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2012/12/24

一言芳談 四十

   四十

 

 敬佛房云、近來(このごろ)の遁世の人といふは、もとゞりきりはつれば、いみじき學生(がくしやう)・説經師となり、高野にのぼりつれば、めでたき眞言師、ゆゝしき尺論(しやくろん)の學生になり、或(あるひ)はもとは假名の「し」文字だにもはかばかしくかきまげぬものなれども、梵漢(ぼんかん)さるていに書(かき)ならひなどしあひたるなり。然而(しかうして)生死界(しやうじかい)を厭(いとふ)心もふかく、後世(ごせ)のつとめをいそがはしくする樣(やう)なる事は、きはめてありがたき也。はやもとゞりなどきりけん時は、さりとも、此心をばよもおこしたてじとおぼゆる樣なるを、我執(がしう)・名聞(みやうもん)甚しき心をさへ、おこしあひたる也。某(それがし)が遁世したりし比(ころ)までは、猶(なほ)世をのがるゝ樣にはあるをだにもこそすつれ、なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりしあひだ、世間・出世につけて、今生(こんじやう)の藝能ともなり、生死(しやうじ)の餘執(よしう)とも成(なり)て、つひに後世のあだとなりぬべきは、ちかくもとほくも、とてもかくても、あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか。されば、大原・高野にも、其(その)久(ひさびさ)さありしかども、聲明(しやうみやう)一(ひとつ)も梵字一(ひとつ)もならはで、やみにしなりと云々。たゞ、とてもかくても、すぎならひたるが、後世のためなり。

 

〇もとゞりきりはつれば、髮を剃り終ればなり。

〇説教師、説法者なり。

〇釋論、釋摩訶衍論なり。

〇梵漢さる體に、梵字も漢字も大方(おほかた)にかくとなり。

〇ありがたきなり、ありかぬるなり。

〇はやもとゞりきりけん時は、はやとはすぎさりし時なり。むかしの事を歌にもはやとよむなり。

〇大原高野、大原は良忍(りやうにん)上人より聲明の處となり、高野は大師より梵字の處となる。

〇すぎならひたるが、不調法(ぶてうはふ)ながらとほせとなり。

 

[やぶちゃん注:「學生」比叡山・高野山等の諸大寺で学問修行を専門とする学僧。

「説經師」経文や教義等を講釈しながら大衆を教化する僧。

「眞言師」密教の法によって加持祈禱を行う高野山の学僧。

「尺論」標註にある通り、「釈摩訶衍論」の略称。釈摩訶衍論は古代インドの仏教書で馬鳴(めみょう)作と伝えられるが疑問。成立年未詳。漢訳は梁(りょう)の真諦(しんだい)訳が一巻、唐の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳が二巻がある。大乗仏教の中心思想を理論と実践の両面から説いたもの。「起信論」とも。私は若い頃、珍しく仏典の中では一箇月もかけて真剣に読んだものの一つであるが、実は殆んど全く分からなかった。

「某が遁世したりし比までは、猶世をのがるゝ樣にはあるをだにもこそすつれ、なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりしあひだ」「すつれ」は「捨つれ」、「ならひあひ」は「狎らひ合ひ」であろう。私の珍しく大好きな文法である「こそ……(已然形)、~」の逆接用法がうまく効いている部分である。「某が遁世したりし比」は敬仏房の事蹟が不祥なため、定かではないが、高い確率で末法思想の蔓延った鎌倉幕府成立前後と考えてよいであろう。――私が出家した頃までは、猶お遁世するためにはありとある身の物でさえ、その一切を捨て果てたものであったが、しかし今や、出家遁世の身でありながら、あろうことか逆に「無一物たらんことを望むことは、感心せぬこと」であると皆が皆、狎れ合って合点してしまっているために――という意である。

「世間・出世」俗人だろうが出家だろうが、世の衆生はこぞって、の意。

「今生の藝能ともなり」一生を懸けた芸事。この「藝能」とは文脈から言えば、具体には冒頭にあるところの、「いみじき」(優れた)学僧・説教師や「めでたき」(立派な)真言師と呼ばれる僧になること、釈摩訶衍論の「ゆゝしき」(素晴らしい)学識僧となること(この「ゆゝし」は「尺論」ではなく「學生」にを修飾すると私はとる)、或いはまた、難しい梵字や漢字を相応の達筆で書けるような文人僧となること、を意味する。即ち、今の世の僧という僧(勿論、ここには深い自戒とともに語る敬仏房本人も含まれていよう)は、世を厭いて一切を捨てて一心に往生を願うために出家したはずの者が孤高に念仏一つを唱えることもせず、「優れた名僧」という名声ばかりを望み、学識や能書をひけらかすだけの存在に成り下がっている、と厳しく指弾しているのである。

