本地垂迹説に基づく。法華経普門品に「誓深如海」(弘誓深きこと海の如し)とある。]
此日腰越村ヲ出テ、海濱ニ網ヲ設ケ、若干ノ魚鱗ヲ捕ラシム。御代官成瀨五左衞門、從ヒ來テ我ヲ饗ス。辨才天ノ窟ヲ出テ前ニ魚板(マナイタ)岩トテ面平ニ、大ナル岩アリ。其上三屋シテ四方ヲ眺望スルニ、萬里ノ廻船數百艘、帆腹膨朜トシテ、或ハ又漁艇商船海上ニ滿ミテリ。豆駿・上下總・房州等ノ諸峯連壑分明ニ眼前ニアリ。富士ハ兒淵ノ眞西ニアタル。兒淵ト名ルコトハ、昔建長寺廣德庵ニ自休藏主ト云有僧(僧有リ)、奧州志信ノ人也。江嶋へ百日參詣シケルニ、雪下相承院ノ白菊ト云兒、邂逅シテ後、忍ヨルべキ便ヲ求メシニ、其返事ダニナシ。或時此兒、夜ニ紛レ出テ江嶋ニユキ、扇ニ歌ヲ書テ渡守ヲ賴ミ、若我ヲ尋ル人アラバ見セヨトテ、カクナン。
白菊トシノアノ里ノ人トハヽ 思ヒ入江ノ嶋ト答へヨ
ウキコトヲ思ヒ入江ノ嶋陰ニ 捨ル命ハ浪ノ下草
ト読テ此淵ニ身ヲ投ケリ。自休尋來テ此事ヲ聞、カク思ヒ続ケル。
懸崖嶮處捨生涯 十有餘霜在刹那
花質紅顏碎岩石 妓眉翠袋接塵沙
衣襟只濕千行涙 扇子空留ニ首歌
相對無言愁思切 暮鐘爲執促歸家
ト読テ其儘海ニ入トナン。是ヨリシテ兒淵トハ云トゾ。
[やぶちゃん注:ここに注を挟みたい。
「御代官成瀨五左衞門」ウィキの「腰越地域」に、『戦国時代になると後北条氏の支配下に入り、北条氏滅亡後は徳川氏の支配下に入った。当初は玉縄藩領だったが、後に成瀬重治が知行し、その際検地を受けた。その後も旗本領となった』とある。
「膨朜」は「膨※」(「※」「朜」の最終の横一角を除いた、(つくり)が「亨」)であろう。「膨※」は「ボウカウ(ボウコウ)」と読み、腹が膨れるの意。順風満帆のこと。
「連壑」は「レンガク」と読み、連なった谷。
「奥州志信」は「しのぶ」と読み、陸奥国信夫郡(しのぶのこおり)。ほぼ現在の福島県福島市に等しい。
稚児白菊の和歌を分かり易く書き直しておく。
白菊(しらぎく)と信夫(しのぶ)の里の人問はば思ひ入江(いりえ)の島と答へよ
うきことを思ひ入江の島かげに捨つる命は波の下草(したくさ)
禅僧自休の漢詩を書き下しにしておく。
花質 紅顏 岩石に碎け
十有 餘霜 刹那在り
娥眉 翠黛 塵沙に接す
衣襟 只だ濕ふ 千行の涙
扇子 空しく留む 二首の歌
相ひ對して言ふ無し 愁思 切なり
暮鐘 孰(たれ)が爲にか 歸家を促す
以下の文章は、底本では「是ヨリシテ兒淵トハ云トゾ。」に直に繋がっていて、改行していない。]
巖本院從者ヲ勞フべシトテ行厨ヲ送ル。成瀨氏海人ヲシテ石決明ヲ取シム。則魚板岩ノ前ナル海へ入テ捕之(之を捕ふ)。或ハ菜螺・大龍蝦・蛸魚等アリ。獻之(之を獻ず)。因テ諸士ト共ニ樂ム。遂ニ一葉ニ乘ジテ嶋嶼ヲ廻リ、巖本院ガ樓ニ上ル。士峯ノ雪筵ヲ照シ、海波淼漫トシテ無限風光ナリ。
[やぶちゃん注:ここに注を挟みたい。
「行厨」「カウチユウ(コウチュウ)」と読み、弁当のこと。
「菜螺」「榮螺」(サザエ)の誤字か。
「大龍蝦」イセエビ。
「蛸魚」タコ。
「淼漫」「ベウマン(ビョウマン)」と読み、水面が果てしなく広がっているさま。淼淼(びょうびょう)。
以下の文章は、底本では「海波淼漫トシテ無限風光ナリ。」に直に繋がっていて、改行していない。]
ソレヨリ後緣起ヲ見ル。其略曰、武烈帝ノ時、金村大臣ト云長者、子十七人アリケルニ、皆五頭龍王ニ取ルヽトゾ。龍口寺ノ東ノ端ニ長者谷ト云所アリ。此時西ノ山沸出、辨才天女示現シテ五頭龍王ト夫婦トナル。欽明帝貴樂元年四月十四日、東ノ山ヲ諸神筑キ成ケルトゾ。此地ノ開基ハ役行者也。次ニ泰澄、次ニ道智、次ニ弘法、皆コヽニ來リ居ル。次三文德帝仁壽三年、慈覺上官ヲ創造ス。正治元年慈悲良眞下宮ヲ建立スル也。慈悲初ハ天臺宗ナリンガ後ニ禪ニ成トナリ。慈悲入宋シテ慶仁ニ逢、碑文ノ石ヲ取來ルト云。龍口山ノ後ニ當リテ阿彌陀池・光明眞言池トテ二ツアリシヲ、泰澄祈リツブスト也。又按ズルニ東鑑ニ者、養和三年、兵衞佐殿、腰越ニ出シ玉フ、御家人等供奉ス。ソレヨリ江島へ御參詣、今日高雄文覺、兵衞佐殿御願祈誓ノ爲、大辨才天ヲ此島ニ勸請ス。今日鳥居ヲ立ラルト云リ。昔北條時政、此島ニ詣テ、子孫ノ繁榮ノ事ヲ祈ル。三七日ノ夜、一人ノ美女來リ告テ云。汝ガ後胤必ズ國權ヲ執ン。其レ無道ナラバ七世ニシテ失フ事アラン。既ニシテ歸ル。時政驚怪シテ見レバ、大蛇ノ長二十丈バカリナルガ海中ニ入ヌ。其遺ス所ノ三鱗甚大ナリ。取テ是ヲ旗ニ着ク。所謂北條ノ三鱗形ノ紋是也。上宮巖本院ト額アリ。朝鮮國螺山筆也。辨才天女、弘法ノ作。幷ニ千躰地藏アリ、役行者ノ作ト云。巖本院再ビ酒饌ヲ設テ饗ス。多景ニヒカレ、シバシバ盃ヲ傾ク。人ヲシテ下宮ヲ見セシム。
[やぶちゃん注:「欽明帝貴樂元年」西暦五五二年。
「諸神筑キ」の「筑」は「築」の意。
「文德帝仁壽三年」西暦八五三年。
「正治元年」西暦一一九九年。
「養和三年」寿永二(一一八三)年。但し、これは養和二年四月五日の誤りである(底本にはその編者注記はない)。以下に「吾妻鏡」の当該部を示す。
〇原文
五日乙巳。武衞令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北條殿。新田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衞御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎭守府將軍藤原秀衡也云々。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日乙巳。武衞、腰越邊、江嶋に出でしめ給ふ。足利冠者・北條殿・新田冠者・畠山次郎・下河邊庄司・同四郎・結城七郎・上総權介・足立右馬允・土肥次郎・宇佐美平次・佐々木太郎・同三郎・和田小太郎・三浦十郎・佐野太郎等、御共に候ず。是れ、高尾の文學(もんがく)上人、武衞の御願を祈らんが爲、大辨才天を此の嶋に勸請し奉り、供養の法を始め行ふ間、故(ことさら)に以つて監臨せしめ給ふ。密議なり。此の事、鎭守府將軍藤原秀衡を調伏せんが爲なりと云々。今日、即ち鳥居を立てられ、其の後、還らしめ給ふ。金洗澤邊に於いて牛追物有り。下河邊庄司・和田小太郎・小山田三郎・愛甲三郎等、箭員(やかず)有るに依つて、各々色皮(いろがは)・紺絹(こんきぬ)等を賜はる。
・最初の「御共」の内の名が挙がる十六名の人物を順に以下に正字で示しておく。
足利義兼・北條時政・新田義重・畠山重忠・下河邊行平・下河邊政義・結城朝光・上総廣常・足立遠元・土肥實平・宇佐美實政・佐々木定綱・佐々木盛綱・和田義盛・三浦義連・佐野基綱
・「文學上人」頼朝に決起を促した文覺は、こうも書く。
・「牛追物」鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・神頭(じんどう:鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたというから、時代的にも場所的にも、ここではこの矢が如何にもふさわしい)などの矢で射る武芸。
・牛追物の名の挙がる四名の射手を順に以下に正字で示す。
下河邊行平・和田義盛・小山田重成・愛甲三郎季隆
・「箭員有るに依りて」牛に的中した矢数が多かったので。
・「色皮・紺絹」色染めをした皮革や藍染めの絹。
「腰越ニ出シ玉フ」「出シメ玉フ」の「メ」の脱字。
以下は、改行されている。]
二十七
題倪先生隻鷄之圖
明燭似風消慘悽
淸香如水滌塵迷
展將一幅澄心紙
寫得中秋白羽鷄
〇やぶちゃん訓読
倪先生隻鷄の圖に題す
明燭 風に似て 慘悽(さんせい)を消し
淸香 水のごとく 塵迷(じんめい)を滌(すす)ぐ
展(の)べ將(ささ)ぐ 一幅の澄心紙(ちようしんし)
寫し得たり 中秋白羽(はくう)の鷄(けい)
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。この前後は新年号の執筆に多忙の日々を送っていたが、私は、本詩の香りともどこか通じる雰囲気の「秋山図」の原稿の改稿の一部を、正に同日附で、掲載予定の『改造』の当時の文芸欄担当記者であった瀧井孝作に送っている(岩波版旧全集書簡番号八一四)のが大いに気になっている(リンク先は青空文庫)。実は以下、私が注する画人が多く、「秋山図」には登場するからである。なお、他に大正一〇年新年号の発表作中「秋山図」以外で着目されるのは、「山鴫」(『中央公論』)と「アグニの神」(『赤い鳥』)の二作品である。
本詩は、
大正九(一九二〇)年十二月六日附小穴隆一宛(岩波版旧全集書簡番号八一六)
に所載する。小穴隆一(おあなりゅういち 明治二四(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)は洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川が自死の意志を最初に告げた人物、遺書で子らに父と思えと言い残した人物でもある。一游亭の号を持ち、俳句もひねった。芥川の二男多加志の名は彼の「隆」の訓をもらっている。
詩の後に、
臘初六日
のクレジットと、その下部に、
雲 田 生 拜
次行に、
雲 林 庵 主 侍史
その後に、
二伸 この詩一時ばかりにて成るうまいかまづいかよくわからず 但し小島政二郎の句ようりはうまい自信があります
と記す。以上から分かるように、龍之介は自身を「雲田」、小穴を「雲林庵主」と呼称している。実はこの書簡の前にある小澤忠兵衞(碧童)宛書簡(岩波版旧全集書簡番号八一五)の中で前日(十二月五日)に瀧井孝作と改造社社長山本実彦が来て、六日中の「秋山図」脱稿を促されて『ずつとペンを握りつづけです』と書いてそれに続けて、『その後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか』と記している(「その後」は前とは繋がっていない謂いで、この前に碧童に逢って以降、の謂いと思われる)。更にそれに先立つ同年十月三十日の小穴宛書簡(岩波版旧全集書簡番号七九五)の本文宛名には『倪小隆先生』とあり、同人宛十二月三日の書簡(岩波版旧全集書簡番号八一三)には『この頃四王呉惲の画集を借りました南田が一番好いやうです今度おめにかけます』と記して、ここでの宛名は『倪隆一先生』である。この『四王呉惲』は清初の正統派文人画家を代表する王時敏・王鑑・王翬(おうき)・王原祁(おうげんき)の「四王」に、呉歴と惲寿平(うんじゅへい)を加えた清初六大家のことで、この最後の惲寿平が龍之介が称揚する惲南田(一六三三年~一六九〇年)で、また、雅号の中に現われる「倪」や「雲林」は、それより三百年ほど遡る元代の画家で元末四大家の一人、倪雲林(倪瓚げいさん 一三〇一年~一三七四年)の名前に因んだものである。以上から本詩も含めて、これらの雅号は謂わば、「勝手に雅号」、龍之介が小穴に勝手に附けたもの、真正の小穴の雅号ではないということが判明する。更に、この倪雲林について、中国旅行で現物を見た龍之介は、大正十一(一九二二)年十月発行の『支那美術』に掲載された「支那の畫」の冒頭の「松樹圖」で以下のように記している(底本は岩波版旧全集を用いたが、一部に私の読みを歴史的仮名遣で附した)。
松樹圖
雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇觀と云ふ畫帖の中にあつた。畫帖の中の畫は大部分、董其昌(とうきしやう)の舊藏に係るものらしい。
雲林筆と稱へる物は、文華殿にも三四幅あつた。しかしその畫帖の中の、雄剄(ゆうけい)な松の圖に比べれば、遙かに畫品の低いものである。
わたしは梅道人(ばいだうじん)の墨竹を見、黃大癡(くわうたいち)の山水を見、王叔明の瀑布を見た。(文華殿の瀑布圖ではない。陳寶琛(ちんはうしん)氏藏の瀑布圖である)が、氣稟(きひん)の然らしむる所か頭の下つた事を云へば、雲林の松に及ぶものはない。
松は尖つた岩の中から、眞直に空へ生え拔いてゐる。その梢には石英のやうに、角張(かどばつ)つた雲煙(うんえん)が横はつてゐる。畫中の景はそれだけである。しかしこの幽絕な世界には、雲林の外に行つたものはない。黃大癡の如き巨匠さへも此處へは足を踏み入れずにしまつた。況や明淸の畫人をやである。
南畫は胸中の逸氣(いつき)を寫せば、他は措いて問はないと云ふが、この墨しか着けない松にも、自然は髣髴と生きてゐはしないか? 油畫は眞を寫すと云ふ。しかし自然の光と影とは、一刻も同一と云ふ事は出來ない。モネの薔薇を眞と云ふか、雲林の松を假(か)と云ふか、所詮は言葉の意味次第ではないか? わたしはこの圖を眺めながら、そんな事も考へた覺えがある。
・「宣統帝」清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(一九〇六年~一九六七年)。
・「董其昌」(一五五五年~一六三六年)明末の文人で特に書画に優れた業績を残した。清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことで有名で、その影響から清朝においては彼の書が正統とされた。また独自の画論は文人画(南宗画)の根拠を示し、その隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれ、本邦の書画にも多大な影響を与えている(ウィキの「董其昌」に拠る)。
・「文華殿」明代は皇太子の住居で国政の最高機関である内閣が置かれた。清代には紫禁城東南部に配され、乾隆帝が編纂した四庫全書が収納されて儒教の講義が行われた。中華民国に至り、開放されて旧帝室御物の書画陳列室となっていた。
・「梅道人」(一二八〇年~一三五四年)は元代の文人画家で元末四大家の一人。名は呉鎮。墨竹を能くし、元の山水画様式を確立した。明代以降の画に大きな影響を与えている。
・「黃大癡」(一二六九年~一三五四年)は元代の文人画家で元末四大家の一人。本姓は陸、黄公望とも呼ばれた。山水画の正統的巨匠。諸学諸芸に通じ、詞曲や鉄笛も得意とした。道教の新興宗派であった全真教に入信している。
・「陳寶琛」(一八四八年~一九三五年)は清末の官僚。一九〇九年に北京に召し出されて礼学館総纂大臣となり、一九一一年には溥儀の帝師(侍講)となったが、翌年に溥儀は退位、そのまま溥儀に従って紫禁城にとどまり、「徳宗実録」の編纂に当たった。張勲復辟(ちょうくんふくへき:一九一七年七月一日からの十二日間だけ安徽省督軍であった張勲が溥儀を復位させた事件。)の際には議政大臣に推薦されている。一九二五年以降は溥儀に従って天津で暮らすしたが、一九三二年の満州国成立には加わらず、天津で死去した。蔵書家として知られ、十万冊を有していたという(以上は主にウィキの「陳寶チン」に拠る)。
・「逸氣」昂ぶった気持ち。
以上からも、龍之介の南画家倪雲林及び惲南田への並々ならぬ傾倒振りが看て取れる。
「慘悽」凄惨な風景。ここはそうした妄想やイメージの謂いか。
「澄心紙」清澄な心を、清くまっさらな画紙にダブらせている。
なお、本詩に関わって邱氏は「芥川龍之介の中国」の「第一章 神話構築としての中国」の「創作の背景」で、まず龍之介の「或阿呆の一生」の、
*
二十二 或 畫 家
それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。
一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。
或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。
「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」
*
の前半部を掲げ、小穴と「秋山図」の誕生の深い関連性を考察された上で、この書簡や詩によって、『画家小穴隆一に自分の魂を発見したという芥川は、小穴隆一の面前、素直に中国南画に対する熱愛ぶり披露している。ということは、雄鶏の墨絵を描く小穴に巡り合うことがなかったら、王力谷・呉鎮。王時敏・王鑑・惲南田を登場させる「秋山図」を、芥川は創作しなかったかもしれないということである』と述べておられる。
――さすれば正に――この『一羽の雄鷄の墨畫』――こそが本詩の画題にほかならなかったと考えてよかろう。――そして――「秋山図」――芸術美の本質は、クリエーターによる絶対美の創造などにあるではなく、寧ろオーディエンスの、その瞬間の現存在こそが、美的感動の本質と大きな関わりを持っている、という立場を表明する、私の好きな「秋山図」という作品を視野に置いて本詩を読む時――実は結句にある「中秋白羽鷄」は――純白の「澄心紙」の、文字通り――心象の風景――《心景という白一色の画面》の中にこそ《描かれている》――と言えるのではあるまいか?]
三十八
又云、たとひ八万の法門を通達せりとも、凡夫の位(くらゐ)には程(なを)あやまちあるべし。佛助(たすけ)玉へとおもふ事のみぞ、大切なる。
〇八万の法門、八万四千の佛教也。三賢十聖(さんげんじつしやう)の菩薩も、なほ因分にして、果海の佛には及びがたし。いはんや凡夫のあさきさとりは、あやうき事也。たゞをろかに信ずるがよき也。是を果分不可説といふ。淨土宗の故實なり。一枚起請に、たとひ一代の、とあるも、この心なり。
[やぶちゃん注:標注はⅠでは「八萬の法門、八萬四千の佛教なり。」(表記はママ)で終わっているが、実際には以上のように長い。Ⅱの脚注にあるものを正字化して復元した。
「法門」悟りに入る門の意で仏法、仏の教え。
「通達」隅々まで通じること、滞りなく通じることであるが、ここは、目を通す、学び尽くしたつもりになる、といった皮相的謂いでとらなくては意味がそれこそ「通達」しない、通じない。
「八万四千」仏教では「非常に多くの」「無数の」「総ての」の意で用いられる一種の法数(ほうすう:定型化された仏教の教理を数によって仮に示すもの。)である。
「三賢十聖の菩薩も、なほ因分にして」「三賢十聖」は大乗仏教の菩薩の修行階梯の内で、上位の聖位である十地(十聖)及びそれ以前の十住・十行・十回向(三賢)を総称する謂い。三賢十地とも。間違ってはいけないのは、彼らは未だ菩薩(修行者。これを悟りを得た仏の謂いと誤解している人が案外多いように思われる)であるから、未だ「因分」や果報の世界、即ち、因果応報の世界に住んでいるのである。
「果海」空海の密教教学で言う因果を超越した世界。第十住心。
「「果分不可説」因分(原因)となる対象については説くこと(解析)が可能であるという「因分可説」の対語。果分(結果)である存在については解析は不可能であることを示す。仏教の真の究極の結果たるものが悟達(悟り)であるから、果分不可説によってそれを説明することは出来ない、という謂いである。]
[カメレオン]
[アフリカの北部に産する「やもり」の類の一種にして、常に樹上に住み、昆蟲を見れば急に長き舌を延ばしその先端を粘著せしめて捕へ食ふ。隨意に體色を變じてその居る處と同色と成るを以て有名である。]
[やぶちゃん注:この挿絵ページは国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにある原書の画像では何故か飛んでおり、原本の二〇三頁の右に裏側から透けて見えるだけである。この裏からの反転の不鮮明な透けと講談社版のキャプション(前者と比較すると表記だけでなく表現の一部も明らかに違うことが分かる)を参考に可能な限り、推定再現したものである。「長き」は「長い」かも知れない。]
以上はいづれも動物の色が常にその住む場處の色と同じであるために、そこに居ながら恰も居らざる如くに裝うて、食ふこと及び食はれぬことに便宜を得て居るものであるが、或る動物では體の色が行く先先で變つて、どこへ引越しても相變らず留守を使ふことが出來る。この點で最も有名なのは「カメレオン」の類である。皮膚の中にある種々の色素が或は隱れ或は現れるために、その混合の程度に從つて實にさまざまの色が生ずる。そして、その色はいつも自分の居る場處の色と同じにすることが出來て、綠葉の間に居れば全く綠色となり、褐色の枝の上では褐色となり、白紙の上に置けば殆ど白に近い淡い灰色となり、炭の上に載せれば極めて濃い暗色となるから、いつも外界の物と紛らはしくて見附け難い。一體この動物は樹の枝に留まつて、飛んで來る昆蟲を待つて居るもので、それを捕へるときには極めて長い舌を急に延ばし、恰も子供が、黐(とりもち)で「とんぼ」を取る如くにして捕へるが、身體の色がいつも周圍と同じであるから、蟲は何も知らずにその近邊まで飛んで來る。常には長い舌を口の中に收めて居るから、下顎の下面は半球形に膨れ、且左右の眼も別々に動かすから、容貌が如何にも奇怪に見える。身體の色が周圍の色と同じであることは、昆蟲を驚かしめぬための外に、敵の攻撃を免れるの役にも立つであらうから、これは食ふためにも、食はれぬためにも至極有利なことであらう。我が國に産する雨蛙なども、居る場處次第で隨分著しく色を變へるもので、綠葉に止まつて居る間は鮮やかな綠色でも、枯木の皮の上に來ればこれに似た褐色になる。なほその他、體の色を種々に變ずる動物の例は幾らもあるが、多くは周圍の色に紛れて身を隱すためである。
[やぶちゃん注:爬虫綱有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目カメレオン科 Chamaeleonidae に属する九(若しくは十)属約二百種の総称。模式属はカメレオン属 Chamaeleo。荒俣氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」によれば、カメレオンの名は古代ギリシア時代からこの動物を指す語として用いられており、語源的にはギリシア語の“khamai”(地上の、又は小人の意)と“leōn”(ライオン)の意であるとある。以下、ウィキの「カメレオン科」によれば(引用箇所ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、主にアフリカ大陸・マダガスカルに分布し、最長種はフサエカメレオン属ウスタレカメレオン
Furcifer oustaleti で全長六九センチメートル、最小種はヒメカメレオン属ミクロヒメカメレオン Brookesia micra で体長は最大でも二九ミリメートル程度しかない(二〇一二年二月現在で世界最小の爬虫類とされる種で、ウィキの「ミクロヒメカメレオン」にマッチ棒の先にちんまりする画像がある。これ、凄い。……それにしても「ミクロヒメ」という和名はなんとかならんかったんかのぅ……)。『種にもよるが気分や体調により体色を限定的ながら変色させることができる。例を挙げると』
黒ずむ―体調不良。体温が低い(色を黒くすることで熱を吸収しやすくなる)
白くなる―体温が高い(日光を反射させる)
派手になる―興奮している時
種により変色の幅は異なり、ほとんど変色しない種もいる。体色による性的二型が顕著な種もいる一方で、雌雄で体色があまり変わらない種もいる。一般にはカメレオンは周囲の色に合わせて自在に体色を変えられるという誤った俗説があるが、種によって変わる色は決まっている』(これは本書の叙述からみても恐らく丘先生も誤解しておられる。しかし我々の多くも近年までそう誤解していた)。『頭部には、前方に角が生える種もいる。左右の目を三六〇度、別々に動かすことができる。近い位置に獲物を見つけると顔と両目を獲物に向けて立体視をおこない、狙いを定める。舌は蛇腹状、またはゴムの様に筋肉が収縮している。舌骨を押し出すことで縮んでいた筋肉が急激に弛緩し、前方に射出される。舌は粘着質で覆われており、獲物を付着させることができる』。『趾指は五本だが、前肢は内側の三本の指と外側の二本の指、後肢は内側の二本の趾と外側の三本の趾が癒合し二股になっている。これにより木の枝を掴むことができる。趾指の先には爪があり、枝に食い込ませることで体を支えることができる』。『主に森林に生息』し、『食性は動物食で主に昆虫類や節足動物、大型種は小型爬虫類、鳥類、小型哺乳類も食べる』。『繁殖形態は主に卵生だが、カメレオン属には卵胎生の種もいる』。ウスタレカメレオン属ラボードカメレオン Furcifer labordi『は、約九か月間を卵で過ごした後、孵化して二か月で成熟して繁殖し、四~五か月で死ぬ。これは二〇〇八年時点で知られている四肢動物としては最も短い寿命といわれる』とある。]
万 福 寺 〔或ハ作滿〕
龍護山ト號ス。眞言宗、手廣村靑蓮寺ノ末ナリ。開山行基。本尊藥師、行基作。義經ノ宿セラレシ所ナリト云。辨慶申狀ヲ書テ硯水ヲ捨タル所ノ池幷ニ松アリト云。馬上ヨリ望見テ過ヌ。
〔私闇齋遠遊記ニ、辨慶書タル申狀ノ草創猶在、東鑑ニ載スル所ニハ、首尾ニ左衞門少尉ノ五字アリ、愁ヲ紅ニ作リ抱ヲ胞ニ作ル。想ニソレ淨寫シテ、コレヲ添、コレヲ改ルナラン。〕
[やぶちゃん注:「万」は「萬」としようと思ったが、変えずにおいた。割注は底本では全体が一字下げ。
「私闇齋遠遊記」不詳。朱子学者山崎闇斎(やまざきあんさい 元和四年(一六一九)年~天和二(一六八二)年)の紀行か。識者の御教授を乞う。
「草創」は「草稿」の誤りであろう。以下の異同については、私が完全校閲・比較提示したものが「新編鎌倉志巻之六」の「滿福寺」注にある。是非、参照されたい。]
袂 浦
腰越ヨリ江嶋へノ直道、南へノ出崎ノ入江ノ濱、袂ノ如クナル地ヲ云トナン。
夫木集 讀人シラズ
ナヒキコシ袂ノ浦ノカヒシアラハ 千鳥ノ跡ヲタヘストハナン
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
靡(なびき)き越し袂(たもと)の浦の甲斐しあらば千鳥の跡を絶えずとはなむ
「カヒ」は甲斐と貝を掛けていよう。]
龍 口 寺
寂光山ト號ス。腰越村ノ末ニアリ。日蓮ノ取立タル寺ニテ、初ヨリ開山ナシ。祖師堂ニ首ノ座ノ石アリ。石ノ籠モアリ。日蓮難ニ遭ヒシハ文永八年九月十二日ト云リ。七坊アリ。七ヶ寺ヨリ輪番ニ勤之(之を勤む)。七坊、妙傳寺〔比企谷ノ末〕、本成寺〔身延ノ末〕、本立寺〔比企谷ノ末〕、法玄寺、勤行寺〔玉澤ノ末〕、東漸寺〔中山ノ末〕、是ナリ。外ニ常立寺ト云アリ。悲田派武藏ノ碑文谷ノ末ナリ。近ゴロ公事有テ、今ハ輪番ニ入ラズ。本堂ニ日蓮ノ木像アリ。番神堂ハ松平飛騨守利次室再興也。
龍口明神
寂光山ノ東邦ニアリ。昔五頭龍王アリ。人ヲ以テ牲トセシニ、江嶋ノ辨才天女夫婦ノ契アリテヨリ、龍口明神ト祭ルトナリ。
片 瀨 川
藤澤海道ノ南へ流出ル小川也。駿河次郎淸重討死ノ所也。東鑑ニ片瀨ノ在所ノアタリニテハ片瀨トイフ。石上堂村ノ前ニテハ石上川ト云。
中務卿宗尊親王
歸來テ又見ンコトハカタセ川 ニコレル水ノスマヌ世ナレハ
海道宿次百首 參議爲相
打ワタス今ヤ汐干ノカタセ川 思ヒシヨリモ淺キ水カナ
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
歸り來て又見ん事もかたせ川濁れる水の澄まぬ世なれば
將軍職を辞任し、本意ならず帰洛した際の歌とされる哀傷歌である。
打ち渡す今や潮干(しほひ)の片瀨川思ひしよりは淺き水かな]
西行見歸松〔又西行戻(モドリ)松云〕
片瀬村へユク路邊ノ右ニアリトナン。此所迄西行來シガ、是ヨリ歸タリト云。
笈 燒 松
片瀨村ヨリ南へ行道アリ。此所ヨリ出、六町程ユキテ在家ノ後ロノ竹藪ノ際ニアリトナン。駿河次郎淸重ガ笈ヲ燒シ所ナリト云。
唐 原
片瀬川ノ出崎、海ノ方、東南ノ原ヲ云。
夫木集 藤原忠房
名ニシオハハ虎ヤ伏ラン東野ニタツトイフナルモロコシカハラ
同集 讀人不知
遙カナル中コソウケレ夢ナラテ 遠ク見ユケリ唐カ原
[やぶちゃん注:最初の和歌の「タツ」は二字で「有」の草書の誤写であろう。和歌を読み易く書き直しておく。
名にし負はば虎や伏すらむ東野(あづまの)に有りと云ふなる唐(もろこし)が原
遙かなる中こそ憂(う)けれ夢ならで遠く見にけり唐が原
後者は「夫木和歌抄」では「唐が原」が「唐の原」である。]
砥上原〔又砥身原トモ科見原トモ書ト云〕
片瀬ヨリ西ニ當リテアリ。
長明海道記
ヤツマツノヤ千代ノカケニ思ナシテ トカミカ原ニ色モカハラシ
里俗西行ノ歌トテ語シハ
浦近キトカミカ原ニ駒トメテ 片瀨ノ川ノ汐干ヲソマツ
立カヘル名殘ハ春ニ結ヒケン トカミカ原ノクスノ冬哉
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
八松(やつまつ)の八千代の蔭に思ひなして砥上(とがみ)が原(はら)に色も變らじ
長明入鎌直前の嘱目吟とされる歌である。
浦近き砥上原が原に駒とめて片瀨の川の汐干(しほひ)をぞ待つ
立ち歸ヘる名殘(なごりは春に結びけむ砥上が原の葛(くず)の冬枯(が)れ
但し、前者は後世の西行仮託作「西行物語」所収のもの、後者は西行の作ではなく、冷泉為相の和歌である(嘉元元(一三〇三)年頃に編せられた「為相百首」に所収する)。]
二十六
昨夜歸途得短韻
十載風流誤一生
愁腸難解酒杯傾
煙花城裡昏々雨
空對紅裙話旧盟
〇やぶちゃん訓読
昨夜の歸途、短韻を得
十載(じつさい) 風流 一生を誤まる
愁腸 解き難く 酒杯傾むく
煙花 城裡 昏々たる雨
空しく紅裙(かうくん)に對し 旧盟(きゆうめい)を話す
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
大正九(一九二〇)年九月十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号七七一)
に所載する。
「十載」これは杜牧の詩に基づくのであろうが、しかし実際の芥川龍之介に即して考える時、ある意味を持つように思われる。十年前は龍之介十八歳、明治四三(一九一〇)年であるが、この三月に府立第三中学校を卒業し、四月に第一高等学校文科(一部乙類)への進路を決定している。龍之介の「風流」たる文芸への道は、この時に決まったと考えてよい点が一つ、 今一つの人の「風流」たる(と私は思っているし、龍之介もそう思っていたと確信する)性への本格的な眼ざめや童貞喪失なども、私はこの十八の頃に推定するのである。それは芥川龍之介の赤裸々な未定稿「VITA SEXUALIS」が『これで中學二年までのVITA SEXUALISの筆を擱く』で終わっていることに基づく(龍之介には別にやはり大胆に同性愛経験を記した未定稿「VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題)」もある。未読の方は是非お読みあれ。リンク先はいずれも私のテクストである)。
「愁腸」憂愁に沈んだ心。
「煙花」妓女・芸妓、また、彼女らの境遇、花柳界のことを指すが、結句との絡みからもここは具体な遊廓をイメージしてよい。
「紅裙」妓女・芸妓。
「旧盟」昔、二人で交わした約束。ここでは作者のみでなく妓の老いも詩背に読むべきである。
本詩は晩唐の杜牧の七絶「遺懷」をインスパイアしたものと考えてよい。以下に示した訓読は龍之介自身が、この直後の大正九(一九二〇)年十一月に『文章倶樂部』に発表した「漢文漢詩の面白味」の中の中で漢詩の中で『抒情詩的(リリカル)な感情』のある例として示したものを、句読点を排除して示したものであるが、読みは私が振った(リンク先は私のテクスト)。
遺懷
落魄江湖載酒行
楚腰纖細掌中輕
十年一覺揚州夢
贏得靑樓薄倖名
遺懷
江湖に落魄して酒を載せて行く
楚腰(そえう)纖細 掌中に輕し
十年一たび覺む 楊州の夢
贏(か)ち得たり 靑樓薄倖(はつかう)の名
起承は若き日の遊蕩のフラッシュ・バック、結句は「今の私の手の内にあるのは……『色町の浮気者』という不名誉な名ばかり……」の意である。承句の「楚腰繊細」を「楚腰腸斷」とするテクストもあり、すると更に龍之介の「愁腸」に隣接する。但し、この詩の背景は逆にポジティヴなもので、淮南節度使牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)の幕僚であった杜牧が八三五年三十三歳の春に監察御史に任命され、揚州を去って長安に向う直前の作と推定されており、一種の旧巷との離別や主君への謝意を自己卑下によって示したものであろう。]
三十七
敬佛房(きやうぶつばう)、三心(さんじん)をば、ならひて具(ぐ)するものとな習(ならひ)そ。
〇三心をば、うちかたぶきて念佛すれば、自然(じねん)に三心はそなはるなり。是を行具(ぎやうぐ)の三心といふ。語燈錄を見るべし。
[やぶちゃん注:「三心」は既出。「二十八」参照。
「語燈錄」「黒谷上人語燈録」。道光の編になる法然の法語や遺文を集めた書。全一八巻。文永一一(一二七四)年成立。「漢語灯録」「和語灯録」「拾遺」から成る。]
海岸から少しく沖へ出て、鰹などの取れる邊まで行くと、海の表面に「かつをのえぼし」と名づける動物が澤山に浮いて居る。その一つを拾ひ上げて見ると、恰も小さな空氣枕の下へ總(ふさ)を附けた如き形のもので、水上に現れて居る部分は白色、水中に浸つて居る部分は濃い藍色である。總の如くに見えるものは實は珊瑚や「いそぎんちやく」に似た動物個體の集まりで、常に小さな魚類などを食つて居るが、これを捕へるために伸縮自在な長い紐を幾本となく水中に垂れて居る。この紐には處々に特殊の毒刺があつて、人間の皮膚にでも觸れると、そこだけ赤くなつて劇しく痛む位であるから、小さい魚などはこれに遇ふと忽ち殺され、引きずり上げられて食はれてしまふ。されば、この動物が小魚を捕へるには水中に見えぬことが必要であるが、黑潮の水の中で濃い藍色をして居るのは、そのためには最も都合が宜しい。また水面上に現れて居る部分が白色であるのは、浪の泡立つて居るのと紛らはしくて、上から見ては容易に區別が出來ぬ。この外に「かつをのかむり」〔カツオノカンムリ〕と名づける動物も、同樣の處に住み同樣の生活をして居るが、外形が稍々異なるに拘らず、やはり水上の部は白色、水中の部は濃藍色である。
[やぶちゃん注:「かつをのえぼし」は、海棲動物中で思いつく種を一つ挙げよ、と言われたら、私がまず真っ先に思い浮かべる種といってよい。それほど海産無脊椎動物フリークの私がマニアックに好きな生き物なのである(以下の記載も数十冊の私の所持するクラゲ関連書等を勘案して記したものである)。従ってここでは詳細な学名を示しておきたい。なお、観察は砂浜海岸に打ち上げられた個体を何度もしたが、刺傷を受けたことはない。父が私が幼稚園の頃、腹部に巻き付かれたことがあったが、一ヶ月ぐらい、まさに水母柄の痕跡が腹に残っていたのを記憶している。
刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalis(Linnaeus, 1758)
である。英名は“Portuguese Man O' War”(単に“Man-Of-War”とも)他に“Bluebottle”・“Bluebubble”などと呼ぶ。本邦では所謂、刺毒の強烈なクラゲの謂いとして「電気クラゲ」があり、これは多くの記載で種としては、
箱虫綱箱虫目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ Carybdea rastoni 、及び、カツオノエボシ Physalia physalis を指す
と明記するのであるが、クラゲ類は、その殆んどが強弱の差こそあれ、刺胞を持ち、毒性があるから、「電気クラゲ」でないクラゲは極めて少数と言ってよいし、感電的ショックを受けるというのなら、二種とは異なる、
鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica
や、同じ旗口クラゲ目の、
ユウレイクラゲ科ユウレイクラゲ Cyanea nozakii
及び
オキクラゲ科アマクサクラゲ Sanderia marayensis
カツオノエボシと同じ嚢泳亜目に属する繩状の、
ボウズニラ科ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii
なんぞは彼らに優るとも劣らぬ強烈な「電気クラゲ」である。即ち、「電気クラゲ」とは、実際には、夏期の海水浴場で刺傷するケースが圧倒的に多い、
アンドンクラゲCarybdea rastoni 及びその仲間(最強毒を保持する一種として知られるようになった、沖縄や奄美に棲息する箱虫綱ネッタイアンドンクラゲ目ネッタイアンドンクラゲ科ハブクラゲ Chironex yamaguchii ――本種も私の偏愛するクラゲであるが――大雑把に言えばアンドンクラゲを代表種とするアンドンクラゲを含む立方クラゲ目(Cubomedusae)に属し、科名を見てもお分かりの通り、アンドンクラゲの仲間であると言って差し支えないのである)が「電気クラゲ」として広く認識されている傾向が寧ろ強いと言ってよいと私は思っている。
話を戻す。カツオノエボシ Physalia physalis の属名“Physalia”(フィサリア)は、ギリシア語で「風をはらませた袋」の意で烏帽子状の気胞体の形状に基づき、英名の“Portuguese Man O' War”や“Man-Of-War”の「(ポルトガルの)軍艦」とは、気胞の帆を張ったポルトガルのキャラベル船(Caravel:通常、三本のマストを持つ小型の帆船であるが、高い操舵性を有し、経済性・速度などのあらゆる点で十五世紀当時の最も優れた帆船の一つとされ、主にポルトガル人・スペイン人の探検家たちが愛用した)のような形状と、本種の発生源がポルトガル沿岸で、それが海流に乗りイギリスに漂着すると考えられた(事実かどうかは不明)ことに由来する。“Bluebottle”(青い瓶)や“Bluebubble”(青い泡)も気胞由来。和名「カツオノエボシ」は鰹が被っていた烏帽子で、鰹漁の盛んな三浦半島や伊豆半島では、本州の太平洋沿岸に鰹が黒潮に乗って沿岸部へ到来する時期に、まず、このクラゲが先に沿岸部に漂着し、その直後に鰹が獲れ始めるところから、その気胞を祝祭的に儀式正装の烏帽子に見立て、カツオノエボシと呼ぶようになった。また、今直ぐに掘り出せないのであるが、かつて読んだ本に、地中海で(イタリアであったか)、本種を採って引っ繰り返したその形状が女性の生殖器にそっくりであるところから、漁師たちはそうした猥雑な意味での呼称(呼称名を思い出せない。「海の婦人」だったか、もっと直接的な謂いだったか)をしている、という外国の文献を読んだ。当該呼称が確認出来次第、掲載したい(因みに今調べていたら、イタリア語の隠語では男性器を「鰹(カツオ)」(!)と言うらしい)。
「水上に現れて居る部分は白色、水中に浸つて居る部分は濃い藍色である」「小魚を捕へるには水中に見えぬことが必要であるが、黑潮の水の中で濃い藍色をして居るのは、そのためには最も都合が宜しい。また水面上に現はれて居る部分が白色であるのは、浪の泡立つて居るのと紛らはしくて、上から見ては容易に區別が出來ぬ」の部分こそが、本章「色の僞り」の眼目で、青魚などと同様のブルー・バック効果である。
「動物個體の集まり」丘先生は説明し出すと本章から離れるために、これで済ませておられるが、これを十全に読者が理解出来ているとは思われない。カツオノエボシの個体は実は四つの性能を特化したポリプ集団(刺胞動物の着生性適応の形態で一般には塔状の触手を伸ばした形状を持つ)が集合して一つの生物種を構成している、丘先生もおっしゃるようにサンゴなどと同じ群体である。
第1のポリプは海上に突出している気胞体
で、主に二酸化炭素の入った浮き袋によって海面に浮遊する(但し、この気胞は必要に応じて萎むことが出来、一時的に沈降する場合もある)。気胞には三角形をした帆のような部分があって、風を受けて移動する(カツオノエボシ自身は殆んど遊泳力を持たない)。この中空の軸上部分総体が各群体の支持部分に当たり、幹(かん)と呼ぶ。カツオノエボシはクダクラゲ目の中ではこの幹が著しく短いのが特徴である。
第2ポリプは気胞体の下端(幹の基部)にある栄養体
で、垂れ下がる触手を出芽させて発達させる部分で、群体クラゲであるクダクラゲ目の中でも、カツオノエボシはこの部分が著しく発達している。ここが、所謂、ベロンチョとしていて猥褻な感じがするのである。
第3のポリプはそこから海面下に長々と垂れ下がって周囲の海中にも展開する触手体(感触体)
で、細長い巻き髯状で、平均でも一〇メートル程度、長いものでは約五〇メートルにも達する。触手は表面に毒を含んだ刺胞に覆われており、各個虫は口は持たず、獲物の小魚や甲殻類を殺して摂餌する機能(触手は筋肉を使って獲物を消化を行うことに特化したポリプである食体へと導く)、及び、それによって外敵から身を守る強力な防禦器官に特化しているが、その触手群は刺胞叢と呼ばれる独特で複雑な構造を有している。
第4のポリプは栄養体などと一緒に幹部分に発達する触手を欠く生殖体
で次代の生殖の役割を担うが、カツオノエボシでは一部のクラゲに見られるようなライフ・サイクルの中で当該部がクラゲとして独立することはなく、子嚢である。
群体とはいっても、それぞれか独立して生活を営むことは出来ず、以上の個虫は互いに融合して体壁は一続きになっており、内部には栄養や老廃物などを運搬するための共有する空洞が形成されている。しかし、生物学上は一個体の生物ではなく、「群体」と呼称されるのが普通である。
「この紐には處々に特殊の毒刺があつて、人間の皮膚にでも觸れると、そこだけ赤くなつて劇しく痛む」刺胞動物の刺胞は百分の一ミリメートル程のカプセル状のもので、内部は毒液で満たされていると同時に、刺糸と呼ぶ中空の管が巧妙に小さく巻き込まれており、何らかの刺激を受けると、刺胞の内外を反転させるように一瞬にして発射されるようになっている。これらは現在二十三種のタイプに分類されるが、一種のクラゲであっても、生活史の時期や成体の部位によって異なったタイプの刺胞を持つ場合もある。発射の刺激については詳細は必ずしも明らかではないが、最初は接触による物理的発射がなされ、刺さった対象の傷口から放出されるグルタチオンなどのタンパク質に、今度は化学的に反応して一斉に刺糸が射出されることが分かっている。カツオノエボシの毒性はコブラの持つ毒の七十五%相当と言われ、成分は未だ解明されていないが、活性ペプチドや各種酵素、その他の因子からなる多成分系の総合作用により、神経系や呼吸中枢に作用し(刺毒による致死性は低くても、海産危険動物事故にありがちな、刺傷のショックによる意識喪失による溺死というリスクが高まる)、皮膚壊死性や心臓毒性も認められ、アナフラキシー・ショックの危険性も指摘される厄介なものである。海面に一個体の気胞を発見したら、その二十メートル圏内に侵入すると危険であり(水面下で触手が四方へ広がっている可能性があるため)、漂着個体は勿論、干からびた個体であっても刺糸は発射されるので非常に注意が必要だ。沖縄の修学旅行では、イノー観察の際、教え子が、小さなビニール風船と間違って(中にはコンドームと確信して――いや――実際に私は廃棄されたコンドームを鎌倉の和賀江島で見つけたことがあるが――実に――「ようく」似ている)意気揚揚と持ってきては、私の眼前に棒の先に附けたそれを突きつけて「先生、これ、海藻ですか?」と聴いてきた、にやにや男子生徒もいたが、私の説明に、それこそカツオノエボシのように真っ蒼になって捨て放ったのが懐かしい思い出である。いや、実は三十数年前、私は台風一過の由比ヶ浜でビーチ・コーミングをしていたのだが、そうした一センチに満たない本種の小個体が幾つも打ち上がっているのを見つけた。数十メートル先でふざけ合っている男子中学生の一群がいたが、中の一人が、突然、のたうち回り始めて、救急車で搬送されていったことがある。おそらくはやはり、これにやられたものであろう。コンドームを玩んでは……なるまいぞ……。
なお、この外にも、このカツオノエボシや以下のカツオノカンムリの体を限定して食らい、且つ、その刺胞を発射させずに(!)飲み込んで、体内にそのまま吸収、背中にそれを蓑のように貯えて、ちゃっかり自分の防禦システムに用いているという(盗刺胞という)、トンデモ生物がいる。消化管内に気泡を生じさせて浮遊する、美しい
軟体動物門腹足綱裸鰓目アオミノウミウシ Glaucus atlanticus
である。この話をし出すと、盗刺胞から藻類の核情報を盗み出して「葉緑体さん! 私はウミウシじゃあなくってよ! 藻なのよ!」と言って、葉緑体を盗み取っているらしい(盗葉緑体は、はっきりしているが、その盗核ノメカニズムについては、一仮説段階ではある。しかし実際に盗核情報は一部で確認されている)といった大脱線へと向かってしまうので、ここは僕のブログ「アオミノウミウシと僕は愛し逢っていたのだ」や「盗核という夢魔」をお読み頂くことにして、そろそろ、このやめたくない注も、お開きと致さねばなるまい。
「かつをのかむり」ヒドロ虫綱花クラゲ目盤泳亜目ギンカクラゲ科カツオノカンムリ Velella velella 。カツオノエボシと同じく暖海性外洋性の群体クラゲの一種で、黒潮海域に棲息し、鍋蓋状の気胞体(水辺板・盤部とも呼び、キチン質で出来ており、辺縁部分は鮮やかな青藍色で中央は無色透明、やはり丘先生の言う通りのブルー・バック機能を持つ)の上に三角形の帆があってこれで風を受けて移動する。やはり鰹の群れと一緒に見つかり、その気胞体が長径約五センチメートルの平たい楕円形を成すため、烏帽子ならぬ冠の名を冠する。下面には摂餌専用の個体である栄養体、周縁には餌捕獲を行なう触手状の青く短い感触体がある。気胞体の年輪様模様の中内部に気体が入っており、それで浮遊する。主に参照したウィキの「カツオノカンムリ」によれば(以下の引用もそれ)、群体個体の大きさからすると、感触体(触手体)が短いため、完全に水面を突き抜けて気中に顔を出している部分が結果として多くなり、これは他のクラゲには殆ど見られない本種固有の特徴と言える。多くの子供向けの図鑑等では、その特異な形態を面白く語っているだけのものが多いが、触手の刺胞毒はそれなりに強い(私は常々、子供向けのものだからこそ、傷害や毒性の少しでもある海洋生物には必ずその取扱いの注意を明記すべきであると考えている。特にこれらの死滅個体でも刺胞が有効であるものは猶更である。『なお、このクラゲは群体性であるため、管クラゲ類に所属するものと考えられて来た。しかし、生殖個体として小さなクラゲを作る事から、クラゲに見えるのは、浮きをもつ、群体性ポリプであるとの判断となった。浮きをもつ固着性動物の群体というのは奇妙に見えるが、現世ではともかく、古生代のフデイシやウミユリには似た例が多く知られている。現在では生殖個体の形質から花クラゲ目に移されている』とある。なお、学名(属名と種小名が同じ私の好きなタイプである)“Velella”(ヴェレラ)は、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」によれば、ラテン語の“vēlum”(帆・帆布)と“ellum”(小さな)の合成である、とある。]
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に根岸鎭衞「耳嚢 卷之五」全一〇〇話を公開した。前のブログで述べた通り、これを以って「耳嚢」全十巻のターニング・ポイントに到達した。
齒牙の奇藥の事
齒の動き又は齒ぐきはれてなやむ時、南天を黑燒にしてつければ快驗を得る由人のかたりし故、予が同寮の人其通りになせしに、快く不動(うごかざる)事神の如しと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。民間療法シリーズ。本話で百話、卷之五が終了。私がブログで本プロジェクトを始めたのが二〇〇九年九月二十二日であるから、三年と八十五日、延べ一一八五日でこの「耳嚢」駅伝の折り返し点に、遂に到達した。但し、野人となった本年は約七ヶ月で二巻分をこなしているから、あり得ないと思っていた完全テクスト化も、このまま順調に行くならば、再来年の春には完成するはずである。一点の星ではあるが、一等星の光明が見えてきた気がする。
・「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン
Nandina domestica Thunb.。ウィキの「ナンテン」の「薬用など」の項によれば、『葉は、南天葉(なんてんよう)という生薬で、健胃、解熱、鎮咳などの作用がある。葉に含まれるシアン化水素は猛毒であるが、含有量はわずかであるために危険性は殆どなく、逆に食品の防腐に役立つ。このため、彩りも兼ねて弁当などに入れる。もっとも、これは薬用でなく、食あたりの「難を転ずる」というまじないの意味との説もある』。『南天実に含まれる成分としては、アルカロイドであるイソコリジン、ドメスチン(domesticine)、プロトピン(英語版)、ナンテニン(nantenine:o- methyldomesticine)、ナンジニン(nandinine)、メチルドメスチン、配糖体のナンジノシド(nandinoside)などの他、リノリン酸、オレイン酸が知られている。鎮咳作用をもつドメスチンは、多量に摂取すると知覚や運動神経の麻痺を引き起こすため、素人が安易に試すのは危険である。また、近年の研究でナンテニンに気管平滑筋を弛緩させる作用があることが分かった』。『また、ナンジノシドは抗アレルギー作用を持ち、これを元にして人工的に合成されたトラニラストが抗アレルギー薬及びケロイドの治療薬として実用化されている』とあり、漢方でもナンテンの葉は胃腸の痛みや脱肛、眼病や歯痛みを抑える生薬として実際に使用されていることが各種の漢方記載からも分かり、ここに記された解熱効果やアルカロイドのドメスチン(domesticine)の持つ知覚麻痺作用は、歯槽膿漏や歯周病などによる歯茎の腫脹を伴う発熱や痛みへの効果がないとは言えまい。中国原産で東アジアに広く分布し、日本では西日本の暖地の四国や九州に自生しているが、古い時期に渡来した栽培種の野生化したものと考えられている。但し、属名の“Nandina”は和名ナンテンに基づいてつけられており、種小名の“domestica”も「家族の」「個人の」「本国の」「国内の」という意味である。安永四(一八五七)年に来日して本邦初の日本植物誌を著して日本植物学の基礎を作ったスウェーデンの植物学者で医師のカール・ツンベルク(Carl Peter Thunberg 一七四三年~一八二八年 学名には命名者略記“Thunb.”が用いられている)が本邦の民家の庭に栽培されていたナンテンを見て(彼はたった一年の在日であったが将軍家治に謁見、箱根町を中心に植物八〇〇余種を採集した)、かく命名したのものと思われる。
・「黑燒」本巻の「黑燒屋の事」の私の注を参照のこと。
■やぶちゃん現代語訳
歯の奇薬の事
歯が動く、または歯茎は腫れて痛む折りは、南天を黒焼きにして塗付致せば、見る間に軽快、これ、得らるる由、さる御仁が語って御座った故、私の同僚の者、歯の痛き折り、この、私の話した処方通りに致いたところが、
「――いや、もう! 大層、快う御座っての! 歯の動がざること、これ神の如し! で御座る! ほうれ!――」
と、
「イー!」
をして、わざわざ見せて御座ったことじゃ。
十一人塚
極樂寺ノ切通ヨリ七里濱へ出ル路邊ノ左ニアリ。昔新田義貞ノ勇士十一人、此所ニテ討死有シヲ、塚ニ築コメ上ニ十一面觀音堂ヲ立クル跡ナリト云。
七 里 濱
腰越へ行、北ハ山、南ハ海ナリ。濱ノ浪打際ヲ云也。關東道七里アリ。古へ戰場ニテ、人ノ死骨、或ハ太刀ノ折レ、具足ノ金物ナド、砂ニ交テ今ニアリ。
[やぶちゃん注:「關東道七里」既に示した通り、「關東道」は坂東里で一里は六町、六五四メートルであるから、四キロ五七八メートル。但し、例えば現在の稲村ヶ崎の突端を起点に、現在の海岸線を西に計測してみても、当該距離の到達点は新江ノ島水族館辺りになってしまう。現在の七里ヶ浜の全長は二・九キロメートルとされる。この齟齬について、例えばウィキの「七里ヶ浜」には、近年これについては、鶴岡八幡宮と腰越の間の距離を言っており、それを「浜七里」と呼んだのではないかという説が出されている、とある。これは密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門(南西)方向に七里の腰越までが浜七里だとし、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向の横浜市栄区に今も野七里という地名が現存する、とある。但し、八幡宮からこの野七里までの直線距離は関東里の七里に満たないが、間には険阻な丘陵があるので朝比奈切通しを経由すると若干遠回りになる、ともある(それで実測関東道で七里となるということか)。『これはまだ通説にはなっていないようだが、興味深い説である』と記されてある。]
金 洗 澤
七里濱ノ中程、海へ流出ル澤ナリ。行合川トモ云也。此所ニテ古ハ金ヲ掘タル故ニ金洗澤ト云。亦日蓮龍ノ口ニテ成敗ニ極テ、敷皮ニナヲリケル時、奇瑞多キニ因テ其由ヲ告ル使ト、鎌倉ヨリ時賴ノ赦免ノ使ト、此川ニテ行合タル故ニ行逢川トモ云ト也。此後ロノ谷ニ津村ト云地アリ。昔ノ津村ノ湊ト云是ナリ。
腰 越 村
江嶋ノ前ノ村也。嚴本院ノ縁起ニハ、昔江嶋ニ大蛇住テ人ヲ取タル故ニ、子死戀ト書クト云フ。〔戀、一作越〕此海ノ前へ出タル山ヲ八王子山ト云ナリ。海中へ指出タル松アリ。是ヲ常動松ト云フ。常ニ風波此岸ニアタル故ニ此松動クト云。
[やぶちゃん注:「嚴本院」の「嚴」は「巖」の誤り。
「常動松」初見。読み不詳。現在の「小動(こゆるぎ)」という地名の由来であるから、これで「こゆるぎ」と読ませているか。識者の御教授を乞う。]
○新田開作
同四月二十七日兵庫頭廣元朝臣奉行として東國の地頭等に仰行はるゝ趣は、近年は兵亂(ひやうらん)打(うち)続きて庶民手足を措(お)くに所なし。是(これ)に依(よつ)て農桑(のうさう)の營(いとなみ)に怠り、田畠多く荒蕪(くわうぶ)に及べり。今既に天下軍安の時至り百姓既に安堵の地に栖宅(せいたく)す。今に於ては要求便宜(びんぎ)の所新田を開作すべし。凡(およそ)荒地不作の揚と稱して、年貢正税(しやうぜい)を減少せしむ。向後は許すべからず。具(つぶさ)に沙汰を遂べしとなり。夫(それ)古(いにしへ)國を建て、民を居(を)らしむるは必ず土地を理(り)し、水勢の及ばざる所に於て家を造り、棲(すみか)を治む。大川の游波(いうは)寛緩(くわんくわん)として迫らず、小河の細流潺湲(せんえん)として以て注ぐ。卑隰(ひしう)の地を田とし、高原の土(ど)を畠(はた)とし、堤(つつみ)を作りて洪水に備へ、民(たみ)耕して是(これ)に田作り、又耘(くさぎ)りて畠を營み、久しく損害なければ、稍(やや)村里を築く。彼(かの)壽永、元曆の騷亂に方(あた)つて、軍兵横行(わうぎやう)して、居民(きよみん)を追捕(ついふ)す。是が爲に山野に逃亡し、農桑の時を失ひ、饑凍(きとう)の歎(なげき)に沈み、溝瀆(こうとく)に倒(たふ)れて、死亡するもの數を知らず。然るを今(いま)世は適(たまたま)治(おさま)り、人は漸く歸住(かへりす)みて、東耕西收(とうかうせいしゆ)の務(つとめ)を勵(はげま)すといへども、地頭は貪りて、賦歛(ふれん)を重(おもく)し、守護は劇(はげし)くして、公役(くやく)を繁(しげ)くす。春耕(たがやし)して風塵(ふうぢん)に侵され、夏耘(くさぎ)りて暑毒(しよどく)に中(あた)り、秋陰雨(いんう)を凌ぎて刈り、冬寒凍(かんとう)に堪へて舂(うすつ)く。年中四時(じ)に休む日なし。又私に自(みづから)出て、徃(わう)を送り、來(らい)を迎へ、病(やまひ)を問ひ死を弔(とぶら)ひ、牛馬を養ひ、子を育(そだ)つる。夫(それ)猶水旱(すいかん)の災(さい)に罹る時は日比(ひごろ)の勤苦(ごんく)一時(じ)に空しく、手を拱(こまね)きて取得(う)る物なし。剩(あまつさへ)暴虐の目代(もくだい)年貢を責(はた)れば、價(あたひ)を半(なかば)にして雜具(ざうぐ)を賣り、資財なき者は倍息(ばいそく)の利銀(りぎん)を借り、或は田宅(でんたく)を壞(こぼ)ち、子女を販(ひさ)ぎ、是を以て、相(あひ)償(つぐな)ふ。若(もし)辨(わきま)ふる事なければ、妻子を捕へては裸にして荊(いばら)の中に臥(ふ)さしめ、農夫を縛(しば)りては跣(すあし)にして氷を履(ふ)ましむ。或は牢屋に繋ぎて、水食(すゐしよく)を止(とゞ)め、或は井池(せいち)に浸して、寒風に侵(をか)さしむ。兎(と)ても角ても有(ある)も無(なき)も、定めし限(かぎり)の正税(しやうぜい)を肯(うけがは)しむ。哀(あはれ)なるかな、米穀多けれども、農民は食(くら)ふことあたはず、糟粕(さうはく)にだに飽く時なし。悲しきかな。絲帛(しはく)は盈(みつ)れども、機婦(きふ)は衣事(きること)をえず、短褐(たんかつ)をだに暖(あたゝか)ならず、皆悉く官家(くわんけ)に納む。官家は是を虐取(はたりとり)て、衣裳には文采(ぶんさい)、飲食(いんしよく)には酒肉、其奢侈(しやし)に費す事(こと)金銀米錢宛然(さながら)沙(いさご)を散すが如し。更に民の苦勞を思はず、膏(あぶら)を絞り血をしたてて、用ひて我が身の樂(たのし)みとす。されば天理の本(もと)を尋ぬれば、彼も人なり、我も人なり、一氣(き)の禀(うく)る所その侔(ひとしか)らざれば、上下の品(しな)はありといふとも、君として世ををさめ、臣として政(まつりごと)を輔(たす)くるに、仁慈(じんじ)こそは行足(ゆきたら)ずとも、荒不作(あれふさく)の所に年貢を立てて責取(せめとり)給はんは天道神明(しんめい)の冥慮(みやうりよ)も誠に計(はかり)難しと、心ある輩は歎き悲(かなし)み給ひけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年四月二十七日の条に基づく。「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、『荒不作の土地から新たに年貢を取ろうとする頼家の政策の非を説く』本話は、笹川祥生氏の「『北条九代記』の「今」」(「軍記物語の窓」第一集 平成九(一九九七)年和泉書院刊)によると、作者が執筆した延宝三(一六七五)年前の、江戸幕府『当代の悪政非道への批判が込められているとする』とある。実際、以下の通り、素材とされた「吾妻鏡」はたった六十字程の、如何にもあっさりした事実の提示のみである。
〇原文
廿七日戊子。仰東國分地頭等。可新開水便荒野之旨。今日有其沙汰。凡稱荒不作等。於乃貢減少之地者。向後不可許領掌之由。同被定云々。廣元奉行之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日戊子。東國分の地頭等に仰せて、水便の荒野を新開すべきの旨、今日、其の沙汰有り。凡そ荒不作(あれふさく)等と稱し、乃貢(なうぐ)減少の地に於いては、向後、領掌(りやうじやう)を許すべからざるの由、同じく定めらると云々。
廣元、之を奉行すと云々。
「夫古國を建て……」以下、最後までが筆者の批判である。これ、かなり力(りき)が入っている。
「寛緩」ゆったりとして穏やかなさま。
「潺湲」さらさらと水の流れるさま
「卑隰」低地の湿った土地。
「壽永、元曆の騷亂」西暦一一八二年(養和二(一一八二)年五月二十七日に寿永に改元、寿永三(一一八四)年四月十六日に元暦に改元)から一一八五年(元暦二年八月十四日に文治に改元)で源氏と平氏が相い争った治承・寿永の乱の時代。但し、源氏方では寿永を使用せず、以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永二(一一八三)年以降は京と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになった。一方、平氏方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその壇の浦での滅亡(文治元年三月二十四日)まで引き続き使用している(ウィキの「寿永」の記載等を参考にした)。
「農桑」農耕と養蚕。
「溝瀆」みぞやどぶ。
「東耕西收」日々の耕作と、その収穫の作業。
「賦歛」徴税。
「劇くして」横暴で。
「舂く」臼を搗く。穀類を杵や棒の先で強く打って押しつぶしたり、殻を除いたりする。
「又私に」この前までは賦役の苛斂誅求を謂い、ここからは農民の私的な日常を述べる。
「徃を送り、來を迎へ」親しい者が遠くへ去り行くのを心を込めて見送り、新たに巡り逢った者を優しく迎え。
「目代」代官。
「倍息」倍の利息。
「若辨ふる事なければ」万一、農民が既定の賦役をなすことが出来なければ。
「妻子を捕へては……」主語は目代。
「兎ても角ても有も無も、定めし限の正税を肯しむ」何はなくとも、有無を言わせず、定めただけのきっちりとした税額を受け入れさせ(て支払わせ)る。
「糟粕にだに飽く時なし」穀類その他一切の農作物の、利用出来る部分を取り去った残りでさえも、満足に食い足ることさえ出来ぬ。
「絲帛」糸と布。
「機婦」機(はた)織る婦人。
「短褐をだに暖ならず」粗末な衣服でさえも纏うこと儘ならず。
「虐取(はたりとり)て」「はたる」は「徴る・債る」と書き、取り立てる、徴収するの意。
「文采」豪華な織りで彩ること。
「血をしたてて」「したつ」はタ行下二段活用の動詞「滴つ」で、したたらせる、の意。
「天理の本を尋ぬれば……」以下、「誠に計難し」までが「心ある輩」の「歎き悲」しむ内容。
「彼も人なり、我も人なり」かの権力者側とても人であり、我らも同じ人である。
「一氣の禀る所その侔らざれば」人という存在は生れついた際、確かにその在り方は等しくはないから。
「品」身分。
「仁慈」思いやり。
「冥慮」人智を超えている(とは言え)、そのみ心。]
二十五
偶 成
瑟々侵階月
幽人帶醉看
知風露何處
欄外竹三竿
〇やぶちゃん訓読
偶 成
瑟々(しつしつ)として 階を侵す月
幽人 醉(すゐ)を帶びて看る
知んぬ 風露(ふうろ) 何處(いづく)よりぞ
欄外 竹(ちく) 三竿(さんかん)
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
大正九(一九二〇)年九月十日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号七六九)
で、葉書に本漢詩を記し、次行の下方に、
我鬼窟主人 ㊞
(㊞は「我鬼」)とある。邱氏は転句を『読み取りづらい』とし、『最後の句はもと素晴らしい別天地を演出すべきであろうが、「三竿」では不十分である。』(これは「二十」で引用した邱氏の見解を参照されたい)と評されるのみで、三十四首の内で、最もそっけない。
