生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 五 諦めること
五 諦めること
已に身體の一部を敵に捕へられたとき、思ひ切つてその部だけを捨てれば、生命は失はずに濟むが、これも全身を食はれぬための一種の方法である。人間でも手なり足なりに性の惡い腫物が出來てそのまゝにして置いては一命にも拘るといふ場合には、これを切り捨てるの外に策はない通り、身體の一部分が已に敵の手に陷つた以上は、諦めてこれを敵に與へる外に自分を救ふ手段はない。但し人間では、一度切り捨てた手や足が再び生ずる望はなく、手術後は一生涯片輪で終らねばならぬから、かかる場合に頗る思ひ切り難い感じがあるが、動物の種類によつては、一度失つた部分を容易に囘復するので、身體の或る部分を失ふことは少しも苦にならぬ。そしてかやうな際に體の一部が切れ去るのは、敵が銜へて引く力によるのではなく、動物自身の方に一定の仕掛けがあつて、隨意にその部を切り捨てるのである。それ故この方法を自切と名づける。
「とかげ」の尾が容易く切れることは人の知る所であるが、これが自切の一例である。夏庭先などへ出て來て、雞などに啄かれた場合には、「とかげ」は尾だけを捨てて自身は速に石垣の間に逃げ込んでしまふが、後に殘つた尾は、胴から切れても直には死なず、長く活潑に躍ね廻るから、雞はこれのみに氣を取られて、逃げた身體の方を追窮せぬ。かくすれば「とかげ」は無論一時は尾なしとなるが餌を食ふて生活してさへ居れば、暫時の中にまた舊の通りの尾が出來る。尤も中軸に當る骨骼は舊の通りにはならぬが外見では、たゞ色が少し薄いだけで、古い尾と少しも違はぬ。子供等が靴で輕く踏んでも直に切れる位であるから、尾を捨てることは「とかげ」に取つては頗る簡單なことで、若しこれによつて命を全うすることが出來るならば、一時尾を失ふ不自由の如きは殆どいふに足らぬであらう。
[やぶちゃん注:「自切」英語“Autotomy”の訳語。ウィキの「自切」よりトカゲのケースを引用する。爬虫綱有鱗目トカゲ亜目トカゲ下目トカゲ科トカゲ属ニホントカゲ Plestiodon japonicas や同じくトカゲ下目のカナヘビ科カナヘビ属ニホンカナヘビ Takydromus tachydromoides (何れも日本固有種)『等が自切を行う。自切した尾は、しばらく動き回ることで外敵の注意を引きその隙に逃げることができる。切断面は筋肉が収縮し出血も抑えられる。再生した尾(再生尾)は外観から見ても体色が異なっていたり、元の尾よりも長さが短くなることが多い。また再生尾は中に骨はなく、代わりに軟骨により支えられている。これら自切を行うトカゲ類の尾は、脊椎に自切面という節目があり切れやすい構造になっている。そのため人為的に尾を切断しても、同様の反応は見られない』。『自然界では自切により外敵から逃避できる可能性もあるが、尾に栄養分を貯めることの多いトカゲ類は飼育下ではメンテナンス中の不注意や物に尾が挟まった際等に自切し結果として体調を崩してしまうことも多い。トカゲ類全てが自切を行うわけではなく、また同じ科でも自切後に再生尾が生えない種もいる』とある。]
「ばつた」、「いなご」などの昆蟲類も、足を一本摘んで捕へると、その足だけ殘して逃げ去ることが多い。但し、壽命が短いからでもあらうが、一度失うた足を再び生ずるには至らぬ。夜出て來て障子などを走る「げぢげぢ」も、抑へて捕へようとすれば必ず幾本かの足を殘して逃げて行く。海岸へ行つて蟹を多數に捕へて見ると、往々足や鋏が滿足に揃うて居ないものがあるが、あれらは何らかの危險に遇つた際に捨て去つたのであらう。中には七本の普通の足と一本の極めて小い足を持ったもの、左の鋏は普通の大きさで、右の鋏はその十分の一もないものなどがあるが、これは一度失つた跡へ新な足か鋏かが生じてまだ十分に生長せぬものである。「しほまねき」の一種に、俗に「てんぼがに」などと呼ばれるものがあり、その雄の鋏は一方だけ非常に大きくて、身體の格好に釣り合はず頗る奇觀を呈するが、かやうな大きな鋏でも、切り離した後には再び生じて舊の如くになる。エスパニヤの海岸地方では、この「かに」の鋏だけを茹でて紙の袋に入れ、恰も南京豆などの如くに露店で賣つて居るのを子供等が買つて食ふ。一袋のには鋏の數が幾十もあるが、鋏は「かに」一疋に就いて一つよりないから、一袋の鋏を取るには蟹を幾十疋も殺さねばならず、頗る無駄なやうに考へられるが、その地方では決して蟹を一々殺すのではなく、たゞ一方の鋏を切り取るだけで、自身は生きたまゝ、逃がしてやり、新しい鋏が大きくなった頃またこれを捕へて鋏だけを切り取るのである。嘗て人の話に、豚は腿の肉を一斤〔六〇〇グラム〕位そぎ取つても、暫くで治るから一疋飼つて置けば年中肉が食へると聞いたが、「かに」の鋏の話も恰もこれと同樣な造り話のやうに聞える。しかしこの方は實際である。
