★②★北條九代記 巻第二【第2巻】 賴家卿御家督 付 宣下 竝 吉書始
鎌倉 北條九代記 卷第二
○賴家卿御家督 付 宣下 竝 吉書始
右近衞少將源賴家は右大將賴朝卿の嫡男、母は北條遠江守平時政の娘從二位政子、壽永元年八月十二日鎌倉比企谷にして誕生あり。御験者(ごけんじや)は專光房阿闍梨良暹(りやうせん)、大法師觀修鳴弦(くわんしゆめいげん)は師岡(もろおか)兵衞尉重經、大庭平太景義なり。上總權介廣常蟇目(ひきめ)の役々を勤む。その外御産屋(おんうぶや)の儀式形(かた)の如く取行(とりおこな)はる。建久元年四月七日下河邊莊司行平(しもかうべのしやうじゆきひら)を以て若君の御弓の師と爲さる。行平は是(これ)數代將軍の後胤として、弓矢の道故實の達人なりとて賞せられ、御厩の馬を引き給はる。同八年二月に賴朝卿と同じく上洛あり。六月に参内ましまして御劍(ぎよけん)を賜り、同十二月に從五位上に叙せられ、右近衞少將に任ず。翌年正月に讃岐權介に任じ、同十一月正五位下に叙せられ給ふ。故右大將家正治元年正月十三日薨去あり。賴家既に十八歳、御家督を嗣ぎ給ふ。天下の事何の危(あやぶ)みかおはしますべき。同二十日に左中將に轉ぜられ、外祖北條時政執權たり。始(はじめ)賴朝卿出張の時より輔翼(ふよく)となりて威を振ひ、愈(いよいよ)是より權勢盛(さかり)にして肩を竝ぶる者なし。同二十六日宣下の趣(おもむき)、前征夷將軍源朝臣の遺跡(ゆゐせき)を繼ぎ、御家人、郎従元の如く諸國の守護を奉行せしむべしとなり。故賴朝卿薨じ給ひ、未だ二十日をも過ぎざるに、今日吉書始(きつしよはじめ)あり。是(これ)宣下の嚴密なるを以て重々の御沙汰あり。内々の儀を以て先(まづ)取り敢へず遂げ行はれけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻十六の建久十年二月の条々、建久元年四月七日の条などに基づく。
「壽永元年」西暦一一八二年。
「專光房阿闍梨良暹」巻第一の「鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮」に既出。
「蟇目」射る対象を傷つけないように鏃を使わず、鏑に穴をあけたものを装着した矢のことであるが、ここでは前の鳴弦同様、邪気を払うため、音を発して中に放たれる魔除けの矢のこと。
「建久元年」西暦一一九〇年。
「行平は是數代將軍の後胤」既に多出する下河辺行平の出自である下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野小山氏の一門で、更に秀郷及びその子とされる千常(ちつね/ちづね)、秀郷曾孫の兼光など代々、鎮守府将軍に任ぜられた名門の家柄であることをいう。
「正治元年」西暦一一九九年。
「同二十六日宣下の趣」土御門天皇の宣旨。
「今日吉書始あり」「今日」は正治元年二月六日。「吉書」とは物事の改まった後に吉日を選んで奏聞する文書。吉書を奏覧する儀式を朝廷では吉書奏(きっしょのそう)といったが,武家でもこの儀に習って、将軍が吉書に花押を据える儀式を「吉書始」と称した。
「宣下の嚴密なるを以て重々の御沙汰あり」この当りは、「吾妻鏡」の正治元年二月六日の条の。
此事故將軍薨御之後。雖未經廿ケ日。綸旨嚴密之間。重々有其沙汰。以内々儀。先被遂行之云々
此くの事、故將軍薨御の後、未だ廿ケ日を經ずと雖も、綸旨嚴密の間、重ね重ね其の沙汰有り。内々の儀を以つて、先づ之を遂行せらると云々。
に拠る。但し、頼家の正式な征夷大将軍の宣下は建仁二(一二〇二)年七月二十二日のことである。この辺りの対応の遅さには、急な政権交代に対する朝廷側の不穏な動きが感じられるようにも思われる。そもそもこの「吾妻鏡」の部分は意識せずに読めば、単に、
前の故将軍頼朝様の御逝去から、未だ二十日をも経っていないとは言え、綸旨が下されたということはとても重く大事なことであるからして、幕府内に於いて何度もの議論の末、では、取り敢えず、内々に執り行うこととするがよかろうと決して、まず吉書始だけは執行なさったとのこと。
と読めるのだが、「北條九代記」の叙述も殆んど変わらないのに、例えば教育社版増淵勝一氏は、この部分を、この吉書始の儀を行ったのは、
『これは朝廷からの御通達がきわめて厳しく頼家の征夷大将軍就任のお許しがないので、種々検討なさった結果である。内々のことにして、まずとりあえず挙行されたのであった。』
と訳されておられるのである。私は先に示した私の凡庸な訳よりも、この増淵氏の訳にこそ、「吾妻鏡」の、そしてひいては「北條九代記」の行間が、美事に読まれているように思われるのである。]
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