「瑟々」風が寂しく吹くさま。
「幽人」隠者。
「風露」涼風と露。]
こもりくの翁の事
享保元文の頃の人にて京都に住(すみ)ける老人、郭公(ほととぎす)の歌よみける。
たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公
此歌難有(ありがたく)も叡覽に入りて感じ思召(おぼしめし)、こもりくの翁といへる名を給はりしに、妬(ねた)める者にや又歌の道にねぢけたる人にや、この歌は古人のよみしにはあらぬかと沙汰しけるを聞(きき)て、又詠(よめ)るよし。
一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす
かくよみければ、初め誹(そし)りし人も恥(はぢ)思ひけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。和歌技芸譚。
・「享保元文」西暦一七一六~一七四一年。
・「こもりくの翁」諸本注をしないが、これは江戸中期の歌人である柳瀬方塾(やなせみちいえ 貞享二(一六八五)年~元文五(一七四〇)年)のことで、少なくとも彼をモデルとした伝承譚である。通称は小左衛門、名は美仲、隠口翁(こもりくのおきな)は号。遠江浜松の呉服商で、武者小路実陰(さねかげ)や荷田春満(かだのあずままろ:春満とも言った江戸中期の国学者。賀茂真淵の師で、真淵・本居宣長・平田篤胤とともに国学四大人に数えられる人物。)に学び、賀茂真淵らと遠江に歌壇を形成した。最初の本歌とよく似た、
はつせ路や初音きかまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす
の歌碑が浜松市善正寺に残る(以上は講談社「日本人名大辞典」を参照した)。
・「叡覽」当代は烏丸光栄(からすまるみつひで)に古今伝授を受けた、歌道に優れた桜町天皇である。
・「たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
尋來て初音聞かまし初瀨路や又こもりくの山ほとゝぎす
で載る(正字化した)。
「こもりくの」は初瀬の枕詞。「こもり」は「隠り・籠り」で「く」は場所の意で、両側から山が迫って囲まれたような地形の謂いから、同様の地形である大和の泊瀬(初瀬)に掛かる枕詞となったとする。但し、別に「はつ」は身が果つの意を含ませて(「こもる」にも隠れる、死ぬの意がある)、死者を葬る場所の意を込めている例(「したびの国」(黄泉国)の枕詞とした例や「万葉集」で葬送の場面に用いられた例)もあるとする(後半部は「日本国語大辞典」に拠る)。「初瀨路」「はつせじ」。古くは「泊瀬」とも書いた。初瀬街道。大和初瀬(現在は「はせ」と読むのが一般的なようである。現在の奈良県桜井市)と伊勢国(現在の三重県松阪市)の六軒を結ぶ街道。ウィキの「初瀬街道」によれば、『古代からの道で壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道でもある。また江戸時代には国文学者である本居宣長も歩いており、その様子は彼の著書である菅笠日記に記されている』とある。
――わざわざこの奥深き里へと尋ね来たのだから、やはり聴かせておくれ……この古来の道なる初瀬(はつせ)路の、山ほととぎすよ、その声(ね)を――
なお、底本の鈴木氏注には、江戸後期の京都梅宮大社神官で国学者の橋本経亮(つねあきら)の書いた随筆「橘窓自語」(天明六(一七八六)年)の巻一に、
荷田東滿遠州濱松にありし時、濱松宿に柳瀨幸右衞門味仲といふ人、
初瀨路やはつねきかまく尋てもまたこもりくの山時鳥
といふ歌をかたりしかば、「こもりくの山時鳥といふこと、いまだきかず」といはれたりしに、かの味仲中院通躬卿の門人にて、「すなはち中院殿の點ありし歌也」といひければ、「當時の歌仙通躬卿の子細なく點せさせ給ひし上は一首譬いにしへに例なくとも、これを據に我もよむべし」、と東滿いはれて、その故よしをしるされたりしふみ、いまも濱松にありてみたりしなり
と記す旨の記載がある(原注の引用を正字化し、一部を改行、鍵括弧を補って示した)。「荷田東滿」は荷田春満の別名。「柳瀬味仲」は前出の柳瀬美仲。「中院通躬」は「なかのいんみちみ」と読み、江戸中期の公卿で歌人。但し、話柄の趣きはかなり違う。
・「この歌は古人のよみしにはあらぬか」このままであると、これは古人の盗作ではないか、という風にも読めるが、前注に引用した「橘窓自語」の話柄からは「この歌は古人のよみしにはあらぬが」で、「こもりくの山時鳥といふこと、いまだきかず」、則ち、「こもりくの山時鳥」という詞は堂上の和歌には先例がない、との謂いであろう。現代語訳では、かく訳した。
・「一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす」賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある神域である糺(ただす)の杜(もり)を、人がかくもいちゃもんをつけて咎めた(糺した)ことの意に掛けてある。――京の糺の森なら、よろしゅうおすか? それじゃ、でも、あまりに、不遜で御無礼では?――というニュアンスであろうか? いや、これはもしかすると――下鴨神社の祭神賀茂建角身命の化身である八咫烏(やたがらす)を背後に暗示した――例えば、神域の禁忌を、畏れ多い叡感を得た歌に譬えて、「……あなたはそれでも難癖をおつけになって平気か?」といった一種の呪言歌――というか――脅迫歌なのかも知れないな。……和歌が苦手な私の乏しい知識では、この程度のことしか思い浮かばぬのでおじゃる。……識者の御教授を乞うものである。
――その聴きたかった一声……これが、如何にもはっきりと聴こえぬ……聴こえぬから怪しい?……怪しいから……その森の名さえもどうのこうのと、これ、糺(ただ)いておらるる方があらっしゃるが……さても、神域の――神意の御意に――難癖を附くるとは……これ、あってよきものでありましょうや?……♪ふふふ♪……いやいや、やはり、聴きたいものなのですよ――京の市中の糺の森にては、ではのうて――奥深き、こもりくの初瀬の山の、ほととぎすの一声を、はっきりと――な――
■やぶちゃん現代語訳
こもりくの翁の事
享保・元文の頃の人にて、京都に住んで御座った老人の、郭公(ほととぎす)を詠んだ歌、
たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公
この歌、有り難くも帝の叡覧に入って、お詠み遊ばさるるや叡感に思し召され、
「以後、この者、『こもりくの翁』と名乗るがよい。」
と、畏れ多くも名を賜はっておじゃる。
ところが、これを妬(ねた)んだ者であったか、または、少しばかり歌の道を知れるを鼻に掛けた、これ、性根のねじけた御仁にてもあったものか、
「――こもりくの山郭公――じゃとな?……この歌、これ、古人の詠んだ和歌には、とんと、先例のなきものでおじゃる。」
と如何にも馬鹿に致いて申したを、こもりくの翁、これ、耳に挟んだれば、また、詠んだ歌、
一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす
かく詠んだところが、初めに誹(そし)った御仁も、これ、大いに恥入って、黙らざるを得ずなった、ということで、おじゃる。――
三十六
敬佛房(きやうぶつばう)云、念佛の法門は、歌一首にて心得たるよし、僧都御房(そうづごばう)に申(まうす)なり。仰云(おほせていはく)、さぞ。
たゞたのめたとへば人の僞(いつはり)をかさねてこそは又もうらみめ
〇僧都御房、明遍なり。
〇たゞたのめ、是は新古今戀の部にあり。慈圓僧正の歌なり。戀の歌に人といふはこがるゝ人なり。その人我を思ふといはゞ悦ぶべし。思ひすごしてうたがふなといふ心なり。是を本願の方へあはせて心得べし。
[やぶちゃん注:「敬佛房」Ⅱの大橋注に、『伝不詳。法然・明遍の両人の弟子』とする。因みに、「沙石集」巻十(九とする版もあり)の「妄執ニヨリテ魔道ニ落タル事」の一つに、以下のような話があり、彼が登場する(引用は岩波古典大系版のカタカナ部分を平仮名化して示し、踊り字「〱」は正字に直し、一部ルビを省略した)。本条の彼の歌と響き合う話である。
常州に眞壁(まかべ)の敬佛房とて明遍僧都の弟子にて、道心者と聞(きこへ)し高野上人ひじりは、人の「臨終をよし」と云(いふ)をも、「わろし」と云をも、「いさ心の中をしらぬぞ」と云はれける。實にて覺ゆ。高野にありける古き上人、「弟子あれば、往生はせうずらん。後世こそをそろしけれ」とぞ云ける。子息・弟子・父母(ぶも)・師長の臨終のわろきを、ありのまゝに云(いふ)もかはゆくして、多(おほく)はよきやうに云なすこそ、由しなき事也。あしくはありの儘云て、我もねむごろに菩提を訪ひ、よそまでも哀み訪(とぶらは)ん事こそ、亡魂のたすかる因縁ともなるべけれ。末代には多(おほく)は往生とのみ云(いひ)あへり。惡人も往生す。惡業(あくごふ)をそるべからずと云。これによりて、末代には魔往生あるべしと云へり。惡人なれども心を改(あらため)て十念をも唱へ、宿善開發(かいほつ)して、實の住生もあるべし。宿善もなく、正念にも住せず、實なきものゝことことしき往生は、あやしむべし。心をひるがへして往生せむは、教門のゆるす所なり。惡人と云ふべからず。善人も妄念あて、臨終あしき事あるべし。是れ又善野よしなきに非ず。妄心のつよきなり。此(この)理を信じて、因果の不可亂(みだるべからず)。
・「眞壁」旧茨城県真壁郡真壁町。現在の桜川市内の地名として残る。
・「弟子あれば、往生はせうずらん。後世こそをそろしけれ」これはなかなか捻った謂いで、『我らは相応の弟子がいるから――彼らは私の臨終について、「師は美事なる往生にて御座いました」なんどと吹聴するであろうからして、よそ目には――一応の往生はするであろうが……いや、後世こそ、これ、恐ろしいものじゃ……』という意味である(底本の渡邊綱也氏の頭注を一部参考にした。以下、同じ)。
・「かはゆくして」「かはゆし」の本来の原形は「かははゆし」で、恥ずかしいので、の意。
・「亡魂のたすかる因縁ともなるべけれ」極楽往生出来なかった彷徨える魂が救われる因縁ともなるであろう。
・「をそる」「おそる」(恐る)。
・「魔往生」底本渡邊氏の注には、『極楽往生の対。魔性をもって生まれかわること。』とある。
・「宿善開發」前世の善根功徳の種子が現世で開き顕われること。
・「ことごとしき」大袈裟な、仰々しい。
・「妄念あて」「妄念ありて」の促音便無表記。
「たゞたのめたとへば人の僞をかさねてこそは又もうらみめ」「新古今和歌集」の「卷十三戀歌」にあるの和歌(新編国歌大観番号一二二三)である(隠岐での除棄歌)。岩波版新古典大系版のものを前書とともに正字化して示す。
攝政太政大臣家百首歌合に、契ル戀の心を 前大僧正慈圓
たゞたのめたとへば人のいつはりを重ねてこそは又も恨(うら)みめ
・「攝政太政大臣」藤原良経。本来の歌は、不実を疑って恨んだ女に対して、それを払拭するための祈誓の歌である。底本の田中裕の訳を参考に以下に私の訳を示す。
――一途に信頼なされよ!……何?……それでも、これ、分かりませぬか? では、こう申せばよいかの?――かく私が申しておきながらも、しかも私があなたを裏切って、まごうかたなき偽りをまたしても重ねたとあなたが感じたその時にこそは――改めて確かに私をお恨みになられるがよい! と――
これは相手の既成の猜疑を踏まえた複雑な謂いであることに注意したい。即ち、「重ねて」である。相手(女)は既に彼を不実と疑っているのであって、その彼女に対して初句「たゞたのめ」と約束すること自体が、既にして疑っている彼女の心情に即すなら「いつはり」なのである。その誓いを万が一私が破ったとすればそれは「重ねて」「いつはり」を述べたことになる――しかし、私がかくも言う以上、私の「たゞたのめ」は絶対の真実である、というのである。]
狐を助け鯉を得し事
大久保淸左衞門といへる御番衆、豐嶋川附神谷といへる所の漁師を雇ひて網を打せけるが、甚(はなはだ)不獵にて晝過(すぎ)になれど魚を不得(えず)、酒抔吞(のみ)て居たりしに、野狐(やこ)一疋犬に追れけるや、一さんに駈來(かけきた)りて船の内へ飛入(とびいり)つくばひ居(をり)ける故、淸左衞門を始(はじめ)不獵にはあり、此狐を縛りて家土產(いへづと)に連(つれ)歸らんとひしめきしを、船頭漁師深く止めて、狐は稻を守る神のつかわしめ、何も科なきものを折檻なし給ふは無益也(なり)、迯(にが)し給へとて達(たつ)て乞ひける故、則(すなはち)其邊へ船を寄せ、放し遣しければ悅びて立去りしが、獵師さらば日も暮なんとす、一網打(うち)てみんと網を入れしに、三年ものとも云べき大きなる鯉を打得し由。是は彼狐の謝禮成(なる)べし、今一網打んと望ければ、彼(かの)獵師答へて、かゝる奇獵を得し時は再遍(さいへん)はせざるもの也、免(ゆる)し給へ迚(とて)其後は網をうたざりしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:一つ隔てて稲荷譚の打ち止め。
・「大久保淸左衞門」大久保淸右衞門忠寄(享保一五(一七三〇)年~?)の誤り。底本鈴木氏注に寛保二(一七四二)年に十三歳で相続、岩波長谷川氏注に『宝暦五年(一七五五)大番』とあるから、そう新しい話ではない。
・「豐嶋川附神谷」旧東京都北豊島郡に神谷(かにわ)村があった。現在の北区神谷町、王子神谷辺り。落語「王子の狐」で知られるように、直近の南方にある王子稲荷(北区岸町)の狐は昔から人を化かすことで有名であった。「附」は「つき」と読むか。
■やぶちゃん現代語訳
狐を助けて鯉を得た事
大久保清左衛門と申される御番衆(ごばんしゅう)、豊島川附神谷(としまがわつきかにわ)と申すところで川漁師を雇って、早朝より網を打たせて御座った。
ところが、これ、全くの不漁にて、昼過ぎになっても一匹も釣果、これ、御座ない。
自棄(やけ)になって酒なんどを煽(あお)っておったところが、野狐(のぎつね)が犬にでも追われたものか、一散に走り込んで来たかと思うと、彼らの舟の内に飛び込んで、船底に這い蹲っては、震えて御座った。
これを見た清左衛門殿を始めとする御家来衆一同、不漁にてもあればこそ、
「――丁度よいわ。この狐を縛って家苞(いえづと)に連れ帰り、狐鍋にでも、致そうぞ。」
と盛んに囃して御座った。
ところが、船頭と漁師は、神妙なる顔つきとなってそれを押し留め、
「……狐は稲を守る神の使いと申しまする。……何の罪もなきものを折檻なし給うは、これ、あまりに無益なること。……どうか一つ、我らに免じて、逃がしてやって下さりませ。……」
と口を揃えてのたっての望みなれば、そのまま近くの岸辺へ舟を寄せ、うち放してやると、かの狐は、ひどく嬉しげに走り去って御座ったと申す。
さても、漁師、
「……されば、もう日も暮れましょうほどに、最後に一網打ってみましょうぞ。」
と網を入れたところが――
――これ、三年ものとも申すべき大きなる鯉――釣り上げて御座ったと申す。
「……これはこれは! さては、かの狐の謝礼ならん!……今一網、打ってみよ!」
と大久保殿が命じたところ、かの漁師、
「……かかる奇瑞(きずい)の漁を得た折りは……これ、二度とは、網打ち致さぬものにて御座れば……どうか、ここは、ご勘弁のほどを……」
と切に乞うた故、その後(のち)は、網を打たずに帰った、とのことで御座る。
二十四
窮巷賣文偏寂寞
寒厨缺酒自淸修
拈毫窓外西風晩
欲寫胸中落木秋
〇やぶちゃん訓読
窮巷 文を賣りて 偏へに寂寞(せきばく)
寒厨(かんちゆう) 酒を缺きて 自(おのづ)から淸修(せいしう)
毫(がう)を拈(と)る 窓外 西風の晩
寫(うつ)さんと欲す 胸中落木の秋
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。丁度この頃、龍之介は上野の小料理屋清凌亭で仲居をしていた田島稲子(後の作家佐田稲子)と出逢って親交を結んでいる(自死の直前には自殺未遂経験のあった彼女に自殺決行当時の心境を問うている)。
大正九(一九二〇)年五月十一日附與謝野晶子宛(岩波版旧全集書簡番号七一五)
に所載する。詩の前に、鉄幹が「詩を作られる事を知」ったのは「愉快です」とあって(この「詩」とは漢詩のことと思われる)、
この頃人の書畫帖に下手な畫を描いた上同じく下手な詩を題しました景物に御らんに入れます
と書いて本詩を掲げている。「景物」とは、場に興を添えるもの、珍しい芸の意。本詩を画賛と記しているが、当該の画と思われるものは、一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したことがある。産經新聞社の同展解説書に載る「1-33」の「落木図」がそれである(但し、写真でモノクロームであるから、実物は現存しない可能性がある)。その解説には、
一九二〇(大正九)年晩秋、小穴隆一の実家にて游心帖に描いたもの。冬枯れの木も、龍之介が好んで描いたものの一つ。しかし、この画を描いた際の龍之介は、落木図を見せたかったのではなく、実はできたての七言絶句を示したかったのであろうといわれる。この七絶を、小穴は『黄雀風』の裏表紙に入れようとしたが、龍之介に断られている。
とある(晩秋とあるのが引っ掛かる。芥川はこれ以前に同様な画賛を誰かに贈っているのかも知れない。その礼節から大正一三(一九二四)年七月刊行の作品集「黄雀風」への装幀を拒絶したともとれる)。当該図版で確認すると、詩は冒頭に二行書き、
「缺」は「欠」
で、中央にくねった枯木の絵を配した後に(枯葉を数枚各所の枝先にぶら下げ、三葉が地面に散ったものであるが、御世辞にも上手い絵とは私は思わない)、
庚申晩秋
我鬼山人墨戲
と記す。
書簡の文面は如何にも卑小な謙遜をしているが、未だ知り合って間もない天下の名歌人晶子(当時満四十二歳。鷺年譜によれば、龍之介が晶子の歌会に出て親しく接するようになったのは大正八(一九一九)年末頃と思われる)へ示すというのは、本詩への龍之介の自信の在りようが見て取れる。
「窮巷」「陋巷」と同じい。狭い路地。貧家の比喩。
「寒厨」寒々とした貧乏人の厨(くりや)。同じく貧家の比喩。
「淸修」仏教や道教で、人と交わらずにたった独りで瞑想修行することを指す。
「毫を拈る」筆を執る。]
三十五
淨土谷の法蓮上人は、資緣省略(しえんせいりやく)のうへ、形のごとくの朝喰(あさげ)し、往生極樂のつとめに、わすられて、世のつねならず。これがために、これをいとなむ、念佛、心に入(いる)ときは、飯(いひ)にもあらず、粥(かゆ)にもあらぬ體(てい)なり。年にしたがひ、日をゝひて、容顏(ようがん)おとろへ、身力(しんりき)つきぬ。良友たづねきたりて、訪(とふらひ)て返事(へんじに)云、
〽西へゆくすぢ一だにたがはずば骨とかはとに身はならばなれ
〇淨土谷、洛東淨土寺山の北の谷なり。されば白川の法蓮房といへり。
〇資緣省略、衣食道具かろくつゞまやかにし給へるなり。
〇西へゆくすぢ一だに、すぢとは心の事なり。下の句に身とあるにて知るべし。善導の御釋に極樂をねがふ心を白き道筋にたとへられたる事あり。又道理の事をも筋といふ。
[やぶちゃん注:「法蓮上人」法蓮房信空(久安二(一一四六)年~安貞二(一二二八)年)藤原行隆の子。称弁とも。法蓮房という。十二歳で法然の師比叡山黒谷の叡空の室にて得度出家(法然の出家は天養二(一一四五)年十三歳とされる。従って当初、法然は十三歳違いの兄弟子であった)。叡空の滅後に法然に師事、以後、門下の長老として実に五十五年もの間常随し、その臨終にも近侍した。天台僧の念仏弾圧に対して元久元(一二〇四)年に法然が比叡山に送った「七箇条起請文」では執筆役を務め、法然に次いで、門下として筆頭署名をしている。法然流罪後は事実上の後継者として残された教団を統卒、浄土宗の基礎を固めた。「没後制誡」によれば彼の祖父藤原顕時が叡空に寄進した中山(黒谷光明寺の地)の別邸は法然に譲られ、後に法然によって信空に譲られている。これを寝殿造の白川禅房(二階房)と称し、この内松林房において九月九日に八十三歳で示寂した(以上は「浄土宗」公式HPの以下の頁の記載を参照した)。
「これがために、これをいとなむ」念仏をせんがために、食事を摂った。
「わすられて」「忘られて」であるが、この「忘る」はラ行四段活用(通常のラ行下二段ではない)で、「る」は尊敬ではなく自発である。
「善導の御釋」Ⅱの大橋氏注に「觀経疏散善義(かんきょうそさんぜんぎ)」を指し、『白き道筋は著名な二河白道の比喩をいう』とある。「二河白道」は「にがびゃくどう」と読み、善導が喩えた、極楽浄土に往生したいと願う者の、入信から往生に至る道筋。「二河」は南の火の川と北の水の川を指し、火の川は憎しみの燃え上がる謂いから怒りや憎しみを、水の川は欲に流される謂いから貪る心や執着心を表象する。その間に、一筋の白い道が通っているが両側から水・火が迫って、しかも後ろからも追っ手が迫っていて退けず、一心にその白い道を進んだところ、遂に浄土に辿り着いたという寓話である。煩悩にまみれた人でも、念仏一筋に努めれば、悟りの彼岸に至ることができることを説いている。主に掛け軸に描かれた絵を用いて説法を行った。絵では上段に阿弥陀仏と観音菩薩と勢至菩薩が描かれ、中段から下には真っ直ぐの細く白い線が引かれ、白い線の右側には水の河が逆巻き、左側には火の河が燃え盛っている様子が描かれ、下段にはこちらの岸に立つ人物とそれを追いかける盗賊、獣の群れが描かれる。下段の岸が現世、上段の岸が浄土を示し、東岸からは釈迦の「逝(ゆ)け!」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ!」という声がするという。この喚び声に応じて人物は白い道を通り西岸に辿りつき極楽往生を果たすという説法である(以上の絵解き部分はウィキの「二河白道」を参考にした)。]
魚類にも、往々無色透明なものがある。「うなぎ」「あなご」などの幼魚は多くは海の底に近く住んで居るが、網に掛つたものを見ると、極めて透明で水の中では到底見えぬ。魚類でも鳥類・獸類で血は赤いものと定まつて居るが、「うなぎ」類の幼蟲では血も水の如くに無色である。それ故、人の眼に見える部分はたゞ頭にある一對の小さな眼玉だけに過ぎぬ。漁夫は昔からこの魚を見ては居るが、「うなぎ」類の幼魚とは知らず、別種の魚と見做して「ビイドロ魚」と名づけて居る。
[やぶちゃん注:「うなぎ」「あなご」ウナギは、
条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属
Anguilla
に含まれる種の総称、アナゴは、
ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科 Congridae
の属する種の総称で、体型はいずれも細長い円筒形だが、アナゴには鱗がない点で異なる(しばしば誤解されるがウナギの体表は粘膜に覆われてぬるぬるしているものの、皮下に非常に小さな鱗をちゃんと持っている。因みに、ユダヤ教では鱗のない魚を食べてはならないという戒律があり、私はかつてイスラエル人の友人に「だったらウナギはゼッタイ食べていいんだよ!」と力説してみたが、笑って相手にして呉れなかった。今でも彼はウナギは鱗がないと思い込み、蒲焼の匂いに垂涎しながらも食わずにいる(彼が鮨屋でアナゴを食って「旨い!」と言った時には私は黙っていたのだが)。――ユダヤ教徒よ! ウナギをお食べなさい! ヤハウェは必ずや、お許しになられるから――。ウナギの属名“Anguilla”(アングィルラ)はラテン語でウナギの謂いであるが、その語源は“anguis”(蛇)である。また鮨屋でお馴染みのマアナゴ Conger myriaster の属名やアナゴ科の科名にある“Conger”はギリシア語でアナゴのこと。このように魚の分類の曖昧な西洋で、古来からウナギとの差別化がなされいていたのは、アナゴは海産、ウナギは淡水産として厳然と区別して認識されていたからであろうか。因みに、東宝怪獣のアンギラス(英語綴り“Anguirus”)は作中(初登場は監督小田基義・特技監督円谷英二「ゴジラの逆襲」昭和三〇(一九五五)年。因みにこの映画は我らが円谷英二が初めて特技監督という肩書で記名された記念すべき作品であった)では、中生代白亜紀後期(約七四〇〇万~六七〇〇万年前)の現北アメリカ大陸に生息した植物食恐竜の一種である爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目鳥盤目装盾亜目曲竜下目アンキロサウルス科アンキロサウルス属
Ankylosaurus の一種が水爆実験の影響で目覚めたものとされるが、これ、どう見てもウナギの属名“Anguilla”由来であろう(但し、ウィキの「アンギラス」には、『名前は東宝内部で社員公募された。この映画にも出演している俳優の土屋嘉男は「ギョットス」という名前を考えて公募したことを、佐原健二、高島忠夫との対談で明らかにした』とあって、この文脈からは実は「アンギラス」は「あんぐりとす」辺りが語源であったという都市伝説が生まれそうな気配がある。面白い!)実際、私の好きなスペイン料理、ウナギの稚魚のニンニク・オリーブオイル煮のシラスウナギのことをズバリ、“Angulas”(アンギラス)と言うのである。残念ながら最近の稚魚漁獲の激減によって、これ、なかなか食べることが難しくなっている。
『「うなぎ」類の幼蟲では血も水の如くに無色』ウナギやアナゴの稚魚の血液が無色透明なのは何故かは調べ得なかったが、これは稚魚の時期の血液にはヘモグロビンが殆んど含有せず、鮮緑色を呈するという血漿成分が勝っているからででもあろうか? 識者の御教授を乞うものである。なお、昔から知られているようにウナギ・アナゴ類のこの血漿中にはタンパク質の毒素イクチオトキシン(ichthyotoxin)とが含まれている。多量に飲用すると下痢や吐き気などの中毒症状を、目に入った場合は激しい結膜炎を引き起こし(これは江戸の時代小説などでウナギ屋の職人が裂いている最中に誤って……というシーンに使われる)、外傷部に入ったりしてもひどく炎症を起こす(私はさるウナギ屋の職人の方から、ちょっとした切り傷から入ってとんでもないことになったという話を聴いたことがある)。但しタンパク質であるため、六〇・五℃程度の加熱によって無毒化する。
「ビイドロ魚」これは流石に最早、死語のようで、ネット検索でも引っ掛からない。しかし、風流な名だ。残したい。]
袖 浦
靈山崎西ノ出崎、七里濱ノ入口、左ノ方稻村崎ノ海瑞ヲ云ナリ。地形袖ノ如シ。西行ノ歌トテ里民ノ語シハ
シキ浪ニヒトリヤネナン袖浦 サハク湊ニヨル舟モナシ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
重波(しきなみ)に獨やねなむ袖の浦騷ぐ湊(みなと)に寄る舟もなし
「しきなみ」は「頻波」とも書き、次から次にしきりに寄せてくる波のこと。但し、今回調べてみて分かったのだが、これは西行の歌ではなく、公卿で歌人の藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)の作であることが分かった。阿部和雄氏のHP「山家集の研究」の「西行の京師」(MM二十一号)に、
東海道名所図会も記述ミスが多くて、完全には信用できない書物です。同じに[やぶちゃん字注:ママ。]相模の国の項で、
しきなみにひとりやねなん袖の浦さわぐ湊による船もなし
という、藤原家隆の歌を西行歌として記述するというミスもあります。
とある。……もしかするとこれ……この黄門様のミスがルーツか? 但し、この「袖の浦」は「能因歌枕」に出羽国とする歌枕を用いたもので、ここの袖の浦とは無縁である。尤も歌枕であるから、出羽のそれの実景とも無縁で、ただ涙に濡れた「袖」を歌枕の「袖の浦」の名に託し、更に「浦」に「裡(うら)」の意を掛けているのは、以下の和歌群も同じである。以下、和歌注の後に空行を設けた。]
定家ノ歌トテ
袖浦ニタマラヌ玉ノクタケツヽ ヨセテモ遠クカヘル浪カナ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
袖の浦にたまらぬ玉の碎けつゝ寄せても遠くかへる波かな
で定家の「内裏百首」の「恋廿首」(一二六五番歌)に、「袖浦」と前書して、
そてのうらたまらぬたまのくたけつゝよせてもとをくかへる浪哉
(袖の浦たまらぬ玉のくだけつつよせても遠くかへる浪かな)
と載るものである。]
順德院
袖浦ノ花ノ波ニモシラサリキ イカナル秋ノ色ニ戀ツヽ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
袖の浦の花の波にも知ざりき如何なる秋の色に戀ひつつ
となる。「建保名所百首」所収。]
海道記ニ長明此所ニ來テ
浮身ヲハウラミテ袖ヲヌラストモ サシモヤ浪ニ心クタカン
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
うき身をば恨みて袖を濡らすともさしもや浪に心碎けん
となるが、「新編鎌倉志巻之六」の「袖浦」では、
浮身をば恨て袖を濡らすとも。さしもや浪に心碎(くだけ)ん
とある。]
御 靈 宮
長谷ヲ出テ南行シ、少シ西ノ方ノ民村ヲ過テ、星月夜ノ井ノ北ナル山ノ下ニアリ。權五郎景政ヲ祭ト也。
星月夜井
極樂寺ノ切通へ上ル坂口ニアル小キ井ナリ。昔ハ晝モ星ノ影、井ノ中ニ見へケル故ニ、星月夜ト云ト也。一女此井ノ中へ莱刀ヲ取落シタリ。是ヨリシテ星ノ影見ユズトナン云傳フ。一説ニ此井ニテハナシ。昔ノ道ハ山ノ上ニアリ。井モ其邊エアリトナン。
後堀河百首 常陸
我ヒトリ鎌倉山ヲ越ユケハ 星月夜コソウレシカリケレ
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直すと、
我ひとり鎌倉山を越へ行けば星月夜(ほしづきよ)こそ嬉しかりけれ
である。]
虛空藏堂
星月夜井ノ西ニアリ。道心者守之(之を守る)。此堂ノ中ニ石アリ。常ニ濕ヒアリト云。黑ク滑ナル石ナリ。
極 樂 寺
靈山山ト號ス。入口ニ辨慶ガ腰カケ松アリ。是義經腰越ヨリ押歸サレシ時、此松ニ腰ヲカケ、鎌倉ノ方ヲ望ミ、怒レル色アリテ歸タリト云傳フ。律宗西大寺ノ末也。本尊釋迦、西大寺ノ開山興正ガ作ナリ。嵯峨ノ釋迦ノ寫ニテ、西大寺・小大寺ト共ニ一作也。十大弟子ノ木像アリ。作者シレズ。陸奧守平重時建立、左ニ興正ガ木像アリ。道明寺ニモ同作ノ木像アリ。少シモ違ハズ。興正ガ自作トゾ。至極能作クル故ニ、儼然トシテ生ルガ如シ。右ニ忍性ガ木像アリ。良觀ト號ス。興正ガ第一ノ弟子也。大佛ノ別當也。八十三ケ寺建立スルト也。相武ノ間ニモ多シト云。今詳ニ知レガタシ。二王門ノ礎石アリ。昔ハ四十九院有シガ、今ハ只一院アリ。吉祥院ト云。今寺領九貫五百文ノ御朱印アリ。
寺寶
九條袈裟 一ツ
〔乾陀穀子袈裟、東寺第三傳ト書付アリ。乾陀國ノ布ト云。八祖相承トテ弘法マデ傳ハル。又東寺ノ第三ノ祖へ傳ハル上ト云。〕
中將姫心經ヲ繡クル打敷 一ツ〔大サ一尺二寸四方〕
八幡廿五條ノ袈裟 一ツ〔地ハ紗ナリ。〕
天神瑜迦論 三卷
〔長サ二寸五分、一行ニ廿五字ヅヽアリ。極テ細字ナリ。住僧云、鶴岡及稱名寺ノ天神細字ノ經ハ、皆此寺ヨリ分散シタルトナリ。〕
嘉暦二年綸旨 一通
右馬允政季〔建武二年證文、其中ニ武藏國足立郡箕田郷云々。〕
尊氏自筆證文、又自筆ノ狀アリ。
氏滿自筆證文 一通
義滿文狀 一通
舊記ニ藕絲ノ九條ノ袈裟アリ。釋迦ノ袈裟トハ大ナル誤ナリ。又千服ノ茶磨、千服ノ茶碗トテ路邊三石アリ。此寺ノ繁昌ヲ知セン爲ト也。
[やぶちゃん注:「嘉暦二年綸旨」は後醍醐天皇によるもの。
「右馬允政季」末尾に「證文」が抜けている。足利直義の直近の家臣と思われる。本證文は「新編鎌倉志巻之六」の「極樂寺」の当該項の私の注に提示してある。
「足立郡箕田郷」現在の埼玉県鴻巣市。
「天神瑜迦論」は「瑜伽論」とするのが正しい。正確には「瑜伽師地(ゆがしじ)論」という。「新編鎌倉志巻之六」の「極樂寺」の当該項の私の注を参照されたい。
「藕絲」は音「グウシ」、「はすのねのいと」(蓮の根の糸)の意。ここは何らかの旧記に、極楽寺寺宝に『藕絲の九條の袈裟あり』とあって、それを『釋迦の袈裟』とするが、それは大きな誤りである、の意であろう。]
月 影 谷
極樂寺ノ後ロ也。昔ハ暦ノ出ル所ト云リ。此所ニ阿佛屋敷ト云アリ。十六夜記ニ、東ニテ住ム所ハ月影谷トゾ云ナルトアリ。
[やぶちゃん注:「暦ノ出ル所」「新編鎌倉志巻之六」の「月影谷」には『昔は暦を作る者居住せしとなり』とある。]
靈 山 崎
切通ヨリ海中へ出崎ヲ云。此所日蓮雨ヲ乞フ所ナリ。
針 磨 橋
極樂寺ノ南、七里濱へ出ル路ノ小橋ナリ。
音 無 瀧
針磨橋ノ南、七里濱へ出ル口也。沙山ノ松蔭ヲ廻リ傳ヒテ落ル水也。常ハ水モナシ。沙山ナル故ニ、瀧落ルト云トモ音ナシ。因テ音無瀧ト云也。
日蓮袈裟掛松
音無ノ少シ南ノ海道ノ西ニアル一本松也。
[やぶちゃん注:「音無」前掲の音無瀧の脱字であろう。]
稻 村 崎
靈山崎ノ西ノ出崎ニ、稻ヲ積タル如クノ山アリ。是ヲ稻村ト云。其南ノ海上ヲ稻村崎ト云フ。コノ海邊ヲ横手原ト云トゾ。新田義貞鎌倉ヲ攻ル時、此海廿四町干潟ト成、平沙渺々トシテ横矢ノ舟、澳ニ漂フトナリ。因之(之に因りて)名タルトナリ。
[やぶちゃん注:「澳」「おき」と読む。沖。
「名タルトナリ」「名附タルトナリ」の脱字であろう。]
アリスの散歩の、行きつけの本在寺公園山頂で、とても魅力的な方と出逢った。周辺の遺跡などの話を交わすうちに、趣味で庚申塔を調べておられるという。七十六歳になられる鷹取氏という方。帰宅後、早速に氏のHPを拝読、これ、実に素晴らしい!――僕の「学びの場」がまた一つ、増えた。
アリスの散歩も――これ、悪くないわい♡♡♡
氏のHP「日本の名城100選」をご覧あれ!
蘇生の人の事
寬政六年の頃、芝邊のかるき日雇取(ひやとひどり)などしてくらしける男、風與(ふと)煩ひて頓死同樣にてありしを、念佛講中間(なかま)抔寄合(よりあひ)て寺へ遣し葬(はふむり)けるが、一兩日立て場の内にてうなる聲しけるが次第に高く也し故、寺僧も驚(おどろき)て掘(ほり)うがち見んとて、施主へ申達(まうしたつ)し掘らせけるが、活(いき)てあるに違ひなければ寺社奉行へも寺より訴へ、其節の町奉行小田切土佐守方へ町方より右蘇生人引取(ひきとり)候由相屆け、段々療養の上(うへ)力附(つき)て則(すなはち)番所へも出(いで)し故、其始末を尋(たづね)しに、我等は死し候とは曾て不存(ぞんぜず)、何か京都へ登り祇園邊を步行(あるき)、大阪道頓堀邊をもあるき東海道を歸りしに、大井川にて路銀無之(これなき)處、川越の者憐みて渡し吳(くれ)、夫より宿へ歸りしに、まつくらにて何かわからざる故聲を立(たて)候と覺へたり。全く夢を見し心也と語りし由、土州(どしふ)の物語り也。右夢の内に冥官にも獄卒にも不逢(あはず)といふ所、正直成(なる)者と感笑しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐譚から蘇生譚の怪異連関。幽体離脱した生霊譚としては、それが「大井川にて路銀無之處、川越の者憐みて渡し呉」と、明確な実態を持っている点が面白い。主人公の病気は細部が分からないが、循環器や脳に何らかの障害があったものとするなら、意識喪失と不整脈などで、死の判定を下され、葬られ、土中で覚醒するまでその間、夢を見ていたことになるが、それにしても京は祇園に大阪道頓堀の漫遊とは、如何にも「感笑」、いやいや、私なんぞも――芸者遊びのオプションも附けて貰い――あやかりたい夢では、これ、御座る。
・「中間(なかま)」『なか』は底本のルビであるが、これは原本のものらしく、丸括弧がない。
・「念佛講」念仏を行なう講(本来は社寺の参詣・寄進などをする信者の団体(伊勢講・富士講等)を指したが、以下に示すように、後にはそうしたものが実利的相互扶助組織となって貯蓄や金の融通を行う団体となっていった)。元は念仏を信ずる者たちが当番となった者の家に集って念仏を行なっていたが、後にはその構成員が毎月掛金を出して、それを講中の死亡者に贈る弔慰金・講中の会食・親睦等の費用に当てるといった、頼母子講(たのもしこう:一定の期日に構成員が掛け金を出し合ったものをプールし、講中で定期的に行う籤等に当った者に一定の金額を給付、これがほぼ全構成員に行き渡ったところで解散するという民間金融互助組織。古くは鎌倉時代に始まり、江戸時代に爆発的に流行した)的なものに変化していった。
・「小田切土佐守」小田切直年(寛保三(一七四三)年~文化八(一八一一)年)は旗本。小田切家は元は甲斐武田氏に仕え、武田氏滅亡後に徳川家康の家臣となって近侍したという経歴を持つ家系である。明和二(一七六五)年に二十三歳で西ノ丸書院番となった後、御使番・小普請・駿府町奉行・大坂町奉行・遠国奉行を歴任、寛政四(一七九二)年に五十歳で江戸北町奉行に就任した。その後、文化八(一八一一)年に現職のまま六十九歳で没するまで実に十八年間も奉行職にあった(これは町奉行歴代四番目に長い永年勤続である)。これによって幕府が小田切に対して篤い信頼を寄せていたことが分かる。以下、参照したウィキの「小田切直年」には、町奉行時代のエピソードが豊富に載り、中には何と根岸(小田切より四歳年下であり、根岸の南町奉行就任は寛政一〇(一七九八)年で、本話執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春は未だ勘定奉行であった。以下の小田切との裁定対立も公事方勘定奉行時代のものである)との裁定の対立が語られて実に興味深いので、以下に引用しておく。『小田切自身、奉行として優れた裁きを下しており、後の模範となる多数の判例を残している。駿府町奉行在任中には男同士の心中事件を裁いている。盗賊として有名な鬼坊主清吉を裁いたのも小田切であった』。『小田切が奉行にあった時代は、犯罪の凶悪化に拍車がかかっており、件数自体も増加していた。そのため老中達は刑法である御定書を厳格化する制定を下したのだが、小田切は長谷川宣以などと共にこの政策に反対し、刑罰を杓子定規に適用することなく出来る限りの斟酌をして寛大な措置を施す道を模索していた。例えば、大阪町奉行に在任していた最中、ある女盗賊を捕らえた。この女盗賊は最終的には評定所の採決によって死罪に処されたのだが、小田切は彼女に対して遠島の処分を申し渡していた。当時は女性の法人人格が男性より格下とみなされており、それを考慮した採決であった』。また、十歳の商家の娘かよが十九歳の奉公人喜八に姦通を強要、『喜八がついに折れて渋々承諾し、行為中に突如かよが意識を失いそのまま死亡するという事件が起こり、小田切は根岸鎮衛と共にこれを裁断した。根岸と寺社奉行は引き回しの上獄門を、二人の勘定奉行は死罪を主張したが、小田切は前例や状況を入念に吟味し、無理心中であると主張、広義では死刑であるものの、死刑の中でも最も穏当な処分である「下手人」を主張した。最終的に喜八は死罪を賜ったが、この事例にも小田切の寛大かつ深慮に富んだ姿勢が伺える』。『しかし良いことばかりではなく、「街談文々集要」や「藤岡屋日記」によると、文化七年(一八一〇年)五月二二日、年貢の納入に関するトラブルで取り調べを受けていた農民が、与力の刀を奪って北町奉行所内で暴れ、役人二名、および敷地内の役宅にいた夫人二名を斬殺し、子供も含めた多数に負傷させるも、役人たちは逃げ回るばかりで、犯人は下男が取り押さえると言う大醜態をさらした。犯人は処刑され、出身の村にも連座が適用されたが、刀を奪われた与力が改易され、その他逃げ回っていた役人多数が処分を受けた。この不祥事に「百姓に与力同心小田切られ主も家来もまごついた土佐」という落首が出て皮肉られている』(最後の引用はアラビア数字を漢数字に代えた)。この最後の不祥事は、「耳嚢 卷之四」の「不時の異變心得あるべき事」を髣髴とさせる。根岸の時代劇調の格好いい出来事は寛政七(一七九五)年であるから、小田切の一件よりはずっと前であるが、この顛末を聴いた根岸は、自身のあの時の体験をダブらせて、感慨も一入であったことは想像に難くない。
■やぶちゃん現代語訳
蘇生した人の事
寛政六年の頃、芝辺りで賤しい日雇いなんどを生業(なりわい)と致いて暮らしておった男が、ふと患って、まあ、言うところ――頓死――といった風に、死んだ。
念仏講仲間なんどが寄り集まって、寺へと送り、形ばかりでは御座ったが、葬儀も滞りなく済んで、葬って御座った由。
ところが……
……一日二日して……塚の内にて……これ、呻(うな)る声の、する――!――
……それが――!――
……次第に高(たこ)うなる!――
これ、流石に寺僧も驚き、
「……掘り返して見ずんばならず!」
と、施主へ異変を申し遣わし、掘らせてみたところが――
――これ、座棺の桶の中に――ぶるぶると震えて、
「……ウーン……ウーン! アハアアッ!……」
と呻いてあればこそ、
「……お、おいッ!……こ、これ、生きて、おるに違いないぞッ!……」
と、もう、上へ下への大騒ぎと相い成って御座った。
寺より寺社奉行へ驚天動地の事実を訴え出で、その節の町奉行小田切土佐守直年殿方へも、町方の者より、蘇生人を引き取った旨、相い届けて御座った。……
だんだんに療養の上、本人も徐々に起き上がるほどの力もついたによって、自身も番所へと出頭した故、その顛末につき、訊問致いたところが、
「……我らは……そのぅ……死んでしもうたとは……これ……いっかな……存じませなんだじゃ。……へぇ……そんでもって……何かその……旅を……へぇ……京都へ上って、祇園辺りをぶらついて……それから……大阪は、かの道頓堀辺も歩いて……そんでもって………東海道を帰(けえ)って……その途次にては……あの大井川にて、路銀がないようなっておりやしたによって……渡れずに困っておりやしたところが……川越えの人足が、これ、哀れんで……担いで渡して呉れやした。……そんでもって……宿へ帰(けえ)ったところが……何か、この……その……家中(いえじゅう)が……これ、真っ暗で……何(なん)か……その……訳がわからんことになって……ともかくも! っと……声を立てた……というところまでは……よう、覚えとりやす。……へぇ……もう、全く、永(なげ)え永え夢を……これ、見ておったとような心持ちで御座んした……へぇ……」
と語った由。――
以上は土佐守殿の話された実話にて、
「……それにしても……その夢の中(うち)にては、冥府の役人にも、獄卒にも、これ、逢わなんだと申すは……如何にも正直者、というべきで御座ろうか、の。」
と、二人して笑い合(お)うたもので御座った。
三十四
又云、日來(ひごろ)隨分に、後世(ごせ)をおもふ樣なるものゝ、行業(ぎやうごふ)など、退轉する事あらば、死期(しご)のちかづきたるとおもふべきなり。
〇死期のちかづきたる、久からずして死すべしとおもへば修行もすゝむなり。
[やぶちゃん注:「行業」仏道の修行。ここでは念仏。
「退轉」修行を怠り、一度得た悟りを失って前の迷いの世界に立ち戻ってしまうこと。
「あらば」「退轉」というゆゆしき事態を提示し、更にこれを仮定形で示す時、確かに標注の言うようなパラドックスこそが本条の謂いと言えよう。――「いつか永遠に生きるために、人はしばしば死に身をゆだねなければならない。」――のであった(ドイツ・ロマンの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich 一七七四年~一八四〇年)の言葉。ペーター・ラウトマン著長谷川美子訳『フリードリヒ「氷海」――死を通過して新しい生命へ――』一一七頁より)。]
〇問注所を移し立てらる
四月二十七日改元あり正治と號す。故賴朝卿の御時には問注所を營中に定めて、自(みづから)立出給ひ、訴論を聞きて、是非を決せらる。諸人群集鼓騷(ぐんじゆこさう)して、無禮を致す者ありといへども、只(ただ)寛温大度(くわんをんたいど)にして、是を咎めず。又御寢所には諸國御家人の名字を書付けて壁に掛け、毎朝(まいてう)是を一覽し、會所には在(ざい)鎌倉の大名、小名の名字を書きて掛(かけ)られ、毎日是を一覽し、十日に及びて、登城(とうじやう)なき人をば或は使を遣(つかは)し、或はその親(したしき)に向ひて無事を問ひまします故に、諸侍是に勵まされて、毎日の出仕を闕(か)く事なし。而(しかう)して親み深く、交(まじはり)を厚(あつく)し、或時は酒宴、或時は歌の會、又は弓馬の遊(あそび)、笠掛(かさかけ)、犬追物(いぬおふもの)、その外數ヶ度の狩(かり)を催さる。總てその身の樂(らく)とし給はず。天下の侍(さぶらひ)に親まんが爲なり。さればにや諸將諸侍(し)皆昵(むつま)じく思ひ奉り、忠を致さんとのみ存じけり。しかのみならず無禮なるには法令を教へ、侮慢(ぶまん)なるをば警誡(けいかい)し給ひ、罰すべきをば法に委せ、忠ある者は賞し給ふ。この故にその政德に懷(なつ)く事嬰兒の父母を思ふが如くなり。然るを賴家の御代になりて萬事只略義を存ぜられ、外祖北條時政に打任せ、御身は奥深(ふか)く籠りて、遊興を以て事とし給ふ。是に依(よつ)て政理(せいり)の御勤もむつかしく思召(おぼしめ)され、それとはなしに内々の評定(ひやうぢやう)には、論人(ろんにん)若(もし)狼籍を仕(し)出さば不覺(ふかく)たるべし。徃初(そのかみ)熊谷(くまがへ)と久下(くげ)と境目(さかひめ)の相論(さうろん)あり。対決の日直實(なほざね)道理に負けて、西侍(にしさふらひ)にして荒涼の詞(ことば)を吐散(はきちら)し、髻(もとゞり)を切て退出しけるは、頗る非禮の所行にあらずや。今より問注所を郭外に立てられ、その御沙汰を致されて然るべしとて、大夫屬(さくわん)善信(ぜんしん)を執事として、向後大小訴論の事北條父子、兵庫頭廣元、三浦義澄、八田(やたの)知家、和田義盛、比企能員、藤九郎入道蓮西(れんさい)、足立遠元、梶原景時等(ら)談合を加へ、成敗(せいばい)を計(はから)ひておこなふべしとぞ仰出(おほせいだ)されける。是より訴訟、公事(くじ)決斷の事、假初(かりそめ)にも日を重ね、月をわたりて、難義に及ぶ者鎌倉中に營々(えいえい)として、人皆(みな)昔を慕ひけり。掃部頭藤原親能をば京都の奉行として、六波羅に置れたり。賴家近習(きんじう)の者とては小笠原彌太郎長經、比企三郎、和田三郎朝盛(とももり)、中野五郎能成(よしなり)、細野(ほそのゝ)四郎、只五人を友として晝夜御前を立離(たちはな)れず、その外の輩は一人も參るべからず。この五人に於ては假令(たとひ)鎌倉中にして狼籍の事ありとも、甲乙人(かふおつにん)敢(あへ)て敵對致すべからずと村里までも觸(ふ)れられたり。是を聞く人老たるも若(わかき)も舌を鳴して誚(そし)り合ひけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九五)年四月一日・十二日・二十日などに基づくが、寧ろ、記述内容自体には巻十二の建久三(一一九二)年十一月二十五日の条が、合議制の合理的必然性の核心部分として用られており、説得力を強化していると言える。要は頼家の武家頭領としての失格性を強調する段である。
「笠掛」は「笠懸」とも書き、疾走する馬上から的に鏑矢を放ち的を射る騎射。遠笠掛は最も一般的な笠懸で、的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形で鞣なめし革で造られている。これを疏(さぐり:馬の走路。)から五杖から十杖(約一一・三五メートルから二二・七メートル。「杖」は弦を掛けない弓の長さで、競射の際の距離単位で七尺八寸≒二・三六メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めし、張り吊るす。的は一つ(流鏑馬では三つ)。矢は大蟇目ひきめと呼ばれる大きめの蟇目鏑(鏑に穴をあけたもの)を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる。遠くの的を射る所から「遠笠懸」ともいう。
「犬追物」牛追物から派生したとされる弓術作法の一つで、流鏑馬・笠懸と合わせて騎射三物に数えられる。競技場としては四〇間(約七三メートル弱)四方の平坦な馬場を用意し、そこに十二騎一組の三編成三十六騎の騎手と、二騎の「検見」と称する検分者・二騎の喚次(よびつぎ:呼び出し役。)に、百五十匹の犬を投入、所定時間内に騎手が何匹の犬を射たかで争った。矢は「犬射引目(いぬうちひきめ)」という特殊な鈍体の鏑矢を使用した。但し、単に犬に矢が当たればよい訳ではなく、その射方や命中した場所によって、幾つもの技が決められており、その判定のために検見や喚次が必要であった(以上はウィキの「犬追物」を参照した)。
「熊谷と久下と境目の相論あり」これはかなり知られた事件である。「吾妻鏡」の建久三(一一九二)年十一月二十五日の条を見よう。
〇原文
廿五日甲午。白雲飛散。午以後屬霽。早旦熊谷次郎直實與久下權守直光。於御前遂一决。是武藏國熊谷久下境相論事也。直實於武勇者。雖馳一人當千之名。至對决者。不足再往知十之才。頗依貽御不審。將軍家度々有令尋問給事。于時直實申云。此事。梶原平三景時引級直光之間。兼日申入道理之由歟。仍今直實頻預下問者也。御成敗之處。直光定可開眉。其上者。理運文書無要。稱不能左右。縡未終。卷調度文書等。投入御壺中起座。猶不堪忿怒。於西侍自取刀除髻。吐詞云。殿〔乃〕御侍〔倍〕。登〔利波天〕云々。則走出南門。不及歸私宅逐電。將軍家殊令驚給。或説。指西馳駕。若赴京都之方歟云々。則馳遣雜色等於相摸伊豆所々幷筥根走湯山等。遮直實前途。可止遁世之儀之由。被仰遣于御家人及衆徒等之中云々。直光者。直實姨母夫也。就其好。直實先年爲直光代官。令勤仕京都大番之時。武藏國傍輩等勤同役在洛。此間。各以人之代官。對直實現無礼。直實爲散其鬱憤。屬于新中納言。〔知盛卿。〕送多年畢。白地下向關東之折節。有石橋合戰。爲平家方人。雖射源家。其後又仕于源家。於度々戰塲抽勳功云々。而弃直光。列新黄門家人之條。爲宿意之基。日來及境違乱云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日甲午。白雲飛び散り、午以後、霽に屬(ぞく)す。早旦、熊谷次郎直實と久下權守直光、御前に於いて一决を遂ぐ。是れ、武藏國熊谷と久下との境相論の事なり。直實、武勇に於ては、一人當千の名を馳すと雖も、對决に至りては、再往知十の才に足らず、頗る御不審を貽(のこ)すに依つて、將軍家、度々尋ね問はしめ給ふ事有り。時に直實申して云はく、「此の事、梶原平三景時、直光を引級(いんきふ)するの間、兼日に道理の由を申し入るるか。仍つて今、直實、頻りに下問に預る者なり。御成敗の處、直光、定めて眉を開くべし。其の上は、理運の文書要無し。左右(さう)に能はず。」と稱し、縡(こと)未だ終らざるに、調度文書等を卷き、御壺の中に投げ入れ座を起つ。猶ほ忿怒に堪へず、西侍(にしざむらひ)に於いて、自(みづ)から刀を取り髻(もとどり)を除(はら)ひ、詞を吐きて云はく、「殿の御侍へ登りはて。」と云々。
則ち、南門を走り出で、私宅に歸るに及ず、逐電す。將軍家、殊に驚かしめ給ふ。或る説に、西を指して駕を馳す、若(も)しは京都の方へ赴くかと云々。
則ち、雜色等を相摸・伊豆の所々、幷びに筥根(はこね)・走湯山等へ馳せ遣はし、直實の前途を遮(さいぎ)つて、遁世の儀を止むべしの由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣はさると云々。
直光は、直實の姨母(をば)が夫なり。其の好(よし)みに就きて、直實、先年、直光の代官として、京都大番に勤仕せしむるの時、武藏國の傍輩等、同じ役を勤めて在洛す。此の間、各々人の代官を以つて、直實に對し無礼を現はす。直實、其の鬱憤を散らさんが爲に、新中納言〔知盛卿。〕に屬し、多年を送り畢んぬ。白地(あからさま)に關東へ下向せるの折節、石橋合戰有り。平家の方人(かたうど)と爲り、源家を射ると雖も、其の後、又、源家に仕へ、度々戰塲に於いて勳功を抽ん(ぬきん)づと云々。
而うして直光を弃(す)て、新黄門の家人に列するの條、宿意の基として、日來(ひごろ)境の違乱に及ぶと云々。
・「熊谷次郎直實」(永治元(一一四一)年~承元二(一二〇八)年)は武蔵国大里郡熊谷郷(現在の熊谷市)領主直貞次男であったが二歳で父を失い、叔父の久下直光に養育された。本「吾妻鏡」の記載にもある通り、直光の代理で大番役に上洛した時、傍輩の侮辱を受けて憤慨、平知盛に仕えて都に留まることとなったが、その間に直光が直実の所領を押領したため、境相論が発生した。治承四(一一八〇)年四月の石橋山の戦では平家方として頼朝を攻めたが、間もなく頼朝配下となり、同年十一月の佐竹秀義攻撃で抜群の戦功を挙げて本領熊谷郷の地頭職に補任された。次いで、元暦元(一一八四)年の宇治川合戦、一の谷合戦などでも活躍、特に「平家物語」などで知られる一の谷での十六歳の平敦盛との一騎打ちが有名(これが後の出家する機縁となったとする伝承も知られたものである)。文治三(一一八七)年の鶴岡八幡宮の流鏑馬で的立役を拒否して頼朝の不興を買い、所領の一部を没収されている。更に、この叔父直光との境相論の席上、頼朝が直光を支持するような気配を見せたことに立腹して逐電、京に赴き、法然の弟子となって蓮生(れんじょう)と号した。その直情径行な性格に相応しく、一心に上品上生の往生を立願して死期を予言、その予言通り、承元二年九月十四日、端座合掌して高声念仏しながら往生したという(「吾妻鏡」)(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主に参照した)。
・「久下權守直光」(生没年不詳)は武蔵七党の一つにも数えられる私市(きさいち)党の一族。本件の所領論争を中止に据えたウィキの「久下直光」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(一一八二年)五月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久三年(一一九二年)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年十一月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった(『吾妻鏡』)。もっとも、知盛・頼朝に仕える以前の直実は直光の郎党扱いを受け、直実が自分の娘を義理の伯父である直光に側室として進上している(世代的には祖父と孫の世代差の夫婦になる)こと、熊谷郷も元は直光から預けられていた土地と考えられており、直光に比べて直実の立場は不利なものであったと考えられて』おり、『以後も久下氏と熊谷氏の境相論は長く続く事になる』と記す。
・「引級」特に訴訟の際、弁護や支援をすること。肩をもつ、依怙贔屓をするといったニュアンスを含み、ここでは、それ。
・「道理の由を申し入るるか」裁断を下す頼朝に対して、実は事前に、直光の方が道理に叶った訴えであるといった事が、申し入れられているのではないか? という疑義である。
・「眉を開く」「眉を顰む」の反対語で、歓喜する、ここでは勝訴することをいう。
・「壺」建物の内部にある坪庭のこと。吉川本などは「簾」とする。
・「西侍」侍所の西側の詰所の謂いか。
・「殿の御侍へ登りはて。」『佐殿(頼朝)の侍にまで出世したにぃッツ!』という痛烈な歯嚙みの捨て台詞である。
「藤九郎入道蓮西」安達盛長。
「安達遠元」(生没年未詳)は安達盛長甥であるが、安達の方が年下である。平治の乱で源義朝の陣に従い、源義平率いる十七騎の一人として戦い、頼朝挙兵の際には、彼が下総国から武蔵国に入った十月二日に参上、元暦元(一一八四)年には最初期の公文所知家事に補任されている。
「甲乙人」如何なる身分の人物(であっても)、の意。]
長谷觀音
大梅寺ノ西南也。海光山ト號ス。額ニ長谷寺トアリ。子純筆ナリ。淨土宗、光明寺ノ末也。養老元年ノ草創ナリト云。寺領二貫文アリ。本尊ハ十一面觀音ナリ。長二丈六尺二分、三十三年充ニ開帳スルト也。サレドモ内陣ニ入テ燈寵ヲ引上テ照シ見ル。春日ノ作ニテ大和ノ長谷ノ觀音ト一木ナリ。是ハ末木ニテ作ルト云。脇ニ木像ノ僧ノ形アリ。德道上人ト名ク。開山ナリトモ又ハ順禮ノ元祖ナリトモ云。開山ニシテ順禮ノ元祖ナルカト別當慈照院語リヌ。阿彌陀、聖德太子ノ木像、畠山六郎ガ持佛堂ノ本尊ノ勢至菩薩アリ。坂東順禮札所ノ第四番也。今ノ堂ハ酒井讚岐守忠勝再興也。六月十七日夜ハ當寺ノ會ニシテ、貴賤僧俗參詣スト云リ。
[やぶちゃん注:私は、これを読んで、二百二十年の後に、同じ場所で、同じようにして、この観音を見、激しい感動に打たれた、ある私の愛する人物の手記を、思い出さずにはおれない。以下に引用してたい。
十二
そこから、われわれは音に聞こえた鎌倉の観音寺の前にいたる。衆生の心魂を救わんがゆえに、永遠の平和のために一切を捨離し、百千万億劫の間、人類と苦難を共にせんがために、涅槃をすてた慈悲憐憫の女仏。――これが観世音だ。
三層の石階を登って、堂のまえに行くと、入口にひかえていた若い娘が立って、われわれを迎えに出てくる。番僧を呼びに、その娘が本堂の中へ姿を消したと思うと、入れかわりに、こんどは白衣の老僧があらわれて、どうぞおはいりと会釈をする。
本堂は、今まで見てきた寺と同じくらいの大きさで、やはり同じように、六百年の歳月で古色蒼然としている。屋根からは、さまざまの奉納の品や、字を書いたもの、色とりどりにきれいな色に塗った無数の提灯などが下がっている。入口と向かい合わせのところに、ひとりぽつねんと坐っている像がある。大きさは、人間と同じくらいで、人間の顔をしている像だ。それがへんに薄気味わるく皺のよった顔のなかから、化物じみた小さな目玉をして、こちらを見ている。その顔は、むかしは肉色に塗られ、衣は水色に彩(いろど)られてあったのが、いまは、年とともに積り積った塵ほこりのために、全部が白ちゃけてしまっている。その色の褪せたところが、爺ぐさい姿にかえってよく調和して、ちょっと見ると、生きている托鉢坊主を見ているような気がする。これがおびんずるで、東京の浅草で、無数の参詣者の指になでられて形の擦りへってしまっている、あの有名な像と同じ人物だ[やぶちゃん注:「おびんずる」は底本では「ヽ」の傍点。]。入口の左と右には、筋骨隆々たる、物すごい形相をした仁王が立っている。参詣人が吐きつけた紙つぶてが、深紅の胴体に点々とこびりついている。須弥壇の上には、小さいけれども、ひじょうに好感のもてる観音の像が、炎のちらちらするさまを模した、細長い光背を全身に負うて立っている。
が、この寺が有名なのは、この小さな観音像のためではないのだ。ほかに、もうひとつ、条件づきで拝観できる像があるのである。老僧が、流暢な英語で書かれた歎願文を、わたくしに示した。それには、参詣者は、本堂の維持と寺僧援護のために、応分の御寄進が願いたいとしてある。宗旨ちがいの参詣者のためには、「人に親切にし、人を善人にみちびく信仰は、すべて尊敬する価値がある」ことを銘記せよ、といって訴えている。わたくしは賽銭を上げて、大観音を拝観させてもらうように、老僧に頼んだ。
やがて、老僧が提灯に灯をともして先に立ち、壇の左手にある狭い戸口から、本堂の奥の高い暗がりのなかへと案内をする。しばらくのあいだ、あたりに気をくぼりながら、そのあとについて行く。提灯がちらちらするほかには、何も見えない。やがて、なにやらピカピカ光った物の前にとまる。しばらくすると、目がだんだん闇になれてきて、目の前にあるものの輪郭が、しだいにはっきりしてくる。そのうちに、その光った物は、何かの足であることがわかってくる。金色(こんじき)の大きな足だ。足の甲には、金色の衣の裾がだらりとかかっている。と、もう一方の足も見えてくる。してみると、これは、何か立っている像だ。今、われわれのいるところは狭いけれども、天井のばかに高い部屋であることがわかる。そして、頭のずっと上の神秘めいた闇のなかから、金色の足を照らしている提灯の灯影の輪のなかへと、長い綱が何本も下がっているのが見える。その時老僧は、さらに提灯をふたつともして、それを、一ヤード[やぶちゃん注:約九〇センチメートル。]ずつほど離れて下がっている綱についた釣(かぎ)にひっかけると、ふたつの提灯を、同時に、するすると上にたぐり上げた。提灯がゆらゆら揺れながら、上の方へするする上がって行くにつれて、金色の衣がだんだんに現われてくる。やがて、大きな膝の形が二つ、もっこりとあらわれたと思うと、つぎには、彫刻をした衣裳の下にかくれている、円柱のような二本の太股の線があらわれてくる。提灯は、なおも揺れながら、上へ上へと昇って行く。それにつれて、金色のまぼろしは、いよいよ闇のなかに高くそびえ、こんどは何が出てくるだろうという期待の心が緊張してくる。頭のずっと上の方で、目に見えない滑車が、コウモリの鳴くようなキイキイ軋る音を立てるほかは、何の物音もしない。そのうちに、金色の帯の上のあたりに、胸らしいものが見えてくる。すると、つづいて、冥福を祈るために高くあげられている、金色さんぜんたる片方の手が見えてくる。つぎには、蓮華をもった片方の手が、そうして、いちばん最後に、永遠の若さと無量のやさしさをたたえて、莞爾(かんじ)として微笑(みしょう)したもう、金色の観音の慈顔があらわれる。
このようにして、神秘の闇のなかから現じたもうたこの女仏――古代が産み、古代美術が創造した作品の理想は、ただ、荘厳というようなものだけにはとどまらない。この女仏からひきだされる感情は、ただの讃歎というようなものではなくて、むしろ、畏敬の心持だ。
美しい観音の顔のあたりに、しばらく止まっていた提灯が、この時、さらに滑車のきしる音とともに、また上へ昇って行った。すると、なんと見よ、ふしぎな象徴をあらわした、三重の冠があらわれた。しかも、その冠は、無数の頭と顔のピラミッド――観音自身の顔を小さくしたような、愛らしい乙女の美しい顔、顔、顔の塔であった。
けだし、この観音は、十一面観音なのである。
この筆者が、如何にこの観音像に感動したかは、以下、次の「十三」章をまるまる、この長谷観音の縁起を語ることに費やしていることからも分かる(光圀や「新編鎌倉志卷之五」の「長谷觀音堂」の記述と比べれば、その温度差は天地ほども違うと言える)。しかも――もう誰かはお分かりであろう――彼は日本人では――ない――いや――後に日本人となったアイルランド人――小泉八雲である。これは彼の日本来日直後の印象を纏めた明治二十四年に刊行された、
HEARN,
Lafcadio Glimpses of unfamiliar Japan 2vols. Boston and New York, 1894.
