一言芳談 三十九
三十九
敬佛房云、彼兩上人明遍・明禪も、住運(にんうん)の御發心(ごほつしん)などは、みえず。たゞつねに理(ことわり)をもて、制伏(せいふく)し給し也。しからば、道理を忘れざるを、又道心といふべき也。後世(ごせ)のつとめは、心つよくてのうへの事也。よろづさはる事のみあるをば、おぼろけの心にては、いかでか、たへこらふべき。然而(しかうして)人ごとに、道理のごとく、道理をたて得ざるあひだ、皆心にまけて、はては後世もおもはぬものに成(なり)あひたるなり。道理のかひなく、道理を始終とほさぬが第一の後世のさはりにてあるなり。
世間出世至極(せけんしゆつせごく)たゞ死の一事也。死なば死ねとだに存ずれば、一切に大事はなきなり。この身を愛し、命を惜しむより、一切のさはりはおこることなり。あやまりて死なむは、よろこびなりとだに存ずれば、なに事もやすくおぼゆる也。しからば、我も人も、眞實に後世をたすからむとおもはんには、かへすぐも、道理をつよくたてゝ、心にまけず、生死界(しやうじかい)の事を、ものがましくおもふべからざるなり。されば經に、心の師となりて心を師とせざれといへる也。
〇任運の御發心、むかしの上人達も、自然(じねん)に發心して相續し給へるにあらず。下地(したぢ)が凡夫なれば、道心のたゆむこともあるべけれども、佛法の道理をつよくたて、妄心(まうしん)を禁制して相續し給へるなり。まして今の世の人は、事にふれて道心さめやすし。たゞ義理をつよくたてゝ、みづから心の師となり、妄心の私にかちて相續すべし。
〇道理を忘れざるを、意味ふかきことばなり。義にいさむ武士の討死(うちじに)するごとく、出家は出家の義にいさみて、捨邪歸正(しやじやきせい)の道理をきつと心にかくべし。
〇よろづさはる事のみ、一鉢(いつぱつ)むなしく、八風(はつぷう)しづかならず。衆苦(しゆく)身にあつまり、諸緣心にたがふ。
〇おぼろけの心にてはいかでかたへこらふべき、竹窓二筆云、先德、有言。出家大丈夫之事也。非將相之所能爲也。夫將以武功定禍亂、相以文學興太平。天下大事、皆、出將相之手。而曰出家非其所能。然則出家豈細故哉。
〇道理をつよくたてゝ、心の師となり、己に克ちて、晩節をたもち、私に負くることなかれとなり。
〇經、涅槃經。
[やぶちゃん注:本文は、Ⅱを元としながら、Ⅰを参考にしつつ、Ⅲを視認しながら、新たに私が「組み直し、読みを振った特殊なもの」であることを最初にお断りしておく。
まず、Ⅱが冒頭、
彼兩上人も、明遍・明禪 住運の御發心などは、みえず。
という不可解な配置にあるものを(明禪」の下の字空けはママ)、Ⅰの記載が「明遍・明禪」がなく、
彼兩上人も住運の御發心などは見えず、
となっていて、標註の方に「彼の兩上人、明遍、明禪」とあるのを受けて、上記の位置に恣意的に移動させたものである。これは割注のようなものとして後から加えられたものが、かくもおかしな表記として本文内に混入書写されたものと類推する。
更に、本文に示した最後の一文、
されば經に、心の師となりて心を師とせざれといへる也。
は、Ⅰ及びⅢにはない。大橋氏注によれば、これは殆どⅠのみに載る一文であるらしく、「続群書類従」本もこの一文を欠く、とある。しかし、このよく知られた名言は非常に含蓄に富んだいい台詞であり、私はどうしてもこの本文に示したかった。されば、ここにかく復元したものである。
謂わば、私は個人の思いとしては「一言芳談」の原形としてはⅠに賛同したい(但し、書誌学的には最後の一文は寧ろ後世の誰かによって追補された可能性の方が高いかも知れぬ)のだが――ところが――Ⅰでは、何と本文の前段部が「用心」の部に、改行されている後段部分が「念佛」の部に分離されてしまっているのである。――以上、私が「組み直し、読みを振った特殊なもの」をここに示した理由である。
「八風」修行を妨げる八つの現象。人が求めることによって生ずる四順(しじゅん)と、人間が避けることによって生ずる四違(しい)の八種から成る法数。ウィキの「八風」によれば、四順は利=目先の利益を得たい・誉=名誉を受けたい・称=称賛されたい・楽=様々に楽しみたい、四違は衰=肉体が衰えたり金銭及び物品を損失したりする・毀=不名誉を受ける・譏=中傷される・苦=様々に苦しむ、といった人心を動搖させるところの幸不幸の状態・傾向の総体を謂い、それらを物を動かす風に譬えたものである。
「道理のかひなく、道理を始終とほさぬが第一の後世のさはりにてあるなり」やや分り難い。ここは、
極楽往生をするのだという道理(強い信念に基づくはずの究極唯一の希求)を持っていながら、結局、その甲斐がない状態――即ち、まさに――その道理を『完全に最後まで押し通すことが出来ない』という事態が――極楽往生の、第一の障りとなるのである。
という謂いである。
「世間出世至極たゞ死の一事也」この世に生を受けた者総て一人残らず、彼らの究極の思いは、これ、「死」の一事のみである。
「ものがましく」大袈裟である。仰々しい。ことごとしい。
「竹窓二筆云……」「竹雲二筆」は明代の禅僧雲棲袾宏(うんせいしゅこう 一五三五年~一六一五年)の随筆集。当該漢文をⅠの訓点に従いつつ、Ⅱの書き下しも参考にしながら、以下に私の書き下し文を示しておく。
「竹窓二筆」に云く、先德、言へること有り、『出家は大丈夫の事なり。將相(しやうしぃやう)の能く爲す所に非ざるなり。夫れ、將は武功を以つて禍亂(くわらん)を定め、相は文學を以つて太平を興(おこ)す。天下の大事、皆、將相の手に出づ。而して出家は其の能くする所に非ず。」と曰ふ。然らば則ち出家、豈に細故(さいこ)ならんや。』と。
「細故」細かなこと。取るに足りないこと。この雲棲の語は禪語としてふさわしい強烈なパラドクッスで、小気味よい。]
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