耳嚢 巻之五 堪忍其德ある事
堪忍其德ある事
村上何某御番(ごばん)を勤しに、初て在番の折柄(をりから)其相番たる輩、彼(かの)村上を手をかへ品を替ていぢりけるが、或時同日御番入(ごばんいり)の者を何某の積りに仕立向ふへ廻りて、其親は主人の馬を盜みて御咎(おんとがめ)を受しおのこなれば膝を並ぶる者にあらず、其子として生(いき)ながらへるは仕合成(なる)事也(なり)と、滿座にて彼(かの)村上を置(おき)てのゝしり笑ふ。さるにても〔此人と親は五位の太夫にて、御家門(ごかもん)の御傅(おもり)をなしけるが御拂馬(おんはらいうま)の事にて無調法ありけるや、一旦の御加恩を被召放(めしはなされ)御役御免なりし事あり、かゝる事をいひけるや。〕其身の事なくば親迄の惡名を罵(ののし)る事無念至極、最早堪忍なり難く切死(きりじに)と思ひ決しけるが、去(さる)にても親も呉々(くれぐれ)遺誡をなしけるは爰ならんと思ひ止りしを、彼惡徒さるにても腹を立(たて)ざる腰拔也(なり)、熱(あつき)茶を天窓(あたま)より浴(あび)せよといひけるに、同心の者茶を持來(もちきた)りしを、餘りとや思ひけん、同僚の内おどけに事寄(ことよせ)て茶碗を奪取(うばひと)りこぼし捨けるが、かゝる事故(ゆえ)在番中六七人の者とは無言にてくらしけるが、御使番(おつかひばん)に登庸(とうよう)せる時、始(はじめ)て右の惡徒も歡(よろこび)を述(のべ)ける故、外よりも厚く是迄の禮謝を述ければ甚込(はなはだこま)り候樣子也。然るに存寄(ぞんじよ)らず其後追々(おひおひ)登庸して今三奉行に連なりしが、彼人はいまだ御番を勤居(つとめを)る人もありと、彼村上、予が同廳のとき咄しける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、何となく無縁な感じがしない。不思議。
・「御番」御番入り。非役の小普請や部屋住みの旗本・御家人が選ばれて小姓組・書院番・大番などの役職に任ぜられること。
・「村上何某」底本注で鈴木氏は村上義礼(よしあや)とする。村上義礼(延享四(一七四七)年~寛政一〇(一七九八)年)は旗本。通称は大学。天明五(一七八五)年書院番となった(彼の父義方は御三卿清水家の万次郎(後の清水重好)の守役となったが、当主の馬買い下げ(本文割注にある「拂ひ馬」のことを言う)の一件にあってその処理に不調法有りとして、お役御免、小普請に落されている。鈴木氏は『馬のことは寛政譜には書』かれておらず、彼の失態は『家老職に補せららるるも応ぜず、我儘なふるまいであるとして五百石を公収され』たとする。また、岩波版長谷川氏注には『義方は従五位下肥後守であったので五位の太夫という』と記しておられる)。寛政四(一七九二)年御使番、次いで西ノ丸目付となり、同年十一月には、遭難民の大黒屋光太夫を連れて根室に来航、通商を求めてきたロシアのラックスマンと交渉する宣諭使に目付石川忠房とともに選ばれて蝦夷松前に派遣されている(翌年六月二十七日の会見で通商交渉の為の長崎入港を許可する信牌をラックスマンに与えており、ロシアと公的に接触した最初の幕府外交官として日露関係史上では特筆すべき人物である)。寛政八年九月に江戸南町奉行に就いている(以上はウィキの「村上義礼」及び「朝日日本歴史人物事典」、及び底本と岩波版長谷川氏注を参照したが、一部の事蹟に齟齬がある)。なお、この義礼妹は、天明四(一七八四)年に江戸城中で若年寄田沼意知を刺殺した佐野政言(まさこと)の室であるというのは、本話との深層の連関を感じさせる。この事件については、『犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかった事』、『上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事、等諸説あったが、幕府は乱心とした』。『佐野家は改易のうえ切腹の処分を受け自害した。しかし、世間からあまり人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められた。血縁に累は及ばず、遺産も父に譲られることが認められた』とある(以上はウィキの「佐野政言」に拠る)。
・「〔此人と親は五位の太夫にて、御家門(ごかもん)の御傅(おもり)をなしけるが御拂馬(おんはらいうま)の事にて無調法ありけるや、一旦の御加恩を被召放(めしはなされ)御役御免なりし事あり、かゝる事をいひけるや。〕」の割注はここで訳し、現代語訳からは外した。「御家門」は本来は徳川将軍家の親族で尾張・紀伊・水戸の三家、田安・一橋・清水の三卿を除く、越前松平家・会津松平家とその支流をいう語である。事実に反するが、実在する高位の人物であるからわざとこうしたものかも知れない(しかしどうみてもバレバレなんだが)。