で、引用は私の尊敬する翻訳家平井呈一氏の「日本瞥見記(上)」(一九七五年恒文社刊)に拠った。著作権が存続するが、この項には最も相応しい引用であると確信し、章全体の引用を行った。これは著作権侵害に当たる行為に相当するとは私は思っていないが、著作権者からの要請があれば、必要な引用としての観音の描出シーンを残して前半部を削除する用意はある。]
御輿嶽〔或作御越〕
大佛へ行東ノ上ノ山ナリ。稻荷大明神有ト云。
中務卿宗尊親王
都ニハ早吹ヌラシ鎌倉ヤ 徹輿ガ崎ノ秋ノ初風
詞林采葉
鎌倉ノ御越カ崎ノ岩ノヱノ 君カクユヘキ心ハモタシ
[やぶちゃん注:「吹ヌラシ」及び「岩ノヱノ」はママ。それぞれの和歌は読み易く書き換えておく。
都にははや吹きぬらん鎌倉や御輿が崎の秋の初風
鎌倉の見越しが崎の石崩(いはく)えの君が悔ゆべき心はもたじ
表記は、「新編鎌倉志卷之五」の「御輿嶽」本文所収の同歌の表記も参考にした。]
二十三
茅簷帶雨燕泥新
苔砌無人花落頻
遙憶輕寒鳧水上
長隄楊柳幾條春
〇やぶちゃん訓読
茅簷(ばうせん) 雨を帶びて 燕泥新たなり
苔砌(たいせい) 人無く 花落つること頻り
遙かに憶ふ 寒鳧(かんすゐ)水上(すゐしやう)に輕きを
長隄(ちやうてい) 楊柳 幾條(いくでう)の春
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。大正九(一九二〇)年三月三十一日附恒藤恭宛(岩波版旧全集書簡番号六八六)に所載する。恒藤恭は井川恭のこと。大正二(一九一三)年に第一高等学校第一部文科卒業後は京都帝国大学法科大学政治学科へ進学、同大学院を退学後、この前年大正八年に三十一歳の若さで同志社大学法学部教授に就任していた。大正五(一九一六)年十一月に恒藤規隆(日本最初の農学博士の一人。沖大東島(ラサ島)で燐鉱石を発見してラサ島燐礦合資会社(後のラサ工業)を設立人した)の長女まさと結婚、婿養子となって恒藤姓となっている。この頃の恭はカント派の影響を受けて法哲学に関心を持つようになっており、河上肇・末川博らとも交流している(以上はウィキの「恒藤恭」に拠った)。書簡冒頭に載り、頭には「乞玉斧」とある。また、末尾には、
二伸 その後御無沙汰した 僕病氣がちで困る 風なども去秋から殆ど引き續けだ 松岡は魚眼眞珠株式會社社長になつた 成瀨は支那へ遊びに行つた 菊池は胃病で困つてゐる 久米はよく働き遊んでゐる 皆さん御變りないだらうね 僕も近々父になる 何だか束縛されるやうな氣がして心細い 拙著一册送る 始の方を少しよんでくれ給へ 頓首
とある。詩とは直接拘わらないが、邱氏の解説には、この「松岡は魚眼眞珠株式會社社長になつた」について、非常に興味深い事実が記されているので引用する。『「松岡」とは友人の松岡譲を指すが、「魚眼真珠株式会社」について、新全集の「注釈」は「未詳」としている。実は「魚眼真珠」も中国古来の熟語「魚目混珠」に由来するもので、「にせもの」という意味である。したがって、これが戯れ言であり、芥川流のユーモアなのである。』あるのである。「魚目混珠(ぎょもくこんしゅ)」とは、魚の目玉と珠玉がよく似ていることから、本物と偽物が入り交じっていて紛らわしい喩えである。勿論、私もこの邱氏の解明には驚いた(ただ、龍之介のこうした悪戯好きはよく分かっているので、直ぐに腑には落ちた)が、アカデミックな国文学者として真面目に調べた新全集の注釈者をさえも困らせて――龍之介は今も悪戯っぽい目で、僕らを騙し続けているのである……
「茅簷」茅葺きの屋根。
「燕泥」詩語で燕の巣のこと。
「苔砌」「砌」は階(きざはし)の下の石畳であるから、これは、びっしりと苔生しているそれを描写し、人の訪れの絶えていることをいう。
「寒鳧」「鳧」は野鴨。川に浮んだ寒そうにしている羽毛のほこほことしたカモや水鳥の類いをイメージしてよいが、これは同時に固有名詞としての京の賀茂川のことを指す(日本漢詩では「賀茂川」を「鴨水」としたりする)。ここは従って、新春の未だ寒々とした賀茂川の水の流れを同時に映像化する必要がある(但し、そのスケールは実は、架空の大陸の「鳧水」という河にも変換され、あたかも隠者の棲家とする不思議な山水が、そこに現前するように龍之介は創っているに違いない)。……私などは、つい、ここから東へと目が移って、鴨東(こうとう)――祇園の花街が視界の隅の方に見えてしまうのであるが。……
「長隄」賀茂川の長堤。今の賀茂川堤や高野川堤は、合わせて七百本を越える桜並木の名所となっている。但し、これも西湖の知られた白堤(はくてい)等が、自動的にオーバー・ラップされて、非日本的(だからここは「楊柳」でなくてはならない)な広角のランドスケープが浮かび上がってくるようになっている。起承句の隠者の庵の描写――それは京の山間の隠れ寺のようでもある――から、転結句では、京で読む恒藤の意識に一度、フォーカスを合わせたものが、そこから再びぼやけたかと思うと――広大無辺の静謐なる大陸的景観へと変容(メタモルフォーゼ)する――かく繫げてゆく龍之介の手腕は、やはり只者ではないという気がする。]
狐の付し女一時の奇怪の事
予が同寮の人、壯年の頃本所に相番(あいばん)ありしが、右の下女に狐付て暫く苦しみしが、兎角して狐も放(はなれ)て本心に成し後、ちいさき祠を屋敷の隅に建置(たておき)しが、彼女其後は人の吉凶等を(是はいかに成(なる)品にてと)祠(に伺)ひて語る事神の如し。我同寮も多葉粉入(たばこいれ)抔を紙に封じ、これはいかなる品にてと彼(かの)女にあたへけるに、神前へ行(ゆき)て是はたばこ入なる由を答へければ、不思議成(なる)事と思ひしが、暫く月數も立(たち)て同樣に尋けるにしれざる由を答へて、其後は當る事なかりしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:「不思議成事」――狐狸妖異譚直連関であるが……前項がただの嫌がらせであった可能性が極めて高かったように……これも、如何にも怪しい(提示された具体な唯一の千里眼透視が如何にもしょぼい煙草入れで、他のESP(超感覚的知覚 extrasensory perception)の事例が具体に書かれていない点、詐欺がばれてかけて嫌になったのか、すぐに能力が失われたという点など)……謂わば、思春期の女性にありがちな意識的(若しくはやや病的な無意識的)詐欺の似非霊媒と、断じてよかろうと思う。
・「同寮」底本は右に『(同僚)』と傍注する。
・「相番」当番・日直その他種々の仕事上での一緒に務めるようになった人をいう。これは本所で行われた、それなりの長期の事業・業務の同僚という謂いである。本文には「壯年」とあり、通常は四十代以降でなければ壮年とは言わないから、これは根岸が四十二歳にして、勘定吟味役に就いた安永五(一七七六)年以降か、その直前の勘定組頭の時代の終頃と推定される。根岸は勘定吟味役在任時には、河川改修や普請工事に才腕を振るったとされていることから、水運の要であると同時に水利に問題のあった本所深川の宅地・道路・上水道を司った町奉行支配の本所道役(みちやく)などと連繋するために本所で勤務した可能性が挙げられよう。
・「(是はいかに成品にてと)祠(に伺)」底本ではそれぞれの丸括弧の右に、『(尊經閣本)』と傍注する。ところが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この前後はもっと整序されて自然である。以下、短いので全文を示す(正字化し、ルビは排除した)。
予が同寮の人、壯年の頃本所に相番ありしが、右の下女に狐付てしばらく苦しみしが、兎角して狐もはなれ本心に成りし後、小き祠を屋敷の隅に建置しが、彼女其後は人の吉凶等を祠に伺ひて語る事神の如し。我同寮も多葉粉入などを紙に封じ、「是はいかに成品ぞ」と彼女にあたへけるに神前へ行て、「夫はたばこ入なる」よしを答へければ、不思議なる事とおもひしが、暫く月數も立て同樣に尋けるに、知れざる由を答へて、其後は當る事無かりしとや。
なお、今回は、この岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で現代語訳した。
「たばこ入なる」この「なる」は断定の助動詞「なり」の連体形で、千里眼のあらたかななるを示すための連体中止法による余韻を含ませたものである。
■やぶちゃん現代語訳
狐の憑いたと評判の女が一時だけ見せた奇怪の事
壮年の頃、本所にて相番(あいばん)を勤めた同僚が御座ったが、この下女に、これ、狐が憑いて、暫くの間、痛(いと)う苦しんで御座ったと申すが、兎も角も、とり憑いた狐も離れ、正気に戻った風なれば、後のためにと、小さき稲荷の祠(やしろ)を屋敷の隅に建ておいた、と申す。……以下、その相番同僚の話にて御座る。……
……ところが、この下女、その後――人の吉凶、かの祠に伺いを立つれば、これ、ズバリと当たる、それ、神の如し――と聊か評判になって御座って、の……
……我らも一つ試みにと、煙草入れなんどを、外見(そとみ)や感触からは全く分からぬように、これ、厳重に紙に封じ入れ、
「……これは如何なる物品にてあるか?」
と、かの女に渡すと、女はそれを神前に持(も)て行くと、何やらん拝んでおる風にして、暫く致すと、
「……ソレハ――煙草入レナル――」
の由、答えて御座ったれば、これ、
『……如何にも、不思議なることじゃ……』
と思うたものじゃ。……
……ところが、暫く――そうさ、数か月も経って御座ったか――再び同じ如、試いてみたところが、
「……とんと……へぇ、分かりませぬぅ……」
との由、答え……その後は……これ、全く以って、当たらずなり申した。……
三十三
聖光(しやくはう)上人云、箆(の)をたむるに、片目をふたぎて、よくためらるゝ樣に、一向專修(いつかうせんじゆ)もよこめをせざれば、とく成(なる)也。
〇箆、箭(や)にする竹なり。
〇横目をせざれば、とく成るなり、餘行に目をかけねば專修がはやく成就するなり。
[やぶちゃん注:Ⅰの標注は校訂者森下氏が本文をいじっているため、表記が異なる。以下、この注は略す。
「聖光上人」浄土宗鎮西派(現在の浄土宗)の祖弁長(べんちょう 応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)。字は弁阿(べんな)、房号は聖光房。筑前国香月(現在の福岡県北九州市八幡西区)生。現在の浄土宗では第二祖とされる。仁安三(一一六八)年に出家、安元元(一一七五)年に観世音寺戒壇で受戒、天台僧となって比叡山観叡、後に証真に師事した。建久元(一一九〇)年に帰郷して鎮西の聖地油山(あぶらやま)の学頭(一山の統率者)となったが、建久四(一一九三)年に異母弟三明房の死に臨んで深く無常を感じ、浄土教に強く惹かれる。寺務のために上洛した建久八(一一九七)年、法然を訪ねて即日、弟子となった。後に故郷筑前に戻ると筑後国・肥後国を中心として念仏の教えを弘め、筑後国山本に善導寺を建立、九州に於ける念仏の根本道場と成した。弟子に三祖然阿良忠を始めとして宗円・入阿など多数がある(以上はウィキの「弁長」に拠った)。
「箆」矢の竹の部分。矢柄(やがら)。矢軸。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ
Pseudosasa japonica を主材とした。
「たむる」「矯める・揉める・撓める」などと表記する。この場合は、矢軸に加工する際、最も肝心な、その曲がりを伸ばして真っ直ぐに微調整の整形をすることをいう。ヤダケは武家屋敷に多く植えられ、当時の武士にとって弓箭(きゅうぜん)の保守や加工は必須科目であった。
「一向專修」只管、念仏修行に打ち込むこと。
「とく成」速やかに成就する。]
大 梅 寺
大佛ヘ行下馬西ノ方也。宿屋トモ云。時賴ノ臣宿屋左衞門入道行時ガ舊跡也ト云。因テ行時山ト號ス。開山ハ日朗、本覺寺ト相持也。山ノ上ニ日朗ガ籠アリ。注畫讚ニ委シケレバコヽニシルスニ及バズ。始ハ光觸寺ト云ケルヲ、近來古田兵部少輔後室再興シテ大梅寺ト云。是ヨリ大佛へユク。西ノ方ハ藤澤へ出ル海道也。
[やぶちゃん注:現在の光則寺のこと。文永八(一二七一)年、日蓮が龍ノ口の法難で佐渡配流となった際、当時の執権北条時頼は弟子の日朗らも捕縛、家臣の一人であった宿屋左衛門尉光則に預け、邸内の土牢に幽閉させた。ところが監視役であった光則自身が日蓮帰依、文永一一(一二七四)年の日蓮の放免後は自邸を寺に改め、日朗を開山に迎えて父行時(彼も文応元(一二六〇)年七月に日蓮の「立正安国論」を北条時頼に建白したとされる人物である)の名を山号に、我が名を寺号にして創建したと伝えられる。その後、衰退したらしく、寺歴は詳しくない。
「古田兵部少輔重恒後室」「古田兵部少輔重恒」は江戸前期の石見浜田藩第二代藩主古田重恒(しげつね 慶長八(一六〇三)年~慶安元(一六四八)年)のこと。ここで妻が出るのであるが、彼は世継問題に絡んだお家騒動である古田騒動で知られる。以下、ウィキの「古田重恒」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えした)。『慶長八年(一六〇三年)、伊勢松坂藩主・古田重勝の長男として山城国にて生まれる。慶長一一年(一六〇六年)に父が死去したとき、四歳という幼少だったために後を継ぐことができず、家督は叔父の重治が継ぐこととなった。そして元和九年(一六二三年)五月、叔父の重治から家督を譲られて藩主となった。同時に叙任している。その後は藩主として大坂城普請や寛永一四年(一六三七年)の京極忠高改易後の松江城在番で功績を挙げている』。ところが、『正保三年(一六四六年)六月、江戸にある藩邸において、古田騒動が始まった。重恒は四十歳を過ぎても子に恵まれなかった。このため、後継ぎが無いために改易されることを恐れた江戸家老の加藤治兵衛と黒田作兵衛は、古田一族の古田左京の孫に当たる万吉を重恒の養子として後継ぎにしようと画策した。ところがその計画を加藤らから打ち明けられたことで知った重恒の側近・富島五郎左衛門が重恒にそれを伝えてしまう。重恒は自分に無断でそのような計画を立てていた加藤や左京らに対して激怒し、その一派全てを殺してしまったのである。そして慶安元年六月十六日(一六四八年八月四日)、重恒は嗣子無くして四十六歳で死去。後継ぎが無く、ここに古田氏は改易されたと言われている』。但し、『この古田騒動には異説が多く、他の説では山田十右衛門という重恒の寵臣が、三名の家老の権勢を疎んじて重恒にこの三名のことを讒言し、それを信じた重恒が三名の家老を殺害。しかし重恒自身もまもなく狂気で自殺してしまったと言われている』。『いずれにしろ、重恒に実子も養子もなかったことは確からしく、そのため重恒の死去により、無嗣断絶で古田氏は改易となった』とある。本文に「後室」とあるから、彼女は正室ではない(正室は前藩主である叔父重治の長女である)が、世継騒動であるから彼女も渦中にあったわけである。彼女は出家後(重恒の死後であろう。彼女の示寂は寛文九(一六六九)年である)、大梅院常学日進と名乗って、如何なる所縁からかは不明であるが、この光則寺の堂宇を再興した。それによって「大梅寺」「大梅院」とも呼称されたのである。]
大 佛
此所ヲ大澤ト云。初ハ建長寺ノ持分ナリシガ、今ハ光明寺ノ持也。道心者居之(之に居す)。大佛ノ長ケ三丈五尺、膝ノ横五問半、袖口ヨリ指ノ末マデ二尺七寸六分アリト也。東鑑ニ建長六年八月十七日、深澤里ニ金銅ニテ八丈釋迦如來ヲ鑄始メ奉ルト有。此像ノ事ナランカ。然ドモ今ノ像ハ彌陀ノ印相ナリ。又仁治年中ニ、遠江ノ淨光坊、六年ノ間三尊卑ヲ勸進シテ、八丈ノ阿彌陀佛ヲ木像ニ作奉ルトナン。加茂長明ガ海道ノ記ニモ、由井ノ邊ニ八丈ノ阿彌陀木像ノ事ヲ書リ。或云、其木像ハ破壞シテ巖窟ノ内ニ有ト。又曰、山號ハ大異山、寺號ハ淨仙寺ト云トナン。初メ木像ノ釋迦堂ノ號、サダカニシレル人ナシ。東海道名所記ニ、大佛ヨリ右ノ方ニ盛久ガ松トテ磯ニアリ。
[やぶちゃん注:「大澤」「深澤」の誤り。
「道心者居之」というのは、堂宇が存在しないが、庵のようなものを構えて僧が管理している、という謂いであろう。
「長ケ三丈五尺」約一〇メートル六〇センチメートル。現在の公式実測数値は仏身高一一メートル三一・二センチメートル。
「膝ノ横五間半」約一〇メートル弱。
「二尺七寸六分」約八三センチメートル。
「建長六年八月十七日」建長四(一二五二)年の誤り。『十七日己巳。晴。(中略)今日當彼岸第七日。深澤里奉鑄始金銅八丈釋迦如來像』とある。
「加茂長明」ママ。鴨長明。
なお、ここで示される大仏の謎及び最後の「盛久が松」については、「新編鎌倉志卷之五」の「大佛」及び私の注と、その三項前にある「盛久頸座」及び私の注を参照されたい。]
狐茶碗の事
松平與次右衞門(よじゑもん)御使番勤し頃、御代替(おだいがはり)の巡檢使として上方筋(かみがたすぢ)へ至りしに、深草へ至りければ、與次右衞門より家來何某と名乘りて、土器にて坪平(つぼひら)迄揃へし家具を廿人前誂へしとて燒立(やきた)て差出(さしいだ)しけるが、與次右衞門方にては一向覺へ無之(これなく)、家來の内にも申付(まうしつけ)し事なし。不思議成(なる)事也(なり)と思へども、彼(かの)商人は誂へ物とて異約を歎ける故、詮方なく買調(かひととのへ)て今に狐茶碗とて所持せし由。されど火事の節過半燒失しけれど未だ殘りありと、彼與次右衞門子成る人語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐譚連関。……でもさ、これって、ただの――嫌がらせ――じゃ、ね?……
・「松平與次右衞門」底本の鈴木氏注に、松平『忠洪(タダヒロ)。寛政二年後書院番。四年遺跡(千五百石)を相続。』とあるが、岩波版長谷川氏注では、『忠英(ただひで)。明和元年(一七六四)御使番、安永四年(一七七五)持筒頭。子なる人は孫に当たる忠洪(ただひろ)を指す。』とある。後者が正しいものと思われる。
・「御使番」若年寄支配で目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当し、国目付や諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城などの幕府役人の監督や江戸市中火災時に於ける大名火消・定火消の監督などを行った(ウィキの「使番」に拠る)。
・「御代替の巡檢使」将軍の代替わり際に行われた御使番の業務。岩波版長谷川氏注には『国情視察を名目に五班を派遣。』とある。但し、松平忠英の御使番就任中はずっと第十代将軍徳川家治である。この叙述が正しいとするならば、これは家治の父家重が。宝暦一〇(一七六〇)年に長男家治に将軍職を譲って隠居後、宝暦一一(一七六一)年に死去してから、数年に亙って行われたものか(そんなにかかったものかどうかは不明)? 識者の御教授を乞う。
・「深草」現在の京都府京都市伏見区深草。狐に所縁の伏見稲荷(深草の南部)や藤森(ふじのもり:深草地区中央西寄り)を含む。また、ここは古代末期より畿内を中心に行われていた土器作(かわらけつく)りの里としても知られ、当時は土器や瓦の名産地であった。特にその土器は釉(うわぐすり)を用いぬ素焼で、主として神事に用いられた。
・「坪」壺皿。本膳料理に用いる、小さくて深い食器。
・「平」平椀。底が浅くて平たい椀。
■やぶちゃん現代語訳
狐茶碗の事
松平与次右衛門(よじえもん)忠英殿が御使番を勤めておられた頃のこと、御代替りの巡検使として上方へ赴かれた折り、京の深草の方へと出向いたところ、
「与次右衛門様より遣わされた御家来何某と名乗られたお方よりの御注文により、土器にて坪皿から平椀までの一式、本膳膳具、これ、二十人前、誂えまして御座います。」
と、土地の土器師(かわらけし)が焼き立ての新品を差し出だいたが、与次右衛門方にては、そのような注文をした覚え、これ、一向御座らず、家来の者にも、誰かがそのようなことを申し付けたということ、やはり、これ、御座ない。いや、そもそも、「何某」と申す者も、御家来衆の内には、これ、御座ない。忠英殿も、これには困って、
『……何とも、不思議なることじゃ……』
とは思うたものの、かの商人(あきんど)が、
「……へぇ……特に誂えたものにて御座いますれば……のぅ……」
と、おジャンになるを頻りに歎いて御座ったのを不憫にも思い、詮方なく、一式買い取ったとのことで御座る。
今に狐(きつね)茶碗と名付けて所持致いておらるる由。
「……されど、火事の折り、大半焼け失せてしもうたが……まあ、未だ幾らかは、これ、残って御座る。」
とは、その与次右衛門の子で御座る御方の語って御座ったことじゃった。
二十二 甲
春 陰
似雨非晴幽意加
輕寒如水入窓紗
室中永昼香煙冷
簷角雲容簾影斜
靜處有詩三碗酒
閑時無夢一甌茶
春愁今日寄何處
古瓦樓頭數朶花
〇やぶちゃん訓読
二十二 甲
春 陰
雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意(いうい) 加はる
輕寒(けいかん) 水のごとく 窓紗(さうさ)に入る
室中(しつちう) 永昼(えいちう) 香煙(かうえん)冷(さむ)く
簷角(えんかく) 雲容(うんよう) 簾影(れんえい)斜(ななめ)なり
靜處(せいしよ) 詩有り 三碗(さんわん)の酒
閑時(かんじ) 夢無く 一甌(いちおう)の茶
春愁(しゆんしう) 今日(こんにち) 何處(いづく)にか寄す
古瓦(こぐわ) 樓頭(ろうとう) 數朶(すうだ)の花(はな)
二十二 乙
春 陰
似雨非晴幽意加
輕寒如水入窓紗
室中永昼香煙冷
簷角陰雲簾影斜
案有新詩三碗酒
牀無殘夢一甌茶
春愁今日寄何處
古瓦樓頭數朶花
〇やぶちゃん訓読
二十二 乙
春 陰
雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意 加はる
輕寒 水のごとく 窓紗に入る
室中 永昼 香煙冷く
簷角 陰雲 簾影斜なり
案ずる有り 新詩 三碗の酒
牀(しやう)する無く 殘夢 一甌の茶
春愁 今日 何處にか寄す
古瓦 樓頭 數朶の花
二十二 丙
春 陰
似雨非晴幽意加
輕寒如水入窓紗
室中永昼香煙冷
簷角重雲簾影斜
案有新詩三碗酒
牀無殘夢一甌茶
春愁今日寄何處
古瓦樓頭數朶花
〇やぶちゃん訓読
二十二 丙
春 陰
雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意 加はる
輕寒 水のごとく 窓紗に入る
室中 永昼 香煙冷く
簷角 重雲 簾影斜なり
案ずる有り 新詩 三碗の酒
牀する無く 殘夢 一甌の茶
春愁 今日 何處にか寄す
古瓦 樓頭 數朶の花
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
①「甲」は大正九(一九二〇)年三月二十二日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七五)
②「乙」は大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛(岩波版旧全集書簡番号六七七)
③「丙」は大正九(一九二〇)年三月二十二日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七八)
に所載する。①と③は同じ小島宛であり、「甲」を推敲したものを「丙」として示したものである。但し、次の引用から分かるように、この詩は最終句に小島の俳号である「古瓦」を詠み込んだ、一種の贈答詩であるからではある。それにしても、その他の以下の評言からは、龍之介にとってはこの七言律詩が相当な自信作であったことを窺わせる。
①では、冒頭、
古瓦樓の詩を一つ獻上
この詩蘇峯學人などよりうまいと思ふがどうでせう
七律が一つ出來ると甚得意です
とあり、また「二伸」(詩の前にある)では小島に
詩を讀む氣があつたら「絶句類選」と云ふものから御始なさい 好い絶句ばかり澤山集つてゐます 時代淸まであります よく行はれた本だから何處にでもありませう 高くつて二三円です(薄葉刷はもつと高い)安い活字本は五十錢位
と漢詩学習指南もしている。
・「蘇峯學人」はジャーナリスト徳富蘇峰(文久三(一八六三)年~昭和三二(一九五七)年)。彼は肩書に漢詩人とあるものもあり、漢詩の弟子として政治家後藤新平が挙がるほどである。
「絶句類選」津阪孝綽編輯、斎藤拙堂評語になる絶句類選評本。唐から清までの七絶三千首を、二十一類に分けて編集、欄外に簡単な批評文を添えた書。津藩の儒者津阪東陽(延享元・寛保四(一七四四)年~文政八(一八二五)年。孝綽は名)が文政七年に完成したものの、生前には刊行に至らなかったと思われ、子息の津阪有功らの手によって刊行に至ったのは死の三年後の文政十一年のことであった。
その後、同じ津藩の儒者斎藤拙堂(寛政九(一七九七)年~慶応元・元治二(一八六五)年。正謙は名)が主な詩に批評を書き加えた。この批評文を加えた書は、「絶句類選評本」として文久二(一八六二)年に刊行されたが、龍之介が所持し、小島に勧めているのは、恐らく明治一四(一八八一)年双玉書楼翻刻になる二冊本と思われる。本記載で参照した小林昭夫氏の「らんだむ書籍館」の「6」に画像と詳細な解説がある)。
・「薄葉刷」「うすようずり」と読む。薄手の鳥の子紙・雁皮紙で出来た江戸末期から明治初期の和書の装幀の一種。
②では、この前に「十九」を載せた後に既に述べた通り、
「實は夜原稿を書く爲ひるまくたびれて寢てゐる所だもう一つ序に披露する」
として本詩を掲げる。後に、
古瓦なる人間に寄せた春陰の詩だが井ノ哲先生の七律より少しうまいと云ふ自信がある如何もう一つ
として更に三つ目の詩「二十 乙」を載せて、これも既に述べたが、
どうもこんな事をして遊んでゐる方が小説を書くより面白いので困る
と記している。
・「井ノ哲」「いのてつ」と読む。国家主義者であった哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)の通称。東京帝国大学で日本人初の哲学教授(明治二十三(一八九〇)~大正一二(一九二三)年)となった(“metaphysical”の訳語「形而上」は彼になるもの)。文学史では近代詩集の濫觴として必ず覚えさせられる(読んでも頗る退屈な非詩的内容なのに)「新体詩抄」を、外山正一・矢田部良吉らとともに明治一五(一八八二)年に刊行、「孝女白菊詩」などの漢詩でも有名で、当時、現役の東大教授である。その彼より「少しうまい」とはこれ、龍之介のおちゃらけでは、毛頭、ないと言うべきである(以上はウィキの「井上哲次郎」を参考にした)。
③は、これ先に示したが、
題画竹の詩なぞきはどくつていけません 簾外松花落の五絶の方が遙に自信があります あの方が悠々としてゐると思ひませんか
と「十九」への自信を覗かせた直後に、
律は改めました
として③を配するのは、これ、我々が想像する以上の自信と読まねばなならぬ。最後に、
律の三、四句、五、六句は前後とも聯句だから一句だけ褒ちやいけません 褒めるなら一しよに御褒めなさい 一句だけぢや褒則貶に成るんだから作者は閉口します
どうも詩や俳句の方が小説を書くより氣樂で泰然としてゐて、風流なやうです
と記している。
・「褒則貶」は「ほうそくへん」と読んで居よう。毀誉褒貶からの造語。
これ、何だか人を小馬鹿にしたような謂いであるが、実は①の書簡の最後には詩の次行直下に「我鬼散人」とあって改行して「古瓦先生 淸鑒」とあるのであが、これは推測ながら、
小島は①の頷聯(三・四句)及び頸聯(五・六句)めの、それぞれの片句(若しくは一部)を、その返信で褒めたのではなかったろうか?
更に、龍之介が改めた箇所を見ると、小島が褒めた一箇所は、対句部分で唯一改稿しなかった頷聯の前句(四句目)、
簷角陰雲簾影斜
であったという推理が成り立つ。
なお、この最後の芥川の口ぶりは考えて見ると、詩人や俳人を売文とする連中への皮肉のニュアンスも感じられぬでもないが、寧ろ、それだけ、この時期の龍之介の産みの苦しみの甚だしかったことを、再度認識すべきではあろう。
「幽意」幽意閑情などと使い、幽遠で奥深く暗い静謐さをいう。
「永晝」日永。春の長い昼の間の意。
「簷角」軒の角。軒先。
「閑時 夢無く」邱氏は『目が覚めると』と訳しておられる。
「甌」こしき。土器製の甕(かめ)のような形のもので、上部が大きく、間がくびれてその下部は三脚又は四脚となっており、ものを煮るのに用いた。
「數朶の花」邱氏はこの尾聯(七・八句)は中唐の劉禹錫の「春詞」に影響されたものであろう、と注されておられる。「唐詩三百首」に載る。
春 詞
新粧宜面下朱樓
深鎖春光一院愁
行到中庭數花朶
蜻蜒飛上玉搔頭
〇やぶちゃん訓読
春 詞
新粧 面(おもて)に宜(よろし)く 朱樓を下る
深く春光に鎖ざす 一院の愁(しう)
行きて中庭に到り 花朶(かだ)を數ふ
蜻蜒(せいえん) 飛上(ひしやう)す 玉搔頭(ぎよくさうとう)
・「花朶を數ふ」恋の花占(はなうら)であろう。
・「蜻蜒」オニヤンマ等の大型のトンボ。
この龍之介の詩の尾聯は、詩人の「春愁」を寄せる対象を求め(「詩経」の昔から「有女懐春」である)ており、それを受けるとすれば、「春詞」のインスパイアから行間に花占が潜むであろう。邱氏もここを『古瓦楼頭で花びらを数えればわかるであろう』と訳されておられる。]
三十二
禪勝房云、故上人の教(をしへ)あり。たとひ余事(よのこと)をいとなむとも、念佛しゝこれをするおもひあるべき也。余事をしゝ念佛せんと思ふべからず。
〇故上人、是も法然上人なり。
[やぶちゃん注:大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、この法然の言葉も「法然上人行所絵図」の第二十一に所収する由。Ⅰでは「安心」の類にあるが、この四条前に「故上人」として「一二二」が載り、その中に「故上人」の語があることを受けて註の冒頭「是も」と言っているのである。
「禪勝房」(承安四(一一七四)年~正嘉二(一二五八)年)俗称不詳。遠江生。初め天台僧であったが二十九歳の頃、蓮生(れんじょう:武将熊谷直実の出家後の法名。)の説法を聴いて上洛、蓮生の師法然の弟子となった。そこで往生の確信を得た後、郷里の蓮花寺(静岡県周智郡森町大門にある天台宗の古刹)に帰って第七十二代住職となるが、そこで番匠となり、念仏と教化をしつつ、大工としても実業面で民衆を指導したと伝える(以上は講談社「日本人名大辞典」と大橋氏の注その他ネット上の情報を参考にした)。本話の謂いは、「専業僧」であった法然の直接話法ではなく、まさにこの禪勝房の口から間接話法で聴聞して初めて、腑に落ちる。――鑿(のみ)一鑿(さく)、杮一片に念仏する禪勝房の姿が、見えるではないか。――
「しゝ」これは厄介だ。これは「~しながら」と訳せばよいように見える。大橋氏もそう訳しておられる。一応、サ変動詞「す」の連用形「し」を重ねた、「す」(する)動作を連続して「す」(する)と、とればよいのであろうが、果たしてそれを「~しながら」の意でとってよいかどうか、そういう一般的用法を中世の人が行ったかどうか、という点で私には疑問の余地が残るからである。恐らく多くの方はこれを「しいしい」と同義であるととられるかも知れない。しかし、我々の用いる「しいしい」というのは、近・現代語のサ変動詞「する」の連用形「し」を重ねた強調形「しし」の転訛したもので、中世にあった可能性は低い(古語辞典等に所載しない)。それとは別にサ変連用形を重ねて「~しながら」の意味がなかったとは言えないが、相当する見出しを、やはり諸辞書には見出せない(「しし」はあるが、これは嘲笑・追っ払い・制止をする際の感動詞「し」を重ねた感動詞「しいしい」(先払いや呼びかけ)の更なる転訛であって、現在の「しいしい」とは全く異なる)。私は寧ろ、この「し」は、名詞・活用語の連体形及び連用形・副詞・助詞などに付いて、上の語を強調する意を表す副助詞ではないかと思う。即ち「伊勢物語」の「から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」の「し」である。即ち、「こそ」「さえ」「だけは」「ばかり」の謂いである。私の訳を試みたい。
禪勝房曰く、
「……故上人の教えが御座る。
――たとえ「他(ほか)のことをする」時であっても、これ常に、『「念仏をする」ということだけはこれを「する」という絶対の覚悟』の中で「他のことをする」のでなくてはならぬ。その逆に、「他のことをする」ことばかりに心が執着し、心の中に、ふっと、口ばかりの念仏を唱えておればよい、といった念仏を軽んじる緩みが、一瞬でも生じるようなことがあっては、これ、ならぬ。――
と。」
但し、この副助詞「し」は上代に多用されたが、中古以降は「し~ば」「しも」「しは」「しぞ」といった他の助詞と複合した形で用いられるようになってしまうから、この用法は逆に時代遅れとも言えよう。それでも、現代語の「しいしい」から逆照射して「~しながら」と訳すという暴挙(としか私には思われない)よりはましなように私には思われるのであるが如何であろう? 私は国語学に暗い(というより「嫌い」から「暗い」とするのが正しい)ので、とんでもない馬鹿なことを言っているのやも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。]
○姫君病惱 付 死去
故賴朝卿の息女乙姫君は、去ぬる比淸水冠者討れしより以來病惱常に御身を犯し、快然たる日を知り給はず、歎(なげき)の物思に引籠りておはします。此比(このごろ)は殊更に重らせ給ひ、漿水(しやうすゐ)を斷ちて惱み給ふ。御母尼御臺大に驚き給ひて、諸社の祈願諸寺の祈禱、その丹誠を盡し給ふ。又殿中には阿野少輔公(あののすけのきみ)大法師聖尊(しやうそん)を請じて、一字金輪(こんりん)の法をぞ行はれける。京都に飛脚を遣して、針博士(しんはなせ)丹波時長を召さるる所に、辭し申して仰に從はず。重(かさね)て使を上(のぼ)せられ、此度障(さはり)を申さしめば子細を仙洞(せんとう)に奏達すべき旨を、在京の御家人等に仰付けらる。醫師時長大に畏(かしこま)り、不日(ふじつ)に下著(げちやく)せしかば、左近將監能直相倶して、下向しける由申入れければ、畠山次郎重忠が南の門の宅に召置(めしお)かれ、姫君の御所近く、御療治勤め參らせんが爲とかや。軈(やが)て御脉を伺ひ朱砂(しゆしや)丸を奉る。五月の中比には姫君驗氣(けんき)を得給ひ聊(いさゝか)食事に御付有りとて、内外上下の人々悦び奉りける所に、六月半(なかば)より又殊の外に惱み出で給ひて、剩(あまつさへ)天吊搐搦(てんてうちくでき)し給ふ。この事凶相の由(よし)時長驚き申す。今に於ては浮世の賴みもこれなし力及ばすとて、御暇(おんいとま)給はり時長は歸上(かへりのぼ)りけり。尼御臺所は手を握り、足を空になして、如何はせんと周章(あは)て給ふ。此上は人力(じんりよく)の叶ふべきにあらず、佛神の御力を偏(ひとへ)に賴み奉るとて、鶴ヶ岡を初て神社に使を立てられ、百燈(とう)百味(み)、神樂御湯(かぐらみゆ)を參らせらるゝに、託宣の趣(おもむき)いづれもよろしからずと申す。鎌倉中の寺々には御祈禱仰付けられて、護摩を修(しゆ)すれば、燻りて燃上(もえあが)らず、閼伽の水乾きて潤(うるほひ)なし。御符(ごふう)の墨色(すみいろ)卷數(かんじゆ)の文字皆不吉の相なりとて、片津(かたづ)を呑んで私語(さゝやき)あひけるが、同二十日の午尅(うまのこく)に遂に事切れさせ給ひけり。御年・未だ十四歳、蕾(つぼ)める花の僅(わづか)に綻(ほころ)び、萠出(もえい)づる若草の人の結びし跡絶えて、思(おもひ)をすまの夕煙(ゆふけぶり)伐(こり)焚(た)く柴のしばしばに、誰爲(たがため)にとて長生(ながら)ふる、辛(つら)き命よなにせんと、朝夕歎(なげき)に臥沈(ふししづ)み給ひしが、遂に空しくなり給へば、尼御臺所の御歎(おんなげき)同じ道にとあこがれ給ひ、乳母(めのと)の夫(をつと)掃部頭(かもんのかみ)親能(ちかよし)は歎(なげき)の思に堪兼(たへか)ね、宣豪(せんがう)法橋を戒師として出家をぞ遂(とげ)たる。姫君の空しき御尸(おんから)をば親能法師(ちかよしほふし)が龜谷(かめがやつ)の堂の傍(かたはら)に葬り奉る。江馬殿を初(はじめ)て、小田、三浦、結城、八田(やた)、足立、畠山、梶原、宇都宮、佐々木小三郎以下供奉して、孤憤一堆(たい)の主となし奉る。墳墓堂(はかだう)を作り、此所(こゝ)にして中陰の御佛事を營まる。果(はて)の日は尼御臺所參詣あり。宰相阿闍梨尊曉導師として、御諷誦を讀み給ふ。文章美(うるは)しくして、情を盡しければ、尼御臺所數行(すかう)の涙に咽(むせ)び給へば、御供の人々も皆袂をぞ濡しける。哀(あはれ)なりし事共なり。
[やぶちゃん注:頼朝次女で大姫や頼家の妹・実朝の姉に当たる三幡(字(あざな))、通称乙姫の死を描く。「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九五)年三月五日・三月十二日、五月七日・五月八日・五月二十九日、六月十四日・五月三十日及び七月六日の条に基づく。前話の元とも重なるが三月五日の条を引いておきたい。
〇原文
五日丁酉。雨降。後藤左衞門尉基淸依有罪科。被改讃岐守護職。被補近藤七國平。幕下將軍御時被定置事被改之始也云々。
又故將軍姫君。〔號乙姫君。字三幡。〕自去比御病惱。御温氣也。頗及危急。尼御臺所諸社有祈願。諸寺修誦經給。亦於御所。被修一字金輪法。大法師聖尊〔号阿野少輔公。〕奉仕之。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日丁酉。雨降る。後藤左衞門尉基清、罪科有るに依りて、譛岐守護職を改められ、近藤七國平に補せらる。幕下將軍の御時に定め置かるる事を、改めらるるの始也と云々。
又、故將軍の姫君〔乙姫君と號す、字は三幡〕去る比より御病惱、御温氣也。頗る危急に及ぶ。尼御臺所、諸社に祈願有り、諸寺に誦經を修し給ふ。亦、御所に於いて、一字金輪法を修せらる。大法師聖尊〔阿野少輔公と號す。〕、之を奉仕す。
この記述が意味するところを素直に読むと、乙姫の発病も、これ、頼家が『幕下將軍の御時に定め置かるる事を、改め』た結果であろう、と暗に「吾妻鏡」筆者が述べているのだということが分かる。
「去ぬる比淸水冠者討れしより以來病惱常に御身を犯し、快然たる日を知り給はず、歎の物思に引籠りておはします」の部分は長女大姫の事蹟と混同した叙述で全くの誤り(大姫の死は「吾妻鏡」の欠落部で、もしかすると筆者は確信犯でわざと大姫と乙姫をハイブリッド化したのだとも考えられる)。大姫は先立つ建久八(一一九七)年七月十四日に病死している。政子は実に建久六(一一九五)年の頼朝の死以来、二年おきに愛する近親を失っており、本話の後半部の嘆きは察するに余りある。なればこそ筆者は、この歴史的事実とは全く無縁な、殆ど記憶されることのない乙姫の死をわざわざここに配して、政子という女の悲哀と絶望を美事に描ききったのだろう。但し、読み進めると分かるが、後の男をさしおいた政子の政治進出に対しては極めて批判的であるから、その場面への対位法的伏線とも読めるようにも私には思われる。
「一字金輪法」「一字金輪」は一字頂輪王・金輪仏頂などとも呼ばれ、諸仏菩薩の功徳を代表する尊像を指す。真言密教では秘仏とされ、息災や長寿のためにこの仏を祈る一字金輪法は、古くは東寺長者以外は修することを禁じられた秘法であったと言われる(国立博物館の「e国寶」の「一字金輪像」の解説に拠る(リンク先に一字金輪像の画像あり)。なお、そこでは「きんりん」と読んでいる)。
「丹波時長」(生没年不詳)は医師。典薬頭丹波長基の子。官位は従四位上・典薬頭。医者として名声を極めた人物で、この後、承久元(一二一九)年第四代将軍九条頼経が後継将軍として鎌倉に下向した際には、子の長世とともに鎌倉に下向して将軍家権侍医として仕えたと伝える。
「仙洞」後鳥羽上皇。「吾妻鏡」の記載も本文の通りであるが、ウィキの「丹波時長」では、はっきりと、院宣が出たために下向した、との記載がある。公的な院宣であるかどうかは別として、これだけ固辞していたものが一転したのは、脅迫以外に非公式な院からの口添えがあったと考えた方が自然ではある。
「朱砂丸」硫化水銀を主成分とする漢方薬。鎮静・催眠を目的として、現在でも使用される。有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて、辰砂のような水に難溶な化合物は毒性が低いと考えられている。代表的処方には「朱砂安神丸」等がある(ウィキの「辰砂」に拠る)。
「天吊搐搦(てんてうちくでき)」「吾妻鏡」の建久十(一一九五)年六月十四日の条には、
十四日甲戌。晴。姫君猶令疲勞給。剩自去十二日御目上腫御。此事殊凶相之由。時長驚申之。於今者少其恃歟。凡匪人力之所覃也。
十四日甲戌。晴る。姫君、猶ほ疲勞せしめ給ふ。剰(あまつさ)へ去ぬる十二日より御目の上、腫れ御(たま)ふ。此の事、殊に凶相の由、時長、之を驚き申す。今に於いては其の恃み少なからんか。凡そ人力の覃(およ)ぶ所に匪(あら)ざるなり。
という叙述、増淵氏の訳、及び漢方叙述の中に顔面に発生する症状を示す語に「天吊」(てんちょう)の語があることから、上目蓋が腫れあがる(若しくは腫脹によって目が鬼面のように吊り上って見える)症状を言っていると考えられる。「搐搦」は通常は「ちくじゃく」と読み、ひきつけや痙攣を起すことを意味する。
「足を空に」足が地につかないほどに慌て急ぐさま。
「百味」神仏へのさまざまな供物。
「御湯」「湯立て」「湯立ち」のことであろう。神道の禊(みそぎ)の一つで神前の大釜に湯を沸かし、巫女や神官が熱湯に笹の葉を浸して自分のからだや参詣人に降り掛けて邪気を払う儀式である。直後に「託宣の趣いづれもよろしからず」とあるから、所謂、「くがたち」盟神探湯に似たような儀式を指すとも考えられるが、この辺は筆者の創作部分である。
「片津」固唾。
「乳母の夫掃部頭親能」中原親能(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)は文官御家人。文治二(一一八六)年に京都守護に任じられて上洛、建久二(一一九一)年には政所公事奉行に任ぜられ、十三人の合議制の一人となった。乙姫誕生により彼女の乳父となり、本文にある通り、六月二十五日に乙姫が危篤となるや、京から帰鎌、死去に伴い出家して寂忍と称した(ウィキの「中原親能」に拠る)。
「江馬殿」北条義時。]
狐婚媒をなす事
近頃の事成し由。武州籏羅郡(はらのこほり)下奈良村に、親は何とやらん言(いひ)し、長兵衞といへる者旅商ひなどして、鴻巣宿の伊勢屋といへる旅籠屋に心安くなせしが、食盛(めしもり)抔いへる女にてはなく、彼(かの)旗籠屋の娘と風與(ふと)密通なして、互ひに偕老(かいらう)の契(ちぎり)をなし、始終夫婦に成(なる)べしと厚くかたらひしが、鴻巣宿失火にて彼いせやも類燒して假に住居なしけれど、兼て右伊勢屋旅籠商賣を面白からず思ひ、在所信州よりも在所へ引込候樣にと申越(まうしこす)故、則(すなはち)鴻巢を引拂(ひきはら)ひ、彼娘を連れて信州何村とやらへ立歸(たちかへ)りしが、長兵衞と道を隔(へだて)ぬれど娘は彼契りを思ひ忘れず、人傳(ひとづて)を以(もつて)頻りに長兵衞方へ申達(まうしたつ)し、千束(ちづか)に餘る文の通ひじなれど、一度いなせの返事もせざれば、彼娘大に恨み、彼百姓の山に稻荷の祠ありしに、一日一夜丹誠をこらし祈りて、彼長兵衞取殺し給はるべしと肝膽(かんたん)を碎き祈りし由也。これは扨置(さておき)長兵衞は、彼(かの)女の事も信州へ引越せしと聞て打忘(うちわす)れ過(すごし)しに、或日外より歸りける川の邊にて、彼娘に行合(ゆきあひ)て大きに驚き、如何して御關所を越(こし)信濃より來るやと、或ひは恐れ或ひは疑ひて尋ければ、彼娘大きに恨み、兼ての約に違(たがひ)しとて胸ぐらを取(とり)怒り歎き、何れ夫婦に成らんと申ける故、先づ我宿へ伴んと、門より内を覗(のぞ)き見れば、親仁と近所の知る人咄して居たる故、密(ひそか)に右近所の人を片影へ呼寄(よびよせ)、しかじかの事也、今宵は裏の明(あき)部屋に成共(なりとも)彼女を差置(さしおく)べき間、親仁の前をあぢよく取計ひ吳(くれ)候樣申て彼女を尋しに見へず、驚(おどろき)て或ひは戶口へ入(いり)又は戶口を出(いで)などせしが、こんと言(いひ)て悶絕なせしゆへ、音に驚き家内不殘立出(のこらずたちい)で、湯よ水よと介抱なせしが、色々口走りあらぬ事のみ申散(まうしさん)じ、全(まつたく)狐の附(つき)たる樣子にて、殊の外空腹に候間粥を給させ候樣申(まうす)故、粥など與へければしたゝか喰ひて、扨何故に此男に附たるぞと、家内近隣の者打寄り尋(たづね)しに、我等は信州何村の狐也、然るにいせ屋何某鴻巢宿に居たりし時、此男彼いせ屋が娘と契りて比翼連理のかたらひをなし、末々は夫婦にならんと約せしに、娘は親に從ひ信州へ引越(ひつこし)たれど、文を以て度々心を通ぜしに、此男一度のいなせもなき故、娘恨み怒りて我社頭へ丹精をこらし、うき男を取殺し吳べきよし祈りけれど、年若の者にあるまじき事にもあらず、依之(これによつて)遙々と下りて女と化して男の心を引見(ひきみ)、又男にのりうつりてかく語る也、似合の緣にもあるなれば、男を信州へ遣し候共、女子を引取(ひきとり)候共緣を取結び然るべしと、彼親仁親族へもくれぐれ語りければ、親も得心して彼長兵衞を信州へ可遣(つかはすべし)と約しければ、其印(しるし)を可差越(さしこすべし)とて、一通の承知の書面を望(のぞみ)し故、書て與へければ、かく大きくては持參成難(じさんなりがた)しとて、好(このみ)て細かに書(かか)せ、耳の内へ疊(たたみ)こみて入(れ)させ、信濃への土產(いへづと)とて藁づとにして首にかけさせて、さらば立歸(たちかへ)る也(なり)とて門口迄出て絕倒せしが、助(たすけ)おこして湯茶などあたへしが、耳の内へ疊入れし書付、首に懸けし藁づとはいづち行けん見へずと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:小侍の死霊から、「耳嚢」ではしばしば現れる狐狸譚へ本格怪異譚で連関。
・「婚媒」「なかうど(なこうど)」と訓じたい。
・「武州籏羅郡下奈良村」籏羅群は幡羅郡で武蔵国にかつて存在した郡。現在の埼玉県熊谷市の一部及び深谷市の一部に相当する。幡羅の読みは「はら」だったが、中世以後「はたら」と読まれることが多くなり、明治以後は完全に「はたら」となった(以上はウィキの「幡羅郡」に拠った)。
・「いなせ」(否+承諾の意の「然(せ)」)安否。
・「覗(のぞ)き」は底本のルビ。
・「あぢよく」底本では右に『(尊經閣本「あじに」)』と傍注する。江戸時代の口語の形容詞「味なり」(だから表記は正確には「あぢよく」)で、うまくやる、手際よく処理するの意。
■やぶちゃん現代語訳
狐が仲人(なこうど)を成した事
近頃のことと申す。
武蔵国は幡羅郡(はらのこおり)下奈良村――親の名前は何と申したか、失念致いたが――長兵衛とか申す旅商いの男、鴻巣宿(こうのすしゅく)は伊勢屋という旅籠(はたご)を定宿(じょうやど)とし、懇意に致いておったが、その――これも所謂、飯盛り女にてはなく――その旅籠主人伊勢屋の娘と、ふと、密かに通じ――まあ、その――互いに偕老の契りを結んで――ありがちな如何にもなことなれど――「終生の夫婦(めおと)となろう」――なんどと熱く語り合(おう)て御座ったと思し召されぃ。
ところが、鴻巣の宿、これ、大火に遭(お)うて、かの伊勢屋も類焼し、仮住まいとなってしもうた。
伊勢屋主人、かねてより、かかる旅籠商売を、これ、面白うなく思っておったに加え、伊勢屋故郷の信州よりも、在所へ引き越して戻りくるよう、申し寄越して御座った故、そのまま、鴻巣は引き払(はろ)うて、娘を連れて、信州の何某(なにがし)村とやらんへ、たち帰って御座った。
が、長兵衛と離れ離れとなった後も、かの娘、契りを深(ふこ)う信じて忘れずに御座った。
人づてを以って、何度も何度も、長兵衛方へと便りを出だいたものの――長兵衛、これ、一度として、安否の挨拶もせなんだによって――娘は深(ふこ)う長兵衛を恨んで――かの伊勢屋在所の山に稲荷の祠(やしろ)の御座ったに、これ、日夜通って、丹誠込めて祈っては、
「……かの、長兵衛!……とり殺いて下さいまし!!……」
それこそ――文字通り、肝胆を砕かんが如――心の鬼と相い成って、祈り呪って御座った由。……
さても、それはさて置き、長兵衛はと申せば――これ、娘のことは、信濃へ引っ越したと聞いてからこの方、薄情にも、これ、すっかりあっさり、忘れて御座った。
ところが、ある日のこと、出先から家へと帰らんとする途次の川辺にて――かの伊勢屋の娘に、突如、行き逢(お)うて、これ、大きに驚き、
「……い、如何にしてか、お、御関所を一人越え、し、し信濃より、どうやって来られたのじゃ?……」
と何やらん、恐ろしくもあり、また、何やらん、怪しく疑わしきことにても御座ったればこそ……訊ねたところが……娘、おどろおどろしき恨みの形相にて、
「……カネテヨリノ約束……ヨクモ違(たご)ウタナアッッツ!!……」
と長兵衛の胸ぐらを摑んで怒り喚(おめ)き、泣き叫び歎いた末に、
「……キット!……ソナタト夫婦(めおと)トナライデ!……オ、ク、ベ、キ、カアァッツ!!……」
と鬼の如く嚙みつかんばかりの勢いなれば、
「……ま、まっ、まずは!……我らが家(うち)へ、ま、ま、参りましょうぞ……」
となだめすかし、何とか実家へと連れ参ったものの、長兵衛、門より中を覗いてみれば、これ、短気にして口うるさき父と、父子ともに親しくして御座った近所の知人が話して御座った故、密かに、話の途切れに乗じ、この人物を物蔭へと呼び寄せて、
「……実は……しかじかの訳にて……今宵は、この先の裏手に御座る空き部屋なんどにでも、この女(むすめ)、匿っておこうと存じますによって……どうか、そのぅ……上手いこと、父の目を少しばかり、ここらから逸らしておいて下さるまいか……」
と囁いた。
ところがそれを聴いた男、
「……どの……女(むすめ)、じゃ?……」
と申す。
長兵衛、振り返ってみれば――かの娘の姿――これ、御座ない。
驚き慌てて屋敷の門を……出たり、入ったり……出たり、入ったり……弥次郎兵衛の如、右往左往致いて、おる……とみえた……が……、
「……キャッ!……コン!!……」
と叫んだぎり、悶絶致いてしもうた。……
騒ぎに驚き、家内残らず走り出で、
「湯じゃ!」
「いや、水じゃ!」
と介抱致いたが、気がついても、これ、訳の分からぬことを口走るばかりにて、
「……これは……全く以って狐が取り憑いたとしか思われぬ……」
と途方に暮れて御座ったが、
「……殊ノ外……空腹ニテ候エバコソ……粥……コレ給(た)ベサセテクリョウ……」
と呟けばこそ、粥なんど与えたところが、したたかに喰ろうたによって、家内近隣の者ら、長兵衛をぐるりと取り囲み、
「……さても……何故(なにゆえ)に、この男にとり憑いたか?……」
と質(ただ)いたところ、
「……我ラハ信州何某村ノ狐ジャ。……然ルニ、何シニ参ッタカトナ?……
……伊勢屋何某ナリ者、鴻巣宿に居ッタ折リ……コノ男、カノ伊勢屋ガ娘ト契リテ、比翼連理ノ語ライヲ成シテハ、末々ハキット夫婦(めおと)トナラント約束致イタニ……
……娘ハ親ニ従(したご)ウテ信州ヘ引ッ越シタモノノ……文(ふみ)ヲ以ッテ度々ソノ誠心ヲ、コノ男ニ通ジタニモ拘ワラズ……コノ男、一度ノ安否モ成サザル故……
……娘、恨ミ怒リテ、我ラガ社頭ニ丹誠ヲ凝ライテ……『憎ックキ男、殺シテ給(た)ベ!』ト祈ッタジャ。……
……シタガ……カクナル事……年若ノ者ノ間ニテハ、コレ……神ヲモ恐レヌ不実ト申スホドノ……トリ殺スニ若(し)クハナキ事ニテモ……コレ、アラザルコトジャテ……
……カクナレバコソ……遙々ト、カクモ坂東ノド田舎ニマデモ下ッテ……
……マズハ、カノ女ト化シテハ、男ノ心ヲ誘ウテ見定メ……
……次ニハ又、男ニ乗リ移ッテハ……カク語ッテヲルトイウ次第ジャ。……
……サテモ……我ラノ見ルニ、コノ二人……似合イノ縁ニテモ、コレ、アルト見タ。……
……コノ男ヲバ、信州ヘ差シ向クルナリ、娘ヲ引キ取ッテ嫁ト致スナリ……夫婦(めおと)ノ縁ヲトリ結ブコト、コレ、然ルベキコトジャテ!……」
と、かの長兵衛が親父や、その場に御座った親族へも、言葉を尽くして語り諭したによって、両親も納得の上、
「この長兵衛を、信濃へ遣わしまする。」
と長兵衛――それにとり憑いたる狐――に約したとこが、狐、
「――ソノ誤リ無キナキコトノ印(しるし)――コレ、差シ出ダスベシ――」
と、本件に附――伊勢屋方へ長兵衛を差し遣わすこと、承知致いた旨の証文一通――を望んだによって、これを書き与えたところが、
「――カクモ大キクテハ――コレ――持チ帰ルコト、叶イ難キ――」
と難色を示したによって、再度、好みの通り、ごく小さなる紙に、これまた、ごくごく小さなる字にて同文証文を書き写させ、折り畳ませた後、狐の――憑いた長兵衛――が耳の中(うち)へ――押し入れさせた。
最後に、
「……一ツ……何カ……信濃ヘノ家苞(いえづと)ニセンモノハ……ナキカ……」
と申す故、家内の者がありあわせの、軽(かろ)く、小さき珍味珍品なんどを藁にて包み、長兵衛が首に懸けさせたところ、
「……サラバコソ――タチ帰ラントゾ思ウ――」
と、狐の憑いた長兵衛、屋敷の門口まで出たところにて、再び、卒倒致いた。……
……助け起こして、湯や茶なんどを含ませ、ようやっと正気づいて御座ったが……先程、耳の内へ畳み入れた書付(かきつけ)も……首に懸けたはずの、あの藁苞(わらづと)も……これ、何処へいったものか……見えずなって御座った、と申す。
「傾城恋飛脚」
新口村(しんくちむら)の段――
季節柄、雪の舞台は、見る者の意識を劇場外へと広げて哀感切なく美しい。……
ポスト蓑助と称してよいであろう豊松清十郎の梅川は言うまでもなくいい。……
ただ僕は今回、吉田玉也の孫右衛門に、強く打たれた。
幕切れ直前、羽織を被った彼の羽織が震える時、僕は太夫の泣きではなく、人形孫右衛門の啜り泣きが――確かに聴こえたのであった…………
昨日の文楽――その2
「苅萱桑門筑紫※(かるかやだうしんつくしのいへづと)」
(「※」=「車」+「榮」。)
――高野山の段
苅萱道心の吉田和生が絶品であった。
彼の人形を遣うその表情には――失礼乍ら――ややぼうっとした、女性的な印象があって、それが役によっては人形を邪魔することがあると僕はずっと感じて来たのであるが、今回は、それを微塵も感じさせない程、人形が絶妙に生きているのである。――
相手が我が子石堂丸と知ったその瞬間から、遂に名乗ることなく別れ、それを遠く見送ってゆく、その父苅萱道心のその心が、その驚くべき多様に変容する人形の表情(!)に美事に現われているのである。――
吉田蓑紫郎の石堂丸も、抑制的な苅萱道心と対をなす、情の発露を非常に上手く表現している。但し、僕は人形が子役なれば、仕方がないとは思うものの、石堂丸の面が〈過度に振り仰ぎ過ぎている〉と感じた。父と知りつつ山を下り、この後(伝承上は)彼は、再び父と再会する。しかも遂に親子の名乗りをせずに(!)父の弟子となって生涯を終えるのである……即ち、このシーンには「父と子」という現世の契りを断ち切る何かが既に孕まれているのだと思う。さすればこそ、頑是ない石堂丸の挙措動作には――そうした未来の決然たる僧の面持ちが伏線としてあってよい――どこかでもっと内面へと情を潜ませるような面を伏せた演技があってもよいように思われたのであった。
この一段だけのために今回の公演を見てもよい、と、僕は感じたものである。――
昨日の文楽――その1
「苅萱桑門筑紫※(かるかやだうしんつくしのいへづと)」
(「※」=「車」+「榮」。この漢字、ユニコードにはあるが、ブログが対応しない)
――守宮酒(いもりざけ)の段
は完敗……僕の好きな刈萱道心伝承を元にしているという油断から、本段の内容を事前にしっかり勉強せなんだ(「駒形どぜう」での快飲快食の余韻故に鑑賞ガイドを緻密に読み込まず斜め読み致いた)ことが災いし、人物の心の動きを汲み取るのが後手に回ってしまい、あれよあれよとまごつく内に――如何にも残念なのは勘十郎の「夕しで」を堪能する暇もなく――終局へと至ってしまった。……
但し、博物誌的には、この段、まっこと面白い――これは知られたことであるが――徳利から出るのは、ありゃ普通は「守宮」と書くヤモリでなく「井宮」(イモリ)である(何せ、腹が赤いわい)。但し、イモリを「守宮」と書いて「いもり」と読ませもしたのである。この辺りのことは、僕の電子テクスト、南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」及び寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)及び「守宮」(ヤモリ)及び「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分等を参照されたい。
……この段……ともかくも……いつか再挑戦せずんばならず!……トホホ……
二十一
寂兮舞雩路
亞柯與風蘆
頽兮恩顧士
黄雲呼鴟哉
〇やぶちゃん訓読
寂たり 舞雩(ぶう)の路
亞柯(あか)たり 風蘆(ふうろ)
頽(たい)たり 恩顧の士
黄雲ただ鴟(てい)を呼(よば)ふのみ
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
大正九(一九二〇)年三月二十二日附佐々木茂索宛(岩波版旧全集書簡番号六七四)
所載。以下に書簡全文を示す(詩中にある圏点はルビではない形で附した)。
古詩一首
〇
寂兮舞雩路
〇
亞柯與風蘆
〇
頽兮恩顧士
〇
黄雲呼鴟哉
註曰
〇ノ虛字をとるとセキフウウロ、アカブロ、タインコジ、オウウンコジとなる 非凡手 自感歎久之
「虛字」は中国語の実字(名詞・代名詞・形容し・動詞・副詞)に対して、前置詞・接続詞・終尾詞・感動詞などを言う。ここで用いられているのは概ね、何れもリズム調えたり、感動を表現する助字である。「セキフウウロ、アカブロ、タインコジ、オウウンコジ」の内、「セキフウウロ」と「アカブロ」は「赤風呂」で、元は佐々木茂索の兄の経営する古道具屋の屋号とあるが、佐々木はこれを自身の俳号としていた。更に、正式な漢字表記などは確認出来ないが、以下の「タインコジ」「オウウンコジ」というのも佐々木の俳号・雅号えと考えて差し支えあるまい。「非凡手 自感歎久之」は「非凡なる手 自(みづ)から感歎之れ久しうす」と読んでいよう。以上の書信から分かるように、これは完全なアナグラムを鏤めた戯詩である。
「舞雩」「雩」は、雨乞いを意味し、雨乞いの祀りには舞楽を伴ったことから、請雨の祈誓の儀式を「舞雩」と呼んだ。これは「論語」先進篇の「浴乎沂、風乎舞樗、詠而帰」(沂(き)に浴し、舞雩に風して詠じて帰らん)に基づく。「論語」の当該条については、宮武清寛氏のブログ「論語を学ぶ旅〈大聖人孔子の故郷への旅〉(18)舞雩台」に詳しい。そこでは伊與田覺(いよたさとる)氏の注が引かれてあり、「舞雩」を「天を祀って雨乞いの祭りを行ったところ。樹木の茂る景色のよい台地。」とある。また、この場面では孔子の弟子である子路・曽皙(そうせき)・冉有(ぜんゆう)・公西華の四人をトリック・スターとして彼の政治哲学が語られているのであるが、その中の一人、公西華の名は赤である。龍之介は佐々木の雅号とこの公西華を引っ掛けている、即ち、自らを孔子に、龍門の四天王をその弟子たちに擬えているようにも読めないことはない。
また――この手紙の最後は、「十九」で述べた通り、
二伸 ほんたうに狀袋を三四枚書いて送つてくれたまへ たのむ たのむ
と、明らかに女性(秀しげ子か?)からの手紙を家人に怪しまれないための、隠蔽を目的とした封書表書きの依頼という如何にも胡散臭い要請が記されてあるのである。さすれば、このアナグラムの戯れ事も、その後ろめたくおぞましい要請を佐々木に求めることへの含羞を孕んだ、多分にいやらしい擽(くすぐ)りの贈答詩とも読めるのである。但し――いやだからこそか……この詩、何やらん、不吉な印象の古詩ではある……。
「亞柯」「亞」は少ない、「柯」は枝で、疎らな枝。
「風蘆」風に戦ぐ葦。
「頽たり」は思いに沈む様子。邱氏は以下の『祈祷師』が雨を請ずることが出来ず、『虚しい思い』に沈んでいるばかり、といったニュアンスで訳しておられる。
「恩顧の士」邱氏は『人々に厚く信頼された』請雨の達人と讃えられた『祈祷師』とされる。
「黄雲は鴟を呼ふのみ」「鴟」は①鳶。②梟。木兎。③「山海経」に現われる怪鳥などの意があるが、ここは不吉で邪悪なる存在としての梟であろう。黄金色に輝く雲は、肝心の雨を齎すことなく、ただ不吉な梟を呼ばうばかり、といった意味であろう。]
三十一
法然上人つねのおすゝめに云、往生極樂をまめやかにおもひ入(いり)たる人のけしきは、世間を一(ひと)くねりうらみたる色にて、つねにはあるなり、云々。
〇一くねり、ねがふ心深ければ、自然(じねん)に世をいとふがゆゑなり。たゞし、つくりてくねりがほせよとにはあらず。
[やぶちゃん注:大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、この一条も「法然上人行所絵図」の第二十一に所収する由。評注は言わずもがなで、寧ろ、それこそ底の浅い凡夫の愚痴にしか見えぬ。
「一くねり」「くねり」は「くねる」すねるように愚痴をこぼす、僻(ひが)んだような態度を取ることを言う動詞の名詞形であるが、この「一」が難しい。接頭語「ひと」には、「ひとかど」「ひとくせ」といった「ちょっとしたそれなりの存在であること」を表す意、また、「そのれが全体に及ぶさま、全部、~中(じゅう)。」を表す他、「ひと~(する)」の形で、軽くある動作を行う、あることを一通りする意をも表す。ここは「世間を」と「つねにはあるなり」の条件文から、二番目の意味であり、また、文末の「あるなり」の「なり」は、断定ではなく推定の助動詞である。従って全体を訳そうなら、
法然上人の、普段からよく諭し示されておられたお言葉の中には……「極楽往生を心より願っておる御仁の様子と申すは――これ、見た目にては、いつも――この世間この世の総てを――忌まわしきものとして、すね僻んでは皮肉っておるかように、常に在る――かのようには、これ、見えるものでは、あるようじゃ――」とのことにて御座った。
である。しかし、これはまさしく「一くねり」入った表現なのであって、そう見える「けしき」は見かけの、傍観者の皮相的観察に過ぎないとするのであるから――でなければ、法然はここに「けしき」「たる色にて」「には」「あるなり」といった微妙な言辞を選ばない――私には、これは、
――あなた方の周囲にいる人の中(うち)にも、「世間を一くねりうらみたる色にて、つねにはある」御仁が――人を厭い、同時に人に煙たがられ、素直な心根を持たぬ僻者(ひがもの)としか見えぬ御方が――ありましょう――しかし、その御方こそは――実は「誰人います花の春」でないとは、これ――言えませぬぞ……
と法然は語りかけているのだ、と私は読む。]
二十 甲
題空谷居士画竹
水邊幽石竹幾竿
細葉疎枝帶嫩寒
唯恐新秋明月夜
無端紙上露團々
〇やぶちゃん訓読
空谷居士の画竹に題す
水邊 幽石(いうこく) 竹 幾竿(いくかん)
細葉 疎枝 嫩寒(どんかん)を帶ぶ
唯だ恐る 新秋明月の夜
紙上 端無(はしな)くも 露團々(つゆだんだん)
二十 乙
題空谷居士墨竹
水邊幽石竹三竿
細葉疎枝帶嫩寒
唯怕淸秋明月夜
無端紙上露團々
〇やぶちゃん訓読
空谷居士の墨竹に題す
水邊 幽石 竹 三竿
細葉 疎枝 嫩寒を帶ぶ
唯だ怕(おそ)る 淸秋明月の夜
紙上 端無くも 露團々
二十 丙
題空谷居士墨竹
水邊幽石竹三竿
細葉疎枝帶嫩寒
唯恐淸秋明月夜
無端紙上露團々
〇やぶちゃん訓読
空谷居士の墨竹に題す
水邊 幽石 竹 三竿
細葉 疎枝 嫩寒を帶ぶ
唯だ恐る 淸秋明月の夜
紙上 端無くも 露團々
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
「甲」は大正九(一九二〇)年三月十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七〇)
「乙」は大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛(岩波版旧全集書簡番号六七七)
「丙」は大正九(一九二〇)年四月四日附空谷先生宛(岩波版旧全集書簡番号六九二)
に所載する。「甲」の「画」はママ。「丙」が決定稿である。それぞれ、詩に関わっては、
「甲」には、
「又一つ拵へたから差上げます 忙中詩で半日つぶしました」
と後書きし、
「乙」には先行する「十九」と後掲の「二十二」の後に載せ、詩題は詩の後に「これは題空谷居士墨竹と號する詩だよ」と添書きしており、更に、
「どうもこんな事をして遊んでゐる方が小説を書くより面白いので困る」
と、漢詩創作への没頭ぶりを述懐している。
「丙」は、謂わば献じる相手への真正の決定稿である。これは書簡全体を以下に示す。
啓
屏風早速御揮毫下さいまして難有く存じます 結構な御出來で皆大さう悦んで居ります
それから墨竹も厚く御礼申上ます あれでは唯今こんな詩を作りました 御笑ひまでに御覧下さい
題空谷居士墨竹
水邊幽石竹三竿 細葉疎枝帶嫩寒
唯恐淸秋明月夜 無端紙上露團々
あの画には水石ともありませんが便宜上詩の中へは採用しました この邊が素人藝の妙と御思ひ下さい さもないと到底詩などゝ号する代物らしくも思はれませんから
いづれ御礼に參上しますが先はとりあへず感佩の意だけ手紙で申上げます 草々
四月四日夜 我 鬼 生
空 谷 先 生 侍史
この書簡によって、本詩が空谷先生から竹を(竹だけを)描いた水墨画を贈られたことへの謝意を込めた贈答詩であることが判明する。
空谷先生は医師下島勳(しもじまいさお 明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。
「幽石」苔むした深山の岩石。
「嫩寒」「嫩」はもと、若いという意から、総て生じたばかりのものを言い、これで薄ら寒さの意である。
「端無くも」何の契機もなしにことが起こる・思いがけなく・偶然にの意の「端無く」と訓じてもよいが、ここはその強調形の本邦の常套句である「はしなくも」で訓じた。
「團々」露が多く集まっているさま。
なお、邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の本詩の『評価』には、転結句を『生き生きとした表現』とし、『このような想像力に富んだ詩句で真に迫る画の素晴らしさを歌い、詩画一体の世界を演出している』と評されながらも、『ただし、中国では「三」という数字が神聖視されてはいるが、詩の象徴性を重視し、読者の想像力を要する伝統的な詩では「三竿」や「幾竿」のような具体的な言い方は好まれない』とあって、中国人と日本人の感覚の相違を感じさせて極めて興味深い。]
三十
又云、煩惱のうすくあつきををもかへり見ず、罪障のかろきおもきをも沙汰せず、たゞ口に南無あみだ佛ととなへて、聲につきて、決定(けつぢやう)往生をなすべし。
〇煩惱、心におこる三毒なり。
〇罪障、身と口とになしつる惡業なり。
〇聲につきて、南無阿彌陀佛といづるこゑはみな彌陀の本願に順ずるがゆゑなり。向阿上人云、異香よりも、紫雲よりも、南無阿彌陀佛ととなふるこゑにすぎたる往生のしるしやは侍るべき、云々。
[やぶちゃん注:大橋氏注によれば、この一条も国宝「法然上人行所絵図」の第二十一などに所収する。
「決定往生をなすべし」Ⅲも同じ。Ⅰは『決定往生の思をなすべし』とある。]
以下は、所詮、読まれる方の少ない、先にアップした「生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 一 色の僞り」に附した僕の注である。
――僕は
――これだけで
――なるほど「智を遊ぶ」ことの意味が身に染みて嬉しかったのである……
*
イセエビの属名“Panulirus”(パルリルス)は一筋繩ではいかない。何故ならこれは欧州産イセエビ属Palinurus (パリヌールス)のアナグラム(anagram)だからである。平嶋義宏先生の「学名論―学名の研究とその作り方」によれば、『この語源はギリシア伝説に由来』し、パリヌールス Palinurus とはアイネイアス Aeneas(トロイアの勇士)』が『トロイアからイタリアへ渡る時の』『船の舵取りの名で』『Lucania 沖で眠りの神に襲われ、海に落ちて、三日三晩会場に漂ったのち、南イタリアに、打ち上げられ、そこの住民に殺された』人物に由来するのだが、そのスペルをわざと組み替えて作ったのが、本邦のイセエビの属名“Panulirus”(パルリルス)という訳なのである(引用文中のカンマを読点に変更した)。しかも何と、アフリカ東岸から日本・ハワイ・オーストラリアまで、インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯海域に広く分布するイセエビ上科イセエビ科 Palinuridae のハコエビ属 Linuparus(リヌパルス)も、実はこれ、Palinurus のアナグラムなのである。平嶋先生によれば、『このこのアナグラムはの属名はどちらも Gray という学者が』一八四七年(本邦では弘化四年)『に創設した』ものであり、『このPalinurus, Panulirus, Linuparus の三つの属名を正確に覚えて区別するのは一苦労することは請け合いである』と述べておられる。如何にも――しかし、これでは平嶋先生の著作に出逢うことなく、私が学名に色気を持ち始めて羅和辞典をひっくり返したとしていたとして……これ、語源は到底、分からなかったということなのだ……先生の著作に出逢えて、私は本当に幸せであった、ということになる。因みに……先生は一九二五年のお生まれ……既に八十七歳におなりになる。いやさかを言祝ぎたくなり申しました。まっこと、有り難く存じます!
