鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鎌足大明神〔附、鎌倉山里谷七郷〕
鎌足大明神〔附、鎌倉山里谷七郷〕
淨妙寺ノ西ノ岡ニ林アリ。則チ淨妙寺ノ鎭守トナシテ有詞林采葉云。鎌倉トハ鎌ヲ埋ム倉ト云詞也。其濫觴ハ、大織冠鎌足、イマダ鎌子ト申奉シ比、宿願ノ事マシマシテ鹿嶋參詣ノ時、此由比ノ里ニ宿シ玉ヒシ夜、靈夢ヲ感ジ、年來所持シ玉ヒケル鎌ヲ、今ノ大藏ノ松ガ岡ニ理玉ヒケルヨリ鎌倉郡ト云。
[やぶちゃん注:「大織冠鎌足、イマダ鎌子ト申奉シ比」ウィキの「藤原鎌足」によれば、鎌足は元は『中臣氏の一族で初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行なった中臣鎌子とは別人)。その後中臣鎌足(なかとみのかまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる』のが正しいとある。なお、以下、読み難いので、適宜、空行を設けた。]
夫木集 中務郷御子
東路ヤ餘多郡ノ其中ニ 爭テ鎌倉サカヘソメケソン
[やぶちゃん注:「中務郷御子」の「郷」は「卿」の誤り。後嵯峨天皇の第一皇子で第六代将軍となった宗尊親王のことである。「御子」は「みこ」で皇子のこと。因みに後嵯峨天皇の長子であり、父からも寵愛されていた彼が皇位を継承出来なかったのは、母(平棟基(むねもと)の娘棟子)方の身分が低かったことによるもので、ウィキの「宗尊親王」によれば、『皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた。その一方で将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた執権北条時頼も九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、「皇族将軍」誕生の運びとなったのである』とある。和歌を読み易く書き換えておく(以下の和歌でも同じなのでこれを省略する)。
東路や数多(あまた)郡(こほり)のその中にいかで鎌倉榮え染めけむ
「夫木和歌抄」の巻三十一の雑十三に所載する。]
萬葉集 人 丸
薪コレ鎌倉山ノ高キ木ヲ 松トナカ云ハヽ戀ツヽヤアラン
[やぶちゃん注:「薪コレ」は「薪コル」の誤り。書き損じであろう。「万葉集」巻第十四の三四三三番歌。「東歌」の「相模国の歌」三首の最後で、従って当然、本歌の作者は不詳であって柿本人麻呂ではない。
薪伐(たきぎこ)る鎌倉山の木垂(こだ)る木をまつと汝(な)が言はば戀ひつつやあらむ
「薪伐る鎌」に「鎌倉」を掛けて引き出し、そこから「鎌倉」で木の繁茂する「鎌倉山」(これは固有名詞というよりも鎌倉の周囲の山々の謂いである)を更に掛けて引き出し、
……その鎌倉山は……木の枝が垂れるほどの鬱蒼とした山々であるように見えるが……いや――そこに生えているのは、そうではない――枝の垂れぬ「松」なのだ――そうだ、彼女は「待っ」ていては呉れない……「待っている」と言って呉れたのなら、どうして私はこんなにも恋に苦しむことがあったろうか、いや、なかった……
という意である(訳には講談社文庫版中西進訳注「万葉集」を参考にした)。]
家集 大納言公任
忘草艾ツム計成ニケリ アトモ止ヌ鎌倉ノ山
源順ガ和名抄ニ、鎌倉郡ノ内ニ鎌倉ト云所アリ。
[やぶちゃん注:底本では「艾」の右に『(苅)』と傍注する。
忘れ草刈り摘むばかりなりにけり跡も留めぬ鎌倉の山
であるが、「新編鎌倉志卷之一」の冒頭「鎌倉大意」に載せる当該歌で私が考証したように、この歌は「近江輿地志略」に載り、「かまくらやま」でも、比叡山山系の神蔵山(かまくらやま:神蔵寺山とも)を歌ったものとするので、引用は錯誤である。光圀のこの記載を受けて「新編鎌倉志」も無批判引用してしまったものか、若しくは光圀直々に掲載の指示を行ったものかも知れない。]
續古今集 鎌倉右大臣
宮柱フトシキタテヽ萬代□ 今ソサカヘン鎌倉ノ里
[やぶちゃん注:底本□の右に『(ニ)』と傍注する。「続古今集」の巻二十の「賀」及び実朝家集「金槐和歌集」の巻之下の「雑部」に所載する。
宮柱太敷(ふとし)き立てて萬代(よろづよ)に今ぞさかへむ鎌倉の里
「太敷き」は形容詞ではなく、「宮殿などの柱をしっかりとゆるがないように地に打ち込む。宮殿を壮大に造営する。」の意のカ行四段活用の動詞の連用形で、「万葉集」の柿本人麻呂の歌(第四五番の長歌他)などに見られる古い語である。]
夫木集 藤原基政
昔ニモ立コソマサレ民ノ戸ノ 煙ニキハウ鎌倉ノ里
[やぶちゃん注:「藤原基政」不詳。「新編鎌倉志卷之一」の冒頭「鎌倉大意」に載せる当該歌では「藤原基綱」とあり、そこで私はこの人物を後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)と推定した。藤原秀郷の流れを引く京の武士後藤基清の子。評定衆・引付衆。幕府内では将軍頼経の側近として、専ら実務官僚として働き、歌人としても知られた人物である。
昔にも立ちこそ優(まさ)れ民の戸の煙(けぶり)賑(にぎ)はふ鎌倉の里
「夫木和歌抄」の巻三十一の雑十三に所載する。]
鶴岡記ニ鎌倉谷七郷トハ、小坂郷小坪 小林郷〔下若宮邊佐介等〕 葉山郷 津村郷 村岡郷 長尾郷 矢部郷ヲ云也。或云、鎌倉七口トハ、名越切通 朝比奈切通 巨福呂坂〔今按ニ呂ハ路ニ作べキ歟〕 龜谷坂 假粧坂 大佛切通 極樂寺切通 是也。此外ニ小坪道〔小坪松林ヘカヽリテ行也。路程十里餘アリト云。〕池子道〔十二所村ヨリ右ニ道有。柏原ニ出、池子村ニ至ル。柏原ノ内左ニ金澤道アルナリ。〕ト云二筋アルナリ。
[やぶちゃん注:「路程十里餘アリ」恐らくこの「十里餘」は特殊な路程単位である関東道(坂東路)であろう。安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、関東で用いられた坂東里(奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったから、十里は約六・五キロメートル強である。光圀の宿所であった英勝寺を起点にして小坪海岸を経て逗子へ抜ける(これを小坪道と同定してよかろう)海岸線を現在の地図上で辿ってみると、六・五キロメートルに相当するのは逗子海岸の南の端、葉山マリーナの鼻の根であり、数値上も問題がない。これを通常の一里とり、この距離を大きくとって鎌倉から三浦半島の突先三崎までの距離とする見解に対しては、地図上で海岸線を英勝寺―小坪から、ほぼ国道一四三号に沿って南下してみても、距離実測で三崎中心部にある三崎市役所までは三十キロ弱しかない。従って私は採らない。]