[やぶちゃん注:『「しほまねき」の一種に、俗に「てんぼがに」などと呼ばれるもの』これは叙述から推して、甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属 Uca の最大種であるシオマネキ Uca arcuata を指していると考えて間違いない。荒俣宏「世界大博物学図鑑 1 蟲類」の一三三ページに載る、田中芳男編になる「博物館虫譜」(明治一〇(一八七七)年頃成立した未刊行図譜)からの図像に、
桀歩
テンボウガニ
シホマネキ
紀州和歌浦ニアリ其右
螯大ニシテ美ナリコレ
望潮ノ一種大ナルモノナリ
其眼長出スルコト他蟹ト
殊異ナリ
栗本丹洲法眼藏圖
とある。また、この「桀歩」については、「続群書類従」三十二下(雑部)巻九百五十七に所収する、室町期に中国文献及び仏典等の語句を簡略に注した「蠡測集(れいそくしゅう)」によれば(グーグル・ブックス視認)、
桀ハ夏ノ桀ナリ。シカルニ蟹ハ横行スル者ナリ。桀歩トハ蟹ノ事ナリ。桀、横ナコトヲ専ニシタレバ、如此比シタリ。招潮子ト云モ蟹ノ別名ナリ。常ニスルコトナリ。
とある。なお、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」では、
かさめ 桀歩 執火/擁劔蟹【和名加散米】
とあって、現在のガザミに「桀歩」を当てているが、「蠡測集」の記載から見て「桀歩」は、古くから広く蟹を指す語であったことが分かる。それが、大型の蟹であるガザミや♂の片方(右左は決まっていない)の鋏脚が大きくて目立つシオマネキ類に汎用されたと考えてよい。なお「和漢三才圖會 卷第四十六」ではシオマネキに同定し得る蟹は「獨螯蟹」である(リンク先は私の電子テクスト)。
この「てんぼうがに」「てぼうがに」という異名和名は現在、死語に近い。それでよいとも言える。何故か? これは差別和名であるからである。即ち、
「手ん棒」=「てんぼう」=「てぼう」
で、
「手亡」
とも書き、これは、怪我などによって手の指や手を欠損していることを意味する語だからである。かくの如く、異名であって、かつ、自然に消滅しつつあるのであれば、私は問題なく賛同するものである(但し、「イザリウオ」を「カエルアンコウ」と突如、強制改名することが人道的であるとする立場を私は支持しない。これについて私は「耳嚢 巻之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」の脱線注で述べておいた。是非、お読み戴きたい)。
以下、ウィキの「シオマネキ」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、単位を日本語化、記号の一部を変更した)。まず、シオマネキ属の記載。『横長の甲羅をもち、甲幅は二〇ミリメートルほどのものから四〇ミリメートルに達するものまで種類によって差がある。複眼がついた眼柄は長く、それを収める眼窩も発達する。地表にいるときは眼柄を立てて周囲を広く見渡す。歩脚はがっちりしていて逃げ足も速い。オスの片方の鋏脚とメスの両方の鋏脚は小さく、砂をすくうのに都合がよい構造をしている』。『成体のオスは片方の鋏脚が甲羅と同じくらいまで大きくなるのが特徴で、極端な性的二形のためオスとメスは簡単に区別がつく。鋏脚は個体によって「利き腕」がちがい、右が大きい個体もいれば左が大きい個体もいる。生息地ではオス達が大きな鋏脚を振る「ウェービング(waving)」と呼ばれる求愛行動が見られる。和名「シオマネキ」は、この動作が「潮が早く満ちてくるように招いている」ように見えるためについたものである。英名“Fiddler crab” の“Fiddler”はヴァイオリン奏者のことで、やはりこれもウェービングの様子を表した名前といえる』。