海の表面に浮游して居る動物には、無色透明なものが頗る多い。これを集めて見ると、殆どあらゆる種類の代表者があつて、中にはかかる動物にも透明な種類があるかと驚くやうなものも少くない。「くらげ」には全く透明なものが幾らもあるが、「をびくらげ」と稱する帶状の「くらげ」などは、長さが六〇糎、幅七糎近くあるものでも、餘り透明なために慣れぬ人には眼の前に居ても見えぬことがある。但しある角度の處から眺めると、薄い虹色の艷が見えて頗る美しいから、ヨーロッパではこの「くらげ」のことを「愛の女神ヴェヌスの帶」と名づける。また貝類は普通は不透明なものばかりであるが、海の表面に浮かんで居る特別の種類になると、身體が全く無色透明で甚だ見出し難い。大きなものは長さ三〇糎にも達するが、普通の貝類とは餘程外形が違ふから、知らぬ人はこれを貝類と思はぬかも知れぬ。「たこ」の仲間でも「くらげだこ」と稱する一種の如きは全身殆ど無色透明で、たゞ眼玉二つだけが黑く見えるに過ぎぬから、そこに「たこ」が居ることには誰も氣が附かぬ。正月の飾に附ける「いせえび」は、生では栗色、煮れば赤色になつて、いづれにしても不透明であるが、その幼蟲時代には全く體形が親とは違つて、水面に浮かんで居る。そしてその頃には全く無色透明で、硝子で造つた如くであるから、餘程注意せぬと見逃し易い。
[やぶちゃん注:「をびくらげ」は我々が通常認識している「クラゲ」類とは全く異なる生物で、有櫛(ゆうしつ)動物Ctenophora クシクラゲと呼ばれる動物群に含まれるクラゲ様生物である。ただ、本書が執筆された時代はクラゲ類を含む刺胞動物と合わせて腔腸動物と呼ばれ、腔腸動物門として扱われていたため、丘先生の謂いを誤りとするわけにはゆかない。有櫛動物の多くは体色素を持たず、ほぼ無色透明で、しかも組織の殆んどが水分からできている点ではクラゲ類と同じであるが、決定的な違いは刺胞動物と異なり、刺胞を持たず、粘着性に富む膠胞(こうほう)という器官を持っている点である。形状もクラゲのような傘状ではなく、球形や楕円形、また、それらを引き延ばしたような形に近いものが多い。体幹下端に口器が開く。更にもう一つの大きな特徴が体表面の周囲を放射状に取り巻いている光る八列の筋、櫛板列(くしいたれつ)を持つことである。櫛板列には微細な繊毛が融合して出来た櫛の歯に相当する櫛板(くしいた)が並んでおり、この櫛板の繊毛を波打つように順次動かすことによって、かなり素早く移動ことが可能である。この櫛板列の発光は化学的物質による発光ではなく反射によるものであるが、櫛板の運動に伴って虹色の帯になって輝くさまは非常に美しい。ここで丘先生が挙げたオビクラゲは、従来は
有触手綱オビクラゲ目 Cestida
に分類されているが、近年の新しいものでは、
環体腔綱オビクラゲ目 Cestida
に分類されている。代表種の和名オビクラゲ
Cestum amphitrites は帯のように扁平で細長い形をしており、長さは数十センチメートルのことが多いが、ときには一メートル以上に達する個体もある。体の中央下部に口器があり、その両側に各一本ずつの短い触手が出ている。体表面の八つの櫛板列の内で細長い体に沿った縦の四列が極めて長く、体中央部の横の四列は逆に極めて短い。他のクシクラゲ同様これらの櫛板列の繊毛の運動に加えて、帯状の体全体を波状に屈曲させることによってかなり速やかな体移動を行う。世界中の温水域に広く分布しており、本邦でも暖流の影響の大きい沿岸部などで観察出来る。英名は丘先生が述べられているように“Venus's girdle”である。因みに属名“Cestum”(ケストゥム)はラテン語の“cestus”(帯)に、種小名“amphitrites”はギリシア神話の海の神ポセイドーンの妃アムピトリーテー“Amphitrite”(大地を取り巻く第三のものの意。生物の母たる海の神格化である)に由来する。学名でも「母なる海の神アムピトリーテーの帯」の意という訳である(以上の内、生物学的記載はウィキの「有櫛動物」及び小学館「日本大百科全書」の「オビクラゲ」の記載を参考にした。“Cestum
amphitrites”のグーグル画像検索一覧はこちら)。
「海の表面に浮かんで居る特別の種類になると、身體が全く無色透明で甚だ見出し難い」これは恐らく軟体動物門腹足綱前鰓亜綱中腹足目ゾウクラゲ科
Carinariidae の仲間を指しているものと思われる。小学館「日本大百科全書」の、私の尊敬してやまない奥谷喬司先生のゾウクラゲ
Carinaria cristata の項によれば、『軟体動物門腹足綱ゾウクラゲ科の巻き貝。クラゲの名がついているが、腔腸(こうちょう)動物ではなく、体が透明な寒天質で海中を泳ぐためにこの名がある。世界の暖水域表層に広く分布する。殻は小さい烏帽子(えぼし)状で薄く、ほぼ体の中央背側にあって、ここに内臓が収まっているが、体全体を殻の中に引っ込めることはできない。体は細長く最長』六〇『センチに達し、前端には歯舌をもった口が開き、その背側に一対の目と触角がある。体の中央腹側には、一枚の団扇(うちわ)状に変形した足があり、これを上にして泳ぐ。この足の後縁には吸盤がある。尾部はしだいに細くなり、背部に冠状のひれがある』。以下、日本近海にはこの外、
ラマルクゾウクラゲ Carinaria lamarcki
ヒメゾウクラゲ Carinaria japonica
カブトゾウクラゲ
Carinaria galea
の三種を産する、とあり、『いずれも黒潮系水域などの暖流域に分布し、海表面を遊泳している。鋭い歯舌で小形の甲殻類を食べ、自身は魚類やアカウミガメの餌(えさ)になっていることがある』と記されておられる。英名は“glass nautilus”、「ガラス製のオウムガイ」である。属名の“Carinaria”は、恐らくはその象の鼻のように湾曲した形状若しくはその烏帽子状の特異な殼の形から、“carīna”(船の龍骨、キール)に似た、の意であろうと思われる(グーグル画像検索一覧“Carinaria
cristata”)。
「くらげだこ」頭足綱鞘形亜綱八腕形目マダコ亜目クラゲダコ科
Amphitrethidae の仲間。通常は全長約一〇センチメートルの釣鐘形の浮遊性のタコで、体は透明な寒天質で表皮は厚くゼラチン状で、その中に蛸がくるまれているように見える。腕は長く、吸盤は一列、眼球は筒状に伸びて赤緑色を呈する。クラゲのように腕を開閉して遊泳する。太平洋・インド洋の深海に棲息し、本邦では相模湾や浦賀水道などに見られる。標準種はクラゲダコ
Amphitretus pelagicus。属名“Amphitretus”はギリシア語の“amphitrētos”(貫かれた)に由来し(透明なもののことを言うか)種小名“pelagicus”はラテン語で「海の」の意(グーグル画像検索一覧“Amphitretus
pelagicus”)。
「いせえび」「その幼蟲時代」甲殻亜門軟甲(エビ)綱軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ
Panulirus japonicas の孵化した幼生はフィロソーマ幼生(Phyllosoma)又は葉状幼生と呼ばれ、広葉樹の葉の如き透明な体に長い遊泳脚を持っていて、成体とは似ても似つかぬ体型をしている。イセエビの研究で博士号を持っておられる井上誠章氏のHPの「イセエビの謎 イセエビの子供フィロソーマはどこに?」をご覧あれ。因みに、イセエビの属名“Panulirus”(パルリルス)は一筋繩ではいかない。何故ならこれは欧州産イセエビ属 Palinurus (パリヌールス)のアナグラム(anagram)だからである。平嶋義宏先生の「学名論―学名の研究とその作り方」によれば、『この語源はギリシア伝説に由来』し、パリヌールス
Palinurus とは、トロイアの勇士アイネイアス Aeneas が『トロイアからイタリアへ渡る時の船の舵取りの名で』、『Lucania 沖で眠りの神に襲われ、海に落ちて、三日三晩会場に漂ったのち、南イタリアに、打ち上げられ、そこの住民に殺された』人物に由来するのだが、そのスペルをわざと組み替えて作ったのが、本邦のイセエビの属名“Panulirus”(パルリルス)という訳なのである(引用文中のカンマを読点に変更した)。しかも何と、アフリカ東岸から日本・ハワイ・オーストラリアまで、インド洋と西太平洋の熱帯・亜熱帯海域に広く分布するイセエビ上科イセエビ科 Palinuridae のハコエビ属 Linuparus(リヌパルス)も、実はこれ、Palinurus のアナグラムなのである。平嶋先生によれば、『このこのアナグラムはの属名はどちらも Gray という学者が』一八四七年(本邦では弘化四年)『に創設した』ものであり、『このPalinurus, Panulirus, Linuparus の三つの属名を正確に覚えて区別するのは一苦労することは請け合いである』と述べておられる。如何にも――しかし、これでは平嶋先生の著作に出逢うことなく、私が学名に色気を持ち始めて羅和辞典をひっくり返したとしていたとして……これ、語源は到底、分からなかったということなのだ……先生の著作に出逢えて、私は本当に幸せであった、ということになる。因みに……先生は一九二五年のお生まれ……既に八十七歳におなりになる。いやさかを言祝ぎたくなり申しました。まっこと、有り難く存じます!]
○賴朝御中陰 付 後藤左衞門尉守護職を放たる
同三月二日は故賴朝卿四十九日(なゝぬか)御中陰の終(はて)の日なり。勝長壽院に於て御佛事行はる。導師は大學法眼行慈(ぎやうじ)なり。高座に登り、結願(けちがん)の諷誦(ふじゆ)を讀み、説法の辯舌、滿慈(まんじ)の懸河(けんが)、文義(もんぎ)の會通(ゑつう)、鷲子(じゆし)が智海(ちかい)、總て貴賤の耳を濯(すゝ)ぎ、歡喜の涙を流しけり。さこそ聖靈(しやうりやう)も頓證菩提(とんしようぼだい)の花開(ひら)け、自性圓融(じしやうゑんゆう)の月明(あきらか)に寂光常樂の覺(さとり)に入り給ふらんと有難かりける事共なり。御忌(おんいみ)に籠りし人々も皆出でて歸りしかば、打潛(うちひそま)りる心地ぞする。同じき五日後藤左衞門尉基淸罪科あるに依(よつ)て、讚岐の守護職を召放(めしはな)ちて、近藤七國平(くにひら)に補(ふ)せらる。故賴朝卿の御時に定め置れし事共を改めらるるの始(はじめ)なり。政理(せいり)今に亂れなん、誠に危き事なりと物の心を辨(わきま)へたる人々は彈指(つまはじき)をぞ致しける。
[やぶちゃん注:「同三月二日」建久十(一一九九)年三月二日(この年は四月二十七日に正治に改元される)。頼朝の四十九日の法要の様は完全に筆者の創作であるが(「吾妻鏡」はただ「二日甲午。故將軍四十九日御佛事也。導師大學法眼行慈云々。」としか記していない)、これ、見てきたようにリアルな独壇場である。
「中陰」中有(ちゅうう)。死者の死後四十九日の間を指す。死者があの世へ旅立つ期間で、この時、死者は生と死、陰と陽の狭間に居るとされることからの謂い。
「大學法眼行慈」「大學」は「題學」が正しい。引用元の「吾妻鏡」自体の誤り。
「説法の辯舌、滿慈の懸河」「懸河」底本頭注に『流るるごとき龍辯』とある。題学の誦経とその説法が、仏の大慈悲心を思わせる誠意に富み、頗る流暢でもあったことを言祝いでいる。
「文義の會通、鷲子が智海」増淵勝一氏は、また、『その説法のわかりやすいことは幼子さえ海のように理解できるほどで』と訳されておられる。
「聖靈」頼朝様の御魂。
「頓證菩提」速やかに悟りの境地に達すること。死者の追善供養のときなどに、極楽往生を祈る言葉として唱える言葉でもある。
「自性圓融」「自性」(物本来の真性を清澄な存在)を明月に譬えた「自性の月」に、「圓融」は、それぞれの事物がその立場を保ちながら一体であり、互いにとけ合って障りのないことの意を添えて、迷いを解き放って仏法の心理に到達することを言っている。
「後藤左衞門尉基淸」「賴朝卿奥入付泰衡滅亡」〈頼朝奥州追伐進発〉に既出、注済み。所謂、頼朝急逝直後の正治元(一一九九)年二月に起った三左衛門事件(一条能保・高能父子の遺臣が権大納言・土御門通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件)の首謀者とされる人物。以下、ウィキの「三左衛門事件」より「明月記」に基づく詳細な事件概要を引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『正治元年(一一九九年)正月十一日の源頼朝の重病危急の報は、十八日には京都に伝わって世情は俄かに不穏な空気に包まれた。前年に外孫・土御門天皇を擁立して権勢を振るっていた土御門通親は、二十日に臨時除目を急遽行い、自らの右近衛大将就任と頼朝の嫡子・頼家の左中将昇進の手続きを取った。ところが直後の二十二日から、京都は「院中物忩、上の辺り兵革の疑いあり」「京中騒動」の巷説が駆け巡って緊迫した情勢となり、通親が「今、外に出ては殺されかねない」と院御所に立て籠もる事態となった。「院中警固軍陣の如し」と厳戒態勢が布かれる中、当初は騒動に誰が関与しているのか不明だったが、二月十一日になって左馬頭・源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなった。十二日には関東から飛脚が到来して幕府が通親を支持する方針が伝えられたらしく、「右大将光を放つ。損亡すべき人々多し」という情報が流れている。そして十四日に、後藤基清・中原政経・小野義成の三名が源頼家の雑色に捕らえられ院御所に連行されたのを皮切りに、騒動に関連があると見られた者への追及が始まり、十七日に西園寺公経・持明院保家・源隆保が出仕を止められ、頼朝の帰依を受けていた僧・文覚が検非違使に身柄を引き渡された。二十六日に鎌倉から中原親能が上洛して騒動の処理を行い、京都は平静に帰した』。『三左衛門は鎌倉に護送されるが、幕府が身柄を受け取らなかったため京都に送還された。基清は讃岐守護職を解かれたが、他の二名の処分は不明である。公経と保家は籠居となり、隆保は土佐、文覚は佐渡へそれぞれ配流となった。なお「平家物語」によると文覚が保証人となることで一命を救われていた六代(平維盛の子)が、この時に処刑されたという。処罰の対象となったのは文覚を除くと、公経が能保の娘婿、保家が能保の従兄弟で猶子、隆保が能保の抜擢で左馬頭に登用された人物、基清らは能保の郎党であり、いずれも頼朝の妹婿・京都守護として幕府の京都における代弁者の役割を担っていたが、二年前に死去した一条能保の関係者である。「愚管抄」によれば能保・高能父子が相次いで没し、最大の後ろ盾だった頼朝を失ったことで主家が冷遇される危機感を抱いた一条家の家人が、形勢を挽回するために通親襲撃を企てたという』。『頼朝の死が引き金となったこの事件は政局の動揺を巻き起こしたが、頼朝から頼家への権力移行を円滑に進めたい幕府は大江広元が中心となって事態の沈静化を図り、通親は幕府の協力により不満分子をあぶり出して一掃することに成功した。なお、事件関係者の赦免は後鳥羽上皇の意向で早期に行われ、配流された隆保と文覚も通親死後に召還されている』。『逼塞状態に陥っていた一条家も能保の子・信能、高能の子・頼氏らが院近臣に取り立てられたことで息を吹き返し、坊門家・高倉家とともに後鳥羽院政の一翼を担うことにな』った、とある。ここで「吾妻鏡」にもある、「故賴朝卿の御時に定め置れし事共を改めらるるの始なり」(「吾妻鏡」では「幕下將軍御時被定置事被改之始也」)とは何を意味しているのであろう。謂わば、京都守護一条能保の侍でもあると同時に、頼朝によって在京御家人として認められていた基清を、頼家が一方的に捕縛し、尚且つ鎌倉に護送されながら、頼家がその身柄を受け取らず、直接の吟味を行うことなく、守護職を解任したことを指すものか(但し、三左衛門事件の経緯を見ると、これは頼家の、というよりはこの事件を穏便且つ迅速に収束させたかった幕府の意向が別にあったとしか読めないが)。しかし、これが「政理今に亂れ」ることとなる兆しであったことは、この基清が後に後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士から検非違使となり(建保年間(一二一三年~一二一九年)には播磨国の守護職に返り咲いている)、遂には承久三(一二二一)年の承久の乱では後鳥羽上皇方に就いた事実からも正しい謂いであるとも言えるか(これは実際には「吾妻鏡」が共時的な記載でも何でもなく後に書かれたものである以上、やはり予言でも何でもない、事実結果を踏まえた上での後付けなのではあろうが)。
「近藤七國平」近藤国平(生没年不詳)は頼朝直参の御家人。この讃岐守護に補任以降の動静は未詳。]
水無瀨ノ川
長谷へユク道ノ小橋也。古歌ニミナセノ川ト有。ミナセ川ハ山城・攝津・大和ニモアリト云。俗ニ傳テイナセ川ト云。實朝大佛谷ニテ此川一覽ノ時分イナト云魚、海ヨリノボリケルヲ見テ、遂ニイナセリ川一名ヲ付ラレ、歌ヲヨマル。其歌ニ
鎌倉ヤ御輿カ嶽ニ雪消テ イナセリ川ノ水マサリケリ
[やぶちゃん注:現在の稲瀬川。
「イナ」出世魚のボラ目ボラ科ボラ(鯔)
Mugil cephalus の、二〇センチメートル程度の成魚の直前の若魚の時の名。ナヨシなどとも呼ぶ(粋で勇み肌の若い衆を言う「いなせ」は、彼らの好んだ月代(さかやき)の青々とした剃り跡をイナの青灰色の背に見たてた「イナの背」とも、また、彼らがわざと髷を派手に跳ね上げた髪型を好んだのを、「イナの背鰭」に譬えたとも言われる)。
「イナセリ川」前掲のイナが先を争うように河口付近で青い背を見せて「せる」(「競る」か「反(せ)る」か)様子を謂うのであろう。ボラは同体長の個体同士で大小の群れを作っては水面近くを盛んに泳ぎ回り、しなしば海面上にジャンプする。時には体長の二~三倍の高さまで跳び上がることがあり、「イナがせる」というこの語はなかなかリアルであると私は思う。
しかし、この歌自体は実朝の歌として正式には伝わっていない。少なくとも「金槐和歌集」には所収せず、そもそもが「金槐集」には初句を「かまくらや」とする和歌は、意外なことに、ない、のである。「万葉集」でも「みなのせ」であり、この稲瀬川は、文字通りいなせなピカレスクのレビューたる、歌舞伎の「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」(通称「白浪五人男」)二幕目第三場の、知られた「稲瀬川勢揃いの場」の舞台でもあるから、この魅力的な名は後世の付会に過ぎまい。一応、和歌を書き直しておくと、
鎌倉や御輿が嶽(たけ)に雪消えていなせり川の水まさりけり
なお、以下、読み易くするため、注の後に空行を設けた。]
萬葉集
マカナシミサネニハ早ク鎌倉ノ ミナノセ川ニ汐ミツランカ
[やぶちゃん注:「万葉集」巻十四にある、詠み人知らずの歌であるが、各所の訓読がおかしい。現在の一般的な読みは、
ま愛しみさ寢に吾(あ)は行く鎌倉の美奈の瀨川に潮滿つなむか
である。「新編鎌倉志卷之五」の「稻瀨河」でも注したが、訳を再掲しておく。
――お前のことを、私は心からいとおしく思って共寝するために向かっている――鎌倉の美奈の瀬川は、今頃、潮が満ちてしまっているだろうか――たとえそれでも私はお前のもとに行かずにはおられぬのだ――
と言った意味である。]
名所歌 參議爲相
汐ヨリモ霞ヤサキニミチヌラン ミナノセ川ノアクル湊ハ
サシノホルミナノセ川ノ夕汐ニ 湊ノ月ノカケソチカツク
[やぶちゃん注:読み易く、書き換えておく。
潮よりも霞や先に滿ちぬらん水無瀨川の明くる湊は
さし上る水無瀨川の夕潮に湊の月の影も近づく
「名所歌」は江戸初期の連歌師里村昌琢編になる名所別類題和歌集として有名な「類字名所和歌集」(元和三(一六一七)年成立)のこと。]
楚忽百首 從三位爲實
立マカフ波ノ塩路モヘタヽリヌ ミナノセ川ノ秋ノ夕霧
[やぶちゃん注:「楚忽百首」戦国時代の連歌師宗牧(そうぼく)の辺になる選集か(「新編鎌倉志 引用書目」にはそうある)。但し、この歌「夫木和歌抄」所収の同人のものとは微妙に異なる。以下に示す。
立迷ふ波の潮路に隔たりぬ水無の瀨川の秋の夕霧
この歌については、私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之一」の「稻瀨川」所収のものを参考にした。]
夫木集 野々宮左大臣
東路ヤミナノ瀬川ニミツ汐ノ ヒルマモシラヌ五月雨ノ比
[やぶちゃん注:「野々宮左大臣」は徳大寺公継(とくだいじきんつぐ 安元元(一一七五)年~嘉禄三(一二二七)年)の号。後鳥羽・土御門・順徳・仲恭・後堀河帝五朝に亙って仕えた公卿。官位は従一位左大臣まで昇った。
東路や水無瀨川に滿つ潮のひる間も知らぬ五月雨の頃
「鎌倉攬勝考卷之一」の「稻瀨川」所収の「夫木集」からとするものは、
東路や水無瀨川に滿つ潮のひる間も見えず五月雨の頃
とある。]
遊魂をまのあたり見し事
是も中山氏にて召仕(めしつかひ)し小侍(こざむらひ)、甚(はなはだ)發明にて主人も殊の外憐愍(れんびん)して召仕ひしが、寬政七年の暮流行の疱瘡を愁ひて身まかりしを、主人其外殊外(ことのほか)に不便がりて厚く吊(とむら)ひ遣しける由。然るに中山の許に常に心安かりける男昌平橋を通しに、彼小侍が死せし事も知らざりしが、はたと行合(ゆきあひ)ていかゞ主人には御替りもなきや抔尋ければ、相應の挨拶して立別れけるが、中山の許へ至りて尋しに、遙に日を隔て相果し事を語りけるに驚きて、我等壹人に候はゞ見損じもあるべしと召連(めしつれ)し僕にも尋けるに、これも彼(かの)小侍は能々覺へて相違なきよし語り、ともに驚けると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:中山某氏御家中霊異譚二連発。
・「小侍」岩波版長谷川氏注に、『武家に奉公した少年の侍。』とある。
・「昌平橋」神田川に架かる橋。ここ(グーグル・マップ・データ)。寛永年間(一六二四年~一六四五年)の架橋と伝えられており、橋の南西に一口稲荷(いもあらいいなり:現在の太田姫稲荷神社。因みに根岸の屋敷はこの神社の西直近にあった)があったことから「一口橋」「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)、また元禄初期の江戸図には「相生橋」の名もあったことが分かる。元禄四(一六九一)年に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕の地の魯の昌平郷にちなんで昌平橋と改名したものである(以上は主にウィキの「昌平橋」に拠った)。
■やぶちゃん現代語訳
幽魂を目の当たりに見たという事
これも同じく中山某氏の話。
氏の元にて、これ、召し使(つこ)うて御座った小侍(こざむらい)、若年ながらも甚だ利発にして、中山殿も殊の外、目を懸けて御座ったが、残念なことに、寛政七年の暮れに流行致いた疱瘡を患い、あっという間に身罷ってしもうた故、主人その外、殊の外、不憫に思うて、手厚く弔いなど致いて御座った由。……
ところが……後日のことで御座る。
中山殿と常々心安うして御座ったさる御仁が、たまたま昌平橋を通りかかったところが、かの小侍に――暫く無沙汰致いて御座った故、この男、とうに小侍の亡くなったことを知らなんだと申す――出逢(でお)うた故、男は、
「如何かの? 御主人にはお変わりものう、御達者で御座るか?」
などと尋ねたによって、それより普通に、相応の挨拶を交(かわ)いて、別れた。
さればその日、男も、久々に中山殿の元へ足を向ける気にもなって、訪ね、開口一番に、
「……いや、無沙汰致いて御座ったが、先程、〇〇丸殿と行き逢うて、の。」
と挨拶致いたところが、家人、妙な顔を致いて、
「……〇〇丸は……もう、かなり前に……疱瘡にて……相い果てて御座るが……」
と答えたによって、男も仰天し、
「……い、いや!……我ら一人のことならば……人違いということも、これ、あろうが……」
と、召し連れて御座った従僕にも質いたところが、これも、
「……い、いえ!……か、かの〇〇丸殿は、我らもよう見知っておりますれば……こ、これ、どう見ても、ま、間違い、御座いませなんだぁ。……」
と消え入る如き声にて答え、ただただ――己(おの)れと己(おの)が主人、そうして中山家家人の――これ、誰も真っ蒼になった顔を――黙って見合わせておるばかりで御座ったと、申す。
十九
偶成
簾外松花落
几前茶靄輕
明窓無一事
幽客午眠成
〇やぶちゃん訓読
簾外 松花 落つ
几前の茶靄(さあい) 輕(かろ)く
明窓 一事無く
幽客 午眠 成る
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。この時、龍之介は「秋」の産みの苦しみに只中にあった。以下の①の同日附けの瀧田樗陰宛では、龍之介は同年三月十一日に脱稿した分の「秋」の改稿を申し入れている(鷺年譜によれば『従来の作風からの転換を企図した作品で、それだけに、異常ともいえるほど字句の修正に拘泥し、再三遂行の指示を編集者に出している』とある)。同じ「秋」の改稿要請はこの後にも行っている。更に同月末には「素盞鳴尊」の執筆にも行き悩み、かなり苦しんでいる様子が複数の書簡から見てとれる。一方、①で宛てた佐々木茂索に対しては、同月二十二日宛で、明らかに女性(秀しげ子か?)からの手紙を家人に怪しまれないための、隠蔽を目的とした封書表書きの依頼という如何にも胡散臭い要請を再三(これが初めてではない)行ってもいるのである。
本詩は全く同一のものが、
①大正九(一九二〇)年三月 十六日附佐々木茂索宛(岩波版旧全集書簡番号六六八)
②大正九(一九二〇)年三月 十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六六九)
③大正九(一九二〇)年三月 十七日附瀧田鉄太郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七二)
④大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛 (岩波版旧全集書簡番号六七七)
⑤大正九(一九二〇)年四月 十一日附松岡讓宛 (岩波版旧全集書簡番号六九五)
に所載する。それぞれ、詩に関わっては、
①「一詩三十分」
②「實は夜遲いのでひるねするのです」
③「と云ふはどうですか徹夜して居ねむりをしてゐる所を詩にしたのです」
④「實は夜原稿を書く爲ひるまくたびれて寢てゐる所だ」
⑤「この頃は新聞へ糞の如き小説を書いてゐるので忙しい 夜起きてひるは大抵寐てばかりゐる」として詩を掲げ、「これはその寐た所を詩にしたのだ」
などと記している。④には後掲する漢詩「二十 乙」及び「二十二」を併載してもいる。なお、②の小島に対しては、その後、三月二十六日附(岩波版旧全集書簡番号六七八)で、やはり「二十二」を送っているのであるが、その前文に、
「題画竹の詩なぞきはどくつていけません 簾外松花落の五絶の萌芽遙に自信があります あの方が悠々としてゐると思ひませんか」
と本詩について自信に満ちた自身の感想を述べてさえいる(「題画竹の詩」は不詳。そうした自作の詩を龍之介が書いて小島に見せたもののようには受け取れる。最も可能性が高いのは次の「二十」の詩であろう。題名が「題空谷居士画竹」とある)。龍之介は、俳句では自信作を一定期間の間に複数の知人や俳句仲間への書簡に添書きしているのをしばしば見受けるが、同一の漢詩を五人に送り(しかもその内の一人である③の瀧田は遙か先輩)、かくも小島に対して本作への評言を別書簡の中で示すというのは、極めて特異であると言ってよい。龍之介は余程、この詩が気に入っており、また、相当な自信作でもあったことは、最早疑いがない。
①の宛名人佐々木茂索(明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)は小説家で、龍門の四天王の一人であったが、後、文藝春秋新社(現在の文藝春秋)社長となった(彼が「佐佐木」と書くのは中国語に「々」がなくて表記出来ないことを芥川から脅されたことによると聞き及んでいる)。④の宛名人滝田哲太郎(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)は出版人で、ペンネームは樗陰(ちょいん)。総合雑誌『中央公論』の辣腕編集長として、多くの超弩級作家を世に送り出した伝説的人物である。
「茶靄」茶を立てている、その煙。
「幽客」隠者。龍之介は正にその閑適の世界に遊んでいる。]
二十九
法然上人或人にをしえて云、人の命はうまき物を、大口にくひて、むせてしぬる事もある也。しかれば南無阿みだ佛とかんで、南無阿みだ佛とて、ぐとのみ入(いる)べし。
〇法然上人、此御ことば御傳二十一にあり。無常のことわりにて、無間修の御すゝめなり。
龍舒居士云、凡起居飲食、語默動靜、皆不忘淨土(淨土を忘れざるときは)、則此身雖居五濁(五濁に居ると雖も)、而其心已在淨土(而も其の心、已に淨土に在り)。
[やぶちゃん注:しっかり咀嚼して、しっかりと飲み下すがよい、という実践的養生法のように見えるが、これは換喩であって、恐らくは「南無阿弥陀仏!」と唱えてしっかりと息を吸い、「南無阿弥陀仏!」と唱えてしっかりと息を吐きなさい、とも法然は言うはずである。
「南無阿みだ佛とて、ぐとのみ入べし」大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、「続群書類従」所収本では、
なむあみだ佛とのみ入るべし
となっている、とある(正字化して示した)。
「龍舒居士云、凡起居飲食、語默動靜、皆不忘淨土、則此身雖居五濁、而其心已在淨土」私の訓読で総てを書き下すと、
龍舒居士云はく、「凡そ、起居飲食(ききよおんじき)・語默動靜(ごもくどうじやう)、皆、淨土を忘れざるときは、則ち此れ、五濁に居ると雖も、而も其の心、已に淨土に在り。」と。
・「龍舒居士」(?~一一七三)は南宋の王日休(おうにっきゅう)のこと。
龍舒(現在の安徽省舒城(じょじょう))生れであったことから龍舒居士とも言った。 儒学に通じたが、後に浄土教に帰依、「浄土文(じょうどもん)」を編纂した。
・「起居飲食、語默動靜」眠っている時も、覚醒している時も、ものを飲み食いしている時も、喋っている時も、黙っている時も、動いている時も、静かに観想している時も、行住坐臥、如何なる瞬間にても、の謂い。]
[(上)冬の羽毛 (下)夏の羽毛]
右に似て稍々面白いのは、日本の東北地方に居る「えちご兎」や高山の頂上に住む「らいてう」である。これらは冬雪の積つて居る頃は純白で雪と紛らはしく、夏雪のない頃は褐色で地面の色によく似て居る。周圍の色の變る頃には、そこに住む鳥獸の毛も拔け換つて同樣に變化するのも、やはりかやうに變化せねば敵に攻められて生存が出來ぬからであらうが、さてかかる性質はもと如何にして起り、如何にして完成したかは、頗る困難な問題で容易に說明は出來ぬ。しかし假に外界の色は幾分づつか動物の色に影響を及ぼすもので、その上、冬は雪の色に最も似たもの、夏は地面の色に最も似たものだけが代々生き殘るものと想像すれば、以上の如き事實は必然生ずべき理窟と思はれる。
[やぶちゃん注:「らいてう」鳥綱キジ目ライチョウ科ライチョウ Lagopus muta japonica (シノニム Lagopus mutus / Tetrao mutus )。属名“Lagopus”はギリシア語の“lagōs”(野ウサギ(のように))+“pous”(足のある)の意で、冬期の白い羽毛に覆われているその脚部に由来する。種小名“muta/mutus ”はラテン語の、物言わぬ、無言の意(以上は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑4 鳥類」及び東海大学出版会二〇一二年刊の平嶋義宏氏の「学名論―学名の研究とその作り方」を参考にした)。ライチョウは低い声でしか鳴かないことに由来するという。私も何度も出逢ったが、鳴き声の記憶が殆んどないが、ネット上で聴くと、♂はくぐもった「ガァァォォー」というしわがれた声で(正直、品が悪い)、♀は「クックックッ」(結構、大きい)と鳴くようだ。和名の由来については、イヌワシを恐れて悪天候の時に姿を現わす習性に由来する(前掲の荒俣氏の記載。但し、氏は以下の霊鳥についての詳しい記載もなさっておられる)というのを山屋仲間からも聞いたことがあるが、一説には「雷鳥」と当てられるようになったのは江戸時代以降とし、元は山岳信仰の場でもあった高山の「霊の鳥」「霊鳥(れいちょう)」で、その転訛だとする考え方もある。確かに季節による全く異なった姿などを見ると、それもありかも、と思わせる鳥ではある。]
鎌倉 北條九代記 卷第二
○賴家卿御家督 付 宣下 竝 吉書始
右近衞少將源賴家は右大將賴朝卿の嫡男、母は北條遠江守平時政の娘從二位政子、壽永元年八月十二日鎌倉比企谷にして誕生あり。御験者(ごけんじや)は專光房阿闍梨良暹(りやうせん)、大法師觀修鳴弦(くわんしゆめいげん)は師岡(もろおか)兵衞尉重經、大庭平太景義なり。上總權介廣常蟇目(ひきめ)の役々を勤む。その外御産屋(おんうぶや)の儀式形(かた)の如く取行(とりおこな)はる。建久元年四月七日下河邊莊司行平(しもかうべのしやうじゆきひら)を以て若君の御弓の師と爲さる。行平は是(これ)數代將軍の後胤として、弓矢の道故實の達人なりとて賞せられ、御厩の馬を引き給はる。同八年二月に賴朝卿と同じく上洛あり。六月に参内ましまして御劍(ぎよけん)を賜り、同十二月に從五位上に叙せられ、右近衞少將に任ず。翌年正月に讃岐權介に任じ、同十一月正五位下に叙せられ給ふ。故右大將家正治元年正月十三日薨去あり。賴家既に十八歳、御家督を嗣ぎ給ふ。天下の事何の危(あやぶ)みかおはしますべき。同二十日に左中將に轉ぜられ、外祖北條時政執權たり。始(はじめ)賴朝卿出張の時より輔翼(ふよく)となりて威を振ひ、愈(いよいよ)是より權勢盛(さかり)にして肩を竝ぶる者なし。同二十六日宣下の趣(おもむき)、前征夷將軍源朝臣の遺跡(ゆゐせき)を繼ぎ、御家人、郎従元の如く諸國の守護を奉行せしむべしとなり。故賴朝卿薨じ給ひ、未だ二十日をも過ぎざるに、今日吉書始(きつしよはじめ)あり。是(これ)宣下の嚴密なるを以て重々の御沙汰あり。内々の儀を以て先(まづ)取り敢へず遂げ行はれけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻十六の建久十年二月の条々、建久元年四月七日の条などに基づく。
「壽永元年」西暦一一八二年。
「專光房阿闍梨良暹」巻第一の「鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮」に既出。
「蟇目」射る対象を傷つけないように鏃を使わず、鏑に穴をあけたものを装着した矢のことであるが、ここでは前の鳴弦同様、邪気を払うため、音を発して中に放たれる魔除けの矢のこと。
「建久元年」西暦一一九〇年。
「行平は是數代將軍の後胤」既に多出する下河辺行平の出自である下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野小山氏の一門で、更に秀郷及びその子とされる千常(ちつね/ちづね)、秀郷曾孫の兼光など代々、鎮守府将軍に任ぜられた名門の家柄であることをいう。
「正治元年」西暦一一九九年。
「同二十六日宣下の趣」土御門天皇の宣旨。
「今日吉書始あり」「今日」は正治元年二月六日。「吉書」とは物事の改まった後に吉日を選んで奏聞する文書。吉書を奏覧する儀式を朝廷では吉書奏(きっしょのそう)といったが,武家でもこの儀に習って、将軍が吉書に花押を据える儀式を「吉書始」と称した。
「宣下の嚴密なるを以て重々の御沙汰あり」この当りは、「吾妻鏡」の正治元年二月六日の条の。
此事故將軍薨御之後。雖未經廿ケ日。綸旨嚴密之間。重々有其沙汰。以内々儀。先被遂行之云々
此くの事、故將軍薨御の後、未だ廿ケ日を經ずと雖も、綸旨嚴密の間、重ね重ね其の沙汰有り。内々の儀を以つて、先づ之を遂行せらると云々。
に拠る。但し、頼家の正式な征夷大将軍の宣下は建仁二(一二〇二)年七月二十二日のことである。この辺りの対応の遅さには、急な政権交代に対する朝廷側の不穏な動きが感じられるようにも思われる。そもそもこの「吾妻鏡」の部分は意識せずに読めば、単に、
前の故将軍頼朝様の御逝去から、未だ二十日をも経っていないとは言え、綸旨が下されたということはとても重く大事なことであるからして、幕府内に於いて何度もの議論の末、では、取り敢えず、内々に執り行うこととするがよかろうと決して、まず吉書始だけは執行なさったとのこと。
と読めるのだが、「北條九代記」の叙述も殆んど変わらないのに、例えば教育社版増淵勝一氏は、この部分を、この吉書始の儀を行ったのは、
『これは朝廷からの御通達がきわめて厳しく頼家の征夷大将軍就任のお許しがないので、種々検討なさった結果である。内々のことにして、まずとりあえず挙行されたのであった。』
と訳されておられるのである。私は先に示した私の凡庸な訳よりも、この増淵氏の訳にこそ、「吾妻鏡」の、そしてひいては「北條九代記」の行間が、美事に読まれているように思われるのである。]
巽 荒 神
今小路ノ出崎、左ノ杉森ノ内ノ堂ヲ云。壽福寺ノ辰巳ニ當テアリ。古ハ壽福寺ノ鎭守カ。今ハ淨光明寺ノ持分也。社領一貫文アリ。
人 丸 墓
荒神ノ東後ロナリ。平家ノ侍景淸ガ娘ヲ人丸ト云シ其ガ墓也ト云。
興禪寺〔或禪ヲ作泉、非ナリ〕
汾陽山ト號ス。壽福寺ノ南隣也。松嶋ノ雲居ガ作ノ鐘ノ銘アリ。別紙ニ載之(之を載す)。寺ノ北ニ望夫石トテ長キ石アリ。畠山六郎由比ノ濱ニテ打死ニシケルヲ、其婦人此山ヨリ望テ、終ニ石トナルト云。山ノ上ニ坐禪石アリ。此寺新地ナリ。寛永年三朝倉筑後守菩提ノ爲子息甚十郎建立シ、松嶋雲居和尚ヲ開山トシテ雲居ノ弟子ヲ請ジ住持セシム。筑後守室保福院モ此寺ニ葬ル。岩窟三石塔・石燈寵等アリ。本尊釋迦・阿難・迦葉ナリ。
[やぶちゃん注:本時は鎌倉では極めて新しい創建でありながら、早々に(江戸末期)に廃寺となっている。
「朝倉筑後守」底本では『(德川忠長家老、宣正)』と傍注する。徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)は江戸時代初期の駿府藩主。徳川秀忠三男。母は浅井長政の娘で正室の江、家光は同母兄。寛永八(一六三一)年に不行跡(家臣一名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として甲府への蟄居を命じられ、二年後の寛永一〇年十二月六日、幕命により高崎の大進寺において自刃した。享年二十八歳であった(以上はウィキの「德川忠長」に拠った)。朝倉宣正(のぶまさ 天正元(一五七三)年~寛永一四(一六三七)年)織豊時代から江戸前期の武将。徳川秀忠に仕え、小田原攻め・上田攻めに従軍した上田七本槍の一人。徳川忠長の付家老となり、寛永二(一六二五)年には遠江掛川城主を兼ねたが、忠長の改易により大和郡山に蟄居、その後、許されて妻の兄である土井利勝に招かれた(以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「朝倉宣正」に拠った)。
「甚十郎」底本では『(正世)』と傍注する。朝倉宣正次男。詳細不詳。]
無景寺谷
壽福寺ノ西南ノ山際也。今鍛冶綱廣ガ居所也。
[やぶちゃん注:「無景寺谷」の「景」は「量」の誤り。次項も同じ誤りをしている。]
法性寺屋敷
無景寺谷ノ少シ南隣也。
千葉屋敷
法性寺屋敷ノ少シ南ナラビノ畠ナリ。東鑑ニモ甘繩ノ千葉屋敷トアリ。
諏訪屋敷
千葉屋敷ノ東ノ田中ニアル畠也。
左介谷〔或作三介谷〕
長谷小路へ谷ノ口開ケリ。西方岡邊ノ松森ハ、稻荷大明神ヲ勸請ス。此下ニカクレ里ト云テ、大ナル岩窟アリ。光明寺開山記主、初ハ此谷ニ住ス。記主俗名ハ佐介ト云シ故ニ地ノ名トセリ。又ノ説ニ三浦介・上總介・千葉介三人此谷ニ住居セシ故ニ、三介谷トモ云ト也。又佐介遠江守舊跡也トモ云。東鑑ニ佐介遠江守ト云者ノ事アリ。
[やぶちゃん注:「カクレ里」現在の銭洗弁天。]
裁許橋〔又作西行橋〕
天狗堂ノ東ノ少シキ橋也。賴朝ノ時、此所ニ屋敦アリテ訴訟ヲ聞キ、罪人ヲ刑罪スル故ニ云トナリ。俗ニ云、西行鎌倉ニ來リ、此橋ニスル故ニ西行橋ト云ト也。左介谷ヨリ流出ル川ニ渡セル橋ナリ。
[やぶちゃん注:「踟蹰」は「ちちゆう(ちちゅう)」で、進むのをためらうこと、ぐずぐずと立ち止まること、躊躇。但し、西行が頼朝の行列と逢ったのは鶴岡社頭で、この伝承は「裁許」の「さいきよ(さいきょ)」の音から生じた誤説である。]
天 狗 堂
無量寺谷ノ南ノ出崎ノ山ヲ云。芝山ニテ樹木ナク見スキクル山ナリ、昔此所ニ愛宕堂有ト也。今ハ礎計アリ。
七觀音谷
天狗堂ノ西ノ谷ナリ。
飢 渇(ケカチ) 畠
裁許橋ノ南、七觀音ノ東ノ道際ナリ。此所昔ヨリ刑罰場ニテ、今モ人ヲサラシ、成敗スル地ナリ。作毛ナラザル故ニ、飢渇畠ト云トナン。
[やぶちゃん注:「今モ」とするのは意外である。光圀の頃にても、一種の私刑のようにそうした晒しが行われていたものか。]
笹 目 谷
七觀音ヨリ西南ノ谷也。コヽニ昔法然ノ弟子隆觀、長樂寺ト云寺アリテ住セシト也。武藏守平經時、寛元四年閏四月朔日ニ卒シ、二日ニ此山ノ麓ニ葬ト云。此所マデ小町ノ内ナリ。是地小町ト長谷トノ境也ト。
塔 辻
笹目谷ノ南端ニ多クアル塔也。事ハ前ノ塔ノ辻ノ所ニ見へタリ。
盛久首座
笹目谷ノ南ノ方、海道ヨリ北ノ瑞ニ荒地、方六七尺計、畠ノ端ヲ取殘シテアリ。
甘繩明神
笹目谷ノ西、長谷觀音へ行ク海道ノ北ノ谷ニ茂林アル所也。藤九郎盛長ガ舊跡也。御靈宮・長谷大佛・神明・左介谷・笹目谷・無量寺谷マデハ甘繩ノ内ナリ。東鑑ニ見エタリ。
意念殘る説の事
中山氏の人の小兒ありしが、出入もの吹けば音をなすびゐどろを與へけるを、殊外歡びて鳴らしなどせしに、其日奧方里へまかれる迚、小兒を伴ひて親里へ至りし故、留守の淋敷を訪ひて予が知れる者至りしに、酒抔出し汲かはしけるが、押入の内にてびゐどろをふく音しける故、驚きて戸を明て見れば、晝小兒の貰ひしびいどろは紙に包て入れ有しが、音のすべき樣なしとて元のごとくなし置て戸を引置しに、又々暫く有て音のしける故、改見れば初にかはる事なし。去にても不思議也と思ひしに、右妻の親里より急使來りて、彼小兒はやくさにも有哉らん、引付て身まかりけるとや。
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。頑是ない子の霊が吹く愛玩の「びいどろ」の音(ね)――短いながら極めて印象的な上質真正の「音の怪談」である。私には「耳嚢」の中の怪談でも頗る附きで、忘れ難い一話である。されば原本の雰囲気を残したいので、一切ルビを振らなかった。今回のみ、注で読みを示しておく。
・「中山氏」不詳。先行巻には現われない。
・「出入もの」出入(でい)る者。
・「びゐどろ」鈴木氏の注は音が聴こえる。『ポンピン、またはポペン、ポコンポコンと称する玩具。ガラスの瓶の底を薄く作り、口にあてて息を出入させるとポンピンと音がするもの』。You Tube のヴィデオで聴ける(和の玩具を紹介なさるという、この画像……たまたま見つけただけなのだが……しかし……この吹いている女性……何というか、飛び気味のライティングによる妙に白い「頬」……情感に乏しい眼付きと言葉遣い……本話の怪奇とは別の……彼女には失礼乍ら……妙にどこか妖しい印象のお方では……ある……まあ、ここに配するのも……悪くはない……な……)。
・「迚」とて。
・「淋敷」さびしき。
・「予が知れる者至りしに」底本は「予が知れる者に來りしに」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の当該部を採用した。底本の「に來」は、書写した者が誤って判読した可能性が窺える上に、文意が通らない。
・「汲かはしけるが」底本では「かはし」は「かわし」であるが、カリフォルニア大学バークレー校版で訂した。「汲」は「くみ」と訓じている。
・「明て」あけて。
・「なし置て戸を引置しに」なしおきてとをひきおきしに。
・「有て」ありて。
・「改見れば」あらためみれば。
・「初」はじめ。
・「かはる」底本「かわる」。カリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「去にても」さるにても。
・「也」なり。
・「彼」かの。
・「はやくさ」早草。特に頬が赤く腫れあがる症状を示す丹毒の異称。連鎖球菌(erysipelas:エリシペロス)に感染することで起こる皮膚の化膿性炎症。菌が皮膚の表皮基底層及び真皮浅層に侵入して炎症反応を起こしたもの(同菌が真皮深層及び皮下脂肪にまで入り込んで炎症を起こした場合は、現在は蜂窩織炎(ほうかしきえん)と呼んで区別する。即ち、丹毒とは皮膚の比較的浅い部分に発生した蜂窩織炎様のものと考えてよい。蜂窩織炎が下肢に多いのに比べると下肢の丹毒は少なく、また何れもリンパ球の浸潤が見られるが、丹毒は好中球が蜂窩織炎に比して著しく少ないことで識別出来る)。感染は術後の傷跡や局所的浮腫等が誘因として考えられ、年齢に関係なく罹患するが、特に児童・高齢者や免疫低下のある患者などが感染・発症し易い。症状は特異的な頬の腫れで、それに伴って高熱・悪寒・全身倦怠の症状が出現する。頬の腫脹部分は熱く、触れると痛みを伴うこともあり、水泡や出血を見る場合もある。この赤変腫脹は頬以外にも耳や眼の周囲・上肢・稀に下肢にも出現することがあり、同時に近くのリンパ節の腫脹し、痛みを伴う。現在はペニシリン系抗菌薬の内服又は注射によって凡そ一週間程度で表面の皮が剥離して治癒するが、放置した場合は敗血症・髄膜炎・腎炎などを合併し、重篤になる場合もある。なお、習慣性丹毒といって、菌を根治し切れないと同じ箇所に何度も再発するケースがあり、この場合は慢性のリンパ鬱滞が誘因となる(以上は信頼出来る複数の医療記載を勘案して作成した)。この子の場合、前駆症状の記載がなく、急性増悪から致死に至っており、もしかすると習慣性丹毒であったものを、油断していた可能性も考えられよう。
・「有哉らん」あるやらん。
・「引付て」ひきつけを起こして。「ひきつけ」は小児が起こす一時的・発作的全身性痙攣で、高熱などの際に見られる症状である。
■やぶちゃん現代語訳
意念が残るという如何にも哀れなる話の事
中山氏と申される御仁に一子(いっし)が御座った。
ある日の朝、中山家に出入りして御座った者が、この子(こお)に、息を吹き入るれば涼やかな音(ね)をなす、かのビイドロをやった。
子(こお)は、たいそう喜んで、
――ポコン
――ポンピン
――ポペン
――ポコンポコン
と、これを鳴らいては、如何にも嬉しそうに遊んで御座った。……
――ポコンポコン
――ポンピン
――ポコン
――ポコペン……
その日の午後、中山殿が奥方は、用あって里方へ罷(まか)るとて、この子(こお)を伴(ともの)うて、親里へと発(た)って御座った。……
その留守居の淋しきを見舞わんと――これ、拙者の知れる知人で御座ったが、暮れ方、中山殿を訪ねて御座った。
さても、気の置けぬ仲なれば、茶の間にて、二人して酒なんど酌み交わして御座ったところ、……
――ポペン
……と……
……近くの押入内より……
……これ……
……確かに……
……ビイドロを吹く、音(ねえ)がした。……
驚いて戸を開けてみれば、その日の昼つ方に子(こお)の貰(もろ)うた――しきりに吹いては喜んで御座った――かのビイドロは、紙に包みて、入れ置かれて御座った。
中山殿は、それを手に取って開いて、よう調べては見たが、
「……いや……音など致すはずは、これ、ない……」
と、元通りにしまい置いて、押入の戸(とお)を、閉めた。
……と……
……暫く致いて……
……また……
――ポコペン
……と……
……ビイドロが……
……鳴った。……
今度は即座に襖引き開け、包みを解いて仔細に閲(けみ)して御座ったものの、これ、やはり元通りにて、何の変わったことも、御座ない。
「……それにしても……不思議なことじゃ……」
と、二人してまた酒を汲み交わしつつも、これ、何とのう、二人ともに黙(もだ)しがちとなって御座った。……
――と!
――妻の里より急使の来たって、中山殿へと告げたことには――
――かの子(こお)――丹毒様(よう)のものに罹患致いたものか――ひきつけを起こして――これ――身罷ったとの――ことで御座った…………
――ポペン…………
十八
我鬼先生枯坐處
松風明月共蒼々
何知老魔窺禪室
一夜乍來脂粉香
〇やぶちゃん訓読
我鬼先生 枯坐する處
松風明月 共に蒼々
何ぞ知らん 老魔 禪室を窺(うかが)ひ
一夜 乍(たちま)ち來たる 脂粉の香(か)
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。前々月の大正九(一九二〇)年一月二十八日には第四作品集「影燈籠」を出版している。「蜜柑」「沼地」「尾生の信」「疑惑」「魔術」等、歴史物から離れて新境地を開こうとする野心作が並ぶものの、彼自身が自覚的に創作の停滞的状況と評した、マンネリズムに陥っているとされる作品集ではある(リンク先は私の電子テクスト)。更に、この前年の六月に龍之介は「愁人」秀しげ子と邂逅、九月には不倫関係に陥っている(が、この頃には早くも、彼女の独特の性格が既に龍之介を悩まし始めており、龍之介の中に「狂人の娘」(「或阿呆の一生」)という至る嫌悪の萌芽が、既に芽生えていたと私は推定している)。また、この詩が載る書簡の前日の三月二日には日本女子大学の学生で女流作家を夢見ていた森幸枝なる人物からの面談懇請に許可の手紙を書いており(この時は彼女を実見していないが、龍之介好みの美人であったという関係者の証言があり、この直後に来訪、頻繁に訪ね来るようになって龍之介から教授を受けるようになった。かなり個性的な女性であったやに聞き及んでいる)、更にこの前後に、「秋」の執筆情報を得たいという名目で、文から紹介された文の幼馴染み平松麻素子(ますこ)との交際が始まっている(龍之介が、この麻素子と自死の三ヶ月ほど前の昭和二(一九二七)年四月に帝国ホテルで心中未遂を起こしていることは知られた事実である)。私が何故、くだくだしい女性関係をここに記すかは、言うまでもあるまい……私には転句の「老魔」と結句の「脂粉の香」が、それらの龍之介に近づいて来る女人たちの体臭と混じり合った香水や白粉として、確かにリアルに匂って来るからである……。
本詩は大正九(一九二〇)年三月三日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六五八)に所載する。小島政二郎(明治二七(一八九四)年~平成六(一九九四)年)は、小説家で、龍門の四天王の一人。その葉書の冒頭には、
島秀才示於予香奩體和歌二首卽戲答見贈
とあって、詩が示され、次行下部に、
一笑一笑
とある。前書は訓読すると、
島秀才、予に香奩體(かうれんたい)和歌二首を示す、卽ち、戲れに答見して贈る。
である。この「島秀才」は小島の尊称。「香奩體」は中国の詩風の一体で、主に後宮の婦人や深窓の閨媛などを詠んだ艶麗・艶情・媚態・閨怨を主題とした官能的なものをいう。晩唐の詩人韓渥(かんあく)は、官能的な艶美の詩が得意で、そうした艶体の詩ばかりを集めた彼の詩集「香奩集」三巻が評判を呼び、後に「香奩体」という詩体の呼称になったものである。同大正九年十一月に発表した「漢文漢詩の面白味」を読むと、龍之介自身がこの香奩体自体に興味を持っていたことが窺われる(リンク先は私の電子テクスト)。「答見」は「(和歌を)見て、その答えとして漢詩を詠み」の意であろう。「老魔」は「老獪なる魔」の意である。]
二十八
又云、善導の御釋(おんしやく)を拜見するに、源空が目には、三心四修(さんじんししゆ)皆共に、南無あみだ佛と見ゆるなり。
〇法然上人云、是は口傳あることなり。
[やぶちゃん注:大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、この一条は国宝「法然上人行所絵図」の第二十一の外、複数の法然の叙述に現われることが詳述されている。注にある「口傳」とは奥義を伝えた文書や書物、秘伝書の謂いで、これらの文書のこと指していよう。
「御釋」国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元(一六四八)年林甚右衛門板行版「一言芳談抄」二巻本現物画像では「尺」である。底本Ⅰに準じた。これは善導が撰述した「仏説観無量寿経」の注釈書である「観無量寿経疏」(かんむりょうじゅきょうしょ)を指す。
「源空」は法然自身の諱。因みに法然は房号である。
「三心四修」「三心」は、念仏信仰で浄土に生れるための至誠心・深心(しんじん)・回向発願心(えこうほつがんしん)の三つの信心(安心(あんじん)とも)を指す。「至誠心」とは誠心を以って素直に阿弥陀仏の「誠心」を受け止める心、「深心」は己の凡夫たることを知り(機の信心)、弥陀の四十八誓願の教えを深く信ずること(法の信心)。「回向発願心」は以上を得て、阿弥陀仏と向き合って自らの極楽往生への願を発すること。次の「四修」とは恭敬修(くぎょうしゅ)・無余修(むよしゅ)・無間修(むけんしゅ)・長時修(ぢょうじしゅ)という念仏の正しい称え方や保ち方を指す。「恭敬修」は恭しく敬った心を持って、「無余修」は雑念をなくして、「無間修」何時でも何処でも、「長時修」は生涯かけて、念仏を修せよとの謂いである(大阪府高槻市の浄土宗光松寺(こうしょうじ)のHPにある「仏教質問箱」の記載を参考にさせて戴いた)。
「法然上人云」Ⅰでは組み直されて「念佛」のパートに離れて出るため、名前が出ている(以降は同様のケースがあっても煩瑣なので原則、省略する)。]
本話を以って「北條九代記」巻第一を終了する。
*
○右大將賴朝卿薨去
同年七月に稻毛(いなげの)三郎重成が妻、武藏國にして日比心地惱みしを、様々醫療するにその效(しるし)なく遂に卒去せしかば、重成別離の悲みに堪かね忽に出家す。この女房は北絛遠江守時政の娘にて、賴朝卿の御臺政子の妹なり。同九年十二月稲毛重成亡妻の追福の爲、相摸川の橋供養を營む。右大將賴朝卿結緣(けちえん)の爲に行向ひ、御歸の道にして八的原(やまとはら)に掛りて、義經、行家が怨靈を見給ふ。稻村崎(いなむらがさき)にして安德天皇の御靈(ごりやう)現形(げぎやう)し給ふ。是を見奉りて忽に身心昏倒し、馬上より落ち給ふ。供奉の人々助起(たすけおこ)し參らせ、御館(みたち)に入り給ひ、逡に御病(おんやまひ)に罹り、樣々の御祈禱、醫療手段(てだて)を盡(つく)すといへども、更に寸効(すんかう)なし。年既に暮(くれ)て、新玉(あらたま)の春を迎へ、正治元年正月十一日征夷大將軍正二位前大納言右大將源賴朝卿病惱(びやうなう)に依(よつ)て出家し、同じき十三日逐に逝去し給ふ。歳五十三。治承四年より今年まで世を治ること二十年なり。一旦無常の嵐に誘(さそは)れ、有待(うたい)の命を盡し給ふ。内外(うちと)の歎(なげき)言ふ計(ばかり)なし。御臺所平政子この悲みに堪難(たへがた)く、髪を下(おろ)して尼になり御菩提(ごぼだい)を弔(とぶら)ひ奉り給ふ。哀なりける事共なり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」は欠損し、諸説入り乱れる頼朝の死のパートであるが、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、本話は、
①稲毛重成が妻の死により出家する。
「吾妻鏡」巻十五の建久六(一一九五)年七月四日の条
②頼朝がこの重成亡妻鎮魂の橋供養の帰途、義経・行家・安徳帝の怨霊を見て卒倒して落馬、逝去に至る。
「日本王代一覧」巻五
「保暦間記」巻一の建久九(一一九八)年十二月の条その他
「吾妻鏡」巻二十の建暦二(一二一二)年二月二十八日の条
「将軍記」巻一の建久九年十二月の条
を元にしており、
怨霊が現れ、頼朝が身心昏倒した話は「吾妻鏡」「将軍記」にはなく、「保暦間記」に拠る。また死去については、「日本王代一覧」に拠る。
とされている(鍵括弧を変更した)。「日本王代一覧」は慶安五(一六五二)年に成立した、若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより林羅山の息子林鵞峯によって編集された歴史書。神武天皇から正親町天皇(在位一五五七年~一五八六年)までを記す(ウィキの「日本王代一覧」に拠る)。「保暦間記」は南北朝時代に成立した歴史書。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を研究する上での基本史料で、成立は一四世紀半ばで延文元(一三五六)年以前。作者は不明であるが、南北朝時代の足利方の武士と推定されている(ウィキの「保暦間記」に拠る)。
頼朝の死因についてはウィキの「源頼朝」に、『各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致しているが、その原因は定まっていない。吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しない』として、落馬説・尿崩症説・糖尿病説・溺死説・亡霊説・暗殺説・誤認殺傷説の七説を挙げて解説しているが、その内、現実的な可能性が高いと認められる幾つかを見たい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。まず人口に膾炙する「落馬説」については、
『建久九年(一一九八年)重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが吾妻鏡に記された死因であり、最も良く知られた説である。その死因が吾妻鏡に登場するのは、頼朝の死から十三年も後の事であり、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいうが、吾妻鏡には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる。落馬から死去まで十七日ある事から、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性がある』。
とする。次にこれに関連した、「尿崩症説」では、
『落馬で脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない十二世紀では死に至る可能性が高い』。
とあり、これは落馬の事実があったとすれば、かなり説得力があるようにも思われる(但し、余程、運の悪い落馬の仕方、武士として不名誉なそれでもあったことになるが)。次に「亡霊説」に、
『意識障害があったと捉えることもできる』。
とあって、これも落馬による頭部打撲との関連を認めることが出来る、若しくは、脳卒中など脳血管障害の発作が、周囲の者から見ると、本文にあるような連中の霊の出現を見たかのような印象を受けた(当日の光学的な自然現象とシンクロして)、としてもおかしくはない。
『愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする』「誤認殺傷説」は、頼朝が女装して女のもとに忍んで行こうとしたのを、警固の安達盛長によって誤って斬られたという説である。これは一見、頼朝が手に負えない女好きであった事実と照らし合わせると、情けなくも不本意にして、事実なら隠蔽必須な如何にもゴシップ好きが飛びつきそうな説であるが、その如何にもな狂言染みた「真相はこれだ!」的筋立て(実際に真山青果の戯曲「頼朝の死」(初演は「傀儡船(くぐつぶね)」)などはそれ。但し、そこでは誤殺者は畠山重保になっている)で、当時六十四になっていた頼朝流人時代からの直参が「警固―誤認―殺傷完遂」というのは、これ、残念ながら如何にも無理がある。
「同年七月に稻毛三郎重成が妻、武藏國にして日比心地惱みしを、様々醫療するにその效なく遂に卒去せしかば、重成別離の悲みに堪かね忽に出家す」重成妻の逝去と重成出家は建久六(一一九五)年七月四日。
「稻毛三郎重成」(?~元久二(一二〇五)年)は桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国橘樹郡(たちばなのこおり))を安堵されて枡形山に枡形城(現在の生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。この後、元久二(一二〇五)年六月二二日の畠山重忠の乱によって重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したとされ、翌二三日には殺害されている(ウィキの「稻毛重成」に拠る)。
「八的原」ウィキの、神奈川県藤沢市南部の荒野を指す古地名で、鎌倉時代からの歌枕として知られ、幕末には歌舞伎の科白にも出てくることから知られるようになったという「砥上ヶ原」の記載に(アラビア数字を漢数字に代えた)、『砥上ヶ原の範囲については諸説がある。相模国高座郡南部の「湘南砂丘地帯」と呼ばれる海岸平野を指し、東境は鎌倉郡との郡境をなしていた境川(往古は固瀬川、現在も下流部を片瀬川と呼ぶ)であることは共通する。西境については、相模川までとするものと引地川までとする二説が代表的である。前者は連歌師、谷宗牧が一五四四年(天文一三年)著した『東国紀行』に「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」とあるのが根拠とされる。一方、後者は引地川以西の原を指す古地名に八松ヶ原(やつまつがはら)あるいは八的ヶ原があり、しばしば砥上ヶ原と八松ヶ原が併記されていることによる。後者の説を採るならば、砥上ヶ原の範囲は往古の鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼地区の範囲とほぼ一致する』とあるから、現在の辻堂辺りを比定出来る。]
荒井闇魔
濱ヨリ少シ北ニ堂アリ、運慶頓死シ、地獄ニテ直ニ間魔王ヲ見、蘇生シテ作タル像ナリ。倶生神・三途河ノ姥、同作也。今按ニ是浮屠ノ邪説ナルコト明ケシ。佛法本朝ニ入ラザル前ニ、死シテ再ビ生ル者アレドモ十王ヲ見タル者ナシ。欽明帝以後、蘇生ノ者或ハ十王ヲ見ズト云者多シ。是本其ナキコトヲ知べシ。誠ニ司馬温公ノ格言思ヒ合セ侍リヌ。運慶ガ見タルコトハ左モ有べシ乎。邪説ニ淫シテ居ルガ故也。其外破レタル古佛多シ。堂ノ内ニ圓應寺一額アリ。別當山伏寶藏院ト云。
[やぶちゃん注:光圀は少なくとも十王思想、いや、その口調からは地獄思想そのものを全く信じていなかったことが分かる。「高譲味道根之命(たかゆずるうましみちねのみこと)」という神号を持つ神道家だからね。]
景政石塔
由比濱ノ北ニ小ナル塔アリ。目疾ヲ患ル者、是ニ祈リテ驗アリト云。
[やぶちゃん注:未確認であるが、ネット上の情報では江戸時代の鎌倉絵地図には材木座辺りに「けいせいとう」(影政塔か)という名の石塔があったとある(現存しない)。その内、図書館で調べてみようと思う。]
下 若 宮
裸地藏ノ東南ノ濱ニアリ。悉ハ鶴岳ノ條ニ見へタリ。
[やぶちゃん注:由比の若宮であるが、「濱」とあり、当時、如何にこの辺りの海岸線が現在よりも後退(貫入)していたかが、よく分かる描写である。
「裸地藏」次項の現在の材木座一丁目にある延命寺のこと。
「悉ハ」は「委ハ」の誤りで「くはしくは」と読む。]
裸 地 藏
中ノ石ノ華表ノ東ニアリ。延命寺ト云。淨土宗安養院ノ末寺ナリ。立像ニテ雙六局ヲフマヘタリ。廚子ニ入、衣ヲ着セテアリ。參詣ノ人アレバ裸ニシテ拜マシムル也。常ノ地藏ニテ女體也。
昔景明寺時賴、其婦人ト雙六ノ勝負ヲ爭ヒ、裸ニ成ン事ヲ賭ニシケリ。婦人負テ此地藏ヲ念ジケルニ、忽女體ト變ジ、局上ニ立ト也。吁浮屠ノ人ヲ欺ク、カヽル邪説ヲナセリ。此等ノ事ハ彼教ニモ有マジキ事也。無禮ノ甚キ禽獸ニ等キ者也。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」の「延命寺」でも、『參詣の人に裸にして見するなり。常の地藏にて、女根(ニヨコン)を作り付たり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六を爭ひ、互ひに裸にならんことを賭(カケモノ)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(バン)の上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總(ソウ)じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲の佛を、何ぞ猥褻の體(テイ)に作るべけんや』と怒り捲くっていたのは、成程! 黄門さま自身が、憤激して許せなかったからなのね!]
