一言芳談 三十一
三十一
法然上人つねのおすゝめに云、往生極樂をまめやかにおもひ入(いり)たる人のけしきは、世間を一(ひと)くねりうらみたる色にて、つねにはあるなり、云々。
〇一くねり、ねがふ心深ければ、自然(じねん)に世をいとふがゆゑなり。たゞし、つくりてくねりがほせよとにはあらず。
[やぶちゃん注:大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、この一条も「法然上人行所絵図」の第二十一に所収する由。評注は言わずもがなで、寧ろ、それこそ底の浅い凡夫の愚痴にしか見えぬ。
「一くねり」「くねり」は「くねる」すねるように愚痴をこぼす、僻(ひが)んだような態度を取ることを言う動詞の名詞形であるが、この「一」が難しい。接頭語「ひと」には、「ひとかど」「ひとくせ」といった「ちょっとしたそれなりの存在であること」を表す意、また、「そのれが全体に及ぶさま、全部、~中(じゅう)。」を表す他、「ひと~(する)」の形で、軽くある動作を行う、あることを一通りする意をも表す。ここは「世間を」と「つねにはあるなり」の条件文から、二番目の意味であり、また、文末の「あるなり」の「なり」は、断定ではなく推定の助動詞である。従って全体を訳そうなら、
法然上人の、普段からよく諭し示されておられたお言葉の中には……「極楽往生を心より願っておる御仁の様子と申すは――これ、見た目にては、いつも――この世間この世の総てを――忌まわしきものとして、すね僻んでは皮肉っておるかように、常に在る――かのようには、これ、見えるものでは、あるようじゃ――」とのことにて御座った。
である。しかし、これはまさしく「一くねり」入った表現なのであって、そう見える「けしき」は見かけの、傍観者の皮相的観察に過ぎないとするのであるから――でなければ、法然はここに「けしき」「たる色にて」「には」「あるなり」といった微妙な言辞を選ばない――私には、これは、
――あなた方の周囲にいる人の中(うち)にも、「世間を一くねりうらみたる色にて、つねにはある」御仁が――人を厭い、同時に人に煙たがられ、素直な心根を持たぬ僻者(ひがもの)としか見えぬ御方が――ありましょう――しかし、その御方こそは――実は「誰人います花の春」でないとは、これ――言えませぬぞ……
と法然は語りかけているのだ、と私は読む。]