芥川龍之介漢詩全集 十九
十九
偶成
簾外松花落
几前茶靄輕
明窓無一事
幽客午眠成
〇やぶちゃん訓読
簾外 松花 落つ
几前の茶靄(さあい) 輕(かろ)く
明窓 一事無く
幽客 午眠 成る
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。この時、龍之介は「秋」の産みの苦しみに只中にあった。以下の①の同日附けの瀧田樗陰宛では、龍之介は同年三月十一日に脱稿した分の「秋」の改稿を申し入れている(鷺年譜によれば『従来の作風からの転換を企図した作品で、それだけに、異常ともいえるほど字句の修正に拘泥し、再三遂行の指示を編集者に出している』とある)。同じ「秋」の改稿要請はこの後にも行っている。更に同月末には「素盞鳴尊」の執筆にも行き悩み、かなり苦しんでいる様子が複数の書簡から見てとれる。一方、①で宛てた佐々木茂索に対しては、同月二十二日宛で、明らかに女性(秀しげ子か?)からの手紙を家人に怪しまれないための、隠蔽を目的とした封書表書きの依頼という如何にも胡散臭い要請を再三(これが初めてではない)行ってもいるのである。
本詩は全く同一のものが、
①大正九(一九二〇)年三月 十六日附佐々木茂索宛(岩波版旧全集書簡番号六六八)
②大正九(一九二〇)年三月 十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六六九)
③大正九(一九二〇)年三月 十七日附瀧田鉄太郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七二)
④大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛 (岩波版旧全集書簡番号六七七)
⑤大正九(一九二〇)年四月 十一日附松岡讓宛 (岩波版旧全集書簡番号六九五)
に所載する。それぞれ、詩に関わっては、
①「一詩三十分」
②「實は夜遲いのでひるねするのです」
③「と云ふはどうですか徹夜して居ねむりをしてゐる所を詩にしたのです」
④「實は夜原稿を書く爲ひるまくたびれて寢てゐる所だ」
⑤「この頃は新聞へ糞の如き小説を書いてゐるので忙しい 夜起きてひるは大抵寐てばかりゐる」として詩を掲げ、「これはその寐た所を詩にしたのだ」
などと記している。④には後掲する漢詩「二十 乙」及び「二十二」を併載してもいる。なお、②の小島に対しては、その後、三月二十六日附(岩波版旧全集書簡番号六七八)で、やはり「二十二」を送っているのであるが、その前文に、
「題画竹の詩なぞきはどくつていけません 簾外松花落の五絶の萌芽遙に自信があります あの方が悠々としてゐると思ひませんか」
と本詩について自信に満ちた自身の感想を述べてさえいる(「題画竹の詩」は不詳。そうした自作の詩を龍之介が書いて小島に見せたもののようには受け取れる。最も可能性が高いのは次の「二十」の詩であろう。題名が「題空谷居士画竹」とある)。龍之介は、俳句では自信作を一定期間の間に複数の知人や俳句仲間への書簡に添書きしているのをしばしば見受けるが、同一の漢詩を五人に送り(しかもその内の一人である③の瀧田は遙か先輩)、かくも小島に対して本作への評言を別書簡の中で示すというのは、極めて特異であると言ってよい。龍之介は余程、この詩が気に入っており、また、相当な自信作でもあったことは、最早疑いがない。
①の宛名人佐々木茂索(明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)は小説家で、龍門の四天王の一人であったが、後、文藝春秋新社(現在の文藝春秋)社長となった(彼が「佐佐木」と書くのは中国語に「々」がなくて表記出来ないことを芥川から脅されたことによると聞き及んでいる)。④の宛名人滝田哲太郎(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)は出版人で、ペンネームは樗陰(ちょいん)。総合雑誌『中央公論』の辣腕編集長として、多くの超弩級作家を世に送り出した伝説的人物である。
「茶靄」茶を立てている、その煙。
「幽客」隠者。龍之介は正にその閑適の世界に遊んでいる。]