畠山石塔
大鳥居ノ西ノ柱ノ側ニアリ。明德二年、比丘道友ト刻テアリ。文字分明ナラズ。畠山六郎ガ爲ニ後ニ立タルカ不審(イブカシ)。
[やぶちゃん注:この部分、日記であるために改行なく続くが、敢えて空行を挟んだ。]
鳥居ノ間ノ道ヲ、ビハ小路ダンカヅラト云也。遂ニ雪下へ入ル。八幡ノ西ノ出サキノ山、日金山ノ西ヲ冑(カブト)山ト云ナリ。薄暮ニシテ旅寓ニ歸リヌ。
堪忍工夫の事
或老巧の人、予が若かりし時教戒しけるは、男子人と交るに、大勢の内には其(その)身を不知(しらざる)愚昧も多く、跡先知らぬ血氣者も有りて、人前にて人を恥しめ不法不禮をなす者も有り、かゝる時は身命(しんみやう)も不顧(かへりみざる)程憤りをも生ずるもの也、しかあれど兼て君に捧げ置(おく)身命を私の憤りに果すは不忠の第一也、又父母の遺體をなんぞ一朝の戲(たはむれ)同樣成(なる)事に捨(すて)ん事、不孝の第一也。されど憤りはげしければ其心附(こころづき)もなき者也(なり)、其時は右惡口不法をなす者を能々考見(かんがへみる)べし、身を不知(しらざる)大馬鹿大たわけ也、かゝる馬鹿たわけと身を果さん彌々(いよいよ)たわけ成(なる)べしとはやく決斷なせば、憤りも生ぜず堪忍もなるもの也と語りしが、實(げに)も格言なりと今に思ひ出す也。
□やぶちゃん注
○前項連関:これはもう、前項の個別事例から帰納した原理の提示である。
・「父母の遺體」父母から受けたこの体、自分の身体のことである。
■やぶちゃん現代語訳
堪忍の工夫の事
私が若かりし頃、とある老練なる御仁が教えて下されたことに、
「――男子たるもの、人と交わるに、その大勢の内には、身の程も知らぬ愚か者も、これ、多く、後先(あとさき)どうなるかも慮(おもんぱか)ることの出来ぬ血気盛んなばかりが取り柄の者もこれあって、また、人前にて他人を辱め、不法無礼をなす者どもも、これ、おるものじゃ。……
……そういう連中と、拠無(よんどころの)う交わってしもうた折りには、これ、身命(しんみょう)を顧みる余裕もなきほどに憤りを感ずるものでは、ある。……
……そうは申してもじゃ……よいか?
――かねてより主君に捧げおける己(おの)が身命――これを「私(わたくし)」の憤り如きがために、果つるというは、これ、不忠の第一じゃ。……
――また、父母より受けた有り難いこの体を――なんぞ、一時(いっとき)の戯れ同様の下らぬことに捨てんとするも、これ、不孝の第一じゃ。……
……されど……憤りが激しければ激しいほどに……そのような落ち着いた見極めや心遣いも、これ、出来んようになる。……
……そういう折りには……よいか?
――その悪口、その無法をなす者を、よーうく、見、よーうく、考えるが、よい。……
――『そういう輩は、身の程を知らぬ大馬鹿、大戯(おおたわ)けじゃ!』
――『そうした馬鹿やたわけがために、我らが大事の身を、これ、果つることは――これ、そ奴よりも遙かに――いよいよ! 大々たわけじゃ!』
……ということ、これ、早々に知り遂(おお)せばの……憤りも生ぜず……堪忍出来ようと、いうもの、じゃて。……」
との話にて御座った。
全く以って正しき格言であると、私は今もしばしばそれを思い出すのである。
一 色の僞り
[樹皮に似た蛾]
動物の色が、その生活する場所の色と同じいために頗る紛らはしい例は、殆ど際限なくある。綠色の「いなご」が綠色の稻の葉に止まつて居るとき、黄色い胡蝶が黄色い菜の花に休んで居るとき、土色の雀が土の上に下りて居るとき、鼠色の蛾が鼠色の樹の幹に留まつて居るときなど、いづれも餘程注意せぬと見落し易い。また潮干に海へ行つて見ると、淺い底の砂の上に「かれい」・「こち」・「はぜ」・「かに」などが居るが、いづれも砂色で砂のやうな斑紋があるので、靜止して居ると少しも見えぬ。それ故、ときどき知らずに「がざみ」などを蹈んで、急に匍ひ出されて大いに喫驚(びつくり)することがある。アジヤ・アフリカ等の廣い砂漠に住む動物は獅子・「らくだ」・「かもしか」〔アンテロープ〕などの大きな獸から鼠・小鳥などに至るまで、さまざまの種類の異なつた動物が、殘らず淡褐色の砂漠色を呈して居る。これと同樣に年中雪の絶えぬ北極地方へ行くと、狐でも熊でも全身純白で雪の中では殆ど見別が附かぬ。
[やぶちゃん注:「鼠色の蛾が鼠色の樹の幹にと留まつて居る」挿絵がそれであるが、絵の方はチョウ目スズメガ科
Sphingidae スズメガ亜科 Sphinginae の仲間であろうか。おや? この“Sphingi”はラテン語の“sphīnx”(スフィンクス)の女性形“Sphīngis”じゃねえか? なるほど! スフィンクスたぁ、翼のある怪物だぁな! 目から蛾!
「こち」これは生物学的には甚だ困った呼称で、「コチ」(鯒)は、『上から押し潰されたような扁平な体と比較的大きな鰭を持った、海底に腹這いになっていることが多い(従ってベントス食性であるものが多い)海水魚を総称する』語で、参照したウィキの「コチ」によれば、どれも外見は似ているが、目のレベルでは異なる二つの分類群から構成される、とする。但し、丘先生がここに「こち」を用いるのは極めて正しく、この種によっては全く縁遠い俗称群でありながら、『腹側は白っぽいが、背中側の体色は周囲の環境に合わせた保護色となっている』点で「色の僞り」に相応しい生物群であることに変わりはないのである。まず大きな「コチ」群は、カサゴ目コチ亜目Platycephaloidei に含まれる。
カサゴ目コチ亜目
アカゴチ科 Bembridae
ウバゴチ科 Parabembridae
ヒメキチジ科 Plectrogehiidae
コチ科 Platycephalidae(代表種で真正和名とも言える本邦近海産のマゴチ Platycephalus sp. はここに含まれる)
ハリゴチ科 Hoplichthyidae
なお、マゴチの学名が“sp.”となっているのは複数存在するからでは、ない。ウィキの「マゴチ」によれば、これは最近まで『奄美大島以南の太平洋、インド洋、地中海に分布する
Platycephalus indicus と同一種とされていたが、研究が進み別種とされるようになった。ただし、まだ学名が決まっていないので、学名は"Platycephalus sp.
"( コチ属の一種)という表現が』なされているためである。属名“Platycephalus”は“Platys”(平たい)+“kephalē”(頭)の意である。
もう一つの「コチ」群は、スズキ目ネズッポ亜目 Callionymoideiに属するもので、
ネズッポ科 Callionymidae
イナカヌメリ科 Draconettidae
釣り人が「メゴチ(女鯒)」と称するのは、圧倒的にこのネズッポ科ネズミゴチ(鼠鯒)Repomucenus richardsonii であるが、天麩羅にして旨い「コチ」はこれであったり、先のカサゴ目コチ科メゴチ
Suggrundus
meerdervoortiiであったりする(「メゴチ」という標準和名は後者に与えられている)ので、ややこしや、である(但し、生体ならばネズミゴチなどのネズッポ類は体表が粘液に覆われていること、下向きのおちょぼ口で有意に小さいこと、頭部の骨板がないこと、鰓蓋に太い棘があることで全くの別種であることは容易に分かる)。魚の一般人の分類への関心が低い欧米では“gurnard”と呼び、コチ亜目ホウボウ科ホウボウ Chelidonichthys spinosus と一緒くたになってさえいるのである。
「はぜ」条鰭綱スズキ目ハゼ亜目
Gobioidei に分類される魚の総称。漢字では「鯊」「沙魚 」「蝦虎魚」など書く。ウィキの「ハゼ」によれば、『運動能力の低い底生魚ゆえ、体色は砂底や岩の色に合わせた保護色となっているものが多い。ただし温暖な海にはキヌバリ、イトヒキハゼ、ハタタテハゼなど派手な体色をもったハゼも生息する。シロウオなど透明な体色のものもいる』とある。丘先生のイメージしておられる可能性が最も高いと思われるのはゴビオネルス亜科マハゼ
Acanthogobius flavimanus であろう。属名“Acanthogobius”はギリシャ語の“akantha”(棘)+“gobius”(ラテン語の「ハゼ」、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」では、所謂、利用価値のない雑魚の類いを意味するギリシア語“kōbios”から派生したラテン語“gobio”による、とされる)で、種小名の“flavimanus”はラテン語の“flavus”(黄色い)+“manus”(手)で、鰭の辺縁部に黄色を呈することに由来するものと思われる。
「がざみ」甲殻綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目ワタリガニ科ガザミ
Portunus trituberculatus。「ワタリガニ」という別名でもよく知られる。属名“Portunus”はローマの港や門の神ポルトゥヌス、種小名は“tri-”(三つの)+“tuberculum”(突出するもの)で、本種の前額部にある三棘の突起に由来するものと思われる。
「かもしか〔アンテロープ〕」かく本文注記で示したように、この呼称には注意を要する。まず、
「カモシカ」という語は現在、広義には哺乳綱獣亜綱偶蹄(ウシ)目反芻(ウシ)亜目ウシ科ヤギ亜科に属するヤギ族以外のサイガ族・シャモア族・ジャコウウシ族の三族を総称し、我々に馴染みの深いカモシカ属ニホンカモシカ
Capricornis crispus など八属十種で構成される生物群(シカの名が入っているものの、シカの属するシカ科ではなく、ウシやヤギと同じウシ科に属する。従ってシカとは違ってウシ科のほかの種同様、角は枝分かれせず、生えかわりもない)を指す
が、ここで丘先生は
「アジヤ・アフリカ等の廣い砂漠に住む」
と規定されており、これは
現在のレイヨウ(羚羊)又はアンテロープ“Antelope”を指していると考えるのが妥当である
ように思われる。そうして大事な点は、後述するように
現在はこれらを「かもしか」とは呼称しない
という点である。以下参照したウィキの「レイヨウ」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、段落を省略、記号の一部を改変した。下線部はやぶちゃん)。『ウシ科の大部分の種を含むグループ。分類学的にはおおよそ、ウシ科からウシ族とヤギ亜科を除いた残りに相当し、ウシ科の約一三〇種のうち約九〇種が含まれる。「レイヨウ」は分類群ではない。レイヨウと呼ばれる生物は、ウシ科の多くの亜科(ヤギ亜科以外の全て)に分かれて存在する。多くはレイヨウ同士より、それぞれがウシかヤギにより近い関係にある。多くの異なる種があり、大きさも、小型のものから非常に大型化する種まで、さまざまである。古くは「カモシカ」と呼ばれることもあった。「カモシカのような足」というときの「カモシカ」は、本来はレイヨウのことである。しかし現在いうカモシカはヤギ亜科に含まれ、レイヨウには含まれない。なお、レイヨウの亜科のひとつにアンテロープ亜科(ブラックバック亜科)があるが、このアンテロープはAntelopeではなく、模式のブラックバック属 Antilope のことである。アンテロープ亜科はアンテロープの中の一亜科であり、オリックス、インパラなど代表的なレイヨウの多くが別亜科である。アンテロープ共通の特徴は、基本的に、ウシ科共通の特徴にほぼ一致する。つまり、生え変わりや枝分かれのない中空の一対の角、草食、小さい二股の蹄、短い尾などである。ウシ科全体の特徴ではないアンテロープの特徴としては、家畜種が含まれない、主にアフリカに生息する、などがある。また、ウシ族はウシ科で最大級の種も含まれる大型種のグループであり、ヤギ亜科は小型ながらも頑丈な四肢を持つが、それらに対しレイヨウは、軽量で優雅な姿をし、細身で、優美な前後脚を持っている。多くのレイヨウには強力な大腿四頭筋があり、驚くとまるで巨大なウサギが地上で弾んでいるかのように、この筋力による独特の跳躍ストライドで走る。いくつかの種では、この跳躍は時速一〇〇キロメートルに達し(チーターの一〇〇~時速一一五
キロメートルに匹敵し、しかも持久力では勝る)、陸上で最速の生き物の一つでもある。』また、文化史的記述として、『レイヨウの角は、多くの地域で医学と魔術の象徴として尊重される。
コンゴでは、魂を閉じ込めると考えられる。 キリスト教のイコン解釈学は、キリスト教徒が持っている二本の霊的な武器(旧約聖書と新約聖書)のシンボルとして、レイヨウの二個の角を使用することがある。また、レイヨウの速く走る能力は、風を連想させる。例としては、「リグ・ヴェーダ」におけるマルトの軍馬と風の神ヴァーユなどである』とある。なお、“Antelope”(アンテロープ)の語源について、荒俣宏氏は「世界大博物図鑑5 哺乳類」のアンテロープに似たウシ科プロングホーン亜科の「プロングホーン」の項で、キュヴィエによれば、“Antelope”という名はギリシア語の“anthos”(花)+“ops”(目)に由来し、恐らくはアンテロープの美しい目に因んだ名称だという、とある。――これで美しく注を終えることが出来た。]
祈請は叶った――本日、0時0分を以って「芥川龍之介漢詩全集」の穀断ちを止めて再開する。
*
十七
鼎茶銷午夢
薄酒喚春愁
杳渺孤山路
風花似舊不
〇やぶちゃん訓読
鼎茶(ていちや) 午夢(ごむ)を銷(つく)し
薄酒 春愁を喚(よ)ぶ
杳渺(えうべう)たり 孤山の路
風花(ふうくわ) 舊に似るや不(いな)や
[やぶちゃん注:龍之介満二十五から二十七歳頃の作(推定)。
龍之介の遺稿として発見された手帳の一つ「我鬼句抄」に所載。
手帳「我鬼句抄」は、全集後記によれば、罫紙(又は半紙の何れか)を自分で綴じて作った古風な手帳に毛筆で書かれたものである(現在、所在不明)。旧全集は記載内容から末尾に編者によって『大正六年―大正八年』と記されてある。なお、本詩は全く同じものが、やはり同様の手帳である短歌・俳句を書き込んだ「蕩々帖」にも最後にぽつんとこの漢詩が記されている。この「蕩々帖」(同じく現在、所在不明)の方は末尾に岩波版旧全集編者によって『大正九年―大正十一年』と記されてある。この推定年代が正しいとするなら、龍之介はこの詩を四年以上の間をあけて、別な手帳に再度記していることになり、彼がある種の愛着を持った詩であったと考えてよいと思われる。
・「鼎茶」は茶を煮るための道具で、ここは茶を立てることを指す。
・「杳渺」邱氏の注に『奥深く遠い様子』とある。
・「銷(つく)し」通常は「けす」と訓ずるところだが、夢を貪る、夢を喰らい尽くす、の意で、かく訓じた。
・「風花」風に吹かれる花であるが、視認する景色や景観を言う。
この詩は流石の私でも、王維の「雜詩三首」の第二首の転結句をインスパイアしたものであろうことが類推される。
君自故郷來
應知故郷事
來日綺牕前
寒梅着花未
君 故郷より來たる
應に 故郷のことを知るべし
來日(らいじつ) 綺牕(きそう)の前
寒梅 花をつけしや未だしや
「綺牕」美しく飾った、私の愛する妻の部屋の窓。
なお、本詩を訓読した筑摩書房全集類聚版では、起承句は和訓を利かせて、
鼎茶(ていちや)は銷(とか)す午(ひる)の夢
薄酒は喚(よば)はる春の愁ひ
杳渺(えうべう)たり 孤山の路
風花(ふうくわ) 舊に似るや不(いな)や
と訓読している。魅力的ではあるが、転結句とのバランスが悪いように思われるので、採らない。]
祈請は叶った――本日、0時0分を以って「一言芳談」の穀断ちを止めて再開する。
*
二十七
法然上人云、一念を不定(ふぢやう)に思ふは、念々の念佛ごとに、不信の念佛になる也。其故は、阿彌陀佛は一念に一度の往生をあてをき玉へる願なれば、念ごとに往生の業(ごふ)となるなり。
〇一念に一度の往生、願成就の文に乃至一念とあり。二こゑにおよばずして氣(いき)たえたらんものも生まるゝ本願なれば、一念に一度往生の德あるなり。
[やぶちゃん注:大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、この一条は国宝「法然上人行所絵図」の第二十一所収の「上人つねに仰せられける御詞」に見える法語とある。因みに、この部分には実に本『「一言芳談」に見えるもの十一カ条が収録されている』とある。本作の中の十一条は実に全体の十八%を占める。
「業」は本来的にはカルマ、人の身・口・意によって行われる善悪の行為若しくは前世の善悪の行為によって現世で受ける報い言うフラットな意味であるが、日本では古くから「業が深い」という言い方で、「業」は「悪業(あくごう)」の意、専ら理性によって制御出来ない心の働きという意味で用いられることの方が多い。なお、フラットな意味にあっても人が現実世界で行う意志や意識の現実形成の作用とも同一視されており、「良き意志」「良き行為」を心掛けることが勧められる一方、実はより究極的に於いては煩悩を滅し、善悪を乗り越えることで、一切の「業」を作らないことこそが理想とされ、それが「業を滅する」等の謂いとなっていると私は考える。さすれば、この部分について、大橋氏が
『なぜなら阿弥陀仏は一声一声の念仏に一度ずつの往生を約束されている本願ですから、一声一声念仏をとなえるごとに往生のはたらきとなるのです。』
と訳されておられるのには違和感を持つ。勿論、この大橋氏の「はたらき」とは「カルマ」の原初的なフラットな謂いが込められているのであろうが、この第一文は明らかに「『たった一度きりの念仏を唱えただけで本当に往生出来るのかどうかと不安に思う』ということは、これ、一声一声の念仏がそれぞれ全く不信心な空念仏となってしまう。」であって、それに対して「其故は」と解している訳で、私は、
なぜそれが「不信心の念仏」となるのか――それは阿弥陀仏は――ただ一念――ただ一声――そのただ一度の瞬間――に対して、必往生を約束なされて誓われた本願なればこそ――『たった一度きりの念仏を唱えただけで本当に往生出来るのかどうかと不安に思う』心で念仏を唱えてしまうことは、まさしく、その業(ごう)を重ねてしまうことに他ならないからである。
と法然は述べているのだと思うのである。]
昨日、僕は実にスリリングな、そして素晴らしい一冊の本を入手した。
平嶋 義宏氏の「学名論―学名の研究とその作り方 」という本である。
僕は今まで諸テクストの注で生物の分類学タクソンの表示と「永遠に変わらぬ」学名を表記するだけで、満足してきた。しかし、実はその学名自体の「意味」を、僕は十全に理解していた訳ではなかった。確かに、幾つかの学名は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑」の叙述や、自身の探究で示したものもなかった訳ではない。しかし、その大半は、生物学的な不変の名という伝家の宝刀的規定に、どこかで胡坐をかき、甘んじていたに過ぎなったった。
記載する際に多くは、「何故、そう名乗るのか?」という素朴な疑問にさえ、僕はおぞましくも眼を瞑っていたのだった。
……僕はこれから、遠い昔、盟友から贈られた「羅和辞典」と、そして、この本を用いて、正しい永遠の生物の「名」の、その始原の旅を始めることにする。
……恋人の名前は何と言う?
……どうしてそんな姓であり、そんな名なのか……あなたは考えませんか?……僕はこれから……そんな恋人の名を探る、遠大な旅に――出掛けることにした……それは僕には……もしかすると……新しい恋をする以上にドキドキすることだ……とだけは言っておこう――
光 明 寺
山門ニ天照山ト勅額アリ。本堂ニ勅謚記主禪師ト額アリ。武藏守平經時建立。開山記主、號ハ然阿、諱ハ良忠。詳ニ記主ノ傳記アリ。佛殿ニ阿彌陀三尊、運慶作也。腹ノ内ニ道慶作記主自作ノ木像有。寺領十貫文アリ。
寺寶
大名號〔長さ九間、文字の内は八間アリ。幅九尺アリ。弘法筆ト云。古ハ房州ノ金胎寺ノ什物ナリシガ、一亂ノ時奪取テ此寺ニ納トナリ。〕
[やぶちゃん注:「房州の金胎寺」とは現在の関東三大厄除け大師の一つ、通称遍智院小塚大師、正式名曼茶羅山金胎寺遍智院のことか。弘法大師自らが弘仁六(八一五)
年に創建したと伝えられる知られざる名刹。但し、現在の住所は館山市大神宮で、「新編鎌倉志卷之七」に載せる「佐野」とか「砂場」という地名を見出し得ない(今考えるに、この『弘法、佐野の砂場(スナバ)にて下書(シタガキ)をかゝれたり。故に佐野の名號と云ふと也』という「砂場」は固有名詞ではなく、砂地を使って、の謂いかも知れない)。識者の御教授を乞う。]
菅相公硯 一面
松陰硯 一面
〔裏ニ永享五年十二月廿五日トアリ。法然ヨリ聖光へユヅリ、聖光ヲリ紀主へユヅリテ今ニアリ。紀主ノ添帖アリ。〕
[やぶちゃん注:「永享五年」西暦一四三四年。足利持氏の永享の乱(永享一〇年)のきな臭さが臭い始めた頃である。]
二位殿硯 一面
阿彌陀畫 四幅 トモニ惠心筆
中將姫繡阿彌陀像 一幅
當麻曼荼羅緣起 二卷
〔字ハ勅筆カト云。畫ハ土佐筆ナリ。〕
法然名號 一幅
同筆三部經 三卷
法然影 一幅〔聖光筆〕
記主自筆弟子〔江〕讓状 一通
記主影〔鏡ノ影ト云。自畫ナリ。〕一幅
十九羅漢像〔唐筆、信忠筆ト云傳フ〕
南岳袈裟 一ツ
傳通院開山了譽ノ十八通
祈禱堂阿彌陀 一軀 運慶作
魂室ノ阿彌陀 一軀
定朝作、惠心ト同時ノ人、俗名ヲサダトモト云シ人ナリ。
[やぶちゃん注:「魂室」不詳。「新編鎌倉志卷之七」の「光明寺」の「祈禱堂」の本尊とするものかともと考えられるが(但し、ここでも後掲される「内藤帶刀忠興一家の菩提所」に、その『靈屋に阿彌陀、如意輪の像を安ず。阿彌陀は定朝が作』ともある)、但し、その何れにも「魂室」の文字はない。字面から本尊と同様の胎内仏のように読めるが……識者の御教授を乞う。]
善導直作木俊 一軀
衣ノ上ニ金字ニ阿彌陀經ヲ書テアリ。
江嶋辨才天木像 一軀
[やぶちゃん注:ここに何故江の島弁財天像があるかは、「新編鎌倉志卷之七」の「光明寺」の「祈禱堂」に経緯が記されてある。]
山ニ善導ノ墓アリ。寺内ノ南ニ、内藤帶刀忠興室ノ菩捏所アリ。
[やぶちゃん注:「内藤帶刀忠興室ノ菩捏所」の「室」は不要。「新編鎌倉志卷之七」で注したが、特に再注する。私はかつてここが好きでたびたび訪れたものだった。初代日向延岡藩主内藤忠興が十七世紀中頃に内藤家菩提寺であった霊岸寺と衝突、光明寺大檀家となってここへ内藤家一族の墓所を移築したものである。実際には現在も光明寺によって供養管理されているが、巨大な法篋印塔数十基を始めとして二百基余りの墓石群が、鬱蒼と茂る雑草の中に朽ち果てつつある様は、三十数年前、初めてここを訪れた私には真に「棄景」というに相応しいものであったのである。]
道 寸 城
三浦道寸義同ガ古城、光明寺ノ南隣ノ山ナリ。永正ノ比ニヤ、北條早雲ト戰ヒテ三浦荒井へ引寵リ、三年アリテ終討死ス。北條五代記ニ詳ナリ。別紙ニ圖アリ。小壺村ノ内ニモ古城山アリ。圖ニ見へタリ。此所ヨリ飯嶋ナドヲ望ミテ由比濱ヲ歸ル。
[やぶちゃん注:この図は現存しないのか? これがあれば、現在はほぼ完全に失われた住吉城址及び、ここに言うところの小坪の砦(若しくは住吉城に付随する城塞構造部)の如き遺構が分かるのであるが……。]
堪忍其德ある事
村上何某御番(ごばん)を勤しに、初て在番の折柄(をりから)其相番たる輩、彼(かの)村上を手をかへ品を替ていぢりけるが、或時同日御番入(ごばんいり)の者を何某の積りに仕立向ふへ廻りて、其親は主人の馬を盜みて御咎(おんとがめ)を受しおのこなれば膝を並ぶる者にあらず、其子として生(いき)ながらへるは仕合成(なる)事也(なり)と、滿座にて彼(かの)村上を置(おき)てのゝしり笑ふ。さるにても〔此人と親は五位の太夫にて、御家門(ごかもん)の御傅(おもり)をなしけるが御拂馬(おんはらいうま)の事にて無調法ありけるや、一旦の御加恩を被召放(めしはなされ)御役御免なりし事あり、かゝる事をいひけるや。〕其身の事なくば親迄の惡名を罵(ののし)る事無念至極、最早堪忍なり難く切死(きりじに)と思ひ決しけるが、去(さる)にても親も呉々(くれぐれ)遺誡をなしけるは爰ならんと思ひ止りしを、彼惡徒さるにても腹を立(たて)ざる腰拔也(なり)、熱(あつき)茶を天窓(あたま)より浴(あび)せよといひけるに、同心の者茶を持來(もちきた)りしを、餘りとや思ひけん、同僚の内おどけに事寄(ことよせ)て茶碗を奪取(うばひと)りこぼし捨けるが、かゝる事故(ゆえ)在番中六七人の者とは無言にてくらしけるが、御使番(おつかひばん)に登庸(とうよう)せる時、始(はじめ)て右の惡徒も歡(よろこび)を述(のべ)ける故、外よりも厚く是迄の禮謝を述ければ甚込(はなはだこま)り候樣子也。然るに存寄(ぞんじよ)らず其後追々(おひおひ)登庸して今三奉行に連なりしが、彼人はいまだ御番を勤居(つとめを)る人もありと、彼村上、予が同廳のとき咄しける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、何となく無縁な感じがしない。不思議。
・「御番」御番入り。非役の小普請や部屋住みの旗本・御家人が選ばれて小姓組・書院番・大番などの役職に任ぜられること。
・「村上何某」底本注で鈴木氏は村上義礼(よしあや)とする。村上義礼(延享四(一七四七)年~寛政一〇(一七九八)年)は旗本。通称は大学。天明五(一七八五)年書院番となった(彼の父義方は御三卿清水家の万次郎(後の清水重好)の守役となったが、当主の馬買い下げ(本文割注にある「拂ひ馬」のことを言う)の一件にあってその処理に不調法有りとして、お役御免、小普請に落されている。鈴木氏は『馬のことは寛政譜には書』かれておらず、彼の失態は『家老職に補せららるるも応ぜず、我儘なふるまいであるとして五百石を公収され』たとする。また、岩波版長谷川氏注には『義方は従五位下肥後守であったので五位の太夫という』と記しておられる)。寛政四(一七九二)年御使番、次いで西ノ丸目付となり、同年十一月には、遭難民の大黒屋光太夫を連れて根室に来航、通商を求めてきたロシアのラックスマンと交渉する宣諭使に目付石川忠房とともに選ばれて蝦夷松前に派遣されている(翌年六月二十七日の会見で通商交渉の為の長崎入港を許可する信牌をラックスマンに与えており、ロシアと公的に接触した最初の幕府外交官として日露関係史上では特筆すべき人物である)。寛政八年九月に江戸南町奉行に就いている(以上はウィキの「村上義礼」及び「朝日日本歴史人物事典」、及び底本と岩波版長谷川氏注を参照したが、一部の事蹟に齟齬がある)。なお、この義礼妹は、天明四(一七八四)年に江戸城中で若年寄田沼意知を刺殺した佐野政言(まさこと)の室であるというのは、本話との深層の連関を感じさせる。この事件については、『犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかった事』、『上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事、等諸説あったが、幕府は乱心とした』。『佐野家は改易のうえ切腹の処分を受け自害した。しかし、世間からあまり人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められた。血縁に累は及ばず、遺産も父に譲られることが認められた』とある(以上はウィキの「佐野政言」に拠る)。
・「〔此人と親は五位の太夫にて、御家門(ごかもん)の御傅(おもり)をなしけるが御拂馬(おんはらいうま)の事にて無調法ありけるや、一旦の御加恩を被召放(めしはなされ)御役御免なりし事あり、かゝる事をいひけるや。〕」の割注はここで訳し、現代語訳からは外した。「御家門」は本来は徳川将軍家の親族で尾張・紀伊・水戸の三家、田安・一橋・清水の三卿を除く、越前松平家・会津松平家とその支流をいう語である。事実に反するが、実在する高位の人物であるからわざとこうしたものかも知れない(しかしどうみてもバレバレなんだが)。――この人の親は五位の大夫と称し、御家門(ごかもん)の御守役を勤めて御座ったが、何やらん、主家の所有する馬の払い下げに絡む仕儀にても不正が御座ったとかと申すやら、一旦加増の御座ったを、急転直下、御役御免と相い成ったということが御座ったが、ここは、もしや、そのことを指して言うておるのであろうか?――
・「登庸」登用に同じい。
・「予が同廳のとき」根岸は、
評定所留役→勘定組頭→勘定吟味役→佐渡奉行→勘定奉行→南町奉行
という出世ルートを辿ったが、村上義礼は、
書院番→ 御使番→目付→(宣諭使)→南町奉行
とあって、狭義の「同廳のとき」とは最後の南町奉行しかない。但し、本巻は執筆推定下限が寛政九(一七九七)年春とされていることから、この時確かに村上は南町奉行ではあったが、根岸は未だ勘定奉行であった(彼が南町奉行になるのは寛政一〇(一七九八)年のことである)。そうすると、鈴木棠三氏の本巻の執筆下限推定をもっと引き上げられるのかといえば、そうとも言えない。根岸の勤めた勘定奉行は寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、ともに評定所を構成するから、根岸が勘定奉行であった寛政九(一七九七)年春、根岸と村上は「同廳」であった、と言えるのである。特に公事方勘定奉行であった彼は、町奉行の村上と接する機会が多かったものと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
堪忍にも徳のあるなしがある事
村上某(なにがし)殿が初めて書院番として御番入りなさった折り、同じ番を勤めて御座った輩(やから)が、これ、執拗(しゅうね)く、手を替え品を替えては、村上殿を揶揄致いた。
ある時なんどは、その日に御番入りした新米を、村上殿に見立てて、村上殿の座る位置の向かい側にその男を同じ向きで座らせ、わざとその前へと参って――即ち、新米を中に挟んで村上と差し向かいの体(てい)にて――新米へ向かい、
「……そなたの親は、これ、主人(あるじ)の馬を盗んでお咎めを受けた男(おのこ)なれば、のぅ!……我らとは、膝を並べらるるようなる者にては、これ、御座ない!……馬盗人(うまぬすびと)の子(こお)として、よくもまぁ、おめおめおめおめ、生きながらえるとは、のぅ……いやはや、これ、幸せなる、ことじゃ!……」
と、満座にあって、かの新米を前に――実際にはその後ろの村上殿を――面罵してせせら笑って御座った。
『……ム、ムッ!……それにしても……我が身のことならばまだしもッ!……親までも悪名を罵ること、これ、無念至極! 最早、堪忍ならんッ!――かくなる上は! 奴(きゃつ)と切り死に!!――』
と思い定め、一瞬――小刀(さすが)に――手がのびかけた。
……が……
『……しかし……それにしても……我が親が、くれぐれも遺誡と致いて自重致すべく示したは……これ……まさに「ここ」……にて御座ろほどに!――』
とぐっと思い止まって、まんじりともせずに座って御座った。
すると、かの悪辣なる輩、
「……なんじゃあ?……かくも、言われてからに腹を立てざるたぁ、これ、腰抜けじゃ!……こうりゃ! 一つ、眼覚(めえさ)ましに、熱い茶の一つも、頭より浴びせかけてやるが、これ、よいわい!」
と、近くに控えて御座った同心の者に言いつけ、茶を持って来さする。――
――と、まあ、あまりのことと思うたのでも御座ろう――他の同僚が、ふざけた振りを致いて、その茶碗を奪い取って、茶を畳に零(こぼ)させて、これは、何事ものう、仕舞いとなって御座ったという。……
村上殿は、かくなることなれば、書院番在番中も、そうした輩の連中であった六、七人の者どもとは、これ、殆ど全く口を利かずに勤めたとのことで御座ったが、後、村上殿が御使番に抜擢された折りには、初めて、かの悪辣非道なる男も祝いの言葉をかけて参ったによって、村上よりも、
「……これまでのこと、厚く、御礼申す。」
と答えたところが――かの男――これ、甚だ困惑致いておる様子にて御座った由。……
然るにその後、村上殿、「思いの外」――これは、ご自身の言にて御座る――順調にご登用になられ、今は三奉行に名を連ねておらるるが……例の悪辣なる罵詈雑言を吐いて御座った男どもの中には……未だ万年御番を勤めておる御仁も、これある由、かの村上殿と、私がたまたま同じ職場となった折り、ご自身がお話になられたことで御座る。
○
南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛
同六年二月四日右大將賴朝卿、若君賴家、御臺政子上洛して六波羅の亭に入り給ふ。三月十日東大寺大佛殿供養結緣の爲に南都に下向あり。東南院に著御(ちやくぎよ)ある。夜半に及びて主上後鳥羽院南都に行幸ましましけり。賴朝卿の御布施物(おふせもつ)として馬十疋、八木(はちぼく)一萬石、黄金千兩、絹千疋を施入(せにふ)し給ふ。和田義盛、梶原景時是を奉行す。その行粧(かうさう)誠に美々敷(びびしく)ぞ見えたる。先陣は畠山重忠、後陣は和田義盛なり。賴朝卿父子は網代(あじろ)の車に召され、御臺所は八葉の車に出衣(いだしぎぬ)あり。隨兵前後に警固して雲霞の如し。大名、小名列をなし、狩裝束、水干、布衣(ほい)の輩兼てより定められたる所なり。面々召倶(めしぐ)したる家子郎從、更にその數を知らず。同十二日寅の一點(てん)に、和田梶原數萬騎を卒(そつ)して、東大寺の四面を警固す。日出でて、右大將家參堂あり、堂前の庇(ひさし)に著座し給ふ。見聞(けんもん)の衆徒等門内に群りて込人(こみいり)けるを警固の随兵是を咎むるに用ひず。梶原景時是を鎭めんとして、無禮の口論に及び、既に狼藉蜂起の色顯(あらは)る。結城七郎朝光仰(おほせ)に依て、衆徒の前に馳向ひ、跪(ひざまづ)きて右大將家の使者と稱す。衆徒等(ら)その禮を感じて、暫(しばらく)は靜り聞きけるに、朝光即ち嚴旨(げんし)を傳ふ「夫(それ)當寺は是平相國の爲に囘祿(くわいろく)し、空しく礎(いしずゑ)のみを殘す。衆徒尤(もつとも)悲歎すべき事歟。源氏たまたま大檀那となり、造營の初より供養の今に至るまで施功(せこう)を勵(はげま)し、合力を致す。剩(あまつさへ)魔障を拂ひ、佛事を遂(とげ)んが爲(ため)、關東數百里の行程を凌ぎ、東大伽藍摩(がらんま)の結緣(けちえん)に詣で給ふ。衆徒何ぞ歓喜せざらんや。無慚の武士(ものゝふ)猶其結緣を思うて供養の値遇(ちぐ)を喜ぶ。有智(うち)の僧侶爭(いかで)か違亂(いらん)を好みて、我が寺の再興を妨げんや。狼藉の造意(ざうい)頗る當らず。この旨承り存ずべきもの歟」と申したりければ、衆徒理に服し忽に先非を恥(はぢ)て各(おのおの)後悔に及び、數千一同に静(しづまり)て、「使者の勇義美好(ゆうぎびかう)の容貌、辯口利才(べんこうりさい)の勝れたる、武畧の達するのみにあらず、既に靈揚の軏格(きかく)其(その)禮節を存ずる人なり」とぞ感じける。其後に臨みて行幸あり。執柄(しつぺい)以下の卿相雲客(けいしやううんかく)花を飾り、傍(あたり)を拂(はらつ)て供奉し給ふ。未尅(ひつじのこく)の供養の儀あり。導師は興福寺の別當僧正覺憲(かくえん)、呪願師(じゆぐわんし)は當寺の別當權僧正勝賢(しようけん)なり。仁和寺の法親王以下諸寺の碩學龍象衆會(せきがくりうざうしゆゑ)の僧衆一千口に餘れり。誠に是(これ)朝家、武門の大營(えい)、見佛聞法(けんぶつもんはふ)の繁昌なり。昔聖武天皇當寺建立の叡願に依(よつ)て、左大臣橘諸兄公(たちばなのもろえこう)の勅使として、大神宮に祈誓し給ひ、天平勝寳元年に金銅十六丈の廬遮那佛(るしやなぶつ)の大佛を鑄(い)奉り、佛殿その功を成就して、十二月七日に供養を遂げ給ひけり。主上孝謙天皇、上皇聖武皇帝行幸(ぎやうかう)まします。供養の導師は南天竺の婆羅門僧正、呪願は行基僧正なり。かゝる大造の靈場を安德天皇治承四年十二月二十八日平相國の惡行に依て、重衡卿南都に向ひ、堂舍に火をかけて佛像を燒滅(やきほろぼ)す。爰に後白河法皇深く歎かせ給ひて、俊乘坊上人重源(ぢようげん)に勅して、高卑(かうひ)の知識を唱(いざな)ひ、成風(じやうふう)の業(げふ)を勤めしめ、大宋國の佛師陳和卿(ちんくわけい)に仰せて、大佛の御首(みぐし)を鎔範(ようはん)し、法皇御親(みづか)ら開眼(かいげん)し給ふ。重源上人既に先規(せんき)の例に依て、大神宮に詣(けい)して造寺の祈念を致す所に、風宮(かぜのみや)の社より二顆(にくわ)の寶珠(ほうじゆ)を賜る。今に當寺の重寶として寶藏に納めらる。周防國の杣木(そまき)を取て、大厦(たいか)の功を遂(とげ)られ、今日事故なく、供養を遂げ給ひけり。後白河法皇は此大佛殿の事を本願上人に勅し給ひける所に、去ぬる建久三年三月に崩御あり。寶算(ほうさん)六十七歳なり。此君の御在位は僅(わづか)に三年にして、二條、六條、高倉、安德、後鳥羽五代の天子朝政(てうせい)を院中にして沙汰し給ふ事四十餘年なり。その間(あひだ)保元の亂(みだれ)より信賴、淸盛、義仲に惱され給ひ賴朝の軍功に依(よつ)て暫く安穩なりけれども、朝政は武家に遷(うつ)され、王道の衰敗する事は此院より始れり。今是大佛成就せしに先立(さきだち)て崩じ給ふは、御本意を遂げざる誠に残(のこり)多かるべし。同六月三日、若君一萬殿十四歳、網代の車に召されて參内あり。同二十五日に賴朝父子、御臺共に關東に下向し給ふ。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十五の建久六(一一九五)年二月十四日・三月四日・九日・十一日・十二日及び六月三日・六月二十五日に拠る。なお、本文では何故か大姫の随行の事実を外して描いている。実際にはこの時、頼朝は大姫を後鳥羽天皇の妃とするべく、朝廷内での幕府抵抗勢力であった土御門通親や丹後局と親しく接し(逆に彼らの政敵で新幕派の九条兼実とは意識的に疎遠に振る舞った。これは彼の娘が既に天皇の中宮になっていたことや、頼朝にとっては朝廷交渉に於ける兼実の利用価値が殆んど失われていたからでもある)盛んな入内工作を行っている。ここを省略したのは大姫ファンの私としては、とても惜しい気がしている。
「八木」米の異称。「米」の字を「八」「木」と分解した謂い。
「布衣」本来は狩衣のことであったが、平安中期以降、五位以上が絹の紋織物の狩衣を、六位以下が無文のそれを用いる制法が生まれ、後者を前者の狩衣と区別するために布衣と称するようになり、ひいてはそれが六位以下の身分を示す語としても用いられた。なお、江戸時代の文献では「布衣を許す」という語をしばしば見かけるが、この鎌倉幕府においては、将軍出行の際には随行の大名が布衣を着用、警衞の武士は直垂(ひたたれ)であったのが、その後に両者の格が逆転し、江戸幕府では正装として将軍以下諸大名の四位以上が直垂、狩衣を従四位以下の諸太夫、布衣を無位無官で御目見以上、という区分が引かれたことによる(以上は主に小学館「日本大百科全書」を参照した)。
「同十二日寅の一點(てん)に……」「吾妻鏡」の同条を見よう(随兵一覧は省略した)。
〇原文
十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衞門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。小山五郎宗政持御劍。佐々木中務丞經高著御甲。愛甲三郎季隆懸御調度。隆保。頼房等朝臣扈從連軒。伊賀守仲教。藏人大夫賴兼。宮内大輔重賴。相摸守惟義。上総介義兼。伊豆守義範。豊後守季光等供奉。於隨兵者數萬騎雖有之。皆兼令警固辻々幷寺内門外等。其中海野小太郎幸氏。藤澤二郎淸親以下。撰殊射手。令座惣門左右脇云々。至御共隨兵者。只廿八騎。相分候于前後陣。但義盛。景時等者。依爲侍所司。令下知警固事之後。自路次更騎馬。各爲最前最末之隨兵云々。
先陣隨兵
和田左衞門尉義盛(以下、略)
令着座堂前庇給之後。見聞衆徒等群入門内之刻。對警固隨兵。有數々事。景時爲鎭之行向。聊現無禮。衆徒甚相叱之。互發狼藉之詞。彌爲蜂起之基也。于時將軍家召朝光。朝光起座。參進御前之時者。懸手於大床端。乍立奉可相鎭之將命。向衆徒之時者。跪其前敬屈。稱前右大將家使者。衆徒感其禮。先自止嗷々之儀。朝光傳嚴旨云。當寺爲平相國回祿。空殘礎石。悉爲灰燼。衆徒尤可悲歎事歟。源氏適爲大檀越。自造營之始。至供養之今。勵微功成合力。剩斷魔障爲遂佛事。凌數百里行程。詣大伽藍緣邊。衆徒豈不喜歡哉。無慙武士猶思結緣。嘉洪基之一遇。有智僧侶何好違亂妨吾寺之再興哉。造意頗不當也。可承存歟者。衆徒忽耻先非。各及後悔。數千許輩一同靜謐。就中使者勇士。容貌美好。口弁分明。匪啻達軍陣之武略。已得存靈塲之禮節。何家誰人哉之由。同音感之。爲後欲聞姓名。可名謁之旨。頻盡詞。朝光不稱小山。號結城七郎訖。歸參云々。次行幸。執柄以下卿相雲客多以供奉。未剋。有供養之儀。導師興福寺別當僧正覺憲。咒願師當寺別當權僧正勝賢。凡仁和寺法親王以下。諸寺龍象衆會及一千口云々。誠是朝家武門之大營。見佛聞法之繁昌也。當伽藍者。 安德天皇御宇治承四年庚子十二月廿八日。依平相國禪門惡行。佛像化灰。堂舎殘燼畢。爰法皇勅重源上人曰。訪本願往躅。唱高卑知識。課梓匠而令勤成風業。代檀主而可終不日功之由者。上人奉命旨。去壽永二年己夘四月十九日。令大宋國陳和卿始奉鑄本佛御頭。至同五月廿五日。首尾卅餘日。冶鑄十四度。鎔範功成訖。文治元年乙夘八月廿八日。太上法皇手自御開眼。于時法皇攣登數重足代。瞻仰十六丈形像給。供奉卿相以下。目眩足振而皆留半階云々。供養唱導當寺別當法務僧正定遍。咒願師興福寺別當權僧正信圓。講師同寺權別當大僧都覺憲。惣所※衲衣一千口也(「※」=「口」+「屈」)。其後上人尋往昔之例。詣太神宮。致造寺祈念之處。依風社神睠。親得二顆寳珠。爲當寺重寳。在勅封藏。同二年丙午四月十日。始入周防國。抽採料材。致柱礎搆。企土木功。載柱一本之車。駕牛百二十頭令牽由之也。建久元年庚戌七月廿七日。大佛殿母屋柱二本始立之。同十月十九日上棟。有御幸云々。謂草創濫觴者。 聖武天皇御宇天平十四年壬午十一月三日。依當寺建立之 叡願。爲大廈經營之祈請。始發遣 勅使於太神宮。左大臣諸兄公是也。同十七年乙酉八月廿三日。先搆敷地壇。同築佛後山。同十九年丁亥九月廿九日。奉鑄大佛。孝謙天皇御宇天平勝寳元年己丑十月廿四日終其功。〔三ケ年之間八ケ度奉鑄之。〕同十二月七日丁亥。被遂供養。 天皇幷太上皇〔聖武。〕幸寺院。導師南天竺波羅門僧正。咒願師行基大僧正。天平勝寳四年壬辰三月十四日。始奉泥金於大佛。〔金。天平廿年始自奥州所獻也。是爲吾朝砂金之始云々。〕
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日丁酉。朝、雨霽る。午(うま)以後、雨頻りに降る。又、地震。今日、東大寺供養なり。雨師風伯(うしふうはく)の降臨、天衆地類の影向(やうがう)、其の瑞揚焉(ずいけちえん)。寅の一點、和田左衞門尉義盛、梶原平三景時、數萬騎の壯士を催し具し、寺の四面の近郭を警固す。日の出以後、將軍家御參堂、御乘車なり。小山五郎宗政、御劍を持ち、佐々木中務丞(なかつかさのじよう)經高、御甲を著け、愛甲三郎季隆、御調度を懸く。隆保・賴房等の朝臣、扈從(こしよう)軒を連ぬ。伊賀守仲教、藏人大夫賴兼、宮内大輔重賴、相摸守惟義、上総介義兼、伊豆守義範、豊後守季光等、供奉す。隨兵に於いては、數萬騎、之れ有りと雖も、皆、兼て辻々幷びに寺内門外等を警固せしむ。其の中、海野小太郎幸氏、藤澤二郎淸親以下の殊なる射手を撰び、惣門の左右の脇に座せしむと云々。
御共の隨兵に至りては、只だ廿八騎、相ひ分れ前後の陣に候ず。但し、義盛・景時等は、侍の所司たるに依りて、警固の事を下知せしむの後、路次より更に騎馬す。各々最前最末の隨兵たりと云々。
先陣の隨兵
和田左衞門尉義盛(以下、略)
梶原平三景時
堂前の庇に着座せしめ給ふの後、見聞の衆徒等、門内に群れ入るるの刻(とき)、警固の隨兵に對し、數々の事有り。景時之を鎭めんが爲に行き向ひて、聊か無禮を現はす。衆徒、甚だ之を相ひ叱(しつ)す。互ひに狼藉の詞(ことば)を發し、彌々蜂起の基(もとゐ)たるなり。時に將軍家、朝光を召す。朝光、座を起ち、御前に參進するの時は、手を大床(おほゆか)の端に懸け、立ち乍ら、相ひ鎭むべきの將命を奉る。衆徒に向ふの時は、其の前に跪(ひざまづき)きて敬屈(きやうくつ)し、「前右大將家の使者。」と稱す。衆徒其の禮に感じ、先づ自(おのづ)から嗷々(がうがう)の儀を止む。朝光、嚴旨を傳へて云はく、「當寺は平相國の爲に回祿(くわいろく)し、空しく礎石を殘し、悉く灰燼と爲る。衆徒、尤も悲歎すべき事か。源氏、適々(たまたま)大檀越(だいだんをつ)と爲り、造營の始めより、供養の今に至るまで、微功を勵まし合力(かふりよく)を成す。剩へ魔障を斷ち佛事を遂げん爲、數百里の行程を凌ぎ、大伽藍の緣邊に詣づ。衆徒、豈に喜歡(きくわん)せざらや。無慙の武士、猶ほ結緣(けちえん)を思ひ、洪基(こうき)の一遇を嘉(よみ)す。有智(うち)の僧侶、何ぞ違亂を好み、吾が寺の再興を妨げんや。造意、頗る不當なり。承り存ずべきか。」てへれば、衆徒、忽ち先非を耻ぢ、各々後悔に及び、數千許(ばか)りの輩、一同に靜謐(せいひつ)す。就中(なかんづく)使者の勇士、容貌の美好、口弁の分明、啻(ただ)に軍陣の武略に達するに匪(あら)ず、已に靈塲の禮節を存じ得たり。「何家(なにけ)の誰人(たれひと)ぞや。」の由、同音に之を感ず。後の爲に姓名を聞かんと欲して、「名謁(ななのる)るべし。」の旨、頻りに詞を盡す。朝光、小山と稱せず、結城七郎と號し訖りて、歸參すと云々。
次に行幸。執柄以下の卿相雲客多く以て供奉す。未の剋、供養の儀有り。導師は興福寺別當僧正覺憲、咒願師(しゆぐわんし)は當寺別當權僧正勝賢。凡そ仁和寺法親王以下、諸寺の龍象衆、會せて一千口に及ぶと云々。
誠に是れ、朝家武門の大營、見佛聞法の繁昌なり。當伽藍は、安德天皇の御宇、治承四年庚子十二月廿八日、平相國禪門の惡行に依りて、佛像、灰と化し、堂舎、燼(もえくひ)を殘し畢んぬ。爰に法皇、重源(ちようげん)上人に勅して曰はく、「本願の往躅(わうちよく)を訪(とぶら)ひ、高卑の知識を唱(いざな)ひ、梓匠(ししやう)に課(おほ)せて成風(せいふう)の業(げふ)を勤めしめ、檀主に代りて、不日の功を終うべし。」の由てへれば、上人、命旨を奉り、去ぬる壽永二年己夘四月十九日、大宋國陳和卿(ちんわけい)をして、始めて本佛の御頭(みぐし)を鑄奉らしむ。同五月廿五日に至るまで、首尾卅餘日、冶鑄(やちう)十四度、鎔範(ようはん)の功を成し訖んぬ。文治元年乙夘八月廿八日、太上法皇手づから御開眼、時に法皇、數重の足代(あししろ)を攣ぢ登り、十六丈の形像を瞻仰(せんぎやう)し給ふ。供奉の卿相以下、目眩(くら)めき、足振ひて、皆、半階に留まると云々。
供養の唱導は當寺別當法務僧正定遍、咒願師は興福寺別當權僧正信圓、講師は同寺權別當大僧都覺憲。惣じて※する所の衲衣(なふえ)一千口なり(「※」=「口」+「屈」)。其の後、上人往昔(わうじやく)の例を尋ね、太神宮に詣で、造寺の祈念を致すの處、風社(かぜのやしろ)の神睠(しんけん)に依りて、親(まのあたり)に二顆(くわ)の寳珠を得て、當寺の重寳と爲し、勅封藏に在り。同じく二年丙午四月十日、始めて周防國に入り、料材を抽(ぬ)き採り、柱礎の搆へを致し、土木の功を企つ。柱一本を載するの車、牛百二十頭に駕して之を牽かしむるの由なり。建久元年庚戌七月廿七日、大佛殿母屋(もや)の柱二本、始めて之を立つ。同じき十月十九日、上棟す。御幸有りと云々。
草創の濫觴を謂はば、 聖武天皇の御宇、天平十四年壬午十一月三日、當寺建立の叡願に依りて、大廈經營の祈請の爲に、始めて勅使を太神宮へ發遣す。左大臣諸兄(もろえ)公是なり。同じく十七年乙酉八月廿三日、
先ず敷地に壇を搆へ、同じく佛の後山を築き、同じく十九年丁亥九月廿九日、大佛を鑄(い)奉る。孝謙天皇の御宇、天平勝寳元年己丑十月廿四日其の功を終ふ。〔三ケ年の間、八ケ度、之を鑄奉る。〕同じく十二月七日丁亥、供養を遂げらる。天皇幷びに太上皇〔聖武。〕寺院に幸したまふ。導師は、南天竺(なんてんぢく)の波羅門僧正、咒願師は行基大僧正、天平勝寳四年壬辰三月十四日、始めて金を大佛に泥(でい)し奉る。〔金は、天平廿年、始めて奥州より獻ずる所なり。是れ、吾が朝の砂金の始めと爲すと云々。〕
・「揚焉」明白なこと。
・「寅の一點」午前三時。「一點」とは漏刻(水時計)で一時(いっとき:二時間。)を四等分した、その最初の時刻。
・「義盛・景時等は、侍の所司たる」「所司」は、この場合は官庁を代表する役人長官と次官を合わせて言っている。和田義盛は侍所別当、梶原景時は侍所所司である。
・「洪基の一遇を嘉す」「洪基」は大事業の基礎。「嘉す」「善(よ)みす」とも書き、「よみ」は形容詞「よし」の語幹+接尾語「み」(状態がともに存する意)よしとして褒め称えるの意であるから、本東大寺大仏及び大仏殿再建という一大事業の礎の一端を担わせて戴いたことを言祝ぐ、の意。
・「朝光、小山と稱せず、結城七郎と號し」小山朝政は寿永二(一一八三)年の志田義広との野木宮(のぎみや)合戦で勲功を立て、義広滅亡後に下総の結城(現在の茨城県結城市)を初めて拝領して後、結城氏の祖となった(「吾妻鏡」正治元(一一九九)年十月二十七日の条の朝光自身の発言に拠る)。当時の武士が、自身が始祖となる結城氏の表明をする武士朝光の面目の瞬間が、実に凛々しく描かれている私の好きなシーンである。
・「未の剋」午後二時頃。警固の武士たちの継続勤務時間は既に十一時間に及んでいる。
・「執柄」藤原兼実。
・「咒願師」法会の際に、呪願文(じゅがんもん/しゅがんもん:施主の願意を述べて祈誓する文章)を読み上げる僧。
・「仁和寺法親王」後白河法皇次男守覚。
・「龍象」僧の敬称。
・「往躅」昔の人の踏んだ跡。先人の歩いた道。
・「梓匠」「梓」は梓人で建具師、「匠」は匠人で大工の意。
・「成風の業」仕事に励んで竣工をやり遂げる任務。「運斤成風」。「斤(きん)を運(めぐ)らし、風を成す」と訓読する。「運」は斧を振るう、「斤」は手斧、「成風」は風を起こすの意で、手斧を風を起こすほどに勢いよく振りまわすの義から、非常に巧みで優れた技術又はそれを持った職人をいう故事成句。「荘子」雑篇の徐無鬼第二十四に基づく。
・「壽永二年己夘」「己」は誤り。寿永二(一一八三)年の干支は癸卯(みずのとう)。
・「陳和卿(ちんわけい)」本文では「ちんくわけい(ちんかけい)」とであるが、「和」は呉音が「ワ」、漢音が「カ(クヮ)」であるから問題ない。
・「鎔範」銅を溶かして(「冶鑄」)それを鋳型に流し込むこと。
・「文治元年乙夘」「夘」は誤り。文治元(一一八五)年は乙巳(きのとみ)。
・「太上法皇手づから御開眼……」これは後白河法皇自らが足場(大仏殿建設のための仮小屋の足場)を攀じ登って十六丈(四八・五メートル弱であるが、これは直立した場合の仏身の背丈を云うので、半分)尊顔の眼に正倉院にあった天平時代の開眼に用いた墨を以って開眼するという、驚天動地のパフォーマンスである。横手川雅敬氏の「源平の盛衰」(講談社文庫一九九七年刊)によれば、これは宣伝効果をも狙った重源の懇望によると伝えられるそうだが、それを嬉々として受け入れて、攀じ登ってゆく――これ、大天狗後白河ならでは、という感じではないか。但し、横手川氏によれば、『鍍金(ときん)されたのは顔面だけで、仏身はまだ』、無論、『大仏殿も造られていなかった。しかし源平内乱が終わったいまは、乱世なるがゆえに供養を急ぎ、太平の回復を広く天下に告げなければならな』いという切実な使命感を、後白河も頼朝も、それぞれの政治的安定の企略の中で、同時に持っていたのだということを我々はこの演出から再認識する必要があろう。
・「※」(「※」=「口」+「屈」)は本来は「憂える」の意であるが、これは「衲衣一千口」が僧侶千人の謂いであるから、畏敬して侍する僧といった謂いであろう。
・「太神宮」伊勢神宮。
・「風社の神睠」「風社」は伊勢神宮外宮の風宮。本宮の西南の位置、伊勢神宮公式HPの「風宮」によれば、『多賀宮へ上る石階のすぐ左脇に、土宮とはちょうど反対側、つまり東側のところに風宮が御鎮座』し、祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しなとべのみこと)の二柱で、元来は風社と称していた。但し、「止由気宮儀式帳」及び「延喜神名式」何れにもその社名はみえず、長徳三(九九七)年の「長徳検録」の中に「風社在高宮道棒本」と初見、多賀宮へと続く参道沿いの杉の木の本に坐した小さな社であったと考えられている、とある。それが、内宮域内の風日祈宮と同様、弘安四(一二八一)年の元冦に際し、蒙古軍を全滅に至らしめた神威の発顕によって正応六(一二九三)年、一躍別宮に加列されるに至った。これは「増鏡」に詳しく記されており、元末社格であったものが、弘安四(一二八一)年の元寇の時に神風を起こして日本を守ったとして、別宮に昇格したと記されてある。後のことながらも、幕府の国家レベルの守護神となったものがここに出るというのも因縁(というより「吾妻鏡」の作為というべきか)を感じる。「神睠」不詳。「睠」は顧みるの意で、全知の神の力といった意味か。なお、増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記」(教育社一九七九年刊)には、『僧尼は宇治橋以内に入ることを禁ぜられていたのでここで皇大神宮を遙拝した』とある。皇大神宮とは伊勢神宮の内宮のことである。ウィキの「皇大神宮」によれば、これは古くからの仕来りであって、『明治時代までは、僧侶の姿で正宮に接近することは許されず、川の向こうに設けられた僧尼拝所から拝むこととされ、西行も僧尼拝所で神宮を拝み、感動の涙を流したという』とある。これは知らなかった。
・「同じく二年丙午四月十日、始めて周防國に入り、料材を抽き採り、柱礎の搆へを致し、土木の功を企つ。……」実に入れ物である大仏殿の方は竣工までに実に十二年を要した。因みに重源(保安二(一一二一)年~建永元年六(一二〇六)年)が大仏勧進職の命を受けたのは実に数え六十一歳の時で、この大仏殿落慶法会の際は既に七十五歳、建仁三(一二〇三)年に行われた総供養の時は実に八十三歳であった。そこで行われた大勧進の行脚の肉体的パワーや集金能力、更に巨大仏像仏殿の土木建築技術のために彼が発案した画期的な多数の新技法の発案能力から考えると、彼の八面六臂の活躍は超人的と言わざるを得ない。但し、この周防からの用材切り出しには多くの困難があった。横手川雅敬氏の「源平の盛衰」によれば、『重源は法体(ほったい)の国司として大工たちをともない現地におもむいた。しかし、国内の荘園から人夫を徴収するには抵抗があり、地頭たちは重源にさからって』、逆に『材木採取のための食糧をうばいとり、人夫も供出しなかった』のである。それを援助したのが、他ならぬ本落慶法要の事実上のゲストたる頼朝であった。『彼は源平合戦の最中でさえ、米一万石、砂金一千両、上絹(じょうけん)一千びきを送り、重源への協力を約束』、『地頭たちにも横暴をやめて重源を助けよと命じ』ている。以下、ここでの重源の才気煥発さをも見ておきたい。丁度、当時の『食糧難のおりから、柱に用いる用材を一本見つけたら米一石を与えるという懸賞つきで人夫をはげまし』て大仏殿に必要な巨木探索を奨励させ、また巨木なればこそ『柱一本山出しするのにも、ふつうなら二、三千人の人夫が必要だったが、重源はろくろ(滑車)を使用して、六、七十人で出すことに成功し』ているのである。仏俗何でも来い! の、まさにスーパー・ハイブリッドお爺ちゃんなのであった。
・「天平十四年」西暦七四二年。
・「左大臣諸兄」橘諸兄。
・「天平勝宝元年」西暦七四九年。
「天平勝寳元年に金銅十六丈の廬遮那佛の大佛を鑄奉り、佛殿その功を成就して、十二月七日に供養を遂げ給ひけり」とあるが、これでは天平勝宝元年のことのように読めてしまうが、これは天平勝宝四(七五二)年の誤りである。また、「十二月七日」とするが、「吾妻鏡」では上記の通り、「三月十四日」、しかもこれも誤りで、大仏開眼供養会は四月九日に行われている。この「吾妻鏡」の誤りは恐らく、「大仏殿碑文」にある、鍍金が開眼会の直前の天平勝宝四年三月十四日に開始されたことに基づく誤解と思われる。因みにこの年には閏三月があったものの、開眼会まではたった二ヶ月しかなく、実はこの時も開眼会の時点では鍍金は未完成であったと推定されている(後半部はウィキの「東大寺盧舎那仏像」を参考にした)。
「後白河法皇は此大佛殿の事を本願上人に勅し給ひける所に、去ぬる建久三年三月に崩御あり。寶算六十七歳なり」「吾妻鏡」の建久三(一一九二)年三月十六日の条を見ておく。
〇原文
月小十六日戊子。未剋。京都飛脚參着。去十三日寅剋。 太上法皇於六條殿崩御。御不豫大腹水云々。召大原本成房上人。爲御善知識。高聲御念佛七十反。御手結印契。臨終正念。乍居如睡。遷化云々。計寳算六十七。已過半百。謂御治世四十年。殆超上古。白河法皇之外。如此君不御坐〔矣〕。幕下御悲歎之至。丹府碎肝瞻。是則忝合體之儀。依被重君臣之礼也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日戊子。未の剋。京都の飛脚、參着す。去ぬる十三日の寅の剋、 太上法皇六條殿に於て崩御す。御不豫(ごふよ)は大腹水と云々。
大原の本成房上人を召され、御善知識として、高聲(かうしやう)の御念佛七十反(ぺん)、御手に印契(いんげい)を結び、臨終正念居乍ら睡る如く、遷化すと云々。
寳算を計(かぞ)ふるに六十七、已に半百を過ぐ。御治世を謂へば四十年、殆んど上古に超(こ)ゆ。白河法皇の外、此くのごとき君、御坐(おは)しまさず。幕下御悲歎の至り、丹府肝瞻を碎(くだ)く。是れ、則ち合體の儀を忝(かたじけな)うし、君臣の禮を重んぜらるるに依りてなりと云々。
・「御不豫」天子・貴人の病気。御不例。後白河法皇の直接の死因は飲水病(糖尿病)と思われるが、ここで腹水の症状が語られるのは何らかの重篤な合併症(肝硬変や腎臓病)が疑われる。
「同二十五日に賴朝父子、御臺共に關東に下向し給ふ」帰鎌は翌月承久六
(一一九五) 年七月八日。]
第六章 詐 欺
敵を攻めるに當たつても、その攻撃を防ぐに當たつても、敵の眼を眩して、自分の居るのを悟らしめぬことは頗る有利である。敵が知らずに居れば、不意にこれを攻めて容易く討ち取ることも出來る。敵が知らずに通り越せば、全く危難を免れることが出來る。いづれにしてもこの位、都合の好いことはないから、生物界に於ては、詐欺は食ふためにも食はれぬためにも極めて廣く行はれて居る。そして瞞して暮す動物は代々瞞すことに成功せねば生活が出來ず、その相手の動物は代々瞞されぬことに成功せねば餓死するを免れぬから、一方の瞞す手際と他方の瞞されぬ眼識とは、常に競爭の有樣で相伴つて益々進んで行く。恰も器械師が精巧な錠前を造れば、直に盗賊がこれを開く工夫を考へ出すから、更になほ一層巧妙な錠前を造らねばならぬのと同じである。されば精巧な錠前は盗賊が造らせるといひ得る如く、動物界に見る巧な詐欺の手段は、皆その敵なる動物が進歩發達せしめたといふことが出來よう。即ち詐欺の拙いものは、代々敵が間引き去つてくれるから、巧なもののみが代々後に殘つて、終に次に述べる如きものが生じたのであらう。
補陀落寺
南向山歸命院ト號ス。材木座ノ東、町屋ノ内ニアリ。古義ノ眞言宗ナリ。本寺ハ御室也ト云フ。賴朝五十三歳ノ木像アリ。
寺寶
平家調伏之時之打數
平家ノ赤旗 一ツ
〔幅二布二尺アリ。長サマチマデ三尺五分、其下ハ切レテシレズ。地ハ赤布ニ、九萬八千軍神ト亭付アリ。〕
[やぶちゃん注:「二布」は「ふたの」と読み、「布(の)」は布の長さを言う数詞。並幅(反物の普通の幅で鯨尺で九寸五分、現在の約三十六センチ相当)の二倍の幅、約六十二センチを言うから、二布二尺(この場合もやはり鯨尺の一尺と考えて約三八センチメートルとすると)は、約一・三八メートルとなる。「三尺五分」分は鯨尺だと約三八ミリメートルになるので約三メートルとなる。源平の旗は恐らく我々が想像する以上に大きかったことが分かる。]
逆 川 橋
辻ト大町トノ境ナリ。名越坂ヨリ西北へ流ルル川ナル故ニ逆川ト云ナリ。
狐福を疑つて得ざる事
本郷富坂に松平京兆(けいてう)の中屋敷あり。一ト年(とし)彼(かの)屋敷に住(すみ)ける小人中間(こびとちゆうげん)、老分にて屋敷の掃除などまめやかに勤(つとめ)けるが、子狐椽(えん)の下に生れしを憐みて食物抔與へけるに、或夜の夢に段々養育の恩を謝し禮を述(のべ)、何がな此恩を報ずべきと心掛し由にて、來る幾日は谷中感應寺の富札の内何十何番の札を買(かひ)給へと教(おしへ)しと見て夢覺(さめ)ぬ。さるにてもかゝる事あるべきにもあらず、夢に見しを取用(とりもちふ)べきにもあらずとて、等閑(いたづら)に過(すぎ)て札も調へざりしが、暫(しばらく)ありて谷中近所へ至りて感鷹寺富場のあたりを見しに、彼の夢に見し何十何番の札、一の富にてありし故、殘念成(なる)事せしと、其後は彼(かの)狐いよいよ愛して、猶又富の如き福分もあれかしと思ひしが、二度はならざる術にもありしや、其後は一向右樣の事もなかりしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。お馴染みの狐狸譚であるが、子狐故か、あとが続かず、またそれを、守株の如、下心から可愛がる小人中間の、如何にもしょぼいところが却ってコントとして面白い。訳の最後は、そうした行間を私なりに透き見て、趣向を凝らしてみた。
・「狐福」は訓読みして、「きつねふく」「きつねぶく」と読んで、思いがけない幸せ。偶然の幸い。僥倖。具体に、予想外の収入の意などを持つが、ここは真正、文字通り狐の齎した(はずの)福ということになるのが面白い。
・「本郷富坂」小石川水戸屋敷(現在の後楽園)の裏(北側)を北西から東へ斜めに下る坂。鳶が多くいたから鳶坂で、転じて富坂となった。切絵図で見ると松平京兆の屋敷は「松平右京亮」として水戸家の東北、現在の地下鉄都営三田線春日駅の東側、文京区民センターのある本郷四丁目付近にある。関係ないが、その真西の見下ろす丘陵のすぐ上に、後に「こゝろ」の「先生」と「K」が下宿する、あの家がある。
・「松平京兆」お馴染みのニュース・ソース松平右京太夫輝高。「奇物浪による事」の注参照。
・「小人中間」小者。本来は中間の下に置かれる武家奉公人の謂い。
・「何がな」「なにをがな」の略で、何か適当なものがあればなあ、の意。
・「谷中感應寺」天台宗。現在の谷中天王寺(日暮里駅南西直近)。元禄一三(一七〇〇)年に徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動・湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった。享保一三(一七二八)年には幕府により富突禁止令が出されたものの、ここでの興行が特別に許可され続け、天保一三(一八四二)年に禁令が出されるまで続けられた。なお、本話柄の頃は感応寺であったが、天保四(一八三三)年に天王寺と改称している。実はこの寺は開創時は日蓮宗で、ファンダメンタルな不受不施派に属していたために、幕府から弾圧を受け、元禄一一(一六九八)年に強制改宗されて天台宗となった。ところが、この天保四年に法華経寺知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であった専行院などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かして、感応寺を再び日蓮宗に戻そうとする運動が起き、結局、輪王寺宮舜仁法親王が動いて日蓮宗帰宗は中止、恐らくは本来の日蓮宗の山号寺号を嫌ってのことであろう、「長耀山感応寺」から「護国山天王寺」へ改めたものらしい(以上は主にウィキの「天王寺(台東区)」の記載を参照にした)。
・「一の富」「大阪商業大学商業史博物館」のHPには驚くべき詳細にして膨大な「富興行」についての記載がある。本話より十数年ほど後になろうが、そこに示された「文化年中江戸大富集」のデータによれば、感応寺のそれは毎月十八日興行、富札料は一枚金二朱と極めて高価(当時の平均的江戸庶民の一ヶ月の生活費の十五%程度)で、これが三千枚発売され、百両冨(現在の一等に相当する最高金額が百両)であったことが分かる。
■やぶちゃん現代語訳
狐福(きつねふく)を疑(うたご)うて福を得られなんだ事
本郷富坂に松平京兆(けいちょう)殿の中屋敷が御座る。
ある年のこと、この屋敷に奉公して御座った小人中間(こびとちゅうげん)――かなり年老いた者ではあったが、屋敷の掃除なんどを致いて、まめやかに働いておった――が、子狐の縁の下に生まれた――これ、親も見捨てたものか、一匹だけであった――を、憐れに思い、食い物なんどを与えて可愛がっておったそうな。
ところが、そんな、ある夜のこと、この小者(こもの)の老人の夢に、
――この子狐が現われ、常々の養育の恩を受けた礼を述べた上、
「……何か……この御恩に報いるに相応しいものがないものか……と、考えておりましたが……」
と呟いて、少し思い込んだ感じになって、
「……来たる×日……谷中の感応寺で売られております富札の内より……※十△番の札をお買求め下さいませ……」
と、言うた――かと思うたら、目(めえ)が覚めた。
「……それにしても……いや……そんなことのあろうはずも、これ、ない……夢に見たことを真面(まとも)に取り合うも。これ、阿呆(あほ)らしいことじゃ!」
と、そのまま気にもせずに日を過ごし、勿論、富札も買わず御座ったところ、暫くして、たまたま十八日、谷中を通りかかって、かの感応寺の富場(とみば)を歩いておったところが、丁度百両富の札が引かるるところに出食わし、
「――一の富ぃ! ※十△番!!」
と高らかに声が上がったを聴いて、老人、
「……※十△番?!……と!!……と、と、とッ、ヒエッッッ!!」
何と――夢に見た番号が――これ、一の富に――当たって御座った。
さればこそ、
「……こ、これハ!!……い、い、如何にも残念なることを……い、致いたものじゃ……」
と独りごちて、その後は、かの子狐をいよいよ可愛がっては、
『……さてもまた……かの富籤(とみくじ)の如き幸せも……これまたきっと……御座ろうほどに……の……』
と思っておった。……
――ところが……
――子狐なる故……二度とは出来ぬ術にても御座ったものか……
――いや……不用意に妖術を使(つこ)うたがため、稲荷の神より、罰として術封じでも与えられたものか……
――はたまた……老人が、かの子狐の真心を本気にせなんだにも拘わらず、今度はさもしい心根より、穢れた思いにて我らを愛撫するを、これ、鋭く見抜いたものか……
……その後は一向に、それらしきことも、これ、御座らぬ、とのことじゃ。
五 諦めること
已に身體の一部を敵に捕へられたとき、思ひ切つてその部だけを捨てれば、生命は失はずに濟むが、これも全身を食はれぬための一種の方法である。人間でも手なり足なりに性の惡い腫物が出來てそのまゝにして置いては一命にも拘るといふ場合には、これを切り捨てるの外に策はない通り、身體の一部分が已に敵の手に陷つた以上は、諦めてこれを敵に與へる外に自分を救ふ手段はない。但し人間では、一度切り捨てた手や足が再び生ずる望はなく、手術後は一生涯片輪で終らねばならぬから、かかる場合に頗る思ひ切り難い感じがあるが、動物の種類によつては、一度失つた部分を容易に囘復するので、身體の或る部分を失ふことは少しも苦にならぬ。そしてかやうな際に體の一部が切れ去るのは、敵が銜へて引く力によるのではなく、動物自身の方に一定の仕掛けがあつて、隨意にその部を切り捨てるのである。それ故この方法を自切と名づける。
「とかげ」の尾が容易く切れることは人の知る所であるが、これが自切の一例である。夏庭先などへ出て來て、雞などに啄かれた場合には、「とかげ」は尾だけを捨てて自身は速に石垣の間に逃げ込んでしまふが、後に殘つた尾は、胴から切れても直には死なず、長く活潑に躍ね廻るから、雞はこれのみに氣を取られて、逃げた身體の方を追窮せぬ。かくすれば「とかげ」は無論一時は尾なしとなるが餌を食ふて生活してさへ居れば、暫時の中にまた舊の通りの尾が出來る。尤も中軸に當る骨骼は舊の通りにはならぬが外見では、たゞ色が少し薄いだけで、古い尾と少しも違はぬ。子供等が靴で輕く踏んでも直に切れる位であるから、尾を捨てることは「とかげ」に取つては頗る簡單なことで、若しこれによつて命を全うすることが出來るならば、一時尾を失ふ不自由の如きは殆どいふに足らぬであらう。