――この人の親は五位の大夫と称し、御家門(ごかもん)の御守役を勤めて御座ったが、何やらん、主家の所有する馬の払い下げに絡む仕儀にても不正が御座ったとかと申すやら、一旦加増の御座ったを、急転直下、御役御免と相い成ったということが御座ったが、ここは、もしや、そのことを指して言うておるのであろうか?――
・「登庸」登用に同じい。
・「予が同廳のとき」根岸は、
評定所留役→勘定組頭→勘定吟味役→佐渡奉行→勘定奉行→南町奉行
という出世ルートを辿ったが、村上義礼は、
書院番→ 御使番→目付→(宣諭使)→南町奉行
とあって、狭義の「同廳のとき」とは最後の南町奉行しかない。但し、本巻は執筆推定下限が寛政九(一七九七)年春とされていることから、この時確かに村上は南町奉行ではあったが、根岸は未だ勘定奉行であった(彼が南町奉行になるのは寛政一〇(一七九八)年のことである)。そうすると、鈴木棠三氏の本巻の執筆下限推定をもっと引き上げられるのかといえば、そうとも言えない。根岸の勤めた勘定奉行は寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、ともに評定所を構成するから、根岸が勘定奉行であった寛政九(一七九七)年春、根岸と村上は「同廳」であった、と言えるのである。特に公事方勘定奉行であった彼は、町奉行の村上と接する機会が多かったものと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
堪忍にも徳のあるなしがある事
村上某(なにがし)殿が初めて書院番として御番入りなさった折り、同じ番を勤めて御座った輩(やから)が、これ、執拗(しゅうね)く、手を替え品を替えては、村上殿を揶揄致いた。
ある時なんどは、その日に御番入りした新米を、村上殿に見立てて、村上殿の座る位置の向かい側にその男を同じ向きで座らせ、わざとその前へと参って――即ち、新米を中に挟んで村上と差し向かいの体(てい)にて――新米へ向かい、
「……そなたの親は、これ、主人(あるじ)の馬を盗んでお咎めを受けた男(おのこ)なれば、のぅ!……我らとは、膝を並べらるるようなる者にては、これ、御座ない!……馬盗人(うまぬすびと)の子(こお)として、よくもまぁ、おめおめおめおめ、生きながらえるとは、のぅ……いやはや、これ、幸せなる、ことじゃ!……」
と、満座にあって、かの新米を前に――実際にはその後ろの村上殿を――面罵してせせら笑って御座った。
『……ム、ムッ!……それにしても……我が身のことならばまだしもッ!……親までも悪名を罵ること、これ、無念至極! 最早、堪忍ならんッ!――かくなる上は! 奴(きゃつ)と切り死に!!――』
と思い定め、一瞬――小刀(さすが)に――手がのびかけた。
……が……
『……しかし……それにしても……我が親が、くれぐれも遺誡と致いて自重致すべく示したは……これ……まさに「ここ」……にて御座ろほどに!――』
とぐっと思い止まって、まんじりともせずに座って御座った。
すると、かの悪辣なる輩、
「……なんじゃあ?……かくも、言われてからに腹を立てざるたぁ、これ、腰抜けじゃ!……こうりゃ! 一つ、眼覚(めえさ)ましに、熱い茶の一つも、頭より浴びせかけてやるが、これ、よいわい!」
と、近くに控えて御座った同心の者に言いつけ、茶を持って来さする。――
――と、まあ、あまりのことと思うたのでも御座ろう――他の同僚が、ふざけた振りを致いて、その茶腕を奪い取って、茶を畳に零(こぼ)させて、これは、何事ものう、仕舞いとなって御座ったという。……
村上殿は、かくなることなれば、書院番在番中も、そうした輩の連中であった六、七人の者どもとは、これ、殆ど全く口を利かずに勤めたとのことで御座ったが、後、村上殿が御使番に抜擢された折りには、初めて、かの悪辣非道なる男も祝いの言葉をかけて参ったによって、村上よりも、
「……これまでのこと、厚く、御礼申す。」
と答えたところが――かの男――これ、甚だ困惑致いておる様子にて御座った由。……
然るにその後、村上殿、「思いの外」――これは、ご自身の言にて御座る――順調にご登用になられ、今は三奉行に名を連ねておらるるが……例の悪辣なる罵詈雑言を吐いて御座った男どもの中には……未だ万年御番を勤めておる御仁も、これある由、かの村上殿と、私がたまたま同じ職場となった折り、ご自身がお話になられたことで御座る。