「つひに後世のあだとなりぬべきは」Ⅱ・Ⅲによるが、Ⅰでは『つひに後世のあだとなりぬべくば』となっている。――今はこのような名声ばかりを望み、そのどうということもない下らぬ才知をひけらかすばかりという有様となって、それらが生を求め死を厭うという執念となって、遂には殆どそれが後世の極楽往生の深刻な障りとなってしまっているに違いない(Ⅰ「ということは」)(Ⅱ「ということであるならば」)――私が問題にしたいのは、敬仏房はここで実は謂いを休止しているということである。即ち、『かつては~であったのに、今は……と成り下がっているようにしか見えぬ。』《間合い》『だからもうずっと以前から私は――と心底、そう唱えて来たのである。』ということである。この間合いなしで、続けて読むと、文脈が捩じれ、時制もおかしくなるからである。

「ちかくもとほくも、とてもかくても、あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか」――今も昔も、何がどうあろうと、しっかとそこを見据えて、決してそうあってはならぬ、私はそうなるまい、ということを自(おのづ)から好み、幾たびも幾たびも心底より、念仏を唱えながら、同時にかくも心に狎れさせて来たのであった。――という謂いである。Ⅱの大橋氏のここの脚注には、「標註」(Ⅰの原本)に、

此かの字は、すみてよむべし。決定のかなり。かなといふ心。新古今の歌に、をのづからすゞしくもあるか其衣日も夕ぐれの雨の名殘に

とあるが、これは誤解で、「しか」は「こそ」の結びである、という注が附されてある(「標註」の引用は正字化した)。Ⅰで森下氏がこの項を原本から採らなかったのも、誤りであることが分かっていたからであろう。なお、私が実は前の注で問題にしたのは、まさに、この過去の助動詞「しか」の扱いだったのである。即ちここでは、

①敬仏房が「遁世したりし比まで」という謂わばフランス語の大過去(過去に於いてある時期継続していた事態)に相当する時制

がまずあり、それに続いて、

②敬仏房が、僧衆が「なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりし」という体たらくになったことの実感を持った①の後の過去のある一瞬の過去時制

があって、その後に、

③敬仏房が「あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか」が決心し、それが今話している現在まで続いているという半過去(現在も継続している過去の事態)がある

ととらないと、訳がおかしくなるということなのである。③の強意の係助詞「こそ」とその結びである過去の助動詞「き」の已然形「しか」はそうしたものとして独特なのである。私は本条の謂いではないが、湛澄の誤りは、実は単なる学才(国文法)のひけらかしに過ぎない「誤り」では毛頭なく、そうした時制の微妙な変化を感得しようとした結果の「誤り」、正しく時制を制御しようとする故の「誤り」であったように思えてならないのである。湛澄が時制に拘っていた証左は註の「はやもとゞりきりけん時は、はやとはすぎさりし時なり。むかしの事を歌にもはやとよむなり」という一文にもよく表れているではないか。但し、私は古典文法に疎い(というか嫌いだ)。だからこの私の見解は逆に、乏しい知識を牽強付会したところの――教仏房が厭うところの――大いなる救い難い痴愚の「誤り」であるのかも知れない。大方の識者の御意見を求むるものである。

「大原」現在の京都市左京区北東部比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模な盆地の名。平安京と若狭湾を結ぶ若狭街道の中継地点として栄え、また延暦寺に近かったことから、勝林院・来迎院・三千院・寂光院など多くの天台宗系寺院が建立された。また、戦争・政争による京都からの脱出のルートとしても用いられ、出家・隠遁の地としても古くから知られていた。惟喬親王や建礼門院をはじめ、大原三寂(常盤三寂)と称された寂念・寂超・寂然兄弟、藤原顕信・西行・鴨長明などの隠遁の地として知られている(以上はウィキ大原」より)。大橋氏脚注に『中世における声明研鑽の中心地』とある。

「聲明」梵語“abda-vidy”の漢訳。仏教の経文を朗唱する声楽の総称。インドに起こり、中国を経て日本に伝来した。法要儀式に応じて種々の別を生じ、また宗派によってその歌唱法が相違するが、天台声明と真言声明とがその母体となっている。声明の曲節は平曲・謡曲・浄瑠璃・浪花節・民謡などに大きな影響を与えた。梵唄(ぼんばい)とも言う(ここまで「大辞泉」、以下はウィキ明」より)。日本での声明の発祥地は三千院のある大原魚山である。天平勝宝四(七五四)年に東大寺大仏開眼法要の際に声明を用いた法要が行われた記録があり、奈良時代には既に声明が盛んにおこなわれていたと考えられている。平安時代初期に最澄・空海がそれぞれの声明を伝えたが、それ以外の仏教宗派にも各宗独自の声明があって現在も継承されている。

「すぎならひたるが」如何なる才知名声も等閑し、只管、念仏を唱えることを好むことが。

「大方に」一通りは。

「良忍上人」(延久五(一〇七三)年又は延久四年~天承二(一一三二)年)天台僧で融通念仏宗の開祖。聖応大師。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。二十二、三歳の頃、京都大原に隠棲、念仏三昧の一方、来迎院・浄蓮華院を創建し(寂光院も良忍による創建説がある)、また分裂していた天台声明の統一を図り、大原声明を完成させた。永久五(一一一七)年には阿弥陀仏の示現を受けたとして「一人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあうという融通念仏を創始、称名念仏で浄土に生まれると説いては結縁した人々の名を記入する名帳を携えて各地で勧進した(ウィキ「良忍に拠る)。]

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