[やぶちゃん注:「自切」英語“Autotomy”の訳語。ウィキの「自切」よりトカゲのケースを引用する。爬虫綱有鱗目トカゲ亜目トカゲ下目トカゲ科トカゲ属ニホントカゲ Plestiodon japonicas や同じくトカゲ下目のカナヘビ科カナヘビ属ニホンカナヘビ Takydromus tachydromoides (何れも日本固有種)『等が自切を行う。自切した尾は、しばらく動き回ることで外敵の注意を引きその隙に逃げることができる。切断面は筋肉が収縮し出血も抑えられる。再生した尾(再生尾)は外観から見ても体色が異なっていたり、元の尾よりも長さが短くなることが多い。また再生尾は中に骨はなく、代わりに軟骨により支えられている。これら自切を行うトカゲ類の尾は、脊椎に自切面という節目があり切れやすい構造になっている。そのため人為的に尾を切断しても、同様の反応は見られない』。『自然界では自切により外敵から逃避できる可能性もあるが、尾に栄養分を貯めることの多いトカゲ類は飼育下ではメンテナンス中の不注意や物に尾が挟まった際等に自切し結果として体調を崩してしまうことも多い。トカゲ類全てが自切を行うわけではなく、また同じ科でも自切後に再生尾が生えない種もいる』とある。]
「ばつた」、「いなご」などの昆蟲類も、足を一本摘んで捕へると、その足だけ殘して逃げ去ることが多い。但し、壽命が短いからでもあらうが、一度失うた足を再び生ずるには至らぬ。夜出て來て障子などを走る「げぢげぢ」も、抑へて捕へようとすれば必ず幾本かの足を殘して逃げて行く。海岸へ行つて蟹を多數に捕へて見ると、往々足や鋏が滿足に揃うて居ないものがあるが、あれらは何らかの危險に遇つた際に捨て去つたのであらう。中には七本の普通の足と一本の極めて小い足を持ったもの、左の鋏は普通の大きさで、右の鋏はその十分の一もないものなどがあるが、これは一度失つた跡へ新な足か鋏かが生じてまだ十分に生長せぬものである。「しほまねき」の一種に、俗に「てんぼがに」などと呼ばれるものがあり、その雄の鋏は一方だけ非常に大きくて、身體の格好に釣り合はず頗る奇觀を呈するが、かやうな大きな鋏でも、切り離した後には再び生じて舊の如くになる。エスパニヤの海岸地方では、この「かに」の鋏だけを茹でて紙の袋に入れ、恰も南京豆などの如くに露店で賣つて居るのを子供等が買つて食ふ。一袋のには鋏の數が幾十もあるが、鋏は「かに」一疋に就いて一つよりないから、一袋の鋏を取るには蟹を幾十疋も殺さねばならず、頗る無駄なやうに考へられるが、その地方では決して蟹を一々殺すのではなく、たゞ一方の鋏を切り取るだけで、自身は生きたまゝ、逃がしてやり、新しい鋏が大きくなった頃またこれを捕へて鋏だけを切り取るのである。嘗て人の話に、豚は腿の肉を一斤〔六〇〇グラム〕位そぎ取つても、暫くで治るから一疋飼つて置けば年中肉が食へると聞いたが、「かに」の鋏の話も恰もこれと同樣な造り話のやうに聞える。しかしこの方は實際である。
[やぶちゃん注:『「しほまねき」の一種に、俗に「てんぼがに」などと呼ばれるもの』これは叙述から推して、甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属 Uca の最大種であるシオマネキ Uca arcuata を指していると考えて間違いない。荒俣宏「世界大博物学図鑑 1 蟲類」の一三三ページに載る、田中芳男編になる「博物館虫譜」(明治一〇(一八七七)年頃成立した未刊行図譜)からの図像に、
桀歩
テンボウガニ
シホマネキ
紀州和歌浦ニアリ其右
螯大ニシテ美ナリコレ
望潮ノ一種大ナルモノナリ
其眼長出スルコト他蟹ト
殊異ナリ
栗本丹洲法眼藏圖
とある。また、この「桀歩」については、「続群書類従」三十二下(雑部)巻九百五十七に所収する、室町期に中国文献及び仏典等の語句を簡略に注した「蠡測集(れいそくしゅう)」によれば(グーグル・ブックス視認)、
桀ハ夏ノ桀ナリ。シカルニ蟹ハ横行スル者ナリ。桀歩トハ蟹ノ事ナリ。桀、横ナコトヲ専ニシタレバ、如此比シタリ。招潮子ト云モ蟹ノ別名ナリ。常ニスルコトナリ。
とある。なお、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」では、
かさめ 桀歩 執火/擁劔蟹【和名加散米】
とあって、現在のガザミに「桀歩」を当てているが、「蠡測集」の記載から見て「桀歩」は、古くから広く蟹を指す語であったことが分かる。それが、大型の蟹であるガザミや♂の片方(右左は決まっていない)の鋏脚が大きくて目立つシオマネキ類に汎用されたと考えてよい。なお「和漢三才圖會 卷第四十六」ではシオマネキに同定し得る蟹は「獨螯蟹」である(リンク先は私の電子テクスト)。
この「てんぼうがに」「てぼうがに」という異名和名は現在、死語に近い。それでよいとも言える。何故か? これは差別和名であるからである。即ち、
「手ん棒」=「てんぼう」=「てぼう」
で、
「手亡」
とも書き、これは、怪我などによって手の指や手を欠損していることを意味する語だからである。かくの如く、異名であって、かつ、自然に消滅しつつあるのであれば、私は問題なく賛同するものである(但し、「イザリウオ」を「カエルアンコウ」と突如、強制改名することが人道的であるとする立場を私は支持しない。これについて私は「耳嚢 巻之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」の脱線注で述べておいた。是非、お読み戴きたい)。
以下、ウィキの「シオマネキ」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、単位を日本語化、記号の一部を変更した)。まず、シオマネキ属の記載。『横長の甲羅をもち、甲幅は二〇ミリメートルほどのものから四〇ミリメートルに達するものまで種類によって差がある。複眼がついた眼柄は長く、それを収める眼窩も発達する。地表にいるときは眼柄を立てて周囲を広く見渡す。歩脚はがっちりしていて逃げ足も速い。オスの片方の鋏脚とメスの両方の鋏脚は小さく、砂をすくうのに都合がよい構造をしている』。『成体のオスは片方の鋏脚が甲羅と同じくらいまで大きくなるのが特徴で、極端な性的二形のためオスとメスは簡単に区別がつく。鋏脚は個体によって「利き腕」がちがい、右が大きい個体もいれば左が大きい個体もいる。生息地ではオス達が大きな鋏脚を振る「ウェービング(waving)」と呼ばれる求愛行動が見られる。和名「シオマネキ」は、この動作が「潮が早く満ちてくるように招いている」ように見えるためについたものである。英名“Fiddler crab” の“Fiddler”はヴァイオリン奏者のことで、やはりこれもウェービングの様子を表した名前といえる』。『熱帯・亜熱帯地域の、河口付近の海岸に巣穴を掘って生息する。種類ごとに好みの底質があり、干潟・マングローブ・砂浜・転石帯でそれぞれ異なる種類が生息する。巣穴は通常満潮線付近に多く、大潮の満潮時に巣穴が海面下になるかどうかという高さにある。潮が引くと海岸の地表に出てきて活動する。食物は砂泥中のプランクトンやデトリタスで、鋏で砂泥をつまんで口に入れ、砂泥に含まれる餌を濾過摂食する。一方、天敵はサギ、シギ、カラスなどの鳥類や沿岸性の魚類である。敵を発見すると素早く巣穴に逃げこむ』。『海岸の干拓・埋立・浚渫などで生息地が減少し、環境汚染などもあって分布域は各地で狭まっている。風変わりなカニだけに自然保護のシンボル的存在となることもある』。以下、種としてのシオマネキの記載。
《引用開始》
Uca arcuata (De Haan, 1833)
甲長(縦の長さ)二〇ミリメートル、甲幅(横の長さ)三五ミリメートルに達し、日本産シオマネキ類の最大種。ハクセンシオマネキに比べて左右の眼柄が中央寄りで、甲は逆台形をしている。オスの大鋏表面には顆粒が密布し、色はくすんだ赤色だが、泥をかぶり易く色が判別しにくいこともある。静岡県以西の本州太平洋岸、四国、九州、南西諸島、朝鮮半島、中国、台湾の各地に生息地が点在する。泥質干潟のヨシ原付近・泥が固まった区域に生息するが、人間の活動が大きな脅威となり生息域が減少している。環境省が二〇〇〇年に発表した無脊椎動物レッドリストでは準絶滅危惧(NT)とされていたが、絶滅のおそれが増大したとの判断から二〇〇六年の改訂で絶滅危惧II類(VU)となった。 有明海沿岸地方ではタウッチョガネ、ガネツケガニ、マガニなどと呼ばれる。アリアケガニやヤマトオサガニなどと共に漁獲され、「がん漬」という塩辛で食用にされる。
《引用終了》
私はこの「がん漬」が好物である(但し、現在入手出来るその原材料の蟹は中国産に限られる)。なお、ネット上の記載では何故か見当たらないが、カニは自切するための特有の部位をもっており、それを自切線という。私は、教員になった二十二歳の時、本電子テクストを捧げている生物教師であられた故林田良幸先生先生から、親しくこの自切線の個人的教授を受けた。懐かしい思い出である。]
海岸の石を起すと、その下に「ひとで」・「くもひとで」などが澤山に居るが、この類も失つた體部を再び囘復する。特に「くもひとで」の方は腕が脆くて、餘程鄭重取扱つても腕が途中で折れて、完全な標本の得られぬことが多い。しかし、忽ち折れ口から新な腕の先が生じて延びるから、他のものと揃ふやうになる。幾疋も捕へて見ると、腕の中途に段があつて、それから先は遽に細くなつて、色の薄いものが澤山にあるが、これは皆折れた後に復舊しかゝつて居る處である。即ち「くもひとで」の類も、敵に體の一部を捕へられた場合には、速にその部を捨てて逃げ去つて、全身敵に食はれることを免れるが、後にまた少時で囘復するから、損失は僅に一時のことに過ぎぬ。命を全うせんがために身體の一部を犧牲にすることは、普通の動物に取つては隨分苦しい事であるが、ここに例に擧げた如き囘復力の盛な動物から見れば、實に何でもないことで、且日々行なふ豫定の仕事である。列強の壓迫に堪へ兼ねて、止むを得ず一部分づつを割愛する老大國などから見れば、これらの動物は如何にも羨しく思はれるであらう。
[やぶちゃん注:「くもひとで」棘皮動物門蛇尾(クモヒトデ)綱 Ophiuroidea に属するヒトデと近縁関係にある生物群の総称。ヒトデの一種と言ってはいけない。あくまで近縁なのである。柔軟な腕(わん)を足として使って、蛇のようにうねりながら、若しくは泳ぐように海底を這ってかなり敏捷に移動するが、ヒトデ類のようにそれに管足を用いない点が大きな相違点である。クモヒトデ類も管足を持つが、一般には感覚器官として用い、ヒトデ類のような形で歩行及び捕食のために用いることはなく、殆んどのクモヒトデ類は腐肉食性若しくは懸濁物(デトリタス)食性である(ヒトデ類はほぼ肉食性である。以上は主にウィキの「クモヒトデ」に拠った)。
最後にウィキの「自切」より、以上に記された無脊椎動物の自切についての叙述を引用しておく。『節足動物では、昆虫類・クモ類・多足類・甲殻類などでは足が自切するものが多い。これらの仲間では、体の成長には脱皮が必要なので、何回かの脱皮によって再生する。脱皮回数が制限されている動物の場合、完全には再生できない場合もある。また、成虫が脱皮しないもので、成虫が自切した場合では、当然ながら再生できない』とあって、丘先生が言及していない自切する動物の一部の持つ、脱皮現象と再生の関連性については注目しておく必要がある。『環形動物では、ミミズ・ゴカイに簡単に体が切れるものがある。ミミズの場合、後体部から前半身が再生しないものが自切とみなされるが、ミズミミズ科の一部のように、連鎖体が分裂して増殖するものは自切とは言わない。同じ環形動物でも、ヒルはまず体が切れない。ユムシ類には、吻を自切するものがある』(やや分り難いかもれないが、ミミズやゴカイ類には体が括れて(種によっては複数箇所で)千切れる分裂よって殖える種がいることを指し、その現象は自切とは呼称しないことを述べているのである)。『軟体動物では、腹足綱のミミガイやヒメアワビ、ショクコウラなど、分類群にかかわらず殻に比べて軟体が大きい巻貝類に腹足後端を自切して逃げるものがある。またウミウシの中に鰓や装飾突起を切り捨てるものがあり、チギレフシエラガイ Berhella martensi は自切することからその和名が付けられている。二枚貝ではマテガイ類などが水管を簡単に自切して穴深く逃げ込むが、水管には最初から切れ目となる横筋が見られる。頭足類では、通常の自切とは異なるが、アミダコなどタコの一部に交接の際にオスの交接腕の先端が自切してメスの体内に残存し、栓のような役割を持つものがある』(ショクコウラ科ショクコウラについては sutargate 氏のHP「MIYOSHIの貝殻の部屋」のこちらのページを参照されたい)。『棘皮動物では、ウミユリ・ウミシダ類とクモヒトデ類に腕を自切するものが多い。これらの動物では、腕は再生するが、腕から本体は再生しない。ヒトデは腕から胴体を再生できるが、自切のように腕を切り離すものはいない』(ウミユリ・ウミシダ類及びクモヒトデ類は自切をするが、通常のヒトデ類は何らかの要因で腕が切断されても「再生はする」が、彼らは「自切はしない」ということである。これが多くの人にちゃんと理解されているようには思われないので、老婆心ながら附説した)。『沖縄県の石垣島、西表島に生息するカタツムリの一種イッシキマイマイは、天敵であるイワサキセダカヘビから自衛の為に尾(腹足の後端部分)を切断する。実験でイワサキセダカヘビにイッシキマイマイを与えたところ、四五%の個体が自切によりイワサキセダカヘビの捕食から逃れたとされる。自切を行うカタツムリは確認されている限りイッシキマイマイのみで、他のカタツムリで実験を行ったところ捕食されてしまった。また自切によって自分を守る行動は子供のイッシキマイマイに多く見られた』(イッシキマイマイの箇所はアラビア数字を漢数字に代え、注記記号を省略した)とある。イワサキセダカヘビはヘビ亜目セダカヘビ科セダカヘビ属イワサキセダカヘビ Pareas iwasakii。生物学者細(ほそ)将貴氏のHP「人生は最適化できない!」のこちらのページで、このイッシキマイマイ Satsuma caliginosa caliginosa の自切に関わる御研究の学術的叙述が読める(これはウィキの記載の元であるが、当然のことながら発見者が自身の論文を元にして書かれており、素晴らしい! 必読である!)
「列強の壓迫に堪へ兼ねて、止むを得ず一部分づつを割愛する老大國などから見れば、これらの動物は如何にも羨しく思はれるであらう」時代を感じさせる何とも言えぬ謂いである。]
以上若干の例に就いて述べた通り、敵に食はれぬためにはさまざまの手段があつて、尋常に勝負を決することの外に、逃げる法、隱れる法、攻められても平氣で居る法、脅喝によつて一時を凌ぐ法、身體の一部を切り取らせて諦める法などが常に用ゐられて居る。目的とする所は一つであるが、各々一長一短があつて、いづれを最上の策といふことは出來ぬ。要するに自然界には絶對に完全なといふものは決してなく、何事もたゞ間に合ふといふ程度までに進んで居るだけであるが、食ふ方法でも、食はれぬ方法でも、他と競爭して自分の種族を後に遺すのに間に合ひさへすれば、それで目的に適つて居ると見做さねばならぬ。
藝は身の損をなす事
藝は身を助(たすく)るといふ事あれど又一概にも言れざる故か。春日(しゆんにち)市右衞門が家は先租武功の者なりしが、甚だ笛を好(このみ)、誠に其頃の上手にて、既に和州の内と哉(や)らん吹留(ふきどめ)の瀧といふ瀧有由、右も彼春日、瀧のかしましきを忌(いみ)て笛を吹(ふき)ければ、山神の感じ給ふにや、右瀧暫(しばらく)留(とどま)りて音なかりし故、今に春日が吹留の瀧といふと也(なり)。かゝる上手も笛を好みけるゆへなるべし、好む所害をせしけるや、いつとなく猿樂仲間に入て、今は全くの笛吹となりぬと人の語りしを爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:春日市右衛門の逸話二連発。通言「芸は身を助くる」の、一捻り入った「芸は身を損ずる」という洒落のめした反ヴァージョン(笛が上手過ぎて、賤しき「ホカイビト」「河原乞食」たる芸人の仲間に身を落とした、ということを「所害」とする)。面白い(勿論、芸能者への当時の差別的認識は批判的に読む必要があることは、言うまでもないが)。
・「和州の内と哉らん吹留の瀧といふ瀧」大和国(現在の奈良県)であるが、諸注、同定を示さない。識者の御教授を乞うものである。ただ例えば、「おたま」氏(ブログのHN)のHP「めぐり旅」の「奈良県の滝」の中に恐らく含まれていると思われ、それぞれの素敵な画像で見ながら、どの瀧やらんと夢想するもまた楽しかろう。……この話柄からすると、その後も春日に笛の音を山の神が慕って、静まってしまったと考えると……例えば奈良県下北山村にある「音無し滝」なんどは如何であろう?
・「猿楽」中世以降の能・狂言の古称。
■やぶちゃん現代語訳
芸は身の損とも成るという事
『芸は身を助くる』ということが言わるるが、いや、これまた、一概には、そうとも申せぬかも知れぬ、という話。……
かの春日(しゅんにち)市右衛門の先祖は、先に述べた通り、武功の者で御座ったが、かの市右衛門、これ、甚だ笛を好み、それこそ、当時の笛の上手と、もて囃されて御座った。
さても、大和国とやらん、『吹留(ふきどめ)の瀧』と申す瀧が、これ、御座る由。
この名の謂われを問えば、かの春日、ここを訪れたところが、その瀧の音の、あまりのかしましさを嫌うまま、笛を吹いたところが――これ、山の神も感じ給(たも)うたものか――かの瀧、暫くの間は、瀧が落ちずなって音もせなんだ故に、『吹留の瀧』という、と伝えられておる。
さても、かかる上手も、あまりに笛を好んで入れ込んだためにても御座ろうか――まさに『好むところ身を害す』とでも申そうものか――何時(いつ)ともなく、猿楽仲間に入りて、その後は全くの笛吹きとなってしもうた、とは、これ、さる人の語ったを、ここに記しおくもので御座る。
「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に畑耕一句集「蜘蛛うごく」(+同縦書版)を公開した。デビュー作「怪談」の電子化に添える土産とする。
言 葉
北 原 白 秋
蜘昧うごく。
この一卷の中から感知されるものは、寧ろ本體そのものにあちずして、その動きの速度や投影の妖かしにある。
壁上の蜘蛛うごくとき大いなる
又、
燈をまともすばやき蜘蛛として構ふ
この蜘蛛、おそらくは爛々と兩の眼を輝かしてゐやうが、人ならば洋風の一すばしこい身のこなし、細みといふものが、近代のスマートな都會生活者を思はせる。而も深夜向うむきに跼んで、酸素溶接でもしてゐさうである。
私は句を作らないから押して云ふのは憚られるが、天爾速波といふリベツトの打ち方に些かの緩るみがありはしないか。しかしながら、その速度の投影のすばやさは、さながらシネマ風景のそれであつて、また人事は戲曲の一齣の個處々々を巧みに切りとつて映畫としてゐる。たとへ人事を主にしたものでなくとも、動物にまれ、植働にまれ、時候にまれ、天文・地理にまれ、いづれにしても主役たる人の詩情や體臭や擧作、隨時の心理の波動といふものが纏りついてゐないことはない。鮮やかな知性に加へて、江戸派を昭和の色に替へたやうな都雅性もあり、洒落、快笑、機才に混へたある種の不逞、禍を齎らさぬ程の微苦笑、轉身の巧智等々々、時としてポケツトの時計に香水の香も染ませ、齦のねばりも口に含ませてゐる。かと思ふと、ほのぼのとした新幽玄の匂もあり、俳趣らしい閑寂昧もある。本來の寫生ではないと云ひながら寫生もしてゐる。かう云つた種々相を通じて、成程と思はせるものは、それはやり畑耕一といふ今の人の句だといふことである。一と筋繩ではない。この蜘蛛の手八本で、ことごとくに動いてゐる。
さてこの人、二十幾年かの昔に、「寶惠籠」といふ浪花風流の名調子で、その手だれは私を驚かしたが、右の後その一囃子だけで、ぱつたりと詩は止めで了つた。東都はお茶の水、晩涼の空の蒼みに白いアパートの稜線、その人の棲む四角の窓を仰ぎ見ては、なぞらへた 「煙突雀」の童謠を私から贈つたことも、また思ひ出はあの頃の夢になつた。
句集を編むから序文を書けといふ君であるゆゑ書かしてはもらつた實を云へば、この白秋によく似てゐたといふ面ざしの人の忘れがたさに、それ、その蜘蛛の觸手が、すすつとすばやく動いたのである。
大つごもりの前の五日
阿佐ヶ谷にて
[やぶちゃん注:「跼んで」は「かがんで」「しやがんで」のいずれにも読める。
「齦」は「はぐき」(歯茎)と読む。
「寶惠籠」不詳。本書の次の「小記」で、その冒頭に示される「學生時代」に書いた白秋に認められた「詩」であることは分かるが、私の所持している最新の畑耕一著作目録等にも所収しない。私の所持している最新の畑耕一著作目録等にも所収しない。識者の御教授を乞うものである。
「煙突雀」昭和二(一九二七)年五月発行の『赤い鳥』(十八巻五号)に載る白秋の童謡である。]
*
この序文、ちょっと忠告をも含みながら、畑耕一の俳句の核心を実に鋭く解き明かして、最後にモダンに幻想的に賛美している点、実に出色の出来であると言える。そうして、何より、友情、愛情にに満ちている。畑耕一と白秋のこの関係は、もっと掘り下げられてしかるべきもののように僕には思われるのである。
春日市右衞門家筋の事
當時猿樂の内百石餘給り春日市右衞門とて笛を業とせる御役者あり。彼(かの)先祖は武功の者、難波夏御陣(なんばんつのじん)に穢多(えた)が崎の一番乘を石川家と一同いたしたる者、今世俗にいふ川びたり餅は渠(かれ)が家の出所に候由。右は穢多が淵の城を乘らんと石川家に屬し進みしが、川水深く船なければ渡り難し。春日前後の瀨を尋(たづね)て、破れ船を才覺して漕(こぎ)渡りて、石川倶(とも)に一番乘をなせし由。其砌(みぎり)殊の外空腹にて石川も難儀なりしに、春日鎧の引合(ひきあはせ)より、出陣の節風與(ふと)持出(もちいだし)し小豆餅ありしを、上下食ひて飢を凌ぎし由。今に石川家よりは彼春日が子孫を他事なく尋問ある由、市右衞門語りしと又人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:戯作者から猿楽者の技芸者譚で連関。
・「春日市右衞門」(天正六(一五七八)年~寛永一五(一六三八)年)の「春日」は「しゆんにち(しゅんにち)」と読む。能役者笛方。父は松永久秀(永正七(一五一〇)年?~天正五(一五七七)年:別名の松永弾正で知られる大和国の戦国大名。ウィキの「松永久秀」によれば、信長に降伏して家臣となるも、後に『信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。一説には、永禄の変や、東大寺大仏殿焼失の首謀者などとも言われ』、『北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、信貴山城近郊の人々からは、連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られている』とある。一説には、信長が欲しがって久秀の助命の条件にしたとされる名器平蜘蛛茶釜『に爆薬を仕込んで』立て籠もった信貴山城で自爆したと伝えられる豪勇である。)の家臣。松永氏の滅亡後は能笛を家業とした。徳川家康から「春日」の号をあたえられたとも、春日太夫道郁(どうゆう)に名字をもらい、笛方春日流二代をついだともいう(以上の事蹟は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
・「難波夏御陣」慶長一九(一六一四)年~慶長二〇(一六一五)年の大坂夏の陣。
・「穢多が崎」木津川口付近。現在の大阪市大正区で、この付近に穢多崎砦が大坂方出城として築かれたと言われる(但し、この砦は難波の穢多村、現在の大阪市中央区の御堂筋付近とする説もある。何れにせよ、この旧地名から謂れのない差別が行われるようなことがあってはならないことを附言しておく)。
・「石川家」伊勢亀山藩石川家第三代当主石川忠総(天正一〇(一五八二)年~慶安三(一六五一)年)は大坂冬の陣・夏の陣で戦功を挙げた。美濃大垣藩主、豊後日田藩主、下総佐倉藩主、近江膳所藩主と移封され、嫡孫の憲之(寛永一一(一六三四)年~宝永四(一七〇七)年)の時、慶安四(一六五一)年の時、膳所から伊勢亀山に移封されている。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春前後は第九代総博(ふさひろ 宝暦九(一七五九)年~文政二(一八一九)年:寛政八年隠居。)及びその長男第十代総師(ふさのり 安永五(一七七六)年~享和三(一八〇三)年)の代である。
・「川びたり餅」底本の鈴木氏注に、『川渡り餅、川流れ餅という地方もあり、名称は少しずつ違うが、関東とその周辺の諸県で十二月朔日に水難除けにといってたべる餅の名。北九州でも川渡り節供などという。この餅をたべてからでないと川を渡らないという俗信があり、また川渡り朔日といって、体を川水にひたす風習もある』とするも、その理由は明確でないと記されてある。また、岩波版長谷川氏の注には、山崎美成の一大考証随筆「海録」(文政三(一八二〇)年起筆・天保八(一八三七)完成)年の十五に『石川家先祖が大坂落城時堀に漬り主従助かってより、この日餅を搗き祝うのがひろまった』と記す、と記載されておられる。
・「鎧の引合」鎧の胴の右脇で前と後ろとを引き締めて、合わせる部分。
■やぶちゃん現代語訳
春日市右衛門の家筋の事
当代、猿楽に関わる者のうちに、百石余りを給わる春日(しゅんにち)市右衛門と申す笛を生業(なりわい)と致す、お役者がおる。この者の先祖は武功の者にて、大阪夏の陣に穢多ヶ崎(えたがさき)の一番乗りを、主家石川家とともに、美事果たしたる者にて、今時(きんじ)、世間に広う行われておるところの「川びたり餅」と申す風習は、これ、かの石川の家を濫觴とすると、申す。
かの春日先祖の者、穢多ヶ淵の城を攻め取らんと致いて、石川家の配下となって進軍致いたものの、城に至る要衝の川の水が深(ふこ)うして、船もなければ、なかなかに渡り難きと申す場面に陥って御座った。
この時、春日先祖、前後の浅瀬をよう調べ、破損した船を見出いては修理致いて漕ぎ渡り、美事、石川殿とともに一番乗りを果たいた由にて御座る。
その川渡りの出陣の折り、皆々殊の外、空腹にて、石川殿もまた、これ、疲れ切って御座ったところへ、春日先祖、鎧の引き合わせより、出陣の折りに、ふと心づいて持ち出だいたところの、小豆餅の御座ったを出だし申し、これ、皆して分け合(お)うて、上も下も、ともに飢えを凌いだ由に御座る。
今に石川家におかせられては、この笛吹きの春日の子孫にも、今以って親しくお声掛けなさっておらるる由、市右衛門本人が語って御座ったと、ある人が語って御座った。
今朝見た夢――
修学旅行の引率なのだが、何故か僕らは称名寺の本堂に泊まっている。
生徒たちが金沢文庫から「吾妻鏡」の原本を特別に閲覧させて貰っている。
[やぶちゃん注:金沢文庫で同文庫蔵の「吾妻鏡」のケース内展示物を見た経験は二度ほどある。また「吾妻鏡」は「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」、そして只今にては「北條九代記」の補注で日々読んでは電子化している馴染みのものではある。]
それは元々バインダーのように加工された不思議な和本で、各巻が背の部分から着脱出来るようになっている。
[やぶちゃん注:無論、これは僕の夢の中の話で、である。]
生徒が分冊にして読んだ後、元に戻したというので調べてみると、上下が逆さまになっていたりしている。
生徒が自由行動で外へ行っている内に、僕は本堂でそれを元通りに直している。
仔細に見ると、その「吾妻鏡」にはろいろな附録がついているのである。
例えば合戦の地図や絵図の類いは言うに及ばず、誰某が放った弓矢の尾羽であるとか、占いに用いたという人形(ひとがた)であるとかといったものまでも、和紙に包まれて当該条の部分に挟まれているのである。
[やぶちゃん注:無論、実際の「吾妻鏡」にはそのような附図や付属品は一切ない。]
……それはあたかも……正月だけに買って貰えた、あの頃の本屋の店先にうず高く積み上げられていた……あの、少年時代の「ぼくら」や「少年」の……『お正月特別14大附録』とか名打って……ビニールに入った怪しいものでパンパンに脹れ上がって……辛うじて輪ゴムで止められてあった、あの少年雑誌の趣きなんである……
僕はめくって行くうちに――袋に入った「大姫の遺髪」というのが眼に止まった……黒髪が白い和紙で結ばれて、それは――あった……
僕は周囲を窺って、他の教員に見つからぬように……僕の愛する――大姫の――その遺髪を……そっと自分のポケットの中に潜ませた……
*
僕にはかなり小さな時から、フェティシズムの傾向が顕著に見られた。この「大姫の遺髪」を盗む自分は、従って大いにリアルであることを告白しておく。
それにしても、窃盗の後ろめたさは感じながらも、頼朝の愛嬢にして木曾義高との悲恋の、かの薄幸の少女「大姫の遺髪」はみどりの深い玄さに輝いて美しかった――昨日早朝の恐怖の漸化式に比べれば――天国のような夢であった……
では……死よりも愉快であり、少くとも容易には違いないはずの、眠りに、おちいらんとぞ思う……ただ……漸化式だけは勘弁してくれ、よ……
地 理
春潮は畫架の人より高かりき
肩並めて佇める人に
君がうなじこの春潮は濃からずや
射的屋のはやらぬ燈なる春の泥
雲に犬を放ち夏野の人となる
鏡多き遊覧汽船夏の海
くろぐろと照る日をつらね土用波
秋の日のわたる音聞ゆなり
大日輪枯野のどこぞ猫鳴けり
落日遠しそれより遠く枯山あり
冬浪にまぢかく星の線正し
やっと立ち逢えました(僕は「逢う」という漢字が好きです)……
2012/12/05 21:43:35 Blog鬼火~日々の迷走: 無門關 十六 鐘聲七條
をお読みに来られた
OS Linux ブラウザ Safari 534.30
の方が420000人目の僕の訪問者でした……
……僕の家には昔、友人が贈って呉れたマヤの暦があります……今月の21日で世界が終らずに……見知らぬ友よ……あなたと僕の出逢いを永遠に守りましょう――御来訪、ありがとう――
ブログ420000アクセス記念として、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に畑耕一「怪談」をフライング公開する。
只今、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、419986アクセス……まだ……420000アクセスは誰だか分からないのだが……でも今日……それが……「怪談」だ……♪ふふふ♪
田代屋敷
田代ノ觀音ノ北ノ前ナル畠也。田代判官信綱ガ舊跡也。建仁三年九月二日ニ害セラルト云リ。
[やぶちゃん注:「田代判官信綱」(生没年不詳)は後三条天皇の後胤といい、父は伊豆守為綱、母は狩野工藤介茂光娘と伝える。石橋山の戦いで頼朝に従い、三草山・一の谷・屋島の合戦では源義経の麾下にあったが、文治元(一一八五)年に西海にあった信綱に対し、頼朝は義経に「隨ふべから」ず、という書状を遣わしている(以上は「朝日日本歴史人物事典」による)。その後の事蹟は不詳であるが、ここで光圀が建仁三(一二〇三)年「九月二日ニ害セラル」と言っているのは何かの誤解と思われる。この日は確かに「害せら」れてもおかしくはない。かの比企能員の変で比企一族が滅ぼされた日であるからである。ところが、「吾妻鏡」には彼の名は登場していない。頼朝直参の家臣であり、万一参加していて戦死したとすれば、名が挙がらないことはあり得ないからである(実は「吾妻鏡」の彼の最後の叙述は事蹟に記した、元暦二年(八月に文治に改元)四月二十九日の、彼に義経に「隨ふべから」ずの命が頼朝から下された部分なのである)。さらに、信綱について調べると、伊豆市の公式HP内の「市指定-史跡・名勝」の中に「田代信綱の墓及び砦跡」が挙がっており、そこには、平家追討の恩賞によって伊豆の狩野荘田代郷(母の在であろう)の地頭に補せられ、更に承久の乱にても功を立てて、和泉国大島郷の地頭職を得ているとあり、建仁三年に死んでいては承久の乱もへったくれもない。あるネット上の未確認記載(データ元は明らかでない)では没年を、安貞二(一二二八)年か、とするものがあった。ともかくもこの「田代屋敷」とは、恐らくは比企一族方の家臣団の誰かの館などを誤認した伝承ではなかろうか。]
田代觀音
關東ノ順禮三番目ノ札所也。本尊ハ木像ノ千手觀音也。本體ハ繪像ナリト云。今ハ安養院ニ在ト也。本堂ノ額ニ白花山トアリ。今按ニ燒阿彌陀ノ緣起ニ、田代ノ阿闍梨我藏寺ヲ建立ト云フハ是歟。
[やぶちゃん注:「今按ニ燒阿彌陀ノ緣起ニ、田代ノ阿闍梨我藏寺ヲ建立ト云フハ是歟」は、先行する「光觸寺」の条を再見のこと。]
辻 藥 師
觀音ヨリ南ニテ少シ東へ入タル所ナリ。長善寺ト云。本尊ハ藥師十二神、行基ノ作ト云。大進坊作ノ寶劍アリ。長サ三尺計。無銘也。眞言宗ナレバ、祈念ノ法具ニ用ルトナリ。
亂 橋
觀音ヨリ南ノ少キ石杠(ハシ)也。橋ノ西ニ連理ノ木アリ。
[やぶちゃん注:底本では「少」の右に『(小)』と編注する。「杠」は一本橋のこと。]
材木座村
亂橋ノ南ノ漁村也。徒然草ニ云。鎌倉ノ海ニ鰹魚ト云魚ハ、彼界ニハ左右ナキ物ニテ、此比モテナス物也ト有。此邊都(スベ)テ漁人多シ。
丁 字 谷
亂橋ノ東ニアリ。
紅 谷(ベニノヤツ)
花ノ谷材木座ノ村ヨリ村、名越ノ方ニ見ユル谷ナリ。
桐谷〔或ハ霧谷ニ作ル〕
補陀落寺ノ後ヲ云也。又光明寺ヨリ名越ノ方ノ谷ヲ云トモ云傳フ。東海道名所記ニ、右ノ方ニ祝嶋ト云地アリ。
[やぶちゃん注:「祝嶋」不詳。初見。「東海道名所記」を私は所持ていないので、確かなことは言えないが、これはもしかすると和賀江の島のことを指して言っているのではあるまいか? 補陀落寺背後の峰から右手海方向という位置関係と、「祝」と「和賀江」の文字が妙に通底するように思われるのである。識者の御教授を乞うものである。]
才能補不埒の事
山東京傳とて、天明寬政の頃草双紙讀本(よみほん)抔を綴り、又は新風流(しんふうりゆう)の多葉粉入(たばこいれ)抔を帋(かみ)を以(もつて)仕立(したて)世に行れしが、渠(かれ)が高弟と稱し曲亭馬琴と名を記し、普く世に流布せる草双紙數多(あまた)ありしが、其趣向てにはの有樣京傳にも劣らざりしが、渠が出生(しゆつしやう)を尋(たづね)けるに、武家の若黨(わかたう)奉公などして所々勤步行(つとめありき)しが、生得(うまれえ)し無類の放蕩者にて揚梅瘡(やうばいさう)を愁ひ、去る醫師の方へ寄宿して、藥を刻み制法など手傳ひながら彼(かの)梅瘡を療治なしけるが、もとより才能ある者故、其主人の氣に應じ弟子に成り、瀧澤宗仙とて代脈(だいみやく)に步行(ありき)又は其身も療治などなしけるが、梅瘡も快(こころよく)又々持病の放蕩おこりて、右醫家にも足をとゞめ難く立出(たちいで)しが、京傳が許に寄宿して手傳(てつだひ)しが、京傳、英才を憐みて世話なし、今は飯田町に家主をなし、伊勢屋淸右衞門とてあら物抔商ひ、其上右才氣有(ある)故に町内の六ケ敷(むつかしき)事抔わけを付(つけ)、筆をとりては達者なれば所にても用られ、今は身持もおとなしく安々と暮しけるよし、人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。武芸家や役者ではままあったが、当時の当代大物流行作家ダブル実録(?)物というのは「耳嚢」では特筆に値しよう。京伝が幕府の禁制を犯しているからか、彼と彼の弟子である馬琴の叙述には、やや刑事事件の被告人の生活史を叙しているように私には思われる。そんな雰囲気を訳では試みてみた。
・「才能補不埒の事」は「才能、不埒(ふらち)を補ふの事」と読む。
・「山東京傳」(宝暦十一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)浮世絵師にして近世後期戯作の代表的流行作家。本名は岩瀨醒(さむる)。黄表紙・洒落本・読本・合巻(ごうかん)から「近世奇跡考」などの風俗考証、鈴木牧之の越後地方の地誌随筆出版の相談に乗る(その鈴木牧之の名作「北越雪譜」は京伝の死後、弟京山の協力によって天保八(一八三七)年に刊行された)など、博物学的な怪傑の文人である。代表作は読本「忠臣水滸伝」・黄表紙「江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」等。
・「新風流の多葉粉入抔を帋を以仕立世に行れし」京伝は寛政三(一七九一)年、彼の書いた洒落本三作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖五〇日の処分を受け、執筆は思うように進まず(代作を弟子の馬琴らが行った)、寛政四年に両国柳橋で開催した書画会の収益を元手に、翌寛政五年には銀座に京屋伝蔵店(京伝店)を開店した。参照したウィキの「山東京伝」によれば、この店では『煙草入れなどの袋物や煙管・丸薬類(読書丸など)を販売。京伝は商品のデザインを考案し引札(広告ビラ)を制作し、自身の作品のなかでも店の宣伝をした。店の経営には父・伝左衛門があたり京都・大坂に取次所もできた。父の死後は京伝の後妻玉の井(百合)が経営を受け継』いだ、とある。
・「曲亭馬琴」(明和四(一七六七)年~嘉永元(一八四八)年)京伝の弟子で読本を代表する一大流行作家で、本邦に於いて最初の専業作家(原稿料のみで生計を立てられた)とされる。本名、瀧澤興邦(たきざわおきくに)。出生から本「耳嚢 巻之五」の執筆時辺りまでの事蹟をウィキの「曲亭馬琴」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記号を省略・変更した)。『明和四年(一七六七年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平鍋五郎信成(千石)の屋敷において、同家用人滝沢運兵衛興義・門夫妻の五男として生まれ』た。『馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだという。安永四年(一七七五年)、馬琴九歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が十七歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永五年(一七七六年)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった』。『馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永九年(一七八〇年)、十四歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した』。『天明元年(一七八一年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。十七歳で吾山撰の句集「東海藻」に三句を収録しており、このときはじめて馬琴の号を用いている。天明七年(一七八七年)二十一歳の時には俳文集「俳諧古文庫」を編集した。また、医師の山本宗洪・山本宗英親子に医術を、儒者黒沢右仲・亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ』。『馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。天明五年(一七八五年)、母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた』。『寛政二年(一七九〇年)、二十四歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛永三年(一七九一年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙「尽用而二分狂言」(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本「実語教幼稚講釈」(寛政四年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった』。『寛政四年(一七九二年)三月、耕書堂蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、諱を解に改めた』。『寛政五年(一七九三年)七月、二十七歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(三十歳)の婿となるが、会田を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。寛政七年(一七九五年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた』。『結婚の翌年である寛政六年(一七九四年)には長女・幸(さき)、寛政八年(一七九六年)には二女・祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政九年(一七九七年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政十二年(一八〇〇年)には三女・鍬(くわ)が生まれ、馬琴は合わせて一男三女の父親となった』。『寛政八年(一七九六年)、三〇歳のころより馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年耕書堂から刊行された読本「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した』とあって、本話の執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春頃は、正に新進気鋭の流行作家馬琴の面目躍如たる時期であったことが分かる。因みに、師京伝との関係では、『文化元年(一八〇四年)に刊行された読本「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化四年(一八〇七年)から刊行が開始された「椿説弓張月」や、文化五年(一八〇八年)の「三七全伝南柯夢」によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化十一年(一八一四年)に』畢生の超大作「南総里見八犬伝」の第一輯が刊行されるが、その二年後の文化十三(一八一六)年の九月七日、恩人であり競争相手でもあった京伝は没した、とある。
・「揚梅瘡」「楊梅瘡」の誤り。梅毒の古名(病態の一つである薔薇疹が楊梅の実に似ていることに由来)。特に薔薇疹が顔面に出る梅毒をかく呼んだ。
・「去る醫師」前注で示したように山本宗洪。底本の鈴木氏注に、京伝の弟京山の「蜘蛛の糸巻」に『「元武家浪人にて医師の内弟子となり、滝沢宗仙と改めしかども、医の方を追出され」うんぬんとあり。』とある。
・「てには」「てにをは」。話の辻褄。
・「代脈」代診。
・「飯田町」岩波版長谷川氏注に、現在の『千代田区。九段坂下一帯の地。馬琴旧居は俎板橋(まないたばし)東方。』とある。前注に引用した元飯田町中坂、現在の千代田区九段北一丁目というのがそれであろう。
・「伊勢屋淸右衞門」前注に引用した通り、馬琴は寛政五(一七九三)年に元飯田町中坂世継稲荷(現在の築土(つくど)神社)下で履物商伊勢屋を営んでいた会田家の名跡を継いでいる。
・「わけを付」「分け・別けをつく」で、勝負をつける、調停する、の意。
■やぶちゃん現代語訳
才能の不埒を補(おぎの)うという事
天明・寛政の頃、山東京伝という草双紙や読本などを書き散らした――また、新手の趣向を凝らした煙草入れを、紙でもって仕立てて、世に流行らせたりした――者があった。
その京伝の高弟と稱して、曲亭馬琴と名を記す者が、またあって、世にあまねく流行っておるところの、この者の草双紙、これ、枚挙に暇がない。その作品の趣向・話柄の展開は京伝にも劣らざるものではあった。
この男、その出生(しゅっしょう)を探ってみると――武家の若党奉公などをしては、あちこちを転々と勤め歩いていたようであるが、生来(せいらい)、無頼の放蕩者であったから、楊梅瘡を患い、さる医師の方へ寄宿しては、薬を刻み、生薬の製法などを手伝いながら、自分の療治を施して貰っていたようである。
もとより、その方(かた)の才智もあったものかとも思われ、その医家の主人の気に入られて、弟子ともなって滝沢宗仙と称し、主人の代診に赴くかたわら、更に自身の療治をも、自ら行うようになっていたらしい。
ところが、かの楊梅瘡が軽快した頃には、またしても今一つの宿痾(しゅくあ)たる放蕩の病いが発して、かの医家にも安住して居られなくなり、出奔、かの売文士京伝が家に転がり込むと、かの妖しげなる小説の手伝いを始めたと伝え聞く。
京伝も、彼の才能を見込んで、あれこれ、世話を焼いた。
しかして現在は――飯田町にて借家の家主を任され、また、伊勢屋清右衛門と名乗って、荒物などの商いをしている。
その上、かくも頭が切れる故に、町内の揉め事などの仲裁を取り持ったり、筆を執っては稀代の達者であるから、何処でも何かと頼られているという。
今は身持ちも良くなって、安楽に暮しているとの由――さる人の談話であった。
突風に背をむけてゐて別れたる
[やぶちゃん注:以上で、「天文」の部を終る。以下、「地理」10句で「畑耕一句集 蜘蛛うごく」は終わる。]
霰やんで螺蠃(すがる)は光投げかはす
[やぶちゃん注:「螺蠃」蠍座。]
温室のみどりあかるし冬の雷
今朝の夢――国語の教師である僕の次の時間の担当のクラスは……何故か雪の山脈を越えた山中にあるのである……僕は冬季登山の重装備をして、ヘリコプターで僕を含めた4人の教師(国語の女教師2名と数学の男教師1名)と、その「教室」に向かうのだが……ローターが僕らの首を掻き切りそうになったり……開放された搭乗口に座っている僕の足元のボルトが外れてステップが落下したりと、とんでもないことになっているのである……のに……加えて……何故か次の時間に僕が主担当で教えることになっているのは(どうもこの4人一組で教えねばならないらしい)……何と「分数型漸化式」なのである……僕は吹雪の山峡を飛んでゆくヘリの中で一心不乱に「分数型漸化式」の参考書を読んでいる……
――これは誠に悪夢の部類で、5:50に目覚めた瞬間、僕は『……「分数型漸化式」……教えなくって、本当にいいんだよな?』と思わず内心、何度も確かめていたのを思い出す。
雪女郎を天井たかく語りける
[やぶちゃん注:秀逸である。]
おのおのに募る吹雪の酒場の夜
歩み連れてまむかふ吹雪聲あはす
自動車に手をあげてゐて吹雪かるる
降る雪の竹見れば竹に降りしきる
わが佇てる眼の高みより雪降れり
鍵かけて夜の浴槽(バス)たのし雪降れり
諏訪の湖の雪ふりやみしオリオン座
電氣を發することも一種の威嚇法である。「しびれえひ」の生きたのに手を觸れると、劇しく電流を感ずるから、誰も思はず手を放すが、海底に棲んで居るときにも、敵が近づく每に電氣を發してこれを驚かして用ゐるのであらう。電氣を發する魚は「しびれえひ」の外に、南アメリカの河に產する「しびれなまず」〔デンキナマズ〕、南アメリカの河に產する「しびれうなぎ」〔デンキウナギ〕などがあるが、いづれも隨分强い電氣を出すので有名である。但し電氣は攻擊にも防禦に有功に用ゐられるから、決して單に相手を威嚇するためのみのものではない。なほ動物には光を發するものがあるが、これも多少敵を敵を驚かせ、または恐れしめるに役に立つことであらう。陸上では「ほたる」の外には殆ど光る動物はないから、甚だ類が少いやうに思ふが、海へ行けば富山灣の名物なる「ほたるいか」を始めとして、「くらげ」や「えび」の子などに至るまで光を發する種類は頗る多い。それが何の役に立つかは場合によつて素より違ふであらうが、少なくも一部のものは敵に恐怖の念を起させて、その攻撃を免れて居るやうに思はれる。
[やぶちゃん注:「しびれえひ」軟骨魚綱板鰓亜綱シビレエイ目 Torpediniformes に属する、電気器官(一般的には頭部の眼の両外側内部にあって下がマイナス極、上がプラス極となっている)から三〇~七〇ボルト程度の生体電気(但し、電流は二〇アンペアと電気魚の中では頗る高い)を発生させることが出来る二科十一属五十九種の総称である。彼らは、これとは別に体表上に電気受容体を持っており(種によっては一センチメートル当り数マイクロボルトという微小な電場の歪みを探知するという)、発電器官から一定の周波数の電気を出すことで安定した電場を作り出し、その乱れをこの電気受容器で受けることで、周囲の状況を電探し、防禦・索敵以外にも摂餌を目的としたプレ機能としても使用しているらしい。和名シビレエイはタイワンシビレエイ科Narkinae 亜科シビレエイ Narke japonica(英名“Electric ray”)に与えられており、地方名を「デンキウオ」「テシバリ」などと言う。一メートルを超える大型個体もみられる東北地方以南の太平洋沿岸に棲息するヤマトシビレエイ Torpedo tokionis は、ヤマトシビレエイ科 Torpedininae 亜科である。和名の面白さは、以下のナマズやウナギ類の電気魚では圧倒的に「デンキウナマズ」「デンキウナギ」が通称化されているのに、「デンキエイ」というのは聞かない点である。何故かしら? 因みに、この三種、どれも人間を感電させるという点では遜色はないのである。
「しびれなまず」条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目デンキナマズ科 Malapterurus 属、及び、Paradoxoglanis 属二属十九種の総称。但し、参照したウィキの「デンキナマズ」の記載ニュアンスでは、電気器官を総ての種が持っているわけではないようで、『この科のいくつかの種は』と条件書きがあって、『体内の発電器官によって最大三五〇ボルトの電気を発生させる能力を持っており、発電する魚としてはデンキウナギに次いで発電量の大きい魚である』と記す(引用はアラビア数字を漢数字に代えた。以下、同じ)。『頭部から尾部まで太さの変わらない丸太のような体型をしており、放射状に伸びたヒゲと合わせてドジョウを太短くしたような印象の外見である。背びれとひれの棘を欠く。最大で一メートル、二〇キロ・グラムほどに成長する』。『デンキナマズは発達した発電器官を持ったナマズ目で唯一のグループである。体の後半部分が発電器官になったデンキウナギに対し、デンキナマズは体表を包むように発電器官が発達している。頭部がマイナス、尾部がプラス極となっている。発電の目的はデンキウナギと同じく、餌となる小魚の捕食と体の周りに電場を作ることによって周囲を探るためである』とある(デンキウナギとは電極が逆)。コンゴ川・ナイル川を生息域とし、『古代エジプトの時代からデンキナマズは知られており、エジプト文明の壁画などに記述が見られる。エジプト初期王朝時代(BC三一〇〇年)のファラオとして知られるナルメルの化粧板に、王名を示す初期ヒエログリフの表音文字「ナル」として描かれたのが現在知られている最初の記述である。また十二世紀にアラブ人の医師によってその発電能力が報告されている。水族館ではデンキウナギと並んで発電の様子を展示する目的で飼育されることが多い。またアクアリウムにおいても飼育されることが多く一〇センチ・メートル程度の幼魚が流通しているが、感電の危険があるため成長した個体の取り扱いには注意が必要である』とある。
「しびれうなぎ」条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目デンキウナギ目Gymnotiformesに属する電気魚の総称(中央アメリカから南アメリカにかけて分布し、全種が発電器官を持つ淡水魚である)。デンキウナギ目は二亜目五科三〇属で構成され一三〇種以上を含むが、中でも、デンキウナギ亜目ギュムノートゥス科 Gymnotidae(又はデンキウナギ科 Electrophoridae)デンキウナギ Electrophorus electricus を指す場合が多い。Electrophorus electricus は南アメリカのアマゾン川・オリノコ川両水系に分布する大型魚で成魚は全長二・五メートルにも達し、デンキウナギ目の魚の中では最大種。和名に「ウナギ」が入るが、図を見ても分かるように体形が細長い円筒形で太ったウナギに似て見えるだけで、実は条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla とは、体構造や生活史が全く異なる全く別の魚類である。以下、ウィキの「デンキウナギ」より引用する(引用はアラビア数字を漢数字に代え記号の一部を省略・変更した)。『大型個体は丸太のような体形であるが、頭部は上下に、尾部は左右に平たい。全身はほぼ灰褐色で白っぽい斑(まだら)模様があり、尾に行くにしたがって斑点が小さくなる。喉から腹にかけては体色が淡く、橙色を帯びる。眼は小さく退化しているが、側線が発達しており、これで水流を感じ取って周囲の様子を探る。肛門は鰓蓋(えらぶた)直下にあり、他の魚よりもかなり前方に偏る。鰭は胸鰭と尻鰭しかなく、長く発達した尻鰭を波打たせて泳ぐ。なお、デンキウナギ目の魚は前だけでなく後ろにも泳ぐことができる』。『大型個体は丸太のような体形であるが、頭部は上下に、尾部は左右に平たい。全身はほぼ灰褐色で白っぽい斑(まだら)模様があり、尾に行くにしたがって斑点が小さくなる。喉から腹にかけては体色が淡く、橙色を帯びる。眼は小さく退化しているが、側線が発達しており、これで水流を感じ取って周囲の様子を探る。肛門は鰓蓋(えらぶた)直下にあり、他の魚よりもかなり前方に偏る。鰭は胸鰭と尻鰭しかなく、長く発達した尻鰭を波打たせて泳ぐ。なお、デンキウナギ目の魚は前だけでなく後ろにも泳ぐことができる』。『南米北部のアマゾン川・オリノコ川両水系に分布し、この水域では頂点捕食者の一つとなっている。池や流れの緩い川に生息する。夜行性で、昼間は物陰に潜む。夜になると動きだし、主に小魚を捕食する』。『また空気呼吸をする魚でもあり、鰓があるにもかかわらずたまに水面に口を出して息継ぎをしないと死んでしまう。逆に言えば水の交換が起こらない池や淀みでも酸欠にならず、生きていくことができる。これは温度が上がるほど溶存酸素量が少なくなる熱帯の水域に適応した結果と言える』。「発電の仕組みと効力」の項。『デンキウナギの発電器官は、筋肉の細胞が「発電板」という細胞に変化したものである。数千個の発電板が並んだ発電器官は体長の五分の四ほどあり、肛門から後ろはほとんど発電器官と言ってよい。この発電器官は頭側がプラス極、尾の方がマイナス極になっている(デンキナマズは逆)。発生する電圧は発電板一つにつき約〇・一五ボルトにすぎないが、数千個の発電板が一斉に発電することにより、最高電圧六〇〇~八〇〇ボルト・電流一アンペアにも達する強力な電気を発生させることができる。ただし、この高電圧は約一〇〇〇分の一秒ほどしか持続しない。デンキウナギはもっと弱い電流の電場を作ることもでき、弱い電場を作ることにより、濁った水中で障害物や獲物を探知していると考えられている』。『実際に感電するのは体に触れたときであり、デンキウナギがいる水槽にヒトがそっと手を入れるくらいであれば深刻な感電はしない。発電するには筋肉を動かすのと同じく神経からの指令を受け、ATPを消費する。そのため、疲れたり年老いたりしている個体ではうまく発電できない場合もある。またそれは、疲労した状態に追い込めば比較的安全に捕獲できるということでもあり、水面を棒などで叩いてデンキウナギを刺激して発電させ、疲れて発電できなくなったところを捕獲する漁法がある』。『デンキウナギのほかにも多種多様の発電魚が知られているが、これらの発電の主目的はおもに身辺に電場を作って周囲の様子を探ることにある。ただし、デンキウナギは他の発電魚よりも強力な電気を起こせるため、捕食と自衛にも電気を用いることができる。獲物の小魚を見つけると体当たりして感電させ、麻痺したところを捕食する。また、大きな動物が体に触れたときも発電して麻痺させ、その間に逃げる。渡河する人間やウマがうっかりデンキウナギを踏みつけて感電する事故が時折起こるが、なかには心室細動を起こした例もあるという』。『なお、発電時にはデンキウナギ自身もわずかながら感電している。しかし、体内に豊富に蓄えられた脂肪組織が絶縁体の役割を果たすため、自らが感電死することはない』とある。
『陸上では「ほたる」の外には殆ど光る動物はないから、甚だ類が少いやうに思ふが、海へ行けば富山灣の名物なる「ほたるいか」を始めとして、「くらげ」や「えび」の子などに至るまで光を發する種類は頗る多い』まず、「ほたるいか」は、
頭足綱十腕形上目ツツイカ目スルメイカ亜目ホタルイカモドキ科ホタルイカ属ホタルイカ Watasenia scintillans
である。ウィキの「ホタルイカ」によれば(引用はアラビア数字を漢数字に代え記号の一部を省略・変更した)、『世界にはホタルイカの仲間が四〇種類ほど生息している。日本近海では日本海全域と太平洋側の一部に分布しており、特に富山県の滑川市で多く水揚げされている。普段は二〇〇~七〇〇メートルの深海に生息している。晩春から初夏までが産卵期で、一回あたり数千個の卵を産む。交尾と産卵は同時ではない。触手の先にはそれぞれ三個の発光器がついており、何かに触れると発光するため、敵を脅すものではないかと考えられている。体表の海底側(腹側)には細かい発光器があり、これは海底側にいる敵が海面側にいるホタルイカを見ると、海面からの光に溶け込み姿が見えなくなるカウンターシェイディング効果の役割を果たしている。海面側から海底に向かって見た場合はこの効果が働かないため、体表の海面側(背中側)には発光器はほとんど存在しない』。『光反応の全容は未解明である。しかし、セレンテラジンジサルファイト化合物(coelenterazine disulfate、二硫化セレンテラジン化合物、ルシフェリンの一種)によると考えられており、アデノシン三リン酸(ATP)とマグネシウムが大きく関与している。また、発光反応の最適温度は、摂氏五度でホタルイカの生息適温と対応している』ことなどが判明している、とある。
以下、陸生発光動物を挙げておくと、
節足動物門六脚上綱内顎綱トビムシ目の一種ザウテルアカトビムシ Lobella sauteri
同門の甲虫目のヒカリコメツキやレイルロード・ワーム(Railroad worm:グローワームと呼ばれる生物発光を行う様々な違ったグループに属する昆虫の幼虫や幼虫形態のメス成虫に対する一般的な名称。呼称は見た眼は蠕虫に見えることに由来する。ホタル科以外では南北アメリカに棲息するPhengodidae科のホノムシ類、ハエ目ヒカリキノコバエ属等が含まれる)
同門多足亜門唇脚綱のムカデ及び同亜門ヤスデ網のヤスデの数種
環形動物門貧毛綱ムカシフトミミズ科のホタルミミズ Microscolex phosphoreus
軟体動物門有肺亜綱柄眼目コウラナメクジ超科ベッコウマイマイ科ヒカリマイマイ Quantula striata
などがいるに過ぎず、我々が、日常見得るのはホタルぐらいに限られてしまうが、海産無脊椎動物では多種多彩で、
刺胞動物門花虫綱の海鰓(ウミエラ)目Pennatulaceaのウミエラ類
同目ウミサボテン亜目ウミサボテン科ウミサボテンCavernularia obesa
鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科オキクラゲ Pelagia panopyra
ヒドロ虫綱軟クラゲ目オワンクラゲ科オワンクラゲ Aequorea coerulescens 等のクラゲ類多種
有櫛動物門のクシクラゲ類に属する多種
紐形動物門のヒカリヒモムシ Emplectonema kandai
棘皮動物門蛇尾(クモヒトデ)綱Ophiuroidea のヒカリクモヒトデ(学名未定)
外肛動物門のヒカリコケムシ(学名未定)
節足動物門甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル Vargula hilgendorfii
軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目オキアミ目 Euphausiacea のオキアミ類
顎脚綱橈脚(カイアシ)亜綱 Copepodaカイアシ類
軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目サクラエビ上科サクラエビ科サクラエビ sergia lucens 等の多くのエビ類の多数種
環形動物貧毛類のヒカリウミミミズ(イソミミズ・ウミミミズ等は異名和名か)Pontodrilus matsushimensis
多毛綱ツバサゴカイ科のツバサゴカイ Chaetopterus cautus 等
がおり、軟体動物では、
二枚貝のオオノガイ目ニオガイ科カモメガイ Penitella kamakurensis
同科のツクエガイ Gastrochaena cuneiformis
腹足網異鰓上目のウミウシ類(ヒカリウミウシ Plocamopherus tilesii・ハナデンシャ Kalinga ornate など多数)
及び、頭足類の、本文に挙げられたホタルイカ類や、
ダイオウイカと並ぶ世界最大級のイカである鞘形亜綱十腕形上目スルメイカ下目サメハダホオズキイカ科クジャクイカ亜科ダイオウホオズキイカ(コロッサルイカ)Mesonychoteuthis hamiltonia
ムチイカ科 Mastigoteuthidae・ダンゴイカ科 Sepiolidae 等に属するイカ類
そして私が偏愛する
コウモリダコ目コウモリダコ科コウモリダコ Vampyroteuthis infernalis
の他、
フクロダコ科 Bolitaenidae に属するタコ類
等々、多数種がおり、
脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱Ascidiaceaヒカリボヤ
尾索綱サルパ目のワサルパ属Cyclosalpa
等、枚挙に暇がない程、多数、産するのである。因みに、これらの生物発光は、ホタルと同じルシフェリン―ルシフェラーゼ反応によるもので、発光する生物の多くは、これを自ら合成するが、発光する生物を共生させて、それによって光る種や、発光生物を摂餌し、それによって得られた成分を、自身の発光に使う例も知られている(以上は主にウィキの「生物発光」を一部参考にしたが、各種発光生物についてはそれぞれ、私が独自に確認して記載した)。]
本 覺 寺
妙嚴山ト號ス。法華宗、身延ノ末寺也。關東ノ小本寺。源持氏時代ニ建立也。開山ハ日出、本尊釋迦・文珠・普賢ナリ。
寺寶
日蓮曼多羅
同文書
夷堂橋、小町ト大町トノ境ニアリ。滑川ノ流也。
[やぶちゃん注:「曼多羅」の「多」はママ。]
妙 本 寺
比企谷ニアリ。長興山ト號ス。日蓮説法最初ノ寺ナリ。大學三郎ト云シ者ノ建立、日蓮存生ノ間、日朗ニ附屬スル故ニ、日朗ヲ開山トス。正月廿一日開山忌今ニ怠ラズ。本尊釋迦ノ立像ナリ。日蓮伊豆へ配流ノ時、立像ノ釋迦隨身ノ佛ナリ。後ニ日朗ニ附屬ス。本國寺ニ納リテ有故ニ、此ニモ立像ノ釋迦ヲ本堂ニ置トナリ。影堂ニ日蓮ノ木像アリ。此寺池上トカケ持也。寺中池上ト同ジ塔頭十六アリ。院家ニツアリ。今ノ看主ハ本行院日諦ト云。
寺寶
日蓮蛇形大曼荼羅
[やぶちゃん注:以下の「日蓮蛇形大曼荼羅」の割注は、底本では通常の割注と同じくポイント落ちで全体が三字下げ。]
〔初ハ臨滅度時ノ曼荼羅ト云。池上ニテ臨終ノ時書レタルトナリ。池上ハ在家ナル故ニ(此寺ハ日蓮説法始ノ寺故ニ)納置、或時蓮ノ字ノハネタル所、蛇形ノ如ク見へクル故ニ蛇形ノ曼荼羅ト云。長サ四尺餘、幅三尺餘。〕
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志巻之七」の「妙本寺」注に画像を配してある。]
日蓮曼荼羅 四幅
同消息〔御書ノ第六番目ニ載タルトゾ。〕四幅
同細字法華經 一部
〔八卷一軸口ニ名判アリ。至テ妙筆ナリ。長サ六寸バカリ〕。
同祈禱曼荼羅 一幅
〔散シ書ニテ春蚓秋蛇ノ勢アリ。至極怪奇ナル筆天下ニ一幅ノ名物ナリト云。〕
[やぶちゃん注:「春蚓秋蛇」「しゆんいんしうだ(しゅんいんしゅうだ)」と読み、春の蚯蚓(みみず)や秋の蛇のように、字も行もうねうねと曲がりくねっていること。一般には字が下手なことの譬えである(「晋書」王羲之伝賛に基づく)。]
日朗墨蹟 一幅
東照宮御直判
〔濫妨狼籍禁制之和書、小田原陣ノ時、箱根ニテ惶頂載スルトナリ。〕
[やぶちゃん注:「惶」は日惶のこと。]
水晶塔〔高サ一尺五寸ニ舍利一粒アリ。此舍利塔ハ平重時祕藏タリトナリ。〕
比企谷ノ歌 阿佛
忍音ニ比企谷ナル郭公 雲井ニイツカ高ク鳴ラン
[やぶちゃん注:この歌は「十六日記」に、
しのびねはひきのやつなる時鳥くもゐにたかくいつかなのらん
の、かなり異なった形で出る。「ひき」は地名の「比企」ヶ谷と音(ね)の「低(ひき)し」に掛けてある。期待していたホトトギスの声を滞在していた極楽寺の月影ヶ谷で一声も聴かぬのを、ついそこの比企ヶ谷では既に人も聴いたなんどというのを知っての作で、
――忍び音に鳴くという比企が谷(やつ)の時鳥(ほととぎす)は……いつになったら空高く鳴いてくれるのであろう……
という歌意である。]
本堂ノ北ノ方ニ、頼家ノ娘竹濃御所ノ舊跡アリ。今ハ蘭塔場也。此谷ハ昔、比企判官能員ガ舊跡ナリト云。
[やぶちゃん注:「竹濃御所」「濃」は「の」の意か。竹御所(建仁二(一二〇二)年-~天福二(一二三四)年)は頼家の娘で、寛喜二(一二三〇)年に二十八歳で十五歳歳下の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。四年後に男子を出産したが死産、本人も三十三歳の若さで死去した。位記の名は鞠子(妙本寺の寺伝よれば媄子(よしこ)とする)。これを以って、源家嫡流たる頼朝の血筋は完全に断絶した(以上の事蹟はウィキの「竹御所」を参照した)。
「蘭塔場」卵塔場に同じ。墓地。]
昨夜の夢に、往年の人々に逢って一献傾ける夢を見た。
*
その初めは、まず平田明彦・久我美子夫妻であった(勿論、実際には逢ったことはない)。
平田氏はスーツを如何にもダンディに着こなし、「ゴジラ」の芹沢博士のまんま、格好よく「どうも」というと、煙草をふかしていた。
隣り座っている美しい久我美子夫人に僕はどぎまぎしながら、「握手させて戴けますか?」と申し出つつ、裾で右手をしきりに拭ったのを、はっきりと覚えている。
――因みに僕は、黒澤明の彼女がとても好きで、「酔いどれ天使」のセーラー服の美少女に惚れ、「白痴」のアグラーヤ(役名:大野綾子)の指がムイシュキン(亀田欽司・森雅之)の唇に触れた瞬間には、映画館で人知れずエクスタシーを感じたものであった――あの映画は、僕にとってとんでもなく素晴らしい映画だった――だって僕の銀幕の永遠の女神原節子がナスターシヤ (那須妙子) 役であったから……
*
もう一人、逢った人がいる。大船の飲屋で彼は待っていた。……
津金規雄氏であった。
彼は僕が最初に教員になった柏陽高校国語科の数歳年上の先輩であったが、何時も隣りの席で、僕は何かと――生徒を指名する際の方法から、配布資料の作り方に至るまで――教えを乞い、ともに独身であったから、食事や旅行などにも行ったりした。
何より忘れ難いのは、歌舞伎を見たことがなかった僕を中村翫右衛門最後の歌舞伎座での「俊寛」に誘って呉れたことである。
僕は歌舞伎と言えば、あの翫右衛門の「俊寛」の最後の達観の笑顔(この演出は彼独自のものである)に尽きる。
……その数年後に教員をおやめになられたが、その後歌舞伎の劇評などを手掛けられ、ネットを検索すると、現在は、青山学院女子短期大学講師の講師をなされ、また歌集「時のクルーズ」もお出しになられている。
……津金さんは猿之助の同じ「俊寛」にも誘って呉れたが、その感動の「差」を僕に黙って連れとなって示して呉れた彼を……今、少しばかり文楽を楽しむようになった僕は……その夢の中で……何かとても、彼に感謝したい気持ちで一杯で盃を交わしていたのであった……
火難を除けし奇物の事
椛町(かうぢまち)四丁目に小西市兵衞と言る藥種屋あり。是迄糀町四丁目四度の類燒にいづれもまぬがれし由。然るに火災の節、四間に五間程の藏造の住居なるが、右へ皮の袋を冠(かぶ)せ、所々こはぜ掛(かけ)にして家内皆々迯退(にげの)く由。隣家迄も燒(やけ)ぬれど彼(かの)市兵衞宅は一度も燒ざる由。いかなる革にてありしや、町家の事故、隣家とてもせわしく不思議なる事と人の語りしが、予が同僚の者も親しく火災の節、右家に皮袋を掛しを見候由、僞らざる事と語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。一連の呪(まじな)いシリーズに位置付けられる。但し、水に浸した皮革ならば、必ずしも非科学的な迷信とは言えまい。――いやいや!……それより、この薬種屋!――とんでもなく有名な、あの、御先祖だぜぃ!
