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2012/12/05

耳嚢 巻之五 才能補不埒の事

 才能補不埒の事

 山東京傳とて、天明寛政の頃草双紙讀本(よみほん)抔を綴り、又は新風流(しんふうりゆう)の多葉粉入(たばこいれ)抔を帋(かみ)を以(もつて)仕立(したて)世に行れしが、渠(かれ)が高弟と稱し曲亭馬琴と名を記し、普く世に流布せる草双紙數多(あまた)ありしが、其趣向てにはの有樣京傳にも劣らざりしが、渠が出生(しゆつしやう)を尋(たづね)けるに、武家の若黨(わかたう)奉公などして所々勤歩行(つとめありき)しが、生得(うまれえ)し無類の放蕩者にて揚梅瘡(やうばいさう)を愁ひ、去る醫師の方へ寄宿して、藥を刻み制法など手傳ひながら彼(かの)梅瘡を療治なしけるが、もとより才能ある者故、其主人の氣に應じ弟子に成り、瀧澤宗仙とて代脈(だいみやく)に歩行(ありき)又は其身も療治などなしけるが、梅瘡も快(こころよく)又々持病の放蕩おこりて、右醫家にも足をとゞめ難く立出(たちいで)しが、京傳が許に寄宿して手傳(てつだひ)しが、京傳英才を憐みて世話なし、今は飯田町に家主をなし、伊勢屋淸右衞門とてあら物抔商ひ、其上右才氣有(ある)故に町内の六ケ敷(むつかしき)事抔わけを付(つけ)、筆をとりては達者なれば所にても用られ、今は身持もおとなしく安々と暮しけるよし人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。武芸家や役者ではままあったが、当時の当代大物流行作家ダブル実録(?)物というのは「耳嚢」では特筆に値しよう。京伝が幕府の禁制を犯しているからか、彼と彼の弟子である馬琴の叙述には、やや刑事事件の被告人の生活史を叙しているように私には思われる。そんな雰囲気を訳では試みてみた。

・「才能補不埒の事」は「才能、不埒(ふらち)を補ふの事」と読む。

・「山東京傳」(宝暦十一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)浮世絵師にして近世後期戯作の代表的流行作家。本名は岩瀨醒(さむる)。黄表紙・洒落本・読本・合巻(ごうかん)から「近世奇跡考」などの風俗考証、鈴木牧之の越後地方の地誌随筆出版の相談に乗る(その鈴木牧之の名作「北越雪譜」は京伝の死後、弟京山の協力によって天保八(一八三七)年に刊行された)など、博物学的な怪傑の文人である。代表作は読本「忠臣水滸伝」・黄表紙「江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」等。

・「新風流の多葉粉入抔を帋を以仕立世に行れし」京伝は寛政三(一七九一)年、彼の書いた洒落本三作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖五〇日の処分を受け、執筆は思うように進まず(代作を弟子の馬琴らが行った)、寛政四年に両国柳橋で開催した書画会の収益を元手に、翌寛政五年には銀座に京屋伝蔵店(京伝店)を開店した。参照したウィキの「山東京伝」によれば、この店では『煙草入れなどの袋物や煙管・丸薬類(読書丸など)を販売。京伝は商品のデザインを考案し引札(広告ビラ)を制作し、自身の作品のなかでも店の宣伝をした。店の経営には父・伝左衛門があたり京都・大坂に取次所もできた。父の死後は京伝の後妻玉の井(百合)が経営を受け継』いだ、とある。