『熱帯・亜熱帯地域の、河口付近の海岸に巣穴を掘って生息する。種類ごとに好みの底質があり、干潟・マングローブ・砂浜・転石帯でそれぞれ異なる種類が生息する。巣穴は通常満潮線付近に多く、大潮の満潮時に巣穴が海面下になるかどうかという高さにある。潮が引くと海岸の地表に出てきて活動する。食物は砂泥中のプランクトンやデトリタスで、鋏で砂泥をつまんで口に入れ、砂泥に含まれる餌を濾過摂食する。一方、天敵はサギ、シギ、カラスなどの鳥類や沿岸性の魚類である。敵を発見すると素早く巣穴に逃げこむ』。『海岸の干拓・埋立・浚渫などで生息地が減少し、環境汚染などもあって分布域は各地で狭まっている。風変わりなカニだけに自然保護のシンボル的存在となることもある』。以下、種としてのシオマネキの記載。
《引用開始》
Uca arcuata (De Haan, 1833)
甲長(縦の長さ)二〇ミリメートル、甲幅(横の長さ)三五ミリメートルに達し、日本産シオマネキ類の最大種。ハクセンシオマネキに比べて左右の眼柄が中央寄りで、甲は逆台形をしている。オスの大鋏表面には顆粒が密布し、色はくすんだ赤色だが、泥をかぶり易く色が判別しにくいこともある。静岡県以西の本州太平洋岸、四国、九州、南西諸島、朝鮮半島、中国、台湾の各地に生息地が点在する。泥質干潟のヨシ原付近・泥が固まった区域に生息するが、人間の活動が大きな脅威となり生息域が減少している。環境省が二〇〇〇年に発表した無脊椎動物レッドリストでは準絶滅危惧(NT)とされていたが、絶滅のおそれが増大したとの判断から二〇〇六年の改訂で絶滅危惧II類(VU)となった。 有明海沿岸地方ではタウッチョガネ、ガネツケガニ、マガニなどと呼ばれる。アリアケガニやヤマトオサガニなどと共に漁獲され、「がん漬」という塩辛で食用にされる。
《引用終了》
私はこの「がん漬」が好物である(但し、現在入手出来るその原材料の蟹は中国産に限られる)。なお、ネット上の記載では何故か見当たらないが、カニは自切するための特有の部位をもっており、それを自切線という。私は、教員になった二十二歳の時、本電子テクストを捧げている生物教師であられた故林田良幸先生先生から、親しくこの自切線の個人的教授を受けた。懐かしい思い出である。]
海岸の石を起すと、その下に「ひとで」・「くもひとで」などが澤山に居るが、この類も失つた體部を再び囘復する。特に「くもひとで」の方は腕が脆くて、餘程鄭重取扱つても腕が途中で折れて、完全な標本の得られぬことが多い。しかし、忽ち折れ口から新な腕の先が生じて延びるから、他のものと揃ふやうになる。幾疋も捕へて見ると、腕の中途に段があつて、それから先は遽に細くなつて、色の薄いものが澤山にあるが、これは皆折れた後に復舊しかゝつて居る處である。即ち「くもひとで」の類も、敵に體の一部を捕へられた場合には、速にその部を捨てて逃げ去つて、全身敵に食はれることを免れるが、後にまた少時で囘復するから、損失は僅に一時のことに過ぎぬ。命を全うせんがために身體の一部を犧牲にすることは、普通の動物に取つては隨分苦しい事であるが、ここに例に擧げた如き囘復力の盛な動物から見れば、實に何でもないことで、且日々行なふ豫定の仕事である。列強の壓迫に堪へ兼ねて、止むを得ず一部分づつを割愛する老大國などから見れば、これらの動物は如何にも羨しく思はれるであらう。
[やぶちゃん注:「くもひとで」棘皮動物門蛇尾(クモヒトデ)綱 Ophiuroidea に属するヒトデと近縁関係にある生物群の総称。ヒトデの一種と言ってはいけない。あくまで近縁なのである。柔軟な腕(わん)を足として使って、蛇のようにうねりながら、若しくは泳ぐように海底を這ってかなり敏捷に移動するが、ヒトデ類のようにそれに管足を用いない点が大きな相違点である。クモヒトデ類も管足を持つが、一般には感覚器官として用い、ヒトデ類のような形で歩行及び捕食のために用いることはなく、殆んどのクモヒトデ類は腐肉食性若しくは懸濁物(デトリタス)食性である(ヒトデ類はほぼ肉食性である。以上は主にウィキの「クモヒトデ」に拠った)。
