耳嚢 巻之五 堪忍工夫の事
堪忍工夫の事
或老巧の人、予が若かりし時教戒しけるは、男子人と交るに、大勢の内には其(その)身を不知(しらざる)愚昧も多く、跡先知らぬ血氣者も有りて、人前にて人を恥しめ不法不禮をなす者も有り、かゝる時は身命(しんみやう)も不顧(かへりみざる)程憤りをも生ずるもの也、しかあれど兼て君に捧げ置(おく)身命を私の憤りに果すは不忠の第一也、又父母の遺體をなんぞ一朝の戲(たはむれ)同樣成(なる)事に捨(すて)ん事、不孝の第一也。されど憤りはげしければ其心附(こころづき)もなき者也(なり)、其時は右惡口不法をなす者を能々考見(かんがへみる)べし、身を不知(しらざる)大馬鹿大たわけ也、かゝる馬鹿たわけと身を果さん彌々(いよいよ)たわけ成(なる)べしとはやく決斷なせば、憤りも生ぜず堪忍もなるもの也と語りしが、實(げに)も格言なりと今に思ひ出す也。
□やぶちゃん注
○前項連関:これはもう、前項の個別事例から帰納した原理の提示である。
・「父母の遺體」父母から受けたこの体、自分の身体のことである。
■やぶちゃん現代語訳
堪忍の工夫の事
私が若かりし頃、とある老練なる御仁が教えて下されたことに、
「――男子たるもの、人と交わるに、その大勢の内には、身の程も知らぬ愚か者も、これ、多く、後先(あとさき)どうなるかも慮(おもんぱか)ることの出来ぬ血気盛んなばかりが取り柄の者もこれあって、また、人前にて他人を辱め、不法無礼をなす者どもも、これ、おるものじゃ。……
……そういう連中と、拠無(よんどころの)う交わってしもうた折りには、これ、身命(しんみょう)を顧みる余裕もなきほどに憤りを感ずるものでは、ある。……
……そうは申してもじゃ……よいか?
――かねてより主君に捧げおける己(おの)が身命――これを「私(わたくし)」の憤り如きがために、果つるというは、これ、不忠の第一じゃ。……
――また、父母より受けた有り難いこの体を――なんぞ、一時(いっとき)の戯れ同様の下らぬことに捨てんとするも、これ、不孝の第一じゃ。……
……されど……憤りが激しければ激しいほどに……そのような落ち着いた見極めや心遣いも、これ、出来んようになる。……
……そういう折りには……よいか?
――その悪口、その無法をなす者を、よーうく、見、よーうく、考えるが、よい。……
――『そういう輩は、身の程を知らぬ大馬鹿、大戯(おおたわ)けじゃ!』
――『そうした馬鹿やたわけがために、我らが大事の身を、これ、果つることは――これ、そ奴よりも遙かに――いよいよ! 大々たわけじゃ!』
……ということ、これ、早々に知り遂(おお)せばの……憤りも生ぜず……堪忍出来ようと、いうもの、じゃて。……」
との話にて御座った。
全く以って正しき格言であると、私は今もしばしばそれを思い出すのである。
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