一言芳談 三十三
三十三
聖光(しやくはう)上人云、箆(の)をたむるに、片目をふたぎて、よくためらるゝ樣に、一向專修(いつかうせんじゆ)もよこめをせざれば、とく成(なる)也。
〇箆、箭(や)にする竹なり。
〇横目をせざれば、とく成るなり、餘行に目をかけねば專修がはやく成就するなり。
[やぶちゃん注:Ⅰの標注は校訂者森下氏が本文をいじっているため、表記が異なる。以下、この注は略す。
「聖光上人」浄土宗鎮西派(現在の浄土宗)の祖弁長(べんちょう 応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)。字は弁阿(べんな)、房号は聖光房。筑前国香月(現在の福岡県北九州市八幡西区)生。現在の浄土宗では第二祖とされる。仁安三(一一六八)年に出家、安元元(一一七五)年に観世音寺戒壇で受戒、天台僧となって比叡山観叡、後に証真に師事した。建久元(一一九〇)年に帰郷して鎮西の聖地油山(あぶらやま)の学頭(一山の統率者)となったが、建久四(一一九三)年に異母弟三明房の死に臨んで深く無常を感じ、浄土教に強く惹かれる。寺務のために上洛した建久八(一一九七)年、法然を訪ねて即日、弟子となった。後に故郷筑前に戻ると筑後国・肥後国を中心として念仏の教えを弘め、筑後国山本に善導寺を建立、九州に於ける念仏の根本道場と成した。弟子に三祖然阿良忠を始めとして宗円・入阿など多数がある(以上はウィキの「弁長」に拠った)。
「箆」矢の竹の部分。矢柄(やがら)。矢軸。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ
Pseudosasa japonica を主材とした。
「たむる」「矯める・揉める・撓める」などと表記する。この場合は、矢軸に加工する際、最も肝心な、その曲がりを伸ばして真っ直ぐに微調整の整形をすることをいう。ヤダケは武家屋敷に多く植えられ、当時の武士にとって弓箭(きゅうぜん)の保守や加工は必須科目であった。
「一向專修」只管、念仏修行に打ち込むこと。
「とく成」速やかに成就する。]
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