・「小西市兵衞」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『小西六兵衛』であり、麹町の薬種問屋小西屋六兵衛店は明治六(一八七三)年に写真関係商品・石版印刷材料の販売を始め、これが後に小西六写真工業株式会社へと発展、昭和六二(一九八七)年にコニカ株式会社と改称した。明治三六(一九〇三)年には国産初の印画紙を発売、昭和一五(一九四〇)年一一月三日には国産初のカラー・フィルム「さくら天然色フヰルム」(後の「サクラカラーリバーサル」)を発売、日本の写真用カメラ・フィルムのトップ・ブランドの一つとして成長した。カメラの製造販売にも力を注ぎ、明治三六(一九〇三)年の国産印画紙発売と軌を一にして国産初の商品名を持つカメラ「チェリー手提暗函」を発売。戦前から「ミニマムアイデア」、「パール」シリーズや「パーレット」シリーズ、「リリー」シリーズなどの大衆~上級者向高品質カメラを数多く作り名を馳せた。平成一五(二〇〇)三年のミノルタとの合併により、現在は複写機・プリンタ等のオフィス用品、レンズ・ガラス基板・液晶用フィルム等の電子材料などを製造販売するコニカミノルタホールディングスとなった(以上はウィキの「コニカ」及び「コニカミノルタホールディングス」に拠る)。訳では、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にもあることであるし、名商人小西六兵衛に敬意を示すために、「小西六兵衛」を採用した。
・「四間に五間」七・二七~九・〇九メートル。縦横ともとれるが、凡その住居四方の大きさの謂いで採った。
・「こはぜ掛」通常、「小鉤鞐」と書いて、足袋・手甲・脚絆・袋物・書物の帙(ちつ)などの合わせ目につけた爪形の留め具を言うが、建築用語では金属板で屋根を葺く際、合わせ目となる部分の端の、少し折り曲げられた、板を留める部分をも言う。ここでは、大判の皮革を何枚もこのこはぜ掛けを用いて連結させ、蔵を覆う程のものにするのであろう。
・「不思議なる事と人の語りしが……」底本ではこの「不思議なる」の部分の右より初めて『(尊經閣本「不思議成事と人の語りしが、左にはあらず、店藏窓毎に草を下けて煙りを除、火炎の除に致事也とかや』と傍注する。即ち、本文の、
いかなる革にてありしや、町家の事故、隣家とてもせわしく不思議なる事と人の語りしが、予が同僚の者も親しく火災の節、右家に皮袋を掛しを見候由、僞らざる事と語りぬ。
が、尊経閣文庫本では(読みは私が振った)、
いかなる革にてありしや、町家の事故、隣家とてもせわしく不思議成(なる)事と人の語りしが、左(さ)にはあらず、店藏(みせくら)窓毎に草を下けて煙りを除(よけ)、火炎の除(よけ)に致(いたす)事也とかや。
となっている、ということである。これは文意からは全体を広範囲に革で覆うのではなく(「左にあらず」)、草を掛けて各所細部に防火処置を施したというのである。しかしこれ、「草」では如何にもおかしい(水で濡らしても効果なく、帰って延焼を助長してしまう)。これは恐らく尊経閣文庫版の書写の誤りであって「革」であろうと思われる。すると、俄然、尊経閣本の方が細部を正確に伝えているような気がしてくるのである。本文にあるような、大きな蔵全体を火災発生を知ってからの短時間の間に、こはぜ掛けなどを駆使して完全に皮革で覆うと言うのは、梱包遮幕の芸術家クリストでも至難の技であろう。むしろ、尊経閣本のように部分部分の火の粉や火煙(ひけむり)の侵入し易い窓部分に皮革を下げて火除けをするというのならば、素人でも一家総出でやれば可能である。但し、訳には本文を採用した。
・「皮袋」最後の最後に新たな知見が示される。実は、これは熨された水に浸した皮革ではなく、皮で出来た袋で中に水を入れてあるのではなかろうか? これならば、焼け難く、熱せられて膨張したり、焼け弾けたり、瓦礫によって裂けても、放水される水によって防火効果がないとは言えまい。流石は小西さん! 頭(あったま)イイ!
■やぶちゃん現代語訳
火難を避けた奇物の事
麹町四丁目に小西六兵衛と申す薬種屋が御座る。
これまで麹町四丁目は、四度の火事類焼に見舞われておるが――この店、いずれもその被害を免れておる由。
如何なる訳かと訊くに、火災の折りには――四、五間程の、蔵を中心と致いた造りの住居なるが――その家全体に革の袋を被せ、革を繫ぎ止める各部分は小鉤鞐(こはぜが)けに致いて綴り合わせた上、初めて家内皆々逃げ退く、というのである。
今迄も何度も、隣家までも皆、焼けおるに、かの六兵衛の家だけは焼けざる由。
「……これ、一体、如何なる革にて御座ろうものか……町家のことでもあり、隣りとの間なんど、これ、如何にも、せせこましきはずなれど……不思議なることじゃ……」
と、さる御仁の語って御座ったれど、実は私の職場の同僚の者も、
「……いや、拙者も、さる火災の折り、通りかかった、かの六兵衛の家に、これ、大きなる革袋の、掛けられておるを、これ、確かに見たことが御座る。……その話、これ、偽りにては御座らぬ。」
と語って御座った。
蠅の翅のうすくれなゐに冬うらら
酸き林檎に鼻よくとほり冬うらら
霧の燈を蝶のかろさに人ゆけり
マツチの火肩にあふれぬ霧の中
土見れば土のさびしさ秋の虹
○範賴勘氣を蒙る 付 家人當麻太郎
參河守範賴は賴朝卿の御舍弟として蒲御曹司(かばのおんざうし)と申しけるが、平家追討の時は大手の大將として、武威を輝かし給ひしに、源氏一統の世となり、四海靜謐に歸せしかば、狡兎(かうと)盡(つ)きて、良犬煮られ、橫流乾きて、防堤(ぼうてい)壞(こぼ)たるゝとかや、賴朝卿の御氣色何時しか疎く見ゆるに付きて、荊棘の蒼蠅(さうやう)營々として左右の遮り、範賴叛逆(ほんぎやく)企(くはだて)ある由讒(さかしら)申す者あり。賴朝卿大に怒り給ひ「其義に於ては人數を遣し、打ちほすべし」とありければ、範賴大に驚き給ひて、一紙(し)の起請文を書いて因幡前司廣元に付きて、進覽せしめらるる所に、賴朝卿更に御(ご)許容なし。殊に咎め仰せられけるは、「源範賴と書きけるは、當家一族の義を存するか。頗る過分なり。是先(まづ)起請の失(しつ)なり」とて範賴の使者大夫屬(さくわん)重能を御前に召出し、此旨を仰含(おほせふく)めらる。重能陳(ちん)じて申しけるは、「三河守殿は故左馬頭殿の賢息なり。御舍弟の義を存ぜらるゝ條、勿論の事にて候。去ぬる元曆元年の秋、平家討伐の御使として上洛せらるゝの時には、舍弟範賴を西海追討使に遣すの由御書に乘せて奏聞の間其趣を官符に載らるゝ所なり。全く自由の義にて候はず」と申しければ、賴朝重(かさね)て仰(おほせ)の旨もなし。重能歸りて、範賴に語る。「定(さだめ)て是は讒人(ざんにん)の所爲なるべし。口惜き事かな」と齒を切齒(くひしば)りて憤り給ふ。この折節範賴の家人當麻(たいまの)太郎と云ふ者殿中の御寢所の下に忍び入て息を潜めて臥居(ふしゐ)たり。夜更(ふけ)て賴朝卿御寢所に入り給ひて人氣(ひとげ)ある事を知り給ひ、潛(ひそか)に近習(きんじう)の侍結城七郎朝光、宇佐美三郎祐茂(すけもち)、梶原源太景季を召して搜させらるゝに、當麻太郎を捕へたり。搦取(からめとり)て推問せられしに、當麻申けるは、「三河守殿御不審を蒙り、起請文を遣されし所に、重て仰の旨なくして、是非に迷ひ候。されば内證御氣色(ないしようごきしよく)の事を承り安否を思ひ定むべきの由愁歎せられ候。若(もし)自然(しぜん)の次(ついで)を以てこの事を仰出さるゝやと、その形勢(ありさま)を伺ひまゐらせん爲に、參向(さんかう)仕たる計(ばかり)にて全く陰謀の企(くはだて)にはあらず候」とぞ申しける。使をもつて三河守殿に尋ね仰せらるゝに、「少(すこし)も存知仕らず」と有しかば、當麻が陣謝その故あるに似たれども、所行既に常篇に超(こえ)たり。日比の疑(うたがひ)愈(いよいよ)符合す。彼の當麻太郎は三河守殊に祕藏の勇士にて、弓劒(きうけん)の藝その名を得たる者なり。心中旁(かたがた)御不審あり、寛宥(くわんいう)の汰沙に及ばず。同意結構の黨類あるべしとて、數箇(すか)の糺問(きうもん)ありといへども、當麻更に一言(ごん)の義なし。範賴は伊豆國に於て狩野介宗茂(かののすけむねもち)、宇佐美(うさみの)三郎祐茂(すけもち)に預けられ、偏(ひとへ)に流人の如くなり。當麻は薩摩國に流遣(ながしつかは)すべきに定められしを姫君の御不例(ごふれい)に依(よつ)て赦放(ゆるしはな)たれけるとかや。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十三の建久四年(一一九三)年八月二日の条。頼朝がいちゃもんをつける起請文が載る(範頼の起請文は原文では全体が一字下げ)。
〇原文
二日丙申。參河守範賴書起請文。被献將軍。是企叛逆之由。依聞食及。御尋之故也。其狀云。
敬立申
起請文事
右。爲御代官。度々向戰塲畢。平朝敵盡愚忠以降全無貳。雖爲御子孫將來。又以可存貞節者也。且又無御疑叶御意之條。具見先々嚴札。秘而蓄箱底。而今更不誤而預此御疑。不便次第也。所詮云當時云後代。不可挿不忠。早以此趣。可誡置子孫者也。萬之一〔仁毛〕令違犯此文者。
上梵天帝釋。下界伊勢。春日。賀茂。別氏神正八幡大菩薩等之神罰〔於〕。可蒙源範賴身也。仍謹愼以起請文如件。
建久四年八月 日 參河守源範賴
此狀。付因幡守廣元。進覽之處。殊被咎仰曰。載源字。若存一族之儀歟。頗過分也。是先起請失也。可召仰使者云々。廣元召參州使大夫屬重能。仰含此旨。重能陳云。參州者。故左馬頭殿賢息也。被存御舍弟之儀之條勿論也。隨而去元曆元年秋之比。爲平氏征伐御使被上洛之時。以舎弟範賴遣西海追討使之由。載御文。御奏聞之間。所被載其趣於官苻也。全非自由之儀云々。其後無被仰出旨。重能退下。告事由於參州。參州周章云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
二日丙申。參河守範賴起請文を書き、將軍に献ぜらる。是れ、叛逆を企てるの由、聞こし食(め)し及ぶに依りて、御尋ねの故なり。其の狀に云はく、
敬とみ立て申す
起請文の事
右、御代官として、度々戰塲へ向ひ畢んぬ。朝敵を平らげ、愚忠を盡してより以降(このかた)、全く貳(ふたごころ)無し。御子孫の將來たりと雖も、又、以て貞節を存ずべき者なり。且つは又、御疑ひ無く御意に叶ふの條、具さに先々の嚴札に見えたり。秘して箱底に蓄ふ。而るに今更、誤たずして、此の御疑ひに預かる。不便なる次第なり。所詮、當時と云ひ後代と云ひ、不忠を插(さしはさ)むべからず。早々に此の趣を以つて、子孫に誡(いまし)め置くべき者なり。萬が一〔にも〕此の文を違犯せしめば、上は梵天帝釋、下界は伊勢・春日・賀茂、別して氏神正八幡大菩薩等の神罰〔を〕源範賴の身に蒙るべきなり。
仍つて謹愼して起請文を以て件のごとし。
建久四年八月 日 參河守源範賴
此の狀、因幡守廣元に付し、進覽の處、殊に咎め仰せられて曰はく、「源の字を載するは、若し一族の儀を存ずるか。頗る過分なり。是れ、先づ起請の失なり。使者に召し仰すべし。」と云々。
廣元、參州の使、大夫屬(さくわん)重能を召し、此の旨を仰せ含めらる。重能、陳(ちん)じて云はく、「參州は、故左馬頭殿が賢息なり。御舍弟の儀を存ぜらるるの條、勿論なり。隨つて、去ぬる元曆元年秋の比、平氏征伐の御使として上洛せらるるの時、舍弟範賴を以て西海追討使に遣はすの由、御文に載せて御奏聞の間、其の趣きを官苻に載せらるる所なり。全き自由の儀に非ず。」と云々。
其の後、仰せ出ださるる旨、無し。重能、退下し、事の由を參州に告ぐ。參州、周章すと云々。
・「先々の嚴札に見えたり」「嚴札」は、厳かな手紙、大事な一筆の意で、相手の書状を尊敬して言う語。(そうした私の思いや仕儀が御意に叶っているとの頼朝様御自身の御判断は)前々に頂戴した書状に、はっきりと表れておりまする、という意味である。
「この折節範賴の家人當麻太郎と云ふ者殿中の御寢所の下に忍び入て……」「吾妻鏡」巻十三の建久四年八月十日の条を見る。
〇原文
十日甲辰。寅剋。鎌倉中騷動。壯士等着甲冑馳參幕府。然而無程令靜謐畢。是參州家人當麻太郎臥御寢所之下。將軍未令寢給。知食其氣。潛召結城七郎朝光。宇佐美三郎祐茂。梶原源太左衞門尉景季等。尋出當麻。依被召禁也。曙後被推問之處。申云。參州被進起請文之後。一切無重仰旨。迷是非畢。存知内々御氣色。可思定安否之由。頻依被愁歎。若以自然之次。被仰出此事否。爲伺形勢所參候也。全非陰謀之企云々。則被尋仰參州。被申不覺悟之由。當麻陳謝雖盡詞。所行企絕常篇之間。苻合日來御疑胎。其上當麻者。參州殊被相憑之勇士。弓劔武藝已得其名之者也。心中旁有不審之由。被經沙汰。無寬宥之儀。剩有同意結搆之類否。雖及數ケ糺問。當麻屈氣。更不發一言云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日甲辰。寅の剋、鎌倉中、騷動す。壯士等甲冑を着け、幕府へ馳せ參ず。然しれども、程無く靜謐せしめ畢んぬ。是れ、參州が家人當麻太郎、御寢所の下に臥す。將軍、未だ寢ねしめ給はず、其の氣を知ろし食(め)し、潛かに結城七郎朝光・宇佐美三郎祐茂・梶原源太左衛門尉景季等を召す。當麻を尋ね出し、召し禁(いまし)めらるに依りてまなり。曙(あ)くる後、推問せらるの處、申して云はく、
「參州、起請文を進めらるの後、一切重ねて仰せの旨無く、是非を迷ひ畢んぬ。内々に御氣色を存知し、安否を思い定むべきの由、頻りに愁歎せらるるに依りて、若し自然の次でを以て、此の事を仰せ出ださるるや否や、形勢を伺はんが爲、參候する所なり。全く陰謀の企てに非ず。」
と云々。
則ち、參州に尋ね仰せらるるに、覺悟せざるの由を申さる。當麻が陳謝、詞を盡すと雖も、所行の企て常篇(じやうへん)に絕えたるの間、日來(ひごろ)の御疑胎(ごぎたい)に苻合(ふがふ)す。其の上、當麻は、參州、殊に相ひ憑(たの)まるるの勇士、弓劔の武藝、已に其の名を得るの者なり。心中旁々(かたがた)不審有るの由、沙汰を經られ、寬宥(くわんいう)の儀、無し。剩へ、同意結搆の類、有るや否や、數ケの糺問(きうもん)に及ぶと雖も、當麻、氣を屈して、更に一言も發せずと云々。
・「當麻太郎」魅力的な人物であるが、不詳である。管見した限りでは、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『當麻太郎は、静岡県浜松市の蒲神明宮の隣に当麻町があったらしい。蒲神明宮は、熱田神宮の末社であり、熱田の宮司が頼朝の祖父に当たる藤原季範で、蒲神明宮の宮司に季成がおり(季の文字は通字か?)、その子が当麻五郎貞稔。その妻が源參河守範頼の乳母夫だと系図算用にあるので、当麻太郎の父らしい』という記載が唯一の詳細である。
・「常篇に絶えたる」尋常でない。
「範賴は伊豆國に於て狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂に預けられ……」「吾妻鏡」巻十三の建久四年八月十七日の条に拠る。
〇原文
十七日辛亥。參河守範賴朝臣被下向伊豆國。狩野介宗茂。宇佐美三郎祐茂等所預守護也。歸參不可有其期。偏如配流。當麻太郎被遣薩摩國。忽可被誅之處。折節依姫君御不例。被緩其刑云々。是陰謀之搆達上聞畢。雖被進起請文。當麻所行依難被宥之。及此儀云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十七日辛亥。參河守範賴朝臣、伊豆國へ下向せらる。狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂等、預り守護する所なり。歸參其の期(ご)有るべからず。偏へに配流のごとし。當麻太郎は薩摩國へ遣はさる。忽ち誅せらるべきの處、折節、姫君の御不例に依りて、其の刑を緩めらると云々。
是、陰謀の搆へ、上聞に達し畢んぬ。起請文を進めらると雖も、當麻が所行、之を宥(なだ)められ難きに依りて、此の儀に及ぶと云々。
・「範賴朝臣、伊豆國へ下向せらる」「吾妻鏡」ではその後の範頼について記されないが、「保暦間記」などによれば、誅殺されたとする。但し、参照したウィキの「源範頼」によれば、『範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる』。また、『このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある』と記す。
・「姫君の御不例」「姫君」は大姫(当時、満十五歳)。この「吾妻鏡」の五日前の十二日の条に「姫君有御不例之氣」(姫君、御不例の氣の有り)とある。……それにしても、寝所に忍び入った当麻太郎の処置は、主君範頼の処罰に比して余りにも寛大な印象を受ける。私は頼朝が、この当麻の忠勤の心根に、どこか感心したのではなかろうかと読みたくなるのである。]
鎌倉日記 坤
寶 戒 寺
若宮ノ前ノ町屋ノ東南方也。號金龍山(金龍山と號す)。舊記ニ法海寺工作ルハ非ナリ。初ハ律宗、今ハ天台宗也。本尊地藏、左右ニ梵天・帝釋アリ。唐佛ナリ。六地藏ノ一ニテタケタ地藏卜云也。後醍醐天皇ノ御願所、圓頓寶戒寺ト額アリ。此地ハ昔ノ北條屋敷ニテ代々ノ執權此所ニ居ル。尊氏葛西谷ノ東照寺ヲ此所ニ引テ、北條一族ノ骸骨ヲ埋葬テ寺ヲ建立スル也。開山ハ坂本ノ人ニテ、法性寺ノ長老五大國師也。尊氏此僧ヲ尊仰シテ、洛都ヨリ招キ、此寺ニ居セシム。尊氏ノ第二男、幼シテ病氣ナリシヲ、五大ヲシテ祈商セシメ、終ニ其子ヲ五大ノ弟子トナス。普川國師卜云。此寺ノ二代目也。五代後ニ故郷ノ馴シキ由ヲ尊氏へ謂テ洛ニ歸テ、死ストナリ。此寺四宗兼學ニテ、天台律也。戒壇ヲ立ルハ比叡卜此寺トノミ也。聖天ノ木像アリ。五大・普川ノ木像モアリ。川向ニ普川入定ノ地アリト也。今九貫六百文ノ御先印アリ。尊氏ノ守リ本尊ノ地藏、行基ノ作也。不動大山ノ佛卜同作ナリ。高時ヲ德宗權現卜祝ヒテ寺門ノ内ニ山王權現ト兩社相並テアリ。五大ハ慧鎭トモ慈威和尚トモ云タル人ナリ。
寺寶
尊氏自筆地藏畫 一幅
[やぶちゃん注:以下の割注は、底本では三字下げ。]
〔寺僧謂テ云。尊氏平生地藏菩薩ヲ崇敬スル故ニ、鎌倉中ニ木石畫像ノ地藏多シトナリ。〕
[やぶちゃん注:以下は、底本では三行二段組であるが、一段とした。]
平高時畫像〔或云、自畫也。〕 三幅
三千佛唐筆〔本尊、彌陀・釋迦・藥師ナリ。〕三幅
涅槃像唐筆 一幅
五大國師影 一幅
五大自筆狀 三幅
普川國師影 一幅
[やぶちゃん注:「タケタ地藏」六地蔵は六道由来であろうが、そのそれぞれに名前があるというのは不学にして初見。識者の御教授を乞う。
「尊氏葛西谷ノ東照寺ヲ此所ニ引テ、北條一族ノ骸骨ヲ埋葬テ寺ヲ建立スル也」「東照寺」は「東勝寺」(次項「葛西谷」参照)の誤り。これは「新編鎌倉志卷之七」の「寶戒寺」の項も踏襲しており、「新編相模国風土記稿」にも記すが、誤りである。東勝寺は南北朝時代に未だ存在していたからである(「鎌倉廃寺事典」によれば廃寺となったのは永正九(一五一二)年よりも後のことである)。]
葛 西 谷
寶戒寺ノ東南ノ川ヲ踰テ向ノ谷ヲ云。山下ニ古ノ東照寺ノ跡アリ。束照寺谷ト云。時政屋敷ト云モ此所ナリトゾ。相摸守高時、元亭三年五月廿二日、四十二歳ニシテ此所ニテ自害、其時八百七十餘人自害ス。平家九代、一時ニ滅亡シテ、源氏多年ノ憤懷ヲ一朝ニヒラクルコトヲ得クリ。今モ朽骨ヲ掘出スコト多シト云。上ノ山ニ琴引ノ松ト云アリ。松風尋常ニカハレリトナン。
[やぶちゃん注:前項と同じく「東照寺」は「東勝寺」の誤り。
「元亭」は「元弘」の誤り。]
塔 辻
寶戒寺ノ前ニアリ。高時ノ下馬ナリト云。石塔二ツアリ。又云、油井長者太郎大夫ト云シ者、三歳ニ成シ娘ヲ鷲ニ取ラレ、肉ムラノ落クル所毎ニハ菩提ノ爲ニトテ立タル石塔ナリト云。此外所々ニ有トナリ。
[やぶちゃん注:「油井長者太郎大夫」は由井の長者太郎大夫時忠のことであるから、「油井」は「由比」の誤り。]
大町小町
寶戒寺ノ前ヨリ比企谷マデノ間ノ町ヲ云。
妙 隆 寺
叡昌山ト號ス。法華宗、中山院家ノ法宣院ノ末寺也。開山ハ日英也。法理ノ異論有シ故、歴代モ慥ニシレズトナン。
[やぶちゃん注:「中山ノ法宣院」千葉県市川市中山にある文応元(一二六〇)年創立の日蓮宗大本山寺院正中山法華経寺の塔頭の一つで格式の高い四院家と呼ばれる寺。
「法理ノ異論有シ故」これは二代目の日親(応永十四年(一四〇七)年~長享二(一四八八)年)が、室町期から幕末まで厳しく弾圧された日蓮宗のファンダメンタリズムである「不受不施義」を最初に唱えたとされる人物であることに由来する謂いであろう。「新編鎌倉志卷之七」の「妙隆寺」でも注しているが、その経歴も一筋縄ではいかない。永享五(一四三三)年、中山門流総導師として肥前国で布教活動を展開するが、その折伏の激烈さから遂には同流から破門されてしまう。同九(一四三七)年には上洛して本法寺を開くが、六代将軍足利義教への直接説法に恵まれた際、「立正治国論」を建白して不受不施を説いて建言の禁止を申し渡されてしまう。永享十二(一四四〇)年にはその禁に背いたとして投獄、本法寺は破却される。その捕縛の際、焼けた鉄鍋を被せられるという拷問を受けて、その鍋が頭皮に癒着、生涯離れなくなったため、後、その鍋を被った奇態な姿のままに説法を説いたという伝説が誕生、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」と呼ばれるようになった。翌嘉吉元(一四四一)年、嘉吉の乱で義教が弑殺されて赦免、本法寺を再建している。寛正元(一四六〇)年、前歴から禁ぜられていた肥前での再布教を行ったために再び本法寺は破却、八代将軍足利義政の上洛命令を受けて京都に護送、細川持賢邸に禁錮となったが、翌年寛正四(一四六三)年に赦され、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建している(以上は主にウィキの「日親」を参照した)。折伏ガンガン、ファンダメンタル不受不施派、カンカンに熱した鉄鍋被り、自分で十指の爪を抜く――かなり危険がアブナイ、御人である。また、「鎌倉攬勝考卷六」の「妙隆寺」を見ると、
行の池 寺の後にあり。日親此池に手をひたし、一日に一指づつ、十指の爪を放し、百日の内に元のごとく生ヲイかえらば、所願成就と誓ひ、血を此他にて洗ひ、其水のしたゝりで曼陀羅を書、爪切の曼陀羅といふ。當寺の什物とせしが、先年退院の住持が盗み行しといふ。
とあり、「鎌倉市史 社寺編」には『不受不施派の住職が持ち去ったのであろう』と書かれてある。]
妙 勝 寺
常光山ト號ス。法華宗、本尊釋迦、上總ノ妙光寺ノ末也。開山ハ日胤ナリ。
[やぶちゃん注:この寺、現存しないが、「鎌倉廃寺事典」に『宗旨未詳。小町、小町口』にあった寺として、ズバリ、「妙勝寺」という寺が挙がっている、「新編相模国風土記稿」には名を挙げただけで説明もない。と記した上で、亀田輝時編集になる雑誌『鎌倉』の『三の二(九)の七二頁に「小町夷神社前の辻の北側にもと妙勝寺という寺があつてその辻があつてその辻の所に大石があり、其の石が日蓮辻説法の腰掛石だが、現今のところに移されたものだといふ」とみえる。最近昭和三十四年頃まで、祟りがあると噂があって空地であったが、今は宏壮な邸宅となっている』とあり、『同五の二(十九・二十)一一七頁、延宝八(一六八〇)年の「鎌倉中御除地覚」に「本寺上総国茂原 妙勝寺法花」とみえる』とも記す。本光圀の日記は延宝二(一六七四)年五月である。前後の寺から見ても――間違いない! これこそ! 『宗旨未詳。小町、小町口』とされてきた妙勝寺である!]
大 行 寺
長慶山ト號ス。法花宗、池上ノ末寺也。寺領二貫五首文アリトナン。
強氣にて思わざる福ひを得し者の事
芝居役者中嶋勘左衞門が弟子に中嶋國四郎といふ者有しが、男ぶりはいかにも大きく、實惡には打(うち)つけの男成しが、藝は殊の外下手にて、暫く狂言にも出しかども、江戸にても誰有(たれあつ)て看る者もなかりしが、ひと年山下金作と心安くやありけん、金作に付て大坂へ登りしが、大坂道頓堀芝居にて座附きの口上など述(のべ)しに、彼(かの)大坂の笹瀨手打(ささせてうちれん)連中などいへる立衆(たてしゆ)も、江戸なまり面白なしなど色々惡口(あくこう)くちぐち成(なり)しが、能々の事にもありけん、翌日も同樣にて彼(かの)棧敷(さじき)に來り居し町方掛りの者よりも、鎭り侯樣聲を懸け候位(ぐらい)也し由。國四郎も芝居濟て宿へ歸りしが、今日の如くにては誠に芝居面(つ)ラ出しもならず、大坂へ居候(きよしさふらふ)事は難成(なりがたく)、江戸へ歸りても最早役者は成らざる事と十方(とはふ)にくれ、兼て日蓮宗にありしが一夜に水を三拾度沿びて一心に鬼子母神(きしもじん)を祈り、扨翌日は彼舞臺へ出る時、兼て所持せし脇差を密(ひそか)に持(もち)て出端(でば)に至り、例の通(とほり)舞臺へ出しに、案のごとく口々の惡たひきのふに增りし樣子也ければ、國四郎舞臺の中に立上り、此間中(うち)よりの惡口、我等は芝居者なれば何樣いわれたり共其通りの事也、然るに江戸なまり面白なしなどと存外の惡口、最早聞濟(ききずみ)難し、當時町御奉行勤(つとめ)給ふ御方も皆江戸表より來り給ふ。御奉行所へ出て御吟味の節江戸なまり面白なしといわるゝや、江戸を誹(そし)りて萬人中(うち)の惡口、我身のみならねば最早堪忍成難(なりがた)し、口計(ばかり)にては如何樣(いかさま)にもいわるべし、惡口申せし人何人(なんぴと)にても相手にならん、是(これ)へ出給へと兩肌をぬぎ尻を七の圖(づ)迄からげて呼(よばは)りければ、始のぎせいに似ず、誰(たれ)あつて答ふる者なし。芝居抔も身を捨ての勢ひ故手を附ず、此上如何取鎭(とりしづま)るべき哉(や)と思ひしに、大坂にて重立(おもだち)候町人其外立衆仲間の親分立出(たちい)で、國四郎申(まうす)處逸々(いちいち)尤也、扨々氣味のよき男也(なり)、何分我らにめんじて免し給へと割(わり)を入て、其(その)幕を引て、國四郎は男也(なり)と是より贔屓(ひいき)の者多く、翌日より國四郎への積物進物(つみものしんもつ)日毎にて、左(さ)迄もなき役者、右の一事故(いちじゆへ)評判よく大當り也(なり)し。夫(それ)に付(つき)おかしき事は、鴻の池とやらん鹿嶋やとやらんより、右國四郎を呼て、氣味よき男也、酒を呑めとて酒を振舞ひ、肴に貮百兩計(ばかり)の沽券(こけん)を可遣(つかはすべし)といひしが、國四郎義沽券といふ事を不知(しらず)、酒の肴ならば鯛にても何にても可差出(さしいださるべし)、沽券とやらはいらざる由答けるを、扨々欲心のなき男也と彌(いよいよ)賞翫されしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:実悪向き狂言(歌舞伎)役者(但し、先は実悪の名人、こっちはがたい葉は実悪向きながら芝居は大根)で連関する技芸譚。
・「福ひ」は「さいはひ」と読む。
・「中嶋勘左衞門」三代目中島勘左衛門(元文三(一七三八)年~寛政六
(一七九四)年) の誤り。二代目の子。江戸生。三代中島勘六を経て、宝暦一二(一七六二)年に三代勘左衛門を襲名、江戸を代表する敵役(かたきやく)として重きをなした。屋号は中島屋(以上は講談社「日本人名大辞典」を参照した)。
・「中嶋國四郎」底本の鈴木氏注に『後に和田右衛門と称す』とある。寛政六年五月の桐座興行「敵討乗合話」での中島和田右衛門と中村此蔵を描いた、東洲斎写楽の「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権」の浮世絵があるが、この右手の瘦せた中島和田右衛門が本話の主人公「中嶋國四郎」か? 識者の御教授を乞うものである(リンク先は「アダチ版画研究所」のサイトの販売用当該作品ページ)。
・「山下金作」(享保一八(一七三三)年~寛政一一(一七九九)年)初代中村富十郎の門人中村半太夫として活動を始め、寛延二(一七四九)年、前年引退した初代金作の養子となって二代目を襲名した。以後、上方と江戸を往来、地芸、特に濡れ事にすぐれた色っぽい若女形として人気があり、後年は女武道や敵役もよくした。当たり役の一つに八百屋お七があるが、この役で使った笄(こうがい)を象った「金作花笄(はなこうがい)」が売り出されて流行した。丸々と肥った大柄な体格に特徴があった。金作の名前は若女形として明治一〇年代まで続いた。屋号は天王寺屋(以上は「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。
・「座附きの口上」観客への一座新規参入の披露の挨拶。
・「笹瀨手打連中」「手打連中」とは歌舞伎用語で、上方に古くあった御贔屓筋の集団。所謂、いっちゃってるファン組織である。顔見世のときには一座の俳優に進物を贈り、茶屋の軒には連中の印のある箱提灯をかけた。揃いの頭巾を被っており、呼称は奇妙な拍手を打ったことに由来する。中でも享保から安永にかけて(一七一六年~一七八一年)大坂で次々に生まれた「笹瀬」「大手」「藤石」「花王(さくら)」という、所謂、四連中が有名である。「見連(けんれん)」「組」「組見(くみけん)」とも呼ぶ(以上は平凡社「世界大百科事典」を参照した)。
・「立衆」「伊達衆・達衆」で「たてしゅう」「だてしゅう」「だてし」とも読む。通人、粋人。但し、そうした連中と部分集合を作り易い侠客の意でも用いられる。
・「彼(かの)棧敷」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『役座敷(やくざしき)』とあり、長谷川氏注に『役人のために設けた桟敷』とあって、後述部分との整合性もよいので、現代語訳ではそちらを採った。
・「十方(とはう)」は底本のルビ。途方。
・「兼て日蓮宗にありしが一夜に水を三拾度沿びて一心に鬼子母神を祈り」日蓮は、十羅刹女(じゅうらせつにょ)とともに、仏教の天部における十人の諸天善神の女性鬼神の中でも特に鬼子母神を法華経の守護神として大曼陀羅の中に勧請し、重視していた。
・「出端」出場。役者の登場する場やタイミング。
・「惡たひ」底本では右に『(惡態)』と傍注する。
・「いわるゝ」「いわる」はママ。
・「七の圖」「七の椎」とも書く。尻の上部。背骨の大椎(東洋医学では背骨ではっきりと視認で最上部の隆椎とも呼ばれる第七頸椎)から数えて第七椎と第八椎の間辺り。丁度、尻の上辺りに相当する。
・「ぎせい」「きせい」で気勢のこと。
・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。
・「積物」歌舞伎興行の際に祝儀の酒樽や俵物などを積み重ねて飾ったもの。
・「鴻池」江戸時代の豪商として知られた大坂の両替商鴻池家(今橋鴻池)当主、鴻池善右衛門。家伝によれば摂津伊丹の酒造業者鴻池直文の子善右衛門正成が大坂で一家を立てたのを初代とし、明暦二(一六五六)年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥ともいうべきものを形成、歴代当主からは茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる(以上はウィキの「鴻池善右衛門」を参照した)。登場人物の生没年から推すと、六代目鴻池善右衛門であろう。
・「鹿嶋や」加島屋。大名貸で鴻池家と並び称された大坂の豪商。寛永の頃から大坂御堂前で米問屋を始め、両替商も兼営した。のちに十人両替(大坂で両替屋仲間の統制・幕府公金の出納・金銀相場の支配などにあたった十人の大両替屋のこと。十人組とも)に任命されている(以上はウィキの「加島屋(豪商)」を参照した)。岩波の長谷川氏注には『久右衛門諸家あり』とある。
・「沽券」「沽」は売るの意で、土地・山林・家屋等の売り渡し証文のこと。そこから転じて、人の値うち・体面・品位の意で「沽券に係わる」と使う。
■やぶちゃん現代語訳
強気に出でて思わぬ幸いを得た者の事
江戸の芝居役者中島勘左衛門が弟子に中島国四郎と申す者があったが、男ぶりは如何にも大きく、実悪には打ってつけの男であったが、芸は殊の外――これ、下手であった。
暫く狂言の舞台にも出ておったものの、江戸にては、これ、誰(たれ)一人褒むる者もなき故、上方で女形として知られておった山下金作――どうも国四郎は、かの者と親しゅうしておったようじゃが――この金作について、大阪へと上った。……
ところが、大阪道頓堀の芝居にて、座付きの口上を述べたところが、大阪の笹瀬手打連中(ささせてうちれんじゅう)なんどと呼ばるるところの、かの奇体な贔屓筋の立衆(たてしゅ)どもが、
「あほんだら! なんや! それ!」
「江戸訛りは――面白う――ないわい!」
「そや! そや!」
「……さ、が、っ、て、も、ら、い、ま、ひょ、か……」
と、色々の悪口(あっこう)、まあ、これ、賑やかなこと!
翌日も全く変わらず、あまりの罵声と騒動に、たまたま役桟敷(やくさじき)に観察に来ておった町方の役人の者からも、度を越した理不尽ならんと、
「いいかげんにせんか! ちいと、鎮まれ!」
と、注意が飛んだほどであったと申す。……
……国四郎、芝居が済んで、宿へ帰ってはみたものの、
「……今日のようなていたらくじゃぁ……そもそもが芝居にひょいと面(つら)ぁ出すも、ままなんねぇ……こんな調子じゃぁ、大阪で役者としてやってくてぇのは、とてものことに、難しい……かと言って……江戸へ帰ぇても、これ、最早……役者で食っていくってぇは……あり得ねぇ……」
と途方に暮れ、かねてより宗旨は日蓮宗にて御座ったれば、その夜、一晩に水を三十度も浴びて、一心不乱に鬼子母神(きしもじん)を祈請致いた。……
さて翌日、国四郎、かの舞台へ出ずる時、かねてより所持致いて御座った脇差しを密かに懐中に刺して、出番に至って、何時もの通り、舞台に上がった。
されど、察した通り、口々の悪態、昨日に増して、ひどい有様なれば、
――国四郎!
――舞台の真ん中に!
――隆々と立ち上がり!
「――この間(あいだ)うちよりの悪口! 我らは芝居者なれば――拙なる芝居に何様(なにさま)言われたりとも、これ、言わるるまま――その通りじゃ!……然るに、『江戸訛り、面白うない!』なんどとは、存外の悪口! 最早、これ、聴き捨てならん! 今時(こんじ)、町奉行を勤め給う御方も、これ皆、江戸表より来たり給う! さても、うぬら、御奉行所へ出でて、御吟味の最中(さなか)、御奉行様に向こうて、『江戸なまり、面白うない!』とのたもうかッ?! これ――我らのみならず――江戸者への罵詈雑言と心得たッツ! 最早、これ、堪忍成り難し! 口ばかりにては、如何様(いかさま)にも申そうず! 悪口申した御仁! 何人にても相手にならん! ここへ出で給えッツ!……」
――と
――諸肌脱いで!
――尻を七の図(ず)までからげて呼ばわった!……
「…………、…………、…………」
――と
……さっきまでの気勢はどこへやら……
……誰(たれ)一人として答ふる者……これ、ない。……
……舞台におった他の役者どもも、これ、国四郎の、身を捨てたる勢いに、すっかり呑まれてしもうて、どうにも手出し出来ずなって、ただ氷の如、立ち尽くすばかり、
『……この上……一体……如何にして場を鎮むること……出来ようかのぅ……』
と恐々と致いて御座った。……
――と
……大阪にても顔役と知らるる者やら……その他の立衆連(たてしゅれん)の親分さんが、静かに舞台へと立ち出でて、
「……国四郎の申すところ、これ、いちいち尤もなことじゃ!……さてさて、なんとも小気味よい男やないかい!……国四郎はん……わてらに免じて、ここは一つ、あんじょう、許しておくんない!」
と詫びを入れて、満座を収め、幕が引かれたと、申す。……
さても、このかた、
「国四郎は――男やで!」
と贔屓する者、これ、後を絶たず、翌日よりは、国四郎への積み物・進物(しんもつ)、これ、日毎に山を成す盛況にて――さまで大した役者にてもなきに――かの一件を以って――大当たり致いて御座ったと、申す。……
さて最後じゃ。
こうなってからの国四郎につき、面白きことを添えおくことと致そう。……
……鴻池(こうのいけ)とやらん、加島とやらん、かの大阪の豪商が、この国四郎を呼んで、
「まっこと、気風(きっぷ)のよき男やの! まあ、酒、呑めや!」
と、宴を設けて酒を振る舞(も)うた際、
「……一つ、どや?……酒の肴に――二百両ばかりの沽券(こけん)――これ、やりましょか?」
と申したところが――当の国四郎――「沽券」の意味を知らなんだによって、
「――酒の肴ならば、鯛にても何にても、さし出ださるれば、これ、食わしてもらう……が……あの、沽券と申すものだけは……これ、勘弁しておくない!」
と申したを、
「……さてさて! まあ、なんと欲のなき――男やのう!……」
と、これまた、いよいよ褒め称えられた、とのことで、御座る。
颱風や朝日あまねき洗面器
颱風や夜の湯漬飯うつくしく
みづうみの底あかりして野分なほ
露ふかし銀河の底のくれなゐに
土の聲われにむらがり天の川
秋の星わがまなぞこの底なしに
唾吐けば良夜の運河唾ひびく
良夜行高浪捲いて底見する
草に斬られし血のうつくしや秋の風
とげ探るたなぞこ秋の風にあり
秋風やくちなは光る唾(つ)を垂らす
秋風をまつすぐに來て眉濃き人
板橋は鴉が多き秋日和
その夜の子剋(ねのこく)計(ばかり)に伊東次郞祐親法師が孫曾我十郎祐成、同五郞時致(ときむね)忍入(しのびい)りて、工藤左衞門尉祐經を討ちたり。備前國吉備津宮の王藤內(わうとうない)は平家の家人瀨尾(せのをの)太郞兼保に與(くみ)して、囚人(めしうど)となり、祐經に屬して、本領を許し給はり歸國すべきを、今夜名殘の盃酒(はいしゆ)を勸め、同じ所に臥して討たれたり。祐成兄弟の敵を討ちたる由宿直(とのゐ)の輩聞付(きゝつけ)て走り出でつゝ疵を蒙る者多し。十郞祐成は仁田(につたの)四郞忠常に討(うた)れ、五郎時致は御前を指して亂入(みだれい)りしを小舍人(こどねり)五郞丸搦取(からめと)りたり。御前に引出し、直(ぢき)に子細を聞かしめ給ふ。この兄弟は伊東祐親が嫡子、河津(かはづの)三郞祐泰が子なり。去ぬる安元二年十月に伊豆國奧の狩場に祐經に射られて死す。この時祐成五歲、時致三歲なり。親の敵なれば宿意を遂げんと晝夜に狙ひしが、祐成二十三歲、時致二十(はたち)に成て、今夜本望を遂げはべり。祖父(おほぢ)伊藤祐親御勘當(ごかんだう)を蒙り、父祐泰も相果てたり。その孫なれば召出(めしいだ)さるる事もなく、この恨(うらみ)を報ぜん爲(ため)御前を指して亂入せしと申す。賴朝助けたく思召(おぼしめ)しけれども、祐經が嫡子犬坊丸(いぬぼうまる)が申すに依(よつ)て五郞は斬られにけり。六月七日賴朝卿鎌倉に歸り給ふ。
[やぶちゃん注:〈曾我兄弟の仇討〉
建久四(一一九三) 年五月二十八日の記事から見よう。
〇原文
廿八日癸巳。小雨降。日中以後霽。子剋。故伊藤次郞祐親法師孫子。曾我十郞祐成。同五郞時致。致推參于富士野神野御旅館。殺戮工藤左衞門尉祐經。又有備後國住人吉備津宮王藤內者。依與于平家家人瀨尾太郞兼保。爲囚人被召置之處。屬祐經謝申無誤之由之間。去廿日返給本領歸國。而猶爲報祐經之志。自途中更還來。勸盃酒於祐經。合宿談話之處。同被誅也。爰祐經。王藤內等所令交會之遊女。手越少將。黃瀨川之龜鶴等叫喚。此上。祐成兄弟討父敵之由發高聲。依之諸人騷動。雖不知子細。宿侍之輩者皆悉走出。雷雨擊鼓。暗夜失燈殆迷東西之間。爲祐成等多以被疵。所謂平子野平右馬允。愛甲三郞。吉香小次郞。加藤太。海野小太郞。岡邊彌三郞。原三郞。堀藤太。臼杵八郞。被殺戮宇田五郞已下也。十郞祐成者。合新田四郞忠常被討畢。五郞者。差御前奔參。將軍取御劔。慾令向之給。而左近將監能直奉抑留之。此間小舍人童五郞丸搦得曾我五郞。仍被召預大見小平次。其後靜謐。義盛。景時承仰。見知祐經死骸云々。
左衞門尉藤原朝臣祐經
工藤瀧口祐繼男
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日癸巳。小雨降る。日中以後、霽(は)る。子の剋、故伊藤次郞祐親法師が孫子(まご)、曾我十郞祐成、同五郞時致(ときむね)、冨士野の神野(かみの)の御旅館に推參致し、工藤左衞門尉祐經を殺戮す。又、備後國住人吉備津宮の王藤內(わうとうない)といふ者有り、平家の家人瀨尾太郞兼保に與(くみ)するに依つて、囚人として召し置かるるの處、祐經に屬し、誤り無きの由を謝し申すの間、去ぬる廿日、本領を返給され歸國す。而るに猶ほ、祐經の志に報ぜんが爲、途中より更に還り來たり、盃酒を祐經に勸め、合宿談話するの處、同じく誅せらるるなり。爰に祐經、王藤內等、交會せしむる所の遊女、手越(てごし)少將・黃瀨川の龜鶴等、叫喚す。此の上、祐成兄弟、父の敵(かたき)を討つの由、高聲を發す。之に依つて諸人、騷動す。子細を知らずと雖も、宿侍(しゆくじ)の輩は皆、悉く走り出づ。雷雨、鼓(つづみ)を擊ち、暗夜に燈を失ひて、殆んど東西に迷ふの間、祐成等が爲に多く以て疵を被る。所謂、平子野平(たいらこのへい)右馬允・愛甲三郞・吉香(きつかは)小次郞・加藤太・海野小太郞・岡邊彌三郞・原三郞・堀藤太・臼杵(うすき)八郞、殺戮せらるるは宇田五郞已下なり。十郞祐成は、新田四郞忠常に合い討たれ畢んぬ。五郞は、御前を差して奔參す。將軍、御劔を取り、之に向はしめ給はむと慾す。而るに左近將監能直、之を抑へ留め奉る。此の間に小舍人童(こどねりわらは)五郞丸、曾我五郞を搦め得たり。仍つて大見小平次に召し預けらる。其の後、靜謐(せいひつ)す。義盛・景時、仰せを承りて、祐經の死骸を見知(けんち)すと云々。
左衞門尉藤原朝臣祐經
工藤瀧口祐繼が男
・「富士野の神野」現在の静岡県富士宮市狩宿。富士山西北西一〇キロメートルに位置する。この富士の巻狩りの際、頼朝が馬から降りた所として「狩宿の下馬桜」と呼ばれる国特別天然記念物の桜の銘木が残る。
・「平子野平右馬允」平子有長(たいらこありなが)。以下、人名は「曾我物語」その他をも参考にしたものもあり史実上、確定されたものではないが、試みに示しておく。「吉香小次郞」吉川友兼。「加藤太」加藤光員。「海野小太郞」海野幸氏。「岡邊彌三郞」岡辺忠光か。「原三郞」原清益。「堀藤太」木曾義高探索を命じられた既出の堀親家の兄かと思われる。「臼杵八郞」臼杵惟信。「宇田五郞」宇田信重。「左近將監能直」大友能直。
建久四(一一九三) 年翌五月二十九日の条。
〇原文
廿九日甲午。辰剋。被召出曾我五郞於御前庭上。將軍家出御。揚幕二ケ間。可然人々十餘輩候其砌。所謂一方。北條殿。伊豆守。上總介。江間殿。豐後前司。里見冠者。三浦介。畠山二郞。佐原十郞左衞門尉。伊澤五郞。小笠原二郞。一方。小山左衞門尉。下河邊庄司。稻毛三郞。長沼五郞。榛谷四郞。千葉太郞。宇都宮彌三郞等也。結城七郞。大友左近將監。在御前左右。和田左衞門尉。梶原平三。狩野介。新開荒次郞等。候于兩座中央矣。此外御家人等群參不可勝計。爰以狩野新開等。被召尋夜討宿意。五郞忿怒云。祖父祐親法師被誅之後。子孫沈淪之間。雖不被聽昵近。申最後所存之條。必以汝等不可傳者。尤直欲言上。早可退云々。將軍家依有所思食。條々直聞食之。五郞申云。討祐經事。爲雪父尸骸之耻。遂露身鬱憤之志畢。自祐成九歲。時致七歲之年以降。頻插會稽之存念。片時無忘。而遂果之。次參御前之條者。又祐經匪爲御寵物。祖父入道蒙御氣色畢。云彼云此。非無其恨之間。遂拜謁。爲自殺也者。聞者莫不鳴舌。次新田四郞持參祐成頭。被見弟之處。敢無疑胎之由申之。五郞爲殊勇士之間。可被宥歟之旨。内々雖有御猶豫。祐經息童〔字犬房丸。〕依泣愁申。被亙五郞。〔年廿。〕以號鎭西中太之男。則令梟首云々。此兄弟者。河津三郞祐泰〔祐親法師嫡子。〕男也。祐泰去安元二年十月之比。於伊豆奧狩塲。不圖中矢墜命。是祐經所爲也。于時祐成五歲。時致三歲也。成人之後。祐經所爲之由聞之。遂宿意。凡此間每狩倉。相交于御供之輩。伺祐經之隙。如影之隨形云々。又被召出手越少將等。被尋問其夜子細。祐成兄弟之所爲也。所見聞悉申之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿九日甲午。辰剋。曾我五郞を御前の庭上に召し出ださる。將軍家出御、幕二ケ間(けん)を揚げられ、然るべき人々十餘輩、其の砌りに候ず。所謂一方は、北條殿・伊豆守・上總介・江間殿・豐後前司・里見冠者・三浦介・畠山二郞・佐原十郞左衞門尉・伊澤五郞・小笠原二郞。一方は、小山左衞門尉・下河邊庄司・稻毛三郞・長沼五郞・榛谷(はんがや)四郞・千葉太郞・宇都宮彌三郞等なり。結城七郞・大友左近將監、御前の左右に在り。和田左衞門尉・梶原平三・狩野介(かのうのすけ)・新開荒次郞等、兩座の中央に候ず。此の外の御家人等の群參勝(あ)げて計ふべからず。爰に狩野・新開等を以て、夜討の宿意を召し尋ねらる。五郞、忿怒して云はく、祖父の祐親法師誅せらるるの後、子孫沈淪(ちんりん)するの間、昵近(ぢつきん)を聽(ゆる)されずと雖も、最後の所存を申すの條、必ず汝等を以つて傳ふべからずてへれば、尤も直(ぢき)に言上せんと慾す。早く退くべし。」と云々。
將軍家、思し食(め)す所有るに依りて、條々、直(ぢき)に之を聞こし食(め)す。五郞、申して云はく、
「祐經を討つ事、父の尸骸の耻(はぢ)を雪(すす)がんが爲、遂に身の鬱憤の志を露(あら)はし畢んぬ。祐成九歲・時致七歲の年より以降(このかた)、頻りに會稽(くわいけい)の存念を插(さしはさ)み、片時(へんし)も忘るること無し。而うして遂に之を果す。次に御前に參るの條は、又、祐經、御寵物(ごちようもつ)たるのみに匪(あら)ず、祖父入道、御氣色を蒙り畢んぬ。彼(かれ)と云ひ、此(これ)と云ひ、其の恨み無きに非ざるの間、拜謁を遂げて、自殺せんが爲なり。」
てへれば、聞く者、舌を鳴らさざるは莫し。
次に新田四郞、祐成が頭(かふべ)を持參し、弟に見せらるるの處、敢へて疑胎(ぎたい)無きの由、之を申す。五郞、殊なる勇士たるの間、宥(なだ)めらるべきかの旨、内々に御猶豫(ごゆうよ)有ると雖も、祐經が息童〔字は犬房丸〕泣いて愁へ申すに依りて、五郞〔年廿。〕を亙(わた)さる。鎭西中太と號するの男を以つて、則ち梟首せしむと云々。
此の兄弟は、河津三郞祐泰〔祐親法師が嫡子。〕が男なり。祐泰、去ぬる安元二年十月の比、伊豆奧の狩場に於いて、圖らざるに矢に中(あた)り命を墜(おと)す。是れ、祐經が所爲なり。時に祐成五歲・時致三歲なり。成人の後、祐經が所爲の由、之れを聞き、宿意を遂げんとす。凡そ此の間、狩倉每に、御供の輩に相ひ交り、祐經の隙を伺ひ、影の形に隨ふごとくと云々。
又、手越少將等を召し出だされ、其の夜の子細を尋ね問はる。祐成兄弟の所爲なりと、見聞した所、悉く之を申すと云々。
・「北條殿」北条時政。以下、人名を列挙する。「伊豆守」山名義範。「上総介」足利義兼。「江間殿」北条義時。「豊後前司」毛呂季光。「里見冠者」里見義成。「三浦介」三浦義澄。「畠山二郞」畠山重忠。「佐原十郞左衞門尉」佐原義連。「伊澤五郞」井沢信光。「小笠原二郞」小笠原長清。「小山左衛門尉」小山朝政。「下河邊庄司」下川邊行平。「稻毛三郞」稻毛重成。「長沼五郞」長沼宗政。「榛谷四郞」榛谷重朝。「千葉太郞」千葉成胤。「宇都宮彌三郞」宇都宮頼綱。「結城七郎」結城朝光。「大友左近將監」大友能直。「和田左衛門尉」和田義盛。「梶原平三」梶原景時。「狩野介」狩野宗茂(かのうむねしげ)。「新開荒次郞」新開実重。
・「舌を鳴らさざるは莫し」とは、この場合は賛美のポーズである。
・「疑胎無し」間違いない。
・「犬房丸」工藤(後に伊藤姓を名乗る)祐時(文治元(一一八五)年~建長四年(一二五二)年)の幼名。
最後に。本注のために、「吾妻鏡」のこの前後を読んでいると、曾我兄弟に討ち取られた、この工藤祐経について、この直前の記載に如何にもな不吉な予兆が現れているのが分かる。例えば、同建久四(一一九三) 年の一月五日の条では、
〇原文
五日癸酉。工藤左衞門尉祐經家。恠鳥飛入。不知其號。形如雉雄云々。卜筮之處。愼不輕。仍𢌞祈請云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日癸酉。工藤左衛門尉祐經が家に、恠鳥(けてう)飛び入る。其の號(な)を知らず。形、雉の雄のごとしと云々。
卜筮の處、愼み輕からず。仍りて祈請を𢌞らすと云々。
とあって、新年早々、忌まわしくも奇怪なる鳥が彼の屋敷に飛び入ってしまい、占ったところが、重い凶兆と出、祈請が行われているのだ。また、死の前月四月十九日には、
〇原文
十九日乙夘。午剋。工藤左衞門尉祐經宅燒亡。不及他所。是去比新造移徙以後經三十八ケ日也云々。主者將軍家爲御供。下向下野國云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十九日乙夘。午の剋。工藤左衞門尉祐經宅燒亡す。他所に及ばず。是れ、去ぬる比、新造の移徙(わたまし)以後三十八ケ日を經るなりと云々。
主(ぬし)は將軍家御供として、下野國へ下向すと云々。
と、新築したばかりの彼の屋敷が焼亡しているのである。如何にも如何にも不吉ではないか。こういう事実、私には何とも言えず、面白いのである。]
手段を以かたりを顯せし事
いつの此にや、大坂にて有福の町人家内を召連れ花見にや、小袖幕など打せて酒宴なし居ける。最愛の小兒幕の内のみ居兼、乳母抱て其邊を立𢌞りしが、相應の武士彼(かの)小兒を見て殊に愛して拘取(だきとり)、有合(ありあひ)候由にて僕に持せし菓子手遊びなど遣しければ、乳母は悅びて幕の内の主人夫婦へ語りければ、主人夫婦も悅びて幕の内へむかへ、斷(ことわり)をも聞入(ききいれ)ず酒甕(さけがめ)の饗應などしける故、厚く禮謝して立別れぬ。しかしてより日數十日程も過て、彼侍右町人の門口を一僕つれて、あれこれと尋る躰(てい)を彼乳母見付て、立寄候樣申ければ、我等も此程の饗應の禮ながらそこ爰と尋し由にて、立派成(なる)肴菓子折等持參せし趣にて居宅へ通りければ、夫婦出迎ひて、此程しる人に成し事申出して酒肴等を出し饗應なしける處、暫く過て壹人の町人手に風呂敷包を提(さげ)て彼僕を以(もつて)申込、何某殿是に御出候はゞ對面いたし度旨申ける故、則(すなはち)亭主の差圖にて右町人も一席へ通りしに、彼町人懷中より百兩包壹ツと右箱を出し、扨々御手附も請取候儀には候得(さふらえ)ども、右道具差合有(さしあひある)故、殘金給り候共難差上(さふれへどもさしあげがたき)間、手附金返上いたし候旨申けるに、彼侍以の外憤り、一旦直段取極(ぢきだんとりきめ)手附迄も渡し置、今更返替(へんがへ)候とありて、跡金差支(あときんさしつかへ)候樣にて主人迄も不相濟(あひすまざる)儀、全(まつたく)外に高直(かうぢき)の賣口出來(しゆつたい)し故成(なる)べしと顏色を替(かへ)申ければ、右手代躰(てい)の町人申けるは、町人と申者は商賣躰(てい)にては甚未練成(はなはだみれんなる)者にて、殊に親方は生來欲深き者故、扨々御氣毒には候得共右の通(とほり)申候由を述(のべ)ければ、いづれも金子跡渡(あとわた)しさへ致候得ば證文も有之事(これあること)故、難澁可致筋無之(なんじふいたすべきことこれなし)とて懷中より金子三拾兩出して、右手代に百兩とともに相渡(あひわたし)、殘金百兩は明朝迄に可渡(わたすべし)と申ければ、左樣にて承知いたし候親方に候得ば、何しに私是迄御尋申持參可仕哉(たづねまうしもちまゐりつかまつるべきや)と申ける故、彼侍憤り、所詮汝が親方故(かれ)主人の外聞をも失わせ、我々が武士も不相立(あひたたざる)事に付、是より汝主人方へ行(ゆき)て目に物見せんと顏色替りて申しける故、亭主夫婦も氣の毒に思ひ、此程彼侍の仕方貞實極眞(ごくしん)の樣子故、子を譽られし所にも迷ひけるや、右金子百兩を用立可申(ようだてまうすべし)と申ければ、未(いまだ)馴染もなき人より多分の金子借受(かりうく)べき謂(いはれ)なしと一旦は斷(ことわり)しが、彼是考候躰(かれこでれかんがへさふらふてい)にて、右金子借受(かりうけ)の證文可致(いたすべき)由申けれど、證文にも不及(およばざる)由、然らば此茶碗は主人懇望に付(つき)此度相求(あひもとめ)候儀故、明日は右百兩返金可致(いたすべき)間、夫(それ)迄預り給はるべしとて、達(たつ)て斷しを無理に亭主へ相渡し、代金は彼手代に渡して立歸りぬ。しかるに翌日に成(なり)ても翌々日にも右侍不罷越(まかりこさず)、四五日も立ける故、不審に思ひ彼茶碗を取出し改見(あらためみ)しに、貮百三拾兩の價(あたひ)あるべき品にもあらざれば、道具屋又は目利(めきき)者など招きて見せけるに、是は五三匁(もんめ)の品にて貴(たふとむ)べき品にはあらず、全(まつたく)かたりに合(あひ)しならん、彼侍が居所主人等は何といふやと尋ねられて大に驚(おどろき)、名は聞しが主人幷(ならびに)所は聞ざる由故、是はいか成事(なること)にやと笑れける故彼者大に憤り、我々憎きかたりめが仕業哉(かな)、殘念なる事哉(や)と憤りに絕へず、奉行所へ願ひ出しに、奉行所にても手掛り無之願(これなきねがひ)故、たわけ者の沙汰に成(なり)、先づ右茶碗預けに成りしが、其節の奉行、名は忘れたる由、深く工夫ありて歌舞妓の座元を呼寄(よびよせ)、まづかくの事あり、此趣(このおもむき)を新狂言に取組致(とりくみいたす)べき由申付有之(まうしつけこれある)故、難有(ありがたき)由にて右狂言をなせしに、殊の外評判にて繁昌せしを、彼富豪の町人も芝居見物に至りしに、其身のかたりに逢し一部始終を面白く狂言になし、かたりの侍は實惡(じつあく)の立物(たてもの)中村歌右衞門などにて、かたりとられし我身は道外方(だうげがた)の役者、いかにも馬鹿らしき仕打共(しうちども)なりしをみて彌々憤り、宿へ歸りて食事も成らざる程にて、彼茶碗を取出(とりいだ)し、さるにても無念也(なり)とてきせるにて打こわしけるを、家内の者共大きに驚き、奉行所より預りの品なれば其通りに難成(なりがた)しとて訴出(うつたへいで)ける故、奉行所より猶又箱にくだけたる儘入て預置(あづけおき)、尙又歌舞妓座へ申付、彼打(うち)くだきたる所をも狂言に仕組(しぐみ)たりしに、大きに後日狂言(ごにちのきやうげん)の評判よく流行(はやり)しが、夫(それ)より日數十日計(ばかり)たつと、彼かたりの侍右の富家へ至りて、扨思はざる事にて江戶表へ急に罷越(まかりこし)、代金返濟茶碗受取も延引せしと、打ちこわせしを知りて猶又ゆすりせんと來りけるを、兼て手組(てぐみ)せし事(こと)故召捕(めしとら)れ刑罰に行れけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。岩波版長谷川氏注には、『講談の旭堂南慶口演「面割狂言」が同話(鈴木氏)。『昼夜用心記』六の一を源とする話。』とある。旭堂南慶は明治・大正期の講談師。「昼夜用心記」は北条団水作、宝永四年(一七〇七)年刊。それにしても、この手の失礼乍ら巧妙で面白い詐欺事件は「耳嚢」には殊の外散見する。江戸は詐欺の天国だった?――いや、寧ろ、簡単に騙されるだけ、それだけあの時代の人々は、これ、情に脆く正直な人が多かった――というべきであろう、どっかの時代とは違って……
・「有福」底本では「有」の右に『(或)』と傍注するが、わざわざ注する必然性を感じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『有福』である。有福は裕福に同じい。
・「小袖幕」戸外の花見などの際、小袖を脱いで張り渡した綱に掛けて幕の代用としたもの。後、花見などで戸外に張る普通の幕をもかく呼称するようになった。
・「手遊び」玩具。そもそも、小児の好める菓子やおもちゃを下僕に持たせているこの男、変くね?
