耳嚢 巻之五 狐の付し女一時の奇怪の事
狐の付し女一時の奇怪の事
予が同寮の人、壯年の頃本所に相番(あいばん)ありしが、右の下女に狐付て暫く苦しみしが、兎角して狐も放(はなれ)て本心に成し後、ちいさき祠を屋敷の隅に建置(たておき)しが、彼女其後は人の吉凶等を(是はいかに成(なる)品にてと)祠(に伺)ひて語る事神の如し。我同寮も多葉粉入(たばこいれ)抔を紙に封じ、これはいかなる品にてと彼(かの)女にあたへけるに、神前へ行(ゆき)て是はたばこ入なる由を答へければ、不思議成(なる)事と思ひしが、暫く月數も立(たち)て同樣に尋けるにしれざる由を答へて、其後は當る事なかりしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:「不思議成事」――狐狸妖異譚直連関であるが……前項がただの嫌がらせであった可能性が極めて高かったように……これも、如何にも怪しい(提示された具体な唯一の千里眼透視が如何にもしょぼい煙草入れで、他のESP(超感覚的知覚 extrasensory perception)の事例が具体に書かれていない点、詐欺がばれてかけて嫌になったのか、すぐに能力が失われたという点など)……謂わば、思春期の女性にありがちな意識的(若しくはやや病的な無意識的)詐欺の似非霊媒と、断じてよかろうと思う。
・「同寮」底本は右に『(同僚)』と傍注する。
・「相番」当番・日直その他種々の仕事上での一緒に務めるようになった人をいう。これは本所で行われた、それなりの長期の事業・業務の同僚という謂いである。本文には「壯年」とあり、通常は四十代以降でなければ壮年とは言わないから、これは根岸が四十二歳にして、勘定吟味役に就いた安永五(一七七六)年以降か、その直前の勘定組頭の時代の終頃と推定される。根岸は勘定吟味役在任時には、河川改修や普請工事に才腕を振るったとされていることから、水運の要であると同時に水利に問題のあった本所深川の宅地・道路・上水道を司った町奉行支配の本所道役(みちやく)などと連繋するために本所で勤務した可能性が挙げられよう。
・「(是はいかに成品にてと)祠(に伺)」底本ではそれぞれの丸括弧の右に、『(尊經閣本)』と傍注する。ところが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この前後はもっと整序されて自然である。以下、短いので全文を示す(正字化し、ルビは排除した)。
予が同寮の人、壯年の頃本所に相番ありしが、右の下女に狐付てしばらく苦しみしが、兎角して狐もはなれ本心に成りし後、小き祠を屋敷の隅に建置しが、彼女其後は人の吉凶等を祠に伺ひて語る事神の如し。我同寮も多葉粉入などを紙に封じ、「是はいかに成品ぞ」と彼女にあたへけるに神前へ行て、「夫はたばこ入なる」よしを答へければ、不思議なる事とおもひしが、暫く月數も立て同樣に尋けるに、知れざる由を答へて、其後は當る事無かりしとや。
なお、今回は、この岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で現代語訳した。
「たばこ入なる」この「なる」は断定の助動詞「なり」の連体形で、千里眼のあらたかななるを示すための連体中止法による余韻を含ませたものである。
■やぶちゃん現代語訳
狐の憑いたと評判の女が一時だけ見せた奇怪の事
壮年の頃、本所にて相番(あいばん)を勤めた同僚が御座ったが、この下女に、これ、狐が憑いて、暫くの間、痛(いと)う苦しんで御座ったと申すが、兎も角も、とり憑いた狐も離れ、正気に戻った風なれば、後のためにと、小さき稲荷の祠(やしろ)を屋敷の隅に建ておいた、と申す。……以下、その相番同僚の話にて御座る。……
……ところが、この下女、その後――人の吉凶、かの祠に伺いを立つれば、これ、ズバリと当たる、それ、神の如し――と聊か評判になって御座って、の……
……我らも一つ試みにと、煙草入れなんどを、外見(そとみ)や感触からは全く分からぬように、これ、厳重に紙に封じ入れ、
「……これは如何なる物品にてあるか?」
と、かの女に渡すと、女はそれを神前に持(も)て行くと、何やらん拝んでおる風にして、暫く致すと、
「……ソレハ――煙草入レナル――」
の由、答えて御座ったれば、これ、
『……如何にも、不思議なることじゃ……』
と思うたものじゃ。……
……ところが、暫く――そうさ、数か月も経って御座ったか――再び同じ如、試いてみたところが、
「……とんと……へぇ、分かりませぬぅ……」
との由、答え……その後は……これ、全く以って、当たらずなり申した。……