・「曲亭馬琴」(明和四(一七六七)年~嘉永元(一八四八)年)京伝の弟子で読本を代表する一大流行作家で、本邦に於いて最初の専業作家(原稿料のみで生計を立てられた)とされる。本名、瀧澤興邦(たきざわおきくに)。出生から本「耳嚢 巻之五」の執筆時辺りまでの事蹟をウィキの「曲亭馬琴」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記号を省略・変更した)。『明和四年(一七六七年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平鍋五郎信成(千石)の屋敷において、同家用人滝沢運兵衛興義・門夫妻の五男として生まれ』た。『馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだという。安永四年(一七七五年)、馬琴九歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が十七歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永五年(一七七六年)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった』。『馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永九年(一七八〇年)、十四歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した』。『天明元年(一七八一年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。十七歳で吾山撰の句集「東海藻」に三句を収録しており、このときはじめて馬琴の号を用いている。天明七年(一七八七年)二十一歳の時には俳文集「俳諧古文庫」を編集した。また、医師の山本宗洪・山本宗英親子に医術を、儒者黒沢右仲・亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ』。『馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。天明五年(一七八五年)、母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた』。『寛政二年(一七九〇年)、二十四歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛永三年(一七九一年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙「尽用而二分狂言」(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本「実語教幼稚講釈」(寛政四年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった』。『寛政四年(一七九二年)三月、耕書堂蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、諱を解に改めた』。『寛政五年(一七九三年)七月、二十七歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(三十歳)の婿となるが、会田を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。寛政七年(一七九五年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた』。『結婚の翌年である寛政六年(一七九四年)には長女・幸(さき)、寛政八年(一七九六年)には二女・祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政九年(一七九七年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政十二年(一八〇〇年)には三女・鍬(くわ)が生まれ、馬琴は合わせて一男三女の父親となった』。『寛政八年(一七九六年)、三〇歳のころより馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年耕書堂から刊行された読本「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した』とあって、本話の執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春頃は、正に新進気鋭の流行作家馬琴の面目躍如たる時期であったことが分かる。因みに、師京伝との関係では、『文化元年(一八〇四年)に刊行された読本「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化四年(一八〇七年)から刊行が開始された「椿説弓張月」や、文化五年(一八〇八年)の「三七全伝南柯夢」によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化十一年(一八一四年)に』畢生の超大作「南総里見八犬伝」の第一輯が刊行されるが、その二年後の文化十三(一八一六)年の九月七日、恩人であり競争相手でもあった京伝は没した、とある。

・「揚梅瘡」楊梅瘡の誤り。梅毒の古名(病態の一つである薔薇疹が楊梅の実に似ていることに由来)。特に薔薇疹が顔面に出る梅毒をかく呼んだ。

・「去る醫師」前注で示したように山本宗洪。底本の鈴木氏注に、京伝の弟京山の「蜘蛛の糸巻」に『「元武家浪人にて医師の内弟子となり、滝沢宗仙と改めしかども、医の方を追出され」うんぬんとあり。』とある。

・「てには」てにをは。話の辻褄。

・「代脈」代診。

・「飯田町」岩波版長谷川氏注に、現在の『千代田区。九段坂下一帯の地。馬琴旧居は俎板橋(まないたばし)東方。』とある。前注に引用した元飯田町中坂、現在の千代田区九段北一丁目というのがそれであろう。

・「伊勢屋淸右衞門」前注に引用した通り、馬琴は寛政五(一七九三)年に元飯田町中坂世継稲荷(現在の築土(つくど)神社)下で履物商伊勢屋を営んでいた会田家の名跡を継いでいる。

・「わけを付」「分け・別けをつく」で、勝負をつける、調停する、の意。

■やぶちゃん現代語訳

 才能の不埒を補(おぎの)うという事

 天明・寛政の頃、山東京伝という草双紙や読本などを書き散らした――また、新手の趣向を凝らした煙草入れを、紙でもって仕立てて、世に流行らせたりした――者があった。

 その京伝の高弟と稱して、曲亭馬琴と名を記す者が、またあって、世にあまねく流行っておるところの、この者の草双紙、これ、枚挙に暇がない。その作品の趣向・話柄の展開は京伝にも劣らざるものではあった。

 この男、その出生(しゅっしょう)を探ってみると――武家の若党奉公などをしては、あちこちを転々と勤め歩いていたようであるが、生来(せいらい)、無頼の放蕩者であったから、楊梅瘡を患い、さる医師の方へ寄宿しては、薬を刻み、生薬の製法などを手伝いながら、自分の療治を施して貰っていたようである。

 もとより、その方(かた)の才智もあったものかとも思われ、その医家の主人の気に入られて、弟子ともなって滝沢宗仙と称し、主人の代診に赴くかたわら、更に自身の療治をも、自ら行うようになっていたらしい。

 ところが、かの楊梅瘡が軽快した頃には、またしても今一つの宿痾(しゅくあ)たる放蕩の病いが発して、かの医家にも安住して居られなくなり、出奔、かの売文士京伝が家に転がり込むと、かの妖しげなる小説の手伝いを始めたと伝え聞く。

 京伝も、彼の才能を見込んで、あれこれ、世話を焼いた。

 しかして現在は――飯田町にて借家の家主を任され、また、伊勢屋清右衛門と名乗って、荒物などの商いをしている。

 その上、かくも頭が切れる故に、町内の揉め事などの仲裁を取り持ったり、筆を執っては稀代の達者であるから、何処でも何かと頼られているという。

 今は身持ちも良くなって、安楽に暮しているとの由――さる人の談話であった。

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