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2012/12/10

北條九代記 右大將賴朝卿薨去 / 【第一巻~了】

本話を以って「北條九代記」巻第一を終了する。


      ○右大將賴朝卿薨去

同年七月に稻毛(いなげの)三郎重成が妻、武藏國にして日比心地惱みしを、様々醫療するにその效(しるし)なく遂に卒去せしかば、重成別離の悲みに堪かね忽に出家す。この女房は北絛遠江守時政の娘にて、賴朝卿の御臺政子の妹なり。同九年十二月稲毛重成亡妻の追福の爲、相摸川の橋供養を營む。右大將賴朝卿結緣(けちえん)の爲に行向ひ、御歸の道にして八的原(やまとはら)に掛りて、義經、行家が怨靈を見給ふ。稻村崎(いなむらがさき)にして安德天皇の御靈(ごりやう)現形(げぎやう)し給ふ。是を見奉りて忽に身心昏倒し、馬上より落ち給ふ。供奉の人々助起(たすけおこ)し參らせ、御館(みたち)に入り給ひ、逡に御病(おんやまひ)に罹り、樣々の御祈禱、醫療手段(てだて)を盡(つく)すといへども、更に寸効(すんかう)なし。年既に暮(くれ)て、新玉(あらたま)の春を迎へ、正治元年正月十一日征夷大將軍正二位前大納言右大將源賴朝卿病惱(びやうなう)に依(よつ)て出家し、同じき十三日逐に逝去し給ふ。歳五十三。治承四年より今年まで世を治ること二十年なり。一旦無常の嵐に誘(さそは)れ、有待(うたい)の命を盡し給ふ。内外(うちと)の歎(なげき)言ふ計(ばかり)なし。御臺所平政子この悲みに堪難(たへがた)く、髪を下(おろ)して尼になり御菩提(ごぼだい)を弔(とぶら)ひ奉り給ふ。哀なりける事共なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」は欠損し、諸説入り乱れる頼朝の死のパートであるが、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、本話は、

①稲毛重成が妻の死により出家する。

「吾妻鏡」巻十五の建久六(一一九五)年七月四日の条

②頼朝がこの重成亡妻鎮魂の橋供養の帰途、義経・行家・安徳帝の怨霊を見て卒倒して落馬、逝去に至る。

「日本王代一覧」巻五

「保暦間記」巻一の建久九(一一九八)年十二月の条その他

「吾妻鏡」巻二十の建暦二(一二一二)年二月二十八日の条

「将軍記」巻一の建久九年十二月の条

を元にしており、

怨霊が現れ、頼朝が身心昏倒した話は「吾妻鏡」「将軍記」にはなく、「保暦間記」に拠る。また死去については、「日本王代一覧」に拠る。

とされている(鍵括弧を変更した)。「日本王代一覧」は慶安五(一六五二)年に成立した、若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより林羅山の息子林鵞峯によって編集された歴史書。神武天皇から正親町天皇(在位一五五七年~一五八六年)までを記す(ウィキの「日本王代一覧」に拠る)。「保暦間記」は南北朝時代に成立した歴史書。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を研究する上での基本史料で、成立は一四世紀半ばで延文元(一三五六)年以前。作者は不明であるが、南北朝時代の足利方の武士と推定されている(ウィキの「保暦間記」に拠る)。

 頼朝の死因についてはウィキの「源頼朝」に、『各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患った事までは一致しているが、その原因は定まっていない。吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しない』として、落馬説・尿崩症説・糖尿病説・溺死説・亡霊説・暗殺説・誤認殺傷説の七説を挙げて解説しているが、その内、現実的な可能性が高いと認められる幾つかを見たい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。まず人口に膾炙する「落馬説」については、

『建久九年(一一九八年)重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが吾妻鏡に記された死因であり、最も良く知られた説である。その死因が吾妻鏡に登場するのは、頼朝の死から十三年も後の事であり、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいうが、吾妻鏡には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる。落馬から死去まで十七日ある事から、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性がある』。

とする。次にこれに関連した、「尿崩症説」では、

『落馬で脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない十二世紀では死に至る可能性が高い』。

とあり、これは落馬の事実があったとすれば、かなり説得力があるようにも思われる(但し、余程、運の悪い落馬の仕方、武士として不名誉なそれでもあったことになるが)。次に「亡霊説」に、

『意識障害があったと捉えることもできる』。

とあって、これも落馬による頭部打撲との関連を認めることが出来る、若しくは、脳卒中など脳血管障害の発作が、周囲の者から見ると、本文にあるような連中の霊の出現を見たかのような印象を受けた(当日の光学的な自然現象とシンクロして)、としてもおかしくはない。

『愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする』「誤認殺傷説」は、頼朝が女装して女のもとに忍んで行こうとしたのを、警固の安達盛長によって誤って斬られたという説である。これは一見、頼朝が手に負えない女好きであった事実と照らし合わせると、情けなくも不本意にして、事実なら隠蔽必須な如何にもゴシップ好きが飛びつきそうな説であるが、その如何にもな狂言染みた「真相はこれだ!」的筋立て(実際に真山青果の戯曲「頼朝の死」(初演は「傀儡船(くぐつぶね)」)などはそれ。但し、そこでは誤殺者は畠山重保になっている)で、当時六十四になっていた頼朝流人時代からの直参が「警固―誤認―殺傷完遂」というのは、これ、残念ながら如何にも無理がある。

「同年七月に稻毛三郎重成が妻、武藏國にして日比心地惱みしを、様々醫療するにその效なく遂に卒去せしかば、重成別離の悲みに堪かね忽に出家す」重成妻の逝去と重成出家は建久六(一一九五)年七月四日。

「稻毛三郎重成」(?~元久二(一二〇五)年)は桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国橘樹郡(たちばなのこおり))を安堵されて枡形山に枡形城(現在の生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。この後、元久二(一二〇五)年六月二二日の畠山重忠の乱によって重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したとされ、翌二三日には殺害されている(ウィキの「稻毛重成」に拠る)。

「八的原」ウィキの、神奈川県藤沢市南部の荒野を指す古地名で、鎌倉時代からの歌枕として知られ、幕末には歌舞伎の科白にも出てくることから知られるようになったという「砥上ヶ原」の記載に(アラビア数字を漢数字に代えた)、『砥上ヶ原の範囲については諸説がある。相模国高座郡南部の「湘南砂丘地帯」と呼ばれる海岸平野を指し、東境は鎌倉郡との郡境をなしていた境川(往古は固瀬川、現在も下流部を片瀬川と呼ぶ)であることは共通する。西境については、相模川までとするものと引地川までとする二説が代表的である。前者は連歌師、谷宗牧が一五四四年(天文一三年)著した『東国紀行』に「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」とあるのが根拠とされる。一方、後者は引地川以西の原を指す古地名に八松ヶ原(やつまつがはら)あるいは八的ヶ原があり、しばしば砥上ヶ原と八松ヶ原が併記されていることによる。後者の説を採るならば、砥上ヶ原の範囲は往古の鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼地区の範囲とほぼ一致する』とあるから、現在の辻堂辺りを比定出来る。]

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