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2012/12/11

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 巽荒神/人丸墓/興禅寺/無景寺谷/法性寺屋敷/千葉屋敷/諏訪屋敷/左介谷/裁許橋/天狗堂/七観音谷/飢渇畠/笹目谷/塔辻/盛久首座/甘繩明神

   巽 荒 神

 今小路ノ出崎、左ノ杉森ノ内ノ堂ヲ云。壽福寺ノ辰巳ニ當テアリ。古ハ壽福寺ノ鎭守カ。今ハ淨光明寺ノ持分也。社領一貫文アリ。

 

   人 丸 墓

 荒神ノ東後ロナリ。平家ノ侍景淸ガ娘ヲ人丸ト云シ其ガ墓也ト云。

 

   興禪寺〔或禪ヲ作泉、非ナリ〕

 汾陽山ト號ス。壽福寺ノ南隣也。松嶋ノ雲居ガ作ノ鐘ノ銘アリ。別紙ニ載之(之を載す)。寺ノ北ニ望夫石トテ長キ石アリ。畠山六郎由比ノ濱ニテ打死ニシケルヲ、其婦人此山ヨリ望テ、終ニ石トナルト云。山ノ上ニ坐禪石アリ。此寺新地ナリ。寛永年三朝倉筑後守菩提ノ爲子息甚十郎建立シ、松嶋雲居和尚ヲ開山トシテ雲居ノ弟子ヲ請ジ住持セシム。筑後守室保福院モ此寺ニ葬ル。岩窟三石塔・石燈寵等アリ。本尊釋迦・阿難・迦葉ナリ。

[やぶちゃん注:本時は鎌倉では極めて新しい創建でありながら、早々に(江戸末期)に廃寺となっている。

「朝倉筑後守」底本では『(德川忠長家老、宣正)』と傍注する。徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)は江戸時代初期の駿府藩主。徳川秀忠三男。母は浅井長政の娘で正室の江、家光は同母兄。寛永八(一六三一)年に不行跡(家臣一名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として甲府への蟄居を命じられ、二年後の寛永一〇年十二月六日、幕命により高崎の大進寺において自刃した。享年二十八歳であった(以上はウィキ德川忠長に拠った)。朝倉宣正(のぶまさ 天正元(一五七三)年~寛永一四(一六三七)年)織豊時代から江戸前期の武将。徳川秀忠に仕え、小田原攻め・上田攻めに従軍した上田七本槍の一人。徳川忠長の付家老となり、寛永二(一六二五)年には遠江掛川城主を兼ねたが、忠長の改易により大和郡山に蟄居、その後、許されて妻の兄である土井利勝に招かれた(以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキ朝倉宣正に拠った)。

「甚十郎」底本では『(正世)』と傍注する。朝倉宣正次男。詳細不詳。]

 

   無景寺谷

 壽福寺ノ西南ノ山際也。今鍛冶綱廣ガ居所也。

[やぶちゃん注:「無景寺谷」の「景」は「量」の誤り。次項も同じ誤りをしている。]

 

   法性寺屋敷

 無景寺谷ノ少シ南隣也。

 

   千葉屋敷

 法性寺屋敷ノ少シ南ナラビノ畠ナリ。東鑑ニモ甘繩ノ千葉屋敷トアリ。

 

   諏訪屋敷

 千葉屋敷ノ東ノ田中ニアル畠也。

 

   左介谷〔或作三介谷〕

 長谷小路へ谷ノ口開ケリ。西方岡邊ノ松森ハ、稻荷大明神ヲ勸請ス。此下ニカクレ里ト云テ、大ナル岩窟アリ。光明寺開山記主、初ハ此谷ニ住ス。記主俗名ハ佐介ト云シ故ニ地ノ名トセリ。又ノ説ニ三浦介・上總介・千葉介三人此谷ニ住居セシ故ニ、三介谷トモ云ト也。又佐介遠江守舊跡也トモ云。東鑑ニ佐介遠江守ト云者ノ事アリ。

[やぶちゃん注:「カクレ里」現在の銭洗弁天。]

 

   裁許橋〔又作西行橋〕

 天狗堂ノ東ノ少シキ橋也。賴朝ノ時、此所ニ屋敦アリテ訴訟ヲ聞キ、罪人ヲ刑罪スル故ニ云トナリ。俗ニ云、西行鎌倉ニ來リ、此橋ニスル故ニ西行橋ト云ト也。左介谷ヨリ流出ル川ニ渡セル橋ナリ。

[やぶちゃん注:「踟蹰」は「ちちゆう(ちちゅう)」で、進むのをためらうこと、ぐずぐずと立ち止まること、躊躇。但し、西行が頼朝の行列と逢ったのは鶴岡社頭で、この伝承は「裁許」の「さいきよ(さいきょ)」の音から生じた誤説である。]

 

   天 狗 堂

 無量寺谷ノ南ノ出崎ノ山ヲ云。芝山ニテ樹木ナク見スキクル山ナリ、昔此所ニ愛宕堂有ト也。今ハ礎計アリ。

 

   七觀音谷

 天狗堂ノ西ノ谷ナリ。

 

   飢 渇(ケカチ) 畠

 裁許橋ノ南、七觀音ノ東ノ道際ナリ。此所昔ヨリ刑罰場ニテ、今モ人ヲサラシ、成敗スル地ナリ。作毛ナラザル故ニ、飢渇畠ト云トナン。

[やぶちゃん注:「今モ」とするのは意外である。光圀の頃にても、一種の私刑のようにそうした晒しが行われていたものか。]

 

   笹 目 谷

 七觀音ヨリ西南ノ谷也。コヽニ昔法然ノ弟子隆觀、長樂寺ト云寺アリテ住セシト也。武藏守平經時、寛元四年閏四月朔日ニ卒シ、二日ニ此山ノ麓ニ葬ト云。此所マデ小町ノ内ナリ。是地小町ト長谷トノ境也ト。

 

   塔  辻

 笹目谷ノ南端ニ多クアル塔也。事ハ前ノ塔ノ辻ノ所ニ見へタリ。

 

   盛久首座

 笹目谷ノ南ノ方、海道ヨリ北ノ瑞ニ荒地、方六七尺計、畠ノ端ヲ取殘シテアリ。

 

   甘繩明神

 笹目谷ノ西、長谷觀音へ行ク海道ノ北ノ谷ニ茂林アル所也。藤九郎盛長ガ舊跡也。御靈宮・長谷大佛・神明・左介谷・笹目谷・無量寺谷マデハ甘繩ノ内ナリ。東鑑ニ見エタリ。

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