北條九代記 新田開作
○新田開作
同四月二十七日兵庫頭廣元朝臣奉行として東國の地頭等に仰行はるゝ趣は、近年は兵亂(ひやうらん)打(うち)続きて庶民手足を措(お)くに所なし。是(これ)に依(よつ)て農桑(のうさう)の營(いとなみ)に怠り、田畠多く荒蕪(くわうぶ)に及べり。今既に天下軍安の時至り百姓既に安堵の地に栖宅(せいたく)す。今に於ては要求便宜(びんぎ)の所新田を開作すべし。凡(およそ)荒地不作の揚と稱して、年貢正税(しやうぜい)を減少せしむ。向後は許すべからず。具(つぶさ)に沙汰を遂べしとなり。夫(それ)古(いにしへ)國を建て、民を居(を)らしむるは必ず土地を理(り)し、水勢の及ばざる所に於て家を造り、棲(すみか)を治む。大川の游波(いうは)寛緩(くわんくわん)として迫らず、小河の細流潺湲(せんえん)として以て注ぐ。卑隰(ひしう)の地を田とし、高原の土(ど)を畠(はた)とし、堤(つつみ)を作りて洪水に備へ、民(たみ)耕して是(これ)に田作り、又耘(くさぎ)りて畠を營み、久しく損害なければ、稍(やや)村里を築く。彼(かの)壽永、元曆の騷亂に方(あた)つて、軍兵横行(わうぎやう)して、居民(きよみん)を追捕(ついふ)す。是が爲に山野に逃亡し、農桑の時を失ひ、饑凍(きとう)の歎(なげき)に沈み、溝瀆(こうとく)に倒(たふ)れて、死亡するもの數を知らず。然るを今(いま)世は適(たまたま)治(おさま)り、人は漸く歸住(かへりす)みて、東耕西收(とうかうせいしゆ)の務(つとめ)を勵(はげま)すといへども、地頭は貪りて、賦歛(ふれん)を重(おもく)し、守護は劇(はげし)くして、公役(くやく)を繁(しげ)くす。春耕(たがやし)して風塵(ふうぢん)に侵され、夏耘(くさぎ)りて暑毒(しよどく)に中(あた)り、秋陰雨(いんう)を凌ぎて刈り、冬寒凍(かんとう)に堪へて舂(うすつ)く。年中四時(じ)に休む日なし。又私に自(みづから)出て、徃(わう)を送り、來(らい)を迎へ、病(やまひ)を問ひ死を弔(とぶら)ひ、牛馬を養ひ、子を育(そだ)つる。夫(それ)猶水旱(すいかん)の災(さい)に罹る時は日比(ひごろ)の勤苦(ごんく)一時(じ)に空しく、手を拱(こまね)きて取得(う)る物なし。剩(あまつさへ)暴虐の目代(もくだい)年貢を責(はた)れば、價(あたひ)を半(なかば)にして雜具(ざうぐ)を賣り、資財なき者は倍息(ばいそく)の利銀(りぎん)を借り、或は田宅(でんたく)を壞(こぼ)ち、子女を販(ひさ)ぎ、是を以て、相(あひ)償(つぐな)ふ。若(もし)辨(わきま)ふる事なければ、妻子を捕へては裸にして荊(いばら)の中に臥(ふ)さしめ、農夫を縛(しば)りては跣(すあし)にして氷を履(ふ)ましむ。或は牢屋に繋ぎて、水食(すゐしよく)を止(とゞ)め、或は井池(せいち)に浸して、寒風に侵(をか)さしむ。兎(と)ても角ても有(ある)も無(なき)も、定めし限(かぎり)の正税(しやうぜい)を肯(うけがは)しむ。哀(あはれ)なるかな、米穀多けれども、農民は食(くら)ふことあたはず、糟粕(さうはく)にだに飽く時なし。悲しきかな。絲帛(しはく)は盈(みつ)れども、機婦(きふ)は衣事(きること)をえず、短褐(たんかつ)をだに暖(あたゝか)ならず、皆悉く官家(くわんけ)に納む。官家は是を虐取(はたりとり)て、衣裳には文采(ぶんさい)、飲食(いんしよく)には酒肉、其奢侈(しやし)に費す事(こと)金銀米錢宛然(さながら)沙(いさご)を散すが如し。更に民の苦勞を思はず、膏(あぶら)を絞り血をしたてて、用ひて我が身の樂(たのし)みとす。されば天理の本(もと)を尋ぬれば、彼も人なり、我も人なり、一氣(き)の禀(うく)る所その侔(ひとしか)らざれば、上下の品(しな)はありといふとも、君として世ををさめ、臣として政(まつりごと)を輔(たす)くるに、仁慈(じんじ)こそは行足(ゆきたら)ずとも、荒不作(あれふさく)の所に年貢を立てて責取(せめとり)給はんは天道神明(しんめい)の冥慮(みやうりよ)も誠に計(はかり)難しと、心ある輩は歎き悲(かなし)み給ひけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年四月二十七日の条に基づく。