最後にウィキの「自切」より、以上に記された無脊椎動物の自切についての叙述を引用しておく。『節足動物では、昆虫類・クモ類・多足類・甲殻類などでは足が自切するものが多い。これらの仲間では、体の成長には脱皮が必要なので、何回かの脱皮によって再生する。脱皮回数が制限されている動物の場合、完全には再生できない場合もある。また、成虫が脱皮しないもので、成虫が自切した場合では、当然ながら再生できない』とあって、丘先生が言及していない自切する動物の一部の持つ、脱皮現象と再生の関連性については注目しておく必要がある。『環形動物では、ミミズ・ゴカイに簡単に体が切れるものがある。ミミズの場合、後体部から前半身が再生しないものが自切とみなされるが、ミズミミズ科の一部のように、連鎖体が分裂して増殖するものは自切とは言わない。同じ環形動物でも、ヒルはまず体が切れない。ユムシ類には、吻を自切するものがある』(やや分り難いかもれないが、ミミズやゴカイ類には体が括れて(種によっては複数箇所で)千切れる分裂よって殖える種がいることを指し、その現象は自切とは呼称しないことを述べているのである)。『軟体動物では、腹足綱のミミガイやヒメアワビ、ショクコウラなど、分類群にかかわらず殻に比べて軟体が大きい巻貝類に腹足後端を自切して逃げるものがある。またウミウシの中に鰓や装飾突起を切り捨てるものがあり、チギレフシエラガイ Berhella martensi は自切することからその和名が付けられている。二枚貝ではマテガイ類などが水管を簡単に自切して穴深く逃げ込むが、水管には最初から切れ目となる横筋が見られる。頭足類では、通常の自切とは異なるが、アミダコなどタコの一部に交接の際にオスの交接腕の先端が自切してメスの体内に残存し、栓のような役割を持つものがある』(ショクコウラ科ショクコウラについては sutargate 氏のHP「MIYOSHIの貝殻の部屋」のこちらのページを参照されたい)。『棘皮動物では、ウミユリ・ウミシダ類とクモヒトデ類に腕を自切するものが多い。これらの動物では、腕は再生するが、腕から本体は再生しない。ヒトデは腕から胴体を再生できるが、自切のように腕を切り離すものはいない』(ウミユリ・ウミシダ類及びクモヒトデ類は自切をするが、通常のヒトデ類は何らかの要因で腕が切断されても「再生はする」が、彼らは「自切はしない」ということである。これが多くの人にちゃんと理解されているようには思われないので、老婆心ながら附説した)。『沖縄県の石垣島、西表島に生息するカタツムリの一種イッシキマイマイは、天敵であるイワサキセダカヘビから自衛の為に尾(腹足の後端部分)を切断する。実験でイワサキセダカヘビにイッシキマイマイを与えたところ、四五%の個体が自切によりイワサキセダカヘビの捕食から逃れたとされる。自切を行うカタツムリは確認されている限りイッシキマイマイのみで、他のカタツムリで実験を行ったところ捕食されてしまった。また自切によって自分を守る行動は子供のイッシキマイマイに多く見られた』(イッシキマイマイの箇所はアラビア数字を漢数字に代え、注記記号を省略した)とある。イワサキセダカヘビはヘビ亜目セダカヘビ科セダカヘビ属イワサキセダカヘビ Pareas iwasakii。生物学者細(ほそ)将貴氏のHP「人生は最適化できない!」のこちらのページで、このイッシキマイマイ Satsuma caliginosa caliginosa の自切に関わる御研究の学術的叙述が読める(これはウィキの記載の元であるが、当然のことながら発見者が自身の論文を元にして書かれており、素晴らしい! 必読である!)
「列強の壓迫に堪へ兼ねて、止むを得ず一部分づつを割愛する老大國などから見れば、これらの動物は如何にも羨しく思はれるであらう」時代を感じさせる何とも言えぬ謂いである。]
以上若干の例に就いて述べた通り、敵に食はれぬためにはさまざまの手段があつて、尋常に勝負を決することの外に、逃げる法、隱れる法、攻められても平氣で居る法、脅喝によつて一時を凌ぐ法、身體の一部を切り取らせて諦める法などが常に用ゐられて居る。目的とする所は一つであるが、各々一長一短があつて、いづれを最上の策といふことは出來ぬ。要するに自然界には絶對に完全なといふものは決してなく、何事もたゞ間に合ふといふ程度までに進んで居るだけであるが、食ふ方法でも、食はれぬ方法でも、他と競爭して自分の種族を後に遺すのに間に合ひさへすれば、それで目的に適つて居ると見做さねばならぬ。