・「酒甕」底本には右に『(尊經閣本「酒宴」)』と傍注し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『酒肴』とある。意味は同じであるし、難解でもない。別にこのままで問題ないと私は判断する。寧ろ「酒甕の饗應」の方が「有福の町人」のオーギーに遙かに相応しい言葉である。
・「變替」「変改」で、変更・心変わり・破約の意。
・「所詮汝が親方故(かれ)」私は「故(かれ)」と読んだ。接続詞(代名詞「か」に動詞「あり」の已然形「あれ」の付いた「かあれ」の音変化。「かあれば」の意)で、前述の事柄を受けて、当然の結果としてあとの事柄が起きることを表す。「ゆえに」「だから」の意で採った。
・「三、五匁」金一両=銀六〇匁=銭四〇〇〇文とした場合、一両の価値を分かり易く一〇万円とすると銀一匁は一六六七円程度になるから、せいぜい五千円から八千円程度、高く見積もっても一万円にも届かない感じである。
・「憤りに絶へず」底本では「絶」の右に『(堪)』と傍注する。「絶へず」の「へ」はママ。
・「たわけ者の沙汰に成」「たわけ者」は「愚か者」「馬鹿者」の言いであるが、これはかの騙りの犯人のことを指しているのではなく、そのような話に乗せられて騙され、居所も主人の名も訊かず、證文もかわざず、茶器も改めずに百両貸した、そうして何の手掛かりもないのにそれを恥ずかしくもなく提訴した、この亭主に対する評言の「たわけ者」と読む。謂わば、詐欺の被害者ではあるものの、非常識な誤った自己認識に基づく自業自得とも言うべき「阿呆の提訴」扱いとなった、の意で私は採った。識者の御教授を乞うものである。
・「實惡」歌舞伎の役柄の一分類。謀反を企む首領格の悪人やお家騒動の謀略者(特に「国崩し」とも別称する)などの終始一貫して悪に徹する敵役(かたきやく)タイプの役柄を指す語。主役に匹敵する重要な役回りで、顔を白く塗り、独特の大柄な鬘を付けていることが多い。「祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)」の松永大膳や「伽羅先代萩」の仁木弾正(にっきだんじょう)などに代表される役。立敵(たてがたき)とも言う。
・「立物」立者。一座の中で優れた役者。人気役者。立役者。
・「中村歌右衞門」初代中村歌右衛門(正徳四(一七一四)年~寛政三(一七九一)年)。上方の歌舞伎役者。三都随一の人気役者で、清水清玄・蘇我入鹿・日本黙右衛門などの眼光鋭く執念深い役柄に秀で、時代物・世話物に長じて風姿口跡ともに抜群で、実悪の名人と賞された。中村歌右衛門と改名したのは寛保元(一七四一)年頃とされ、天明二(一七八二)年
十一月に加賀屋歌七と改名、歌右衛門の名は門人の初代中村東蔵に譲っている。歌七改名後も舞台活動を続け、寛政元(一七八九)年十一月の京の都万太夫座で打たれた「刈萱桑門筑紫いえづと」の新洞左衛門役が最後の舞台となったと、ウィキの「中村歌右衛門(初代)」にある。本巻の執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春からすると、十五年以上前の話ということになる(但し、先に引用した岩波版長谷川氏注からすると、これは創作である可能性が強い)。
・「道外方」歌舞伎の役柄の一分類。滑稽な台詞や物真似を巧みに演じて人を笑わせる役。但し江戸中期以降は立役や端役の芸に道化的な要素が吸収されていき、役柄としては衰退に向かった。天明・寛政期(一七八一年~一八〇一年)の初世大谷徳次が道外方の名人と謳われたのを最後に殆んど消え去った。参照した小学館刊「日本大百科全書」によれば、『それ以後は、「半道(はんどう)」または「半道敵(はんどうがたき)」「チャリ敵(がたき)」などの役柄にその名残がある。道外方を「三枚目」というのは、看板や番付に、最初に一座の花形役者、二枚目に若衆方(わかしゅがた)、三枚目に道外方を並べる習慣があったことに基づくというが、かならずしも明らかでない。和事(わごと)師を二枚目とよんだのに引かれて生まれたことばではないかと思う』とある。
・「後日狂言」先行作品の続篇や続々篇の芝居のこと。
■やぶちゃん現代語訳
奇略を以って騙りを露見させた事
いつ頃のことにて御座ったものか、大阪の裕福なる町人、一家の者を召し連れ、花見にても御座ったか、洒落た小袖幕なんどを打って酒宴を致いて御座った。
主(あるじ)の溺愛致す子(こお)、これ、幕の内に居かね、むずがる故、乳母の抱いてその辺りを散歩して御座ったところ、相応の身なりを致いた侍が一人、子供を認めて殊の外可愛がり、乳母より抱き取っては、
「在り合わせのもにて御座れど。」
と、従僕(しもべ)に持たせて御座った菓子やらおもちゃを子に与えたによって、乳母は喜んで、もとの所へ戻って、かの幕の内の主人夫婦へも告げければ、主人夫婦も大層喜んで、頻りに辞退するその武士を、無理に幕の内へと迎え入れ、酒甕・肴の饗応をなして御座った。その日、したたかに酔うた侍は、これ、厚く礼謝致いて立ち分かれて御座った。
しかしてより、十日程も過ぎたある日のこと、かの侍が、例の従僕を連れ、その町人の門口の辺りに立って、何やらん、行き交う近隣の者に訊ねておるを、これ、あの乳母が見つけ、
「まあ、その節は。どうか、お立ち寄り下さいませ。」
と声をかけたところ、
「……いや、我らも、過日の御饗応下された御礼をと、実はそこここと、お探し申し、尋ね回って御座った。……」
とのことにて、従僕には、これ、立派な肴やら菓子折りなんどを持たして御座る風情なればこそ、丁重に居宅へお通し申し上げて、主人夫婦出迎えて、
「この度は、かくもよきお方と、知遇を得ました。」
なんどと話し、また、酒食なんどをも出だいて、饗応致いて御座った。
すると、暫く致いて、表に一人の町人が、手に風呂敷包みを提げて参り、外に待たせておった。かの従僕を通じ、かの侍へ取り次ぎを入れ、
「――何某殿、ここにお出で候はば、御対面致しとう存ずる――」
旨、申し入れて参った。
されば、主人指図によって、そのまま、その町人を招じ入れ、その場にて同席させたが、その町人、やおら、懐中より百両包を一つと、風呂敷に包んで御座った箱を取り出だいて、
「……さても、かく、お手付けの金子も頂戴しては御座いまするが……実は、こちらのお道具の方、よんどころなき差し支えが、これ、生じましたによって……そのぅ、残金を給わりましても、これ、差し上ぐること、出来難うなり……お手付の金子、これ、勝手ながら、ご返納申し上げます次第にて……」
と語り出した。
するとかの侍、以ての外に憤り、
「――一旦、値段も取り決め――手付けまでも渡しおいたに! 今更、破約とは如何なる料簡!……後日(ごにち)、周囲に残金不払いにて入手能(あた)はざると思われんは、これ、我が主人へも相い済まざることとなるッ!――全く以って――実のところ――外に高値の売れ口、これ、出来(しゅったい)致いたに相違なかろうがッ!……」
と顔も真っ赤になり、罵って御座ったところ、
「……我ら町人と申す者……商売にかけては、これ、なんぼう、思いっきりの、悪いものにて御座います。……特に、あてらの親方は、これ、生来の欲深か者にて御座いますれば、の……さてもさても、お気の毒には存じますれど……かくの通り、申し上げまして御座います。……」
と平然と致いて御座った。
するとかの侍、
「――相い分かった! 所詮、残りの金子さえ渡さば――証文もあることじゃ!――なんのかんのと、言わるる筋合いにては、これ、ないッ!」
と喝破するや、懐中より三十両を出だいて、かの手代と思しい男に、先に置かれた百両とともに突っ返し、
「……残金百両は……明朝までには、これ、相い渡す!――」
と言い添えた。ところが、手代は、
「……さようなことで承知致しますような親方ならば……何しに、この私めが、かくもあなたさまを探し尋ね、かくも理不尽なるお話を……これ、致しましょうや……」
と又してものっぺりと致いた顔にえ、抑揚ものう、答えた。
されば、かの侍は、ますます激情致いて、
「……し、所詮、お、お前の親方なる悪辣なる者のことじゃて!……我が主人の外聞をも失わせ……我らが武士の面目も、これにて立たざる仕儀と相い成ったればこそ!――これよりお前の主人の方へと出向き――目に物、これ、見せてりょうゾッ!!」
と、今度は面相、悪鬼の如、蒼うなって、喚(おめ)き叫んだ。
端で黙って聴いて御座った亭主夫婦も、あまりのことに気の毒に思い、また、かの侍の語るに、貞実なる忠勤と類い稀なる至誠を感じとって御座った故――いや、過日来、溺愛致いておる我が子がことを、この侍、口を極めて褒め千切って御座ったことが、これ、主人の心を甘くさせて御座ったものか――、
「……一つ、その残りの金子百両を、私どもにて、ご用立て申し上げましょう。」
と申したによって、侍は、
「……な、何を……未だ馴染みにても御座らぬ御仁より、かくも多分の金子、借り受けてよき謂れは、これ、御座らぬ!……」
と一旦は断ったものの、それでも、何やらん、未練のある様子なれば、再度、用立ての儀を申し入れたところ、
「……では、せめて、その金子借り受けの証文は、まず、交わし申そうぞ。」
と申したれど、亭主は、
「証文なんど、これ、結構にて御座いまする。」
と返す。すると、
「……然らば……そうじゃ! この茶碗は、我らが主人の懇望なされたによって、この度、買い求めたものにて御座る故、明日(みょうにち)、お借り受け致いた百両を返金致すによって、それまでは当方にてお預かり下さるるよう、願い奉る!」
とて担保の申し出と相い成って御座った故、亭主はたって辞退致いたものの、たっての願いと無理矢理、亭主へ箱に入ったままの茶器を渡いて、借り受けた代金百両を手代に渡すと、そのまま、かの手代風の男と、従僕を連れて帰って御座った。
しかるに……翌日になっても……翌々日になっても……これ、かの侍は……現われなんだ。……
四、五日も立ったによって、流石に不審に思い、かの茶碗を取り出だいて改め見たところが――これ、とても二百三十両の値のあろうはずのものにもあらざるものなれば――道具屋や目利きの者なんどを招いて、見て貰(もろ)うたところ、
「……これは……三匁(もんめ)か……せいぜいいっても五匁の品にて……まず、重宝さるる茶器なんどとは無縁の、如何にも凡庸なるもので御座る。……いや、御亭主、まんまと騙されましたなあ。……そのお侍の居所や主人などは、これ、何と申された?」
と訊かれて……これ、大いに驚き、
「……いやぁ……その……名(なあ)は聞いたれど……その、その主人や居所は……訊いとりまへんのや……」
と蚊の鳴くように呟いによって、
「――さても! さても!……そりゃあ……何ということで!……」
と相手に呆れられ、大笑いさるること、これ頻りなればこそ、亭主は、これ、大いに怒り、
「――さてもさても! 憎(にっく)き騙りの仕業じゃッ! 残念無念! 遺恨千万じゃッ!」
とあまりの憤りの昂ぶるに堪えず、奉行所へ咎人(とがにん)の探索方、願い出たものの、奉行所にても、手掛かりもない、はっきり申さば――「なんじゃあ?」といった感じの訴えなれば――これ「たわけ者のなす訴え」扱いとされ、まあ、とりあえずはと、例の証拠の安茶碗は、証拠品として亭主の元へ預け置きと相い成って御座った。
*
ところが、その訴訟を扱った担当の奉行――これ、残念なことに名は忘れたとの由に御ざる――この事件をつらつら考えておるうち、何とも深謀にして遠慮、迂遠にして痛快なる一計が浮かんで御座った。……
……まず、この奉行、歌舞伎の座元を呼び寄せ、
「……まんず……かくかくしかじかの面白き事件の御座った。……どうじゃ? この話柄を一つ、狂言に致しては、みんかのう?」
と申し付けた。すると、座元作家は、
「そりゃ面白うおます。有り難いこって! へえ、ほな、早速!」
と、瞬く間に書き上げられて舞台に上ったが、これがまあ、殊の外、評判と相い成り、芝居も大繁昌。……
……されば、かの騙された当の裕福なる町人も、芝居見物にと、何も知らずに、その芝居を見て御座った。……
すると……これ……己れが騙りに逢(お)うた一部始終を……面白可笑しゅう……完膚なきまでに滑稽なる狂言に作り替えられたものにて……
……騙りの侍は――これ、恰好ええ、実悪の立者(たてもの)中村歌右衛門
……騙りとられてた自分の役はといえば――これ、いかにも不細工で脳味噌の足りぬような道外方(どうげがた)の役者にて
……それが、如何にも馬鹿らしい仕打ちを、為さるるがままに、完膚なきまでに受くるという、徹頭徹尾、茶化されたその筋立てを見ておるうち
……これ、もう、腸(はらわた)が煮え繰りかえって
……暫く忘れて御座った心底の恨みが、これ、いよいよ憤激と相い成って
……宅へ戻った後(のち)も、怒りに食事すら喉を通らざるほどにて
――ついに、かの、遺恨の唯一の物証なる茶碗を取り出だいて、
「……ウウゥ……そ、そ、それにしても! 無念じゃッ!!」
と手にした煙管(きせる)にて、一撃のもとに打ち壊してしもうた。
家内の者どもは大きに驚き、
「……奉行所よりお預かりの品なれば……こ、これ……ただにては、済みませぬぞぇ!……」
と恐る恐る、証拠損壊の旨、届け出でた。……
*
すると、かの奉行、奉行所よりの正式な通達としては、
「――なおも砕けたるままに箱に入れて保管致すように。」
と、損壊のお咎めもこれなく、そのまま、また預け置かれた。
奉行は次に、またかの歌舞伎座の座元作家に申し付け、
「……かくかくしかじか……例の続きの話じゃて、面白かろうが。……のう。一つ、今度は、この茶碗を砕くところまでをも、かの狂言に仕組んでみては……どうじゃ?」
とて、また狂言に仕組まれて上演されたところが、これまた、続き狂言として評判を取って大当たり致いた。……
*
さて、その大当たりの噂が広まって十日ばかり過ぎた頃のことで御座る。
例の騙りの侍、あろうことか、ぬけぬけとかの町人の家へ、再び現れた。
「……あー、さて……思いがけぬ出来事の出来(しゅたい)致いて、急に江戸表へ急ぎ下向致さねばならずなっての……かのお借り致いた代金百両の返済並びに――さても、かの名茶器受け取りの儀も――これ、延引いてしもうて、申し訳なきことじゃった……」
と……
……いやさ、これ、如何にも、かの芝居を見知って、
『……これはこれは……あの馬鹿面男も……かのように茶碗を壊したに、これ、相違ない……』
と踏んで、なおもまた、強請(ゆす)りせんとの魂胆にて、厚かましゅうも再び現われて御座ったのであろう。……
……無論、かねてより待ち伏せ致いておった奉行所配下の者の手によって、捕縛の上、速やかに刑に処せられたと申す。
[がらがらへび]
今まで靜にして居たものが急に動き出すことも、往々敵を驚かすに足りる。「くも」の類は車輪のやうな網を張つて蟲の來るのを待つて居るが、若し人が近づいて網に觸れやうとすると、遽に身體を振つて網を搖り動かすことがある。小鳥などに對しては、恐らく一時攻撃を見合せしめるだけの功能はあらう。また敵の近づいたとき一種の聲を發して、今にこちらから攻撃を始めるぞといふ態度を示すのも、一時敵をして近づかしめぬ方便である。蛇類が敵に對するときに、必ず空氣を吹くやうな鋭い音を發することは誰も知る通りであるが、アメリカに産する毒蛇類は、尾に特別の裝置があつて、敵が近づくと頻にこれを鳴し續ける。その裝置といふのは、堅い角質の環で、尾の端の處に幾つも重なつて嵌まつて居る。拔けることはないが、一つづつ自由に動けるから、蛇が尾を振動させると、齒車の速に廻轉する所へ、金棒でも當てたやうな一種の不快な響を生ずる。教科書などには、原名を直譯して「がらがらへび」と名づけてあるが、寧ろアメリカ在住の日本人のつけた「鈴蛇」といふ名前の方が、尾の鳴し方を適切に現して居る。
[やぶちゃん注:「がらがらへび」有鱗(爬虫)目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科ガラガラヘビ属
Crotalus に属する蛇類の総称。マムシ亜科の模式属。南北アメリカ大陸に分布し、尾の先端に脱皮殼が積み重なった部位が存在し、古くなると抜け落ちる(丘先生の言う「拔けることはないが」というのは自然状態で中間部から折れてしまって当該装置が抜けて駄目になることはない、という意味であろう)。草原・森林・砂漠等の様々な環境で棲息しており、危険を感じると尾の積み重なった脱皮殻を激しく振るわせて音を出し、威嚇する。尾の積み重なった脱皮殻の形状と音が、乳児をあやす玩具の「ガラガラ」に似ていることが和名や英名“rattle”の由来する。最大種はヒガシダイヤガラガラヘビで最大全長二・四メートルに達する。また、私が授業でしばしば生物機関の軍事転用で薀蓄を垂れたピット器官(ヘビ亜目の構成種が頭部先端の口唇窩に備えている赤外線感知器官)を持つサイドワインダー“Sidewinder”(和名ヨコバイガラガラヘビ Crotalus cerastes)も実はガラガラヘビの仲間である。授業でハブ類の話を附したように上記の通り、ピット器官は広くヘビ類が持っている器官である(一部、ウィキの「ガラガラヘビ属」を参考にした)。
『アメリカ在住の日本人のつけた「鈴蛇」といふ名前』ネット上を見るとガラガラヘビのテキーラ漬を「鈴酒」と呼ぶなど、現在でも残る風雅な和名である。それにしてもこの部分の記述は時代の匂いを漂わせている。本書の初版の刊行は、
大正五(一九一六)年
使用底本は
大正十五(一九二六)年
の第四版
である。ウィキの「日系アメリカ人」の「歴史」の項を見てみよう。
一九〇〇年
アメリカ本土への日系移民の数が初めて年間一万人に達する。
一九〇〇年代
日系移民による土地の開墾と入植が始まる。
一九〇二年
安孫子久太郎が、カリフォルニア州に日系人専門の人材派遣業「日本人勧業社」(のちに日米勧業社)設立。
日系人によるアメリカでの初の書物となる、ヨネ・ノグチ(野口米次郎。イサム・ノグチの父)の作“The American Diary of a Japanese Girl”が出版される。
一九〇三年
西原清東がテキサス州に移住、後年同地における稲作を成功させる。
一九〇六年
連邦政府、帰化法を改正。司法省、全裁判所に対し日本人の帰化申請を拒否するよう訓令を発布。
一九〇七年
二月に施行された大統領令により、ハワイ、メキシコ、カナダからアメリカ本土への日系人の移住禁止。
ニューヨークで“Japan Society”(日本協会)設立。高見豊彦が紐育日本人共済会を設立。
一九〇八年
日米両政府間で前年から七度に亘り行われた書簡交換により、紳士協定に基づく日本人の移民制限開始。
カリフォルニア州で、“Japanese Association of America”(在米日本人会)設立。
一九〇八年
写真だけのお見合いをしてアメリカの日系人男性のもとへ嫁ぐ女性(いわゆる写真花嫁)の渡航が始まる。
一九一三年
カリフォルニア州で、上記アリゾナ州と同様の法律(対外国人土地法一九一三)施行。一世の土地の購入および一定年数以上の借地が禁じられる。同時期、アリゾナ州では期限を問わず一世による一切の借地が禁じられる。その後他州に拡大。
一九二〇年
二月、日本政府が「写真花嫁」に対する旅券発行を禁止。
一九二三年
ワシントン州で、対外国人土地法修正法により、アメリカ国籍を持つ未成年の日系人の土地所有も禁止され、未成年二世を抜け道的に土地所有者にする手段も絶たれる。
一九二四年
埴原正直駐米大使の書簡により連邦議会が排日に傾き、五月の合衆国移民法一九二四(排日移民法)成立により、正式には七月一日以降、実質的には六月二十四日、移民船「シベリア丸」でサンフランシスコ港に到着した移民を最後に日本人の移民が全面的に禁止される。
そして、太平洋戦争が始まって、日系人の本格的な受難が始まる。……
一九四一年十二月八日
真珠湾攻撃による日米開戦。日系人社会の主だった人々が逮捕される。
以下、「日系人の強制収容」「全員日系二世まらなる工兵隊」「ハワイ出身の日系人兵士によるアメリカ陸軍第一〇〇歩兵大隊編成」「一九四二年十二月のマンザナール強制収容所暴動」と続き、
一九四五年
第四四二連隊(第一〇〇歩兵大隊を日系人志願兵によって組織された第四四二連隊戦闘団に統合したもの)が一万八千百四十三個の武勲章及び九千四百七十六個の名誉戦傷章を受章し、アメリカ軍史上最も多くの勲章を授与された部隊の栄誉に輝く。同時に累積戦死傷率三一四%を記録し、全米軍部隊中、最も損害を受けた部隊としても記憶されることとなる。
とある。……遠い記憶の中の、恐ろしい「鈴蛇」の音(ね)が……聴こえて来る……]
谷中にて
秋光に犬あり墓を嗅ぎゐたり
[やぶちゃん注:秀逸である。]
*
ここに来て「畑耕一句集 蜘蛛うごく」を連続公開しているのには理由がある。最後のバレバレ・ヒントだ……近日到来する420000アクセス記念と関係がある……幻想文学ファンなら、もう、お分かりだろう……
秋天にぐわらりとあけて艙口(ハツチ)の扉
虹たてり雀の仕事まじめなり
いかづちのいまだ臭へる森の夕日
はらばへる疊のそとの夏の雨
天井を忘れ驟雨の中に坐す
日盛や電柱たてる蓮の中
繰りおろす碇の泡も日の盛り
あたらしき燈あり田園都市の梅雨
肩うつて春の霰のそれきりに
十二郷谷〔十二所村トモ云〕
淨妙寺ヨリ東南ノ谷、民家三軒今ニアリ。川越屋敷ト云ハ十二郷谷ノ東隣也。
[やぶちゃん注:「川越屋敷」河越重頼(?~文治元(一一八五)年)のことと思われる。武蔵国入間郡河越館の武将で新日吉社領河越荘の荘官。頼朝の命で義経に娘(郷御前)を嫁がせた事から源氏兄弟の対立に巻き込まれて誅殺された(事蹟はウィキの「河越重頼」に拠る)。但し、ここに彼の屋敷があったという事実を証明するものはない。]
胡 桃 谷
十二郷谷ノ北向ヒノ西ナリ。
中 谷〔今按ニ釋迦谷歟〕
名越口ノ切通ノ前ノ谷ヲ云。釋迦堂谷トモ云フ。雪下ヘ歸ル海道ヨリ名越口ヲ遙望ス。此ヨリ三浦へ出ル切通アリ。犬翔谷ノ西ノ谷ナリ。
大御堂谷
中谷ノ西隣也。阿彌陀山トモ云。今ハ畠ニテ七堂伽藍ノ礎石アリ。勝長壽院ノ舊跡也ト云。文覺弟子ノ僧開基ナリ。義朝ノ廟所、鎌田政淸ガ骨ヲモ葬ル。東鑑ニ、兵衞佐殿朝敵ヲ悉ク誅シ、亡父ノ追善ニ一宇ヲ建立セントテ、鎌倉中ノ勝地ヲ見、御所ノ南ノ山ノ麓ニ勝タル地形アリ。因テ元暦二年二月十九日、南堂ノ事、初潛ニ此事ヲ後白河法皇へ奏聞アリケバ、叡感ノ餘リニ、東ノ獄門ノアタリニ於テ、故左馬典厩ノ首ヲ尋ラレ、鎌田兵衞政淸ガ首ヲ相副へ、江判官公朝ヲ敕使トシテ、是ヲ被下(下さる)。政淸ガ首ハ南堂ノ地ニ葬リ、御堂勝長壽院ト號ス〔云云〕。
闇齋遠遊紀行ニ、此地ニ實朝ヲモ葬ルト云リ。
[やぶちゃん注:「闇齋遠遊紀行」江戸前期の儒者で神道家の山崎闇斎(元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年)が明暦四・万治元(一六五八)年に著わした紀行文。]
歌 橋
金澤海道荏柄ノ馬場崎ノ少東也。
[やぶちゃん注:「崎」は「先」の誤りであろう。]
文覺屋敷
歌橋ノ西向ヒ、大御堂ノ西隣ナリ。其上ノ山ヲ小富士ト云也。杉森アリ。
屏 風 山
小富士ノ眉、文覺屋敷ヨリ南方寶戒寺ノ後ノ山ナリ。
畠山屋敷
雪下ノ入口ニアル小橋ヲ筋違橋ト云。其北ヲ畠山屋敷ト云。東鑑ニ、正治元年五月七日、南門畠山次郎ガ家ニ、醫師時長ヲ置ル。御所ノ近所タルニ因テ也。
*
以上、「鎌倉日記」(「德川光圀歴覽記」)の「乾」の巻の総てを終了した。
春の星銀座の上に空がある
富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討
[やぶちゃん注:本話は二部に分けて注する。従って本来は本文は続くものであることを注意されたい。]
同四年五月十六日右大將賴朝卿富士野藍澤(あゐざは)の夏狩(なつかり)を見給ふ。五間(けん)の假屋に賴朝、若君旅館として、御家人同じく軒を連ねて假屋(かりや)を作る。若君初て鹿を射さしめ候ふ。愛甲三郞季隆は物逢(ものあひ)の故實を存ずる上、折節近く、御眼路(がんろ)に候(こう)ず。若君の放ち給ふ所の矢過(あやま)たず鹿に中(あたつ)て羽(は)ぶくらをせめて立ちたり。究竟(くつきやう)の矢壺(やつぼ)なれば、一矢にて留(とゞ)まる。賴朝感悅(かんえつ)淺からず、山神に祭り、梶原平次景高を鎌倉に遣(つかは)して、御臺所政子の御方へ申さしめらる。御臺更に御感なし。「武將の嫡子として、野山の鹿鳥を射取りたるは珍しからず。楚忽(そこつ)の早使(はやづかひ)こそ氣疎(きうと)けれ。」と宣ふに、景高、面(おも)なくて歸りまゐりぬ。二十七日の未明(びめい)より勢子(せこ)を催し狩り給ふに、各(おのおの)手を盡して藝を顯(あらは)す。一日狩暮して、明日は卷狩(まきがり)あるべしと定めらる。
[やぶちゃん注:〈富士の巻狩り〉
本話全体は富士の牧狩りと、そこで起こった有名な曾我の仇討ちの一件を記したもので、「吾妻鏡」からは、前半部に巻十三の建久四(一一九三)年五月十五日・十六日・二十二日・二十七日の条が、後半の仇討ちのシーンは、同五月二十八日・二十九日及び六月七日の条が参照されている。本話はこの前後に分けて注することとする。
「富士野藍澤」現在の御殿場市新橋鮎沢(あゆざわ)。
「五間」約九メートル。
「若君」頼家。当時、満十二歳。
「愛甲三郞季隆」愛甲季隆(あいこう/あいきょうすえたか ?~建保元(一二一三)年)は相模国愛甲郡愛甲荘(現在の神奈川県厚木市愛甲)の武将。弓射に優れ、将軍随兵や正月の御的始の射手を務めており、元久二(一二〇五)年に起った畠山重忠の乱の二俣川の戦いでは、武勇の誉れ高かった重忠に矢を的中させて首級を取り、幕府軍大将北条義時に献上している。建保元(一二一三)年の和田合戦で義盛方に与して敗北、兄義久ら一族と共に討ち死にした(以上はウィキの「愛甲季隆」に拠る)。
「物逢」射芸用語で、射手が的に向かった際の作法のこと。
「御眼路に候ず」頼家公の間近にお控えし、その微妙な物逢いについて助言申し上げた、という意であろう。
「羽ぶくら」底本頭注には『羽ぶくらの所まで』とある。「羽ぶくら」とは「矢羽」のこと。矢の後尾に附いた羽根。「羽房(はぶさ)」とも言う。
「せめて立ちたり」矢が鹿の体の矢羽の根元まで喰い込んだことを言う。
「究竟の矢壺」射どころとして一撃必死の最も的確な部位。
「梶原平次景高」(永万元(一一六五)年~正治二(一二〇〇)年)梶原景時次男。長男景季の実弟。「一ノ谷の戦い」の緒戦であった「生田の森の戦い」では、父の制止をきかず、平家の陣に先駆けして奮戦した名将。駿河狐崎(きつねがさき)での在地御家人との戦いにより、一族とともに討死した。
「御臺更に御感なし」多くの方はここに不審を抱かれるであろう(「氣疎けれ」とは、疎ましく不快だ、といった謂いである)。しかし、これは「吾妻鏡」を仔細に読んでゆくと、よく分かるのである。以下で検証してみよう。まず、この前日建久四(一一九三) 年五月十五日の記事から。
〇原文
十五日庚辰。藍澤御狩。事終入御富士野御旅館。當南面立五間假屋。御家人同連詹。狩野介者參會路次。北條殿者豫被參候其所。令獻駄餉給。今日者依爲齋日無御狩。終日御酒宴也。手越黃瀨河已下近邊遊女令羣參。列候御前。而召里見冠者義成。向後可爲遊君別當。只今卽彼等群集。頗物忩也。相率于傍。撰置藝能者。可隨召之由被仰付云々。其後遊女事等至訴論等。義成一向執申之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日庚辰。藍澤の御狩、事終りて、富士野の御旅館に入御す。南面に當りて五間の假屋を立つ。御家人同じく詹(のき)を連らぬ。狩野介は路次に參會す。北條殿は、豫(あらかじ)め其の所へ參候せられ、駄餉(だしやう)を獻ぜしめ給ふ。今日は、齋日(さいにち)たるに依つて、御狩無く、終日御酒宴なり。手越(てごし)・黃瀨河(きせがは)已下、近邊の遊女羣參せしめ、御前に列候す。而かうして里見冠者義成を召し、「向後は遊君の別當たるべし。只今、卽ち彼等群集す。頗る物忩(ぶつそう)なり。傍(かたはら)に相ひ率して、藝能者を撰び置き、召に隨ふべし。」との由、仰せ付らると云々。
其の後、遊女の事等、訴論(そろん)等に至るまで、義成、一向に之を執り申すと云々。
・「狩野介宗茂」(生没年未詳)後半で曾我兄弟に討たれる工藤祐経の叔父工藤茂光(?~治承四(一一八〇)年)の子。
・「駄餉」簡易の弁当。
・「齋日」六斎日(ろくさいにち)。仏教の殺生戒に基づく斎日の一つ。月の内で八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日がそれに当たる。ここは十四日であった。
・「手越」現在の静岡市駿河区手越。次の「黄瀨河」とともに東海道の宿場町として栄えた。
・「黃瀨河」現在の沼津市大岡木瀬川。
・「里見冠者義成」(保元二(一一五七)年~文暦二(一二三四)年)は新田義重の長男里見義俊(里見氏の祖)の子で頼朝の寵臣であった。それにしても遊女担当別当職として遊女関連訴訟まで総てを任されるというのは――何ともはや。漁色家であった頼朝の羽目の外し具合がよく分かる場面である。そうして、これが、間違いなく政子にバレていたのである(因みに、これは政子の憶測ではなく、彼女に繋がる密告ルートが頼朝の身辺に必ずや存在したものと私は見ている)。これが続く政子不機嫌の元凶と考えて、これ、間違いない。
以下、翌日の条の冒頭。
〇原文
十六日辛巳。富士野御狩之間。將軍家督若君始令射鹿給。愛甲三郞季隆本自存物達故實之上。折節候近々。殊勝追合之間。忽有此飮羽云々。尤可及優賞之由。將軍家以大友左近將監能直。內々被感仰季隆云々。此後被止今日御狩訖。屬晩。於其所被祭山神矢口等。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日辛巳。富士野の御狩の間、將軍家督の若君、始めて鹿を射しめ給ふ。愛甲三郞季隆、本より物逢ひの故實を存ずるの上、折節近々に候じ、殊勝に追い合はすの間、忽ち此の飮羽(いんう)有りと云々。
尤も優賞に及ぶべしの由、將軍家、大友左近將監能直を以て、內々に季隆に感じ仰せらると云々。
此の後、今日の御狩を止められ訖んぬ。晩に屬して、其の所に於いて山の神・矢口(やぐち)等を祭らる。(以下略)
・「飮羽」本文の「羽ぶくらをせめて立ちたり」に同じ。
・「矢口」狩り場の口開けに初めて矢を射たり射た後に行った神事や儀式を言う。
その翌日の条。
〇原文
廿二日丁亥。若公令獲鹿給事。將軍家自愛餘。被差進梶原平二左衞門尉景高於鎌倉。令賀申御臺所御方給。景高馳參。以女房申入之處。敢不及御感。御使還失面目。爲武將之嫡嗣。獲原野之鹿鳥。强不足爲希有。楚忽專使。頗有其煩歟者。景高歸參富士野。今日申此趣云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿二日丁亥。若公、鹿を獲らしめ給ふ事、將軍家、自愛の餘り、梶原平二左衞門尉景高を鎌倉へ差し進ぜられ、御臺所の御方に賀し申さしめ給ふ。景高、馳せ參じ、女房を以つて申し入るの處、敢へて御感に及ばず、御使、還つて面目を失ふ。
「武將の嫡嗣(ちやくし)として、原野の鹿鳥を獲るは、强ちに希有と爲るに足らず。楚忽(そこつ)の專使、頗る其の煩ひ有るか。」
てへれば、景高、富士野へ歸參、今日、此の趣を申すと云々。
・「二十七日の未明より勢子を催し狩り給ふに、各手を盡して藝を顯す。一日狩暮して、明日は卷狩あるべしと定めらる」ある面で、政子の一喝がポジティヴな前半が、この日から実は「吾妻鏡」の叙述では急速に不吉に暗転し、奈落への陰風が吹きすさんでゆくのである。それを見よう。
二十七日の条。
〇原文
廿七日壬辰。未明催立勢子等。終日有御狩。射手等面々顯藝。莫不風毛雨血。爰無雙大鹿一頭走來于御駕前。工藤庄司景光〔著作與美水干。駕鹿毛馬。〕兼有御馬左方。此鹿者景光分也。可射取之由申請之。被仰可然之旨。本自究竸射手也。人皆扣駕見之。景光聊相開而通懸于弓手。發射一矢不令中。鹿拔于一段許之前。景光押懸打鞭。二三矢又以同前。鹿入本山畢。景光弃弓安駕云。景光十一歲以來。以狩獵爲業。而已七旬餘。莫未獲弓手物。而今心神惘然太迷惑。是則爲山神駕之條無疑歟。運命縮畢。後日諸人可思合云々。各又成奇異思之處。晩鐘之程。景光發病云々。仰云。此事尤恠異也。止狩可有還御歟云々。宿老等申不可然之由。仍自明日七ケ日可有卷狩云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日壬辰。未明、勢子等を催し立て、終日御狩有り。射手等、面々に藝を顯はす。風毛雨血ならずといふこと莫し。爰に無雙の大鹿一頭、御駕の前に走り來たる。工藤庄司景光〔作與美(さゆみ)の水干を著(き)、鹿毛馬に駕す。〕、兼ねて御馬の左方に有り。
「此の鹿は景光が分なり。射取るべし。」
の由、之を申し請くるに、
「然るべし。」
の旨を仰せらる。本より究竸の射手なり。人皆、駕を扣(ひか)へて之を見る。景光、聊か相ひ開きて、弓手(ゆんで)に通し懸け、一の矢を發ち射るに中らしめず。鹿、一段許りの前に拔きんづ。景光、押し懸けて鞭を打つ。二三の矢、又、以つて前に同じ。鹿は本の山に入り畢んぬ。景光、弓を弃(す)て、駕を安んじて云はく、「景光、十一歲より以來(このかた)、狩獵を以つて業(わざ)と爲す。而して已に七旬餘、未だ弓手に物を獲(え)ずといふこと莫し。而るに今、心神惘然(ばうぜん)として太(はなは)だ迷ひに惑ふ。是れ、則ち山神の駕たる條、疑ひ無からんか。運命、縮(しじ)まり畢んぬ。後日、諸人思ひ合はすべし。」
と云々。
各々又、奇異の思ひを成すの處、晩鐘の程、景光發病すと云々。
仰せて云はく、
「此の事、尤も恠異なり。狩りを止め、還御有るべきか。」
と云々。
宿老等、然るべからざるの由を申す。仍つて明日より七ケ日、
「卷狩、有るべし。」
と云々。
・「勢子」底本に『鳥獸を狩出す列卒』と頭注する。
・「作與美」「貲布・細布」とも書き、音変化して「さいみ」とも読む。織り目の粗い麻布。夏衣や蚊帳などに用いた。
・「惘然」「呆然」に同じい。気が抜けてぼんやりしている状態を言う。
・「宿老等然るべからずの由を申す」ここは非常に気になるところである。景光の言う通り、山の神の載った鹿を射てしまったのだったとするなら、これはヤマトタケルの故事と同じで、とんでもない凶事である。従って頼朝の命に従うなら、即日、鎌倉へ帰ることになったはずである。それは至当である。しかし、だとすると木曾兄弟の仇討ちは未遂に終わった可能性が強烈に高まる。この牧狩り続行を進言した宿老は(誰だかは不明)、実は、木曾の仇討ちを知っていた木曾兄弟所縁のシンパサイザーであったのではないかという疑いを、私は払拭出来ないのである。]
――九穀――黍(きび)・糯黍(もちきび)・糯粟(もちあわ)・稲・麻・大豆・小豆・大麦・小麦と言う――
――僕は現在、「芥川龍之介漢詩全集」・「一言芳談」・「耳嚢 巻之五」・「畑耕一句集 蜘蛛うごく」・「北條九代記」・「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」・「生物学講話」・「河童曼荼羅」・「道成寺現在蛇鱗」の九種を僕の生の糧として生きている(最後の「道成寺現在蛇鱗」は日々は公開していない迂遠な作業である)――
――今日から、この内、毎日更新している「芥川龍之介漢詩全集」と「一言芳談」の一番の主食二穀を――暫く穀断ちすることとする――
理由は述べない。
穀断ちとは――そういうものであるからだ……
鎌足大明神〔附、鎌倉山里谷七郷〕
淨妙寺ノ西ノ岡ニ林アリ。則チ淨妙寺ノ鎭守トナシテ有詞林采葉云。鎌倉トハ鎌ヲ埋ム倉ト云詞也。其濫觴ハ、大織冠鎌足、イマダ鎌子ト申奉シ比、宿願ノ事マシマシテ鹿嶋參詣ノ時、此由比ノ里ニ宿シ玉ヒシ夜、靈夢ヲ感ジ、年來所持シ玉ヒケル鎌ヲ、今ノ大藏ノ松ガ岡ニ理玉ヒケルヨリ鎌倉郡ト云。
[やぶちゃん注:「大織冠鎌足、イマダ鎌子ト申奉シ比」ウィキの「藤原鎌足」によれば、鎌足は元は『中臣氏の一族で初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行なった中臣鎌子とは別人)。その後中臣鎌足(なかとみのかまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる』のが正しいとある。なお、以下、読み難いので、適宜、空行を設けた。]
夫木集 中務郷御子
東路ヤ餘多郡ノ其中ニ 爭テ鎌倉サカヘソメケソン
[やぶちゃん注:「中務郷御子」の「郷」は「卿」の誤り。後嵯峨天皇の第一皇子で第六代将軍となった宗尊親王のことである。「御子」は「みこ」で皇子のこと。因みに後嵯峨天皇の長子であり、父からも寵愛されていた彼が皇位を継承出来なかったのは、母(平棟基(むねもと)の娘棟子)方の身分が低かったことによるもので、ウィキの「宗尊親王」によれば、『皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた。その一方で将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた執権北条時頼も九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、「皇族将軍」誕生の運びとなったのである』とある。和歌を読み易く書き換えておく(以下の和歌でも同じなのでこれを省略する)。
東路や数多(あまた)郡(こほり)のその中にいかで鎌倉榮え染めけむ
「夫木和歌抄」の巻三十一の雑十三に所載する。]
萬葉集 人 丸
薪コレ鎌倉山ノ高キ木ヲ 松トナカ云ハヽ戀ツヽヤアラン
[やぶちゃん注:「薪コレ」は「薪コル」の誤り。書き損じであろう。「万葉集」巻第十四の三四三三番歌。「東歌」の「相模国の歌」三首の最後で、従って当然、本歌の作者は不詳であって柿本人麻呂ではない。
薪伐(たきぎこ)る鎌倉山の木垂(こだ)る木をまつと汝(な)が言はば戀ひつつやあらむ
「薪伐る鎌」に「鎌倉」を掛けて引き出し、そこから「鎌倉」で木の繁茂する「鎌倉山」(これは固有名詞というよりも鎌倉の周囲の山々の謂いである)を更に掛けて引き出し、
……その鎌倉山は……木の枝が垂れるほどの鬱蒼とした山々であるように見えるが……いや――そこに生えているのは、そうではない――枝の垂れぬ「松」なのだ――そうだ、彼女は「待っ」ていては呉れない……「待っている」と言って呉れたのなら、どうして私はこんなにも恋に苦しむことがあったろうか、いや、なかった……
という意である(訳には講談社文庫版中西進訳注「万葉集」を参考にした)。]
家集 大納言公任
忘草艾ツム計成ニケリ アトモ止ヌ鎌倉ノ山
源順ガ和名抄ニ、鎌倉郡ノ内ニ鎌倉ト云所アリ。
[やぶちゃん注:底本では「艾」の右に『(苅)』と傍注する。
忘れ草刈り摘むばかりなりにけり跡も留めぬ鎌倉の山
であるが、「新編鎌倉志卷之一」の冒頭「鎌倉大意」に載せる当該歌で私が考証したように、この歌は「近江輿地志略」に載り、「かまくらやま」でも、比叡山山系の神蔵山(かまくらやま:神蔵寺山とも)を歌ったものとするので、引用は錯誤である。光圀のこの記載を受けて「新編鎌倉志」も無批判引用してしまったものか、若しくは光圀直々に掲載の指示を行ったものかも知れない。]
續古今集 鎌倉右大臣
宮柱フトシキタテヽ萬代□ 今ソサカヘン鎌倉ノ里
[やぶちゃん注:底本□の右に『(ニ)』と傍注する。「続古今集」の巻二十の「賀」及び実朝家集「金槐和歌集」の巻之下の「雑部」に所載する。
宮柱太敷(ふとし)き立てて萬代(よろづよ)に今ぞさかへむ鎌倉の里
「太敷き」は形容詞ではなく、「宮殿などの柱をしっかりとゆるがないように地に打ち込む。宮殿を壮大に造営する。」の意のカ行四段活用の動詞の連用形で、「万葉集」の柿本人麻呂の歌(第四五番の長歌他)などに見られる古い語である。]
夫木集 藤原基政
昔ニモ立コソマサレ民ノ戸ノ 煙ニキハウ鎌倉ノ里
[やぶちゃん注:「藤原基政」不詳。「新編鎌倉志卷之一」の冒頭「鎌倉大意」に載せる当該歌では「藤原基綱」とあり、そこで私はこの人物を後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)と推定した。藤原秀郷の流れを引く京の武士後藤基清の子。評定衆・引付衆。幕府内では将軍頼経の側近として、専ら実務官僚として働き、歌人としても知られた人物である。
昔にも立ちこそ優(まさ)れ民の戸の煙(けぶり)賑(にぎ)はふ鎌倉の里
「夫木和歌抄」の巻三十一の雑十三に所載する。]
鶴岡記ニ鎌倉谷七郷トハ、小坂郷小坪 小林郷〔下若宮邊佐介等〕 葉山郷 津村郷 村岡郷 長尾郷 矢部郷ヲ云也。或云、鎌倉七口トハ、名越切通 朝比奈切通 巨福呂坂〔今按ニ呂ハ路ニ作べキ歟〕 龜谷坂 假粧坂 大佛切通 極樂寺切通 是也。此外ニ小坪道〔小坪松林ヘカヽリテ行也。路程十里餘アリト云。〕池子道〔十二所村ヨリ右ニ道有。柏原ニ出、池子村ニ至ル。柏原ノ内左ニ金澤道アルナリ。〕ト云二筋アルナリ。
[やぶちゃん注:「路程十里餘アリ」恐らくこの「十里餘」は特殊な路程単位である関東道(坂東路)であろう。安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、関東で用いられた坂東里(奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったから、十里は約六・五キロメートル強である。光圀の宿所であった英勝寺を起点にして小坪海岸を経て逗子へ抜ける(これを小坪道と同定してよかろう)海岸線を現在の地図上で辿ってみると、六・五キロメートルに相当するのは逗子海岸の南の端、葉山マリーナの鼻の根であり、数値上も問題がない。これを通常の一里とり、この距離を大きくとって鎌倉から三浦半島の突先三崎までの距離とする見解に対しては、地図上で海岸線を英勝寺―小坪から、ほぼ国道一四三号に沿って南下してみても、距離実測で三崎中心部にある三崎市役所までは三十キロ弱しかない。従って私は採らない。]
疱瘡呪水の事
寛政八年の冬より九年の春へ懸け疱瘡流行なして、予が許の小兒も疱瘡ありしが、兼て委任なし置る小兒科木村元長來りて、此頃去る方へ至り其一家の小兒不殘(のこらず)疱瘡なりしが何れも輕く、重きも足抔へ多く出來て面部等は甚少き故、かく揃ひて輕きも珍らしきといひしに、外に子細もなけれど、神奈川宿の先きに本目(ほんもく)といへる処に、芋(いも)大明神といへるあり、彼(かの)池の水を取て小兒に浴すれば疱瘡輕しと人の教に任せし故にやと語りしが、醫の申べき事ならねど、害なき事故呪(まじな)ひもなき事にもあるまじき間、試み給へかしと語りける故、召仕(めしつか)ふ者に申付(まうしつ)け取に遣りしが、右召仕ふ人歸り語りけるは、誠に聊(いささか)の祠(やしろ)にて、廻りに少しの溜水(たまりみづ)といふべき池ありて、嶋少し有(あり)て柳一株の外は不殘(のこらず)芋にて、右芋土の内より出て居、正月の事なるに未(いまだ)莖葉のあるも有(あり)、別當ともいふべきは、右池の邊に庵室ありて禪僧一人居たりしが、右社頭に緣起もなし、疱瘡に能(よき)とて度々水を取りに來る者は夥敷(おびただしき)事のよし、利益(りやく)ありや知らずと禪氣の答へ也し、近隣の老姥(らううば)右召仕ふ者に語りけるは、右芋は彼(かの)姥が若かりし時より減りもせずふへもせず有(ある)由。或る人疱瘡に水よりは芋こそ然るべしと右芋を取りしに、かの小兒甚(はなはだ)惱みけると語りし由。江戸よりも水を取に來る者數多(あまた)の由語りける由。右召仕ふ者語りける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:疱瘡呪い三連発。題名の「呪水」は「じゆすい(じゅすい)」と音で読んでいよう。但し、この元長の話の最初に現われる一家の子供たちの病態は、実は天然痘ではなかった可能性が疑われる。その理由は、児童全員がほぼ軽症である点(小児科の専門医が流行期に「いづれも輕く」「かく揃ひて輕きも珍らしき」と表現するのは、文字通り驚くほど、信じられないほど軽いという意味である)、やや重いように見える児童でも、その発疹(ここ、「瘡」と言っていない。前の驚くべき軽症という表現を受けるなら、これは膿疱にさえなっていないという意で採るのがよかろう)が頭部や面部に少なく足に特異的に現われているという点である。所謂、感染性の高い風疹や(風疹ではしかし発疹や瘡が頭部・面部に特異的に現われる)、もしかすると単なるアレルギー性の蕁麻疹の集団罹患(一同が摂取した飲食物若しくは着用した衣類等、または戸外の遊びの中で接触した動植物由来のアレルゲンに起因するところの)ではなかろうか? 小児科医の方の御教授を乞うものである。
・「本目」現在の横浜市中区本牧。
・「芋大明神」不詳。同定候補としては吾妻明神社、現在の横浜市中区本牧原に吾妻神社がある。しかし、「江戸名所図会」の「吾妻明神社」の項などにも芋明神の名は載らない。横浜の郷土史研究家の御教授を乞うものである。なお、この後の実景に出て来る「芋」は里芋であるが、「痘痕」と書いて「いも」と読み、痘瘡(天然痘)自体及び痘瘡後の痘痕(あばた)のことをも指す。私はかつて、この神社の山の上にある県立横浜緑ヶ丘高校に勤務していたが、この神社の記憶は全くない。……生徒も同僚も楽しい職場だった。私の生私生活で最も充実していて幸せだったのは、ここでの九年間であったように、今、感じている……。
・「浴すれば」浴びせると訳してもよいが、「浴す」には、現在も「恩恵に浴する」のように、よいものとして身に受ける、という意があり、ここでは明神の神霊の力に浴するの謂いで、水でもあり「飲用する」と訳すのが適当であろう。後半で「水」の対象物として「芋」を用いたとあり、これは里芋を「食わした」としか読めないからでもある。但し、医師の元長が同時に、その呪(まじな)いを「害なき事故」と言っている点では、「浴びせる」と訳すべきかも知れない。何故なら、小児の感染症を予防する観点から小児が口にするものに対しては極めて敏感でなくてはならないはずの小児科医ならば、そう簡単に「害なき事故」とは断ずることはしないとも思われるからである。しかし乍ら、実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『呑(のま)すれば』となっている。さればここでは、一応、飲用させるの意で訳しておいた。
・「呪ひもなき事にもあるまじき間」十把一絡げにして呪(まじな)いは皆迷信で効果がないと断ずることは必ずしも出来ない、それなりの効験がない訳ではない、という意である。元長は必ずしも呪(まじな)いの効果を信じていた訳ではないかも知れない。所謂、鰯の頭も信心から方式のプラシーボ効果を言っているとも採れる。いや、やはり、この一家の「天然痘」の病態が余りにも尋常ならざる軽さであったことから『明神さまの効験とやらがもしかするとあるのかも知れぬ』と思わず感じたのだ、だからこそ、「試み給へかし」と命令形に念を押す終助詞を用いてまで、根岸に強く勧めたのだ、という推理の方がより自然というべきであろうか。
・「禪氣の答へ」禅機の答え。禅における無我の境地から出る働き。禅僧が修行者や他者に対して用いるところの独特の鋭い言葉や言い回しを言う。
■やぶちゃん現代語訳
疱瘡呪水の事
寛政八年の冬から九年の春にかけて疱瘡が流行り、我が家の子(こお)も疱瘡に罹患致いたが、かねてより我が家の主治医を頼みおける小児科医木村元長殿が往診して療治して呉れた。
その折り、元長殿より、
「……近頃、さるお方の元へも往診致しましたが……はい、やはり、その一家のお子たちも、残らず疱瘡に罹っておりました。……ところが……そのいずれの症状も、これ、軽う御座って……少し重い子(こお)なんどにても……足などへ発疹が多く出来てはおりましたが、面部には殆どなく、あっても極めて少のう御座った故……『かくも、揃って軽いと申すは、これ、珍しきことじゃ。』と申しましたところ、『……これと申しまして訳があろうとも思いませぬが……実は、神奈川宿の先の、本牧(ほんもく)と申す所に「芋大明神」という社(やしろ)が御座いまして――そこな池の水を採って飲ますれば、疱瘡は軽うて治まる――と人の教えに任せて……聞いて飲ませておりました。』と申します。……まあ、その、医者たる拙者が……このようなことを申すは、如何かとは存じまするが……害もなきことにては御座れば……また、呪(まじな)いの効果というも、これ――全くない――という訳にても御座らぬようでもあればこそ……一つ、お試しにならるることを、お勧め致しまする。」
とのこと故、直ぐに召し使(つこ)うておる者に申し付け、取りに遣らせたところ、水を汲んで戻ったその者の申すことには、
「……へえ、まことに小さな祠(やしろ)にて、小島の周りに少しばかりの――その、水溜まりと申す方が、これ、相応しいような――池が、これ、御座いまして、その真ん中の、如何にも小さな島には、柳一株の外、残らず、これ、里芋が生えて御座いました。その里芋は、これ皆、土から芋を出だいておりまして……正月のことなるに、未だ葉も茎も青々と残っておるものも、これ、何本も御座いました、へえ。……
……この明神の、別当とも申すべき者は――その池畔に庵室(あんじつ)が御座って、禅僧が一人住もうておりましたによって、訪ね問うてみましたところが、
『――本祠(やしろ)には縁起もなし。――疱瘡に効くとて度々水を取りに来る者は夥しきが――その利益(りやく)――あるやなしや、知らず――』
と、まあ、その、如何にも、禅僧らしい答えにては御座いました。……
……近隣の老婆にも話を聴いてみましたところ、これらの里芋は、その老婆が若かりし頃より、減りもせず、増えもせである、との由にて……そうそう、その老婆の話によれば……とある人が、
『……よどんだ水なんどよりも、かのねばりつきて精もつく里芋の……そうじゃ! 「痘痕(いも)」繋がりなればこそ! 然るべき効験もあろうほどに!』
と、かの島の里芋を掘り取って戻り、子(こお)に食わしたところが……その子(こお)の疱瘡は、これ、逆にひどう重うなって、苦しんだとか申しておりました、へえ。……江戸表よりも、水を取りに来たる者も、これ、数多(あまた)おる、とのことで御座いました、へえ。……」
以上、その遣わしたところの召し使(つこ)うておる者の、直談で御座る。
二十六
法然上人云、一念十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相(そさう)に申ば、信が行(ぎやう)をさまたぐるなり。念々不捨者(すてざるもの)といへばとて、一念十念を不定(ふぢやう)におもふは、行が信を妨(さまたぐる)也。信をば一念に生(しやう)と取て、行をば一形(ひとかた)はげむべし。
〇一念十念、十聲(こゑ)一聲(こゑ)。願文(ぐわんもん)には乃至十念とあり。成就(じやうじゆ)の文には一念とあり。
〇念々不捨者、善導の御釋あり。
〇行が信を妨也、口に名號をとなふるを行といひ、心に佛願をたのむを信といふ。
〇一形、一生涯のことなり。
[やぶちゃん注:「念仏」は『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』及び国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元(一六四八)年林甚右衛門板行版「一言芳談抄」二巻本現物画像に拠る。
「疎相」麁相。粗略。軽率。いいかげん。
「不定」確かでないもの。定まらないもの。当てにならぬもの。
「願文」無量寿経の第十八願。所謂、彌陀の本願である。
設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺、唯除五逆、誹謗正法。
(設(たと)ひ我れ佛を得たらんに、十方の衆生、至心信樂して、我が國に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。若(も)し生ぜずは、正覺を取らじ。唯だ五逆と誹謗正法とをば除く。)
「成就の文」同じく無量寿経の第十八願成就文。
諸有衆生、聞其名號、信心歡喜、乃至一念、至心囘向、願生彼國、即得往生、住不退轉、唯除五逆、誹謗正法。
(あらゆる衆生、その名號を聞きて、信心歡喜せんこと、乃至一念せん。至心に囘向したまへり。かの國に生れんと願ずれば、即ち往生を得、不退轉に住せん。唯だ五逆と誹謗正法とをば除く。)
「善導の御釋」『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大森氏脚注では、本文の「念々不捨者」に注して『一心につねに弥陀の名号をとなえるならば、となえる瞬間ごとに弥陀は念仏者をすくいとってくださる。』と訳されて、『これは「散善義」に見える善導の釈』であると記しておられる。
「信をば一念に生と取て」『信』に於いては、一遍の念仏でも必ず往生出来る、と心から思って敬虔に唱え、の意。]
春の虹歌ひ時計のうたふ間を
蜘蛛あまた水面に飛びて春の虹