「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、『荒不作の土地から新たに年貢を取ろうとする頼家の政策の非を説く』本話は、笹川祥生氏の「『北条九代記』の「今」」(「軍記物語の窓」第一集 平成九(一九九七)年和泉書院刊)によると、作者が執筆した延宝三(一六七五)年前の、江戸幕府『当代の悪政非道への批判が込められているとする』とある。実際、以下の通り、素材とされた「吾妻鏡」はたった六十字程の、如何にもあっさりした事実の提示のみである。
〇原文
廿七日戊子。仰東國分地頭等。可新開水便荒野之旨。今日有其沙汰。凡稱荒不作等。於乃貢減少之地者。向後不可許領掌之由。同被定云々。廣元奉行之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日戊子。東國分の地頭等に仰せて、水便の荒野を新開すべきの旨、今日、其の沙汰有り。凡そ荒不作(あれふさく)等と稱し、乃貢(なうぐ)減少の地に於いては、向後、領掌(りやうじやう)を許すべからざるの由、同じく定めらると云々。
廣元、之を奉行すと云々。
「夫古國を建て……」以下、最後までが筆者の批判である。これ、かなり力(りき)が入っている。
「寛緩」ゆったりとして穏やかなさま。
「潺湲」さらさらと水の流れるさま
「卑隰」低地の湿った土地。
「壽永、元曆の騷亂」西暦一一八二年(養和二(一一八二)年五月二十七日に寿永に改元、寿永三(一一八四)年四月十六日に元暦に改元)から一一八五年(元暦二年八月十四日に文治に改元)で源氏と平氏が相い争った治承・寿永の乱の時代。但し、源氏方では寿永を使用せず、以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永二(一一八三)年以降は京と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになった。一方、平氏方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその壇の浦での滅亡(文治元年三月二十四日)まで引き続き使用している(ウィキの「寿永」の記載等を参考にした)。
「農桑」農耕と養蚕。
「溝瀆」みぞやどぶ。
「東耕西收」日々の耕作と、その収穫の作業。
「賦歛」徴税。
「劇くして」横暴で。
「舂く」臼を搗く。穀類を杵や棒の先で強く打って押しつぶしたり、殻を除いたりする。
「又私に」この前までは賦役の苛斂誅求を謂い、ここからは農民の私的な日常を述べる。
「徃を送り、來を迎へ」親しい者が遠くへ去り行くのを心を込めて見送り、新たに巡り逢った者を優しく迎え。
「目代」代官。
「倍息」倍の利息。
「若辨ふる事なければ」万一、農民が既定の賦役をなすことが出来なければ。
「妻子を捕へては……」主語は目代。
「兎ても角ても有も無も、定めし限の正税を肯しむ」何はなくとも、有無を言わせず、定めただけのきっちりとした税額を受け入れさせ(て支払わせ)る。
「糟粕にだに飽く時なし」穀類その他一切の農作物の、利用出来る部分を取り去った残りでさえも、満足に食い足ることさえ出来ぬ。
「絲帛」糸と布。
「機婦」機(はた)織る婦人。
「短褐をだに暖ならず」粗末な衣服でさえも纏うこと儘ならず。
「虐取(はたりとり)て」「はたる」は「徴る・債る」と書き、取り立てる、徴収するの意。
「文采」豪華な織りで彩ること。
「血をしたてて」「したつ」はタ行下二段活用の動詞「滴つ」で、したたらせる、の意。
「天理の本を尋ぬれば……」以下、「誠に計難し」までが「心ある輩」の「歎き悲」しむ内容。
「彼も人なり、我も人なり」かの権力者側とても人であり、我らも同じ人である。
「一氣の禀る所その侔らざれば」人という存在は生れついた際、確かにその在り方は等しくはないから。
「品」身分。
「仁慈」思いやり。
「冥慮」人智を超えている(とは言え)、そのみ心。]