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2012/12/19

一言芳談 三十六

   三十六

 

 敬佛房(きやうぶつばう)云、念佛の法門は、歌一首にて心得たるよし、僧都御房(そうづごばう)に申(まうす)なり。仰云(おほせていはく)、さぞ。

  たゞたのめたとへば人の僞(いつはり)をかさねてこそは又もうらみめ

 

〇僧都御房、明遍なり。

〇たゞたのめ、是は新古今戀の部にあり。慈圓僧正の歌なり。戀の歌に人といふはこがるゝ人なり。その人我を思ふといはゞ悦ぶべし。思ひすごしてうたがふなといふ心なり。是を本願の方へあはせて心得べし。

 

[やぶちゃん注:「敬佛房」Ⅱの大橋注に、『伝不詳。法然・明遍の両人の弟子』とする。因みに、「沙石集」巻十(九とする版もあり)の「妄執ニヨリテ魔道ニ落タル事」の一つに、以下のような話があり、彼が登場する(引用は岩波古典大系版のカタカナ部分を平仮名化して示し、踊り字「〱」は正字に直し、一部ルビを省略した)。本条の彼の歌と響き合う話である。

常州に眞壁(まかべ)の敬佛房とて明遍僧都の弟子にて、道心者と聞(きこへ)し高野上人ひじりは、人の「臨終をよし」と云(いふ)をも、「わろし」と云をも、「いさ心の中をしらぬぞ」と云はれける。實にて覺ゆ。高野にありける古き上人、「弟子あれば、往生はせうずらん。後世こそをそろしけれ」とぞ云ける。子息・弟子・父母(ぶも)・師長の臨終のわろきを、ありのまゝに云(いふ)もかはゆくして、多(おほく)はよきやうに云なすこそ、由しなき事也。あしくはありの儘云て、我もねむごろに菩提を訪ひ、よそまでも哀み訪(とぶらは)ん事こそ、亡魂のたすかる因縁ともなるべけれ。末代には多(おほく)は往生とのみ云(いひ)あへり。惡人も往生す。惡業(あくごふ)をそるべからずと云。これによりて、末代には魔往生あるべしと云へり。惡人なれども心を改(あらため)て十念をも唱へ、宿善開發(かいほつ)して、實の住生もあるべし。宿善もなく、正念にも住せず、實なきものゝことことしき往生は、あやしむべし。心をひるがへして往生せむは、教門のゆるす所なり。惡人と云ふべからず。善人も妄念あて、臨終あしき事あるべし。是れ又善野よしなきに非ず。妄心のつよきなり。此(この)理を信じて、因果の不可亂(みだるべからず)。

・「眞壁」旧茨城県真壁郡真壁町。現在の桜川市内の地名として残る。

・「弟子あれば、往生はせうずらん。後世こそをそろしけれ」これはなかなか捻った謂いで、『我らは相応の弟子がいるから――彼らは私の臨終について、「師は美事なる往生にて御座いました」なんどと吹聴するであろうからして、よそ目には――一応の往生はするであろうが……いや、後世こそ、これ、恐ろしいものじゃ……』という意味である(底本の渡邊綱也氏の頭注を一部参考にした。以下、同じ)。

・「かはゆくして」「かはゆし」の本来の原形は「かははゆし」で、恥ずかしいので、の意。

・「亡魂のたすかる因縁ともなるべけれ」極楽往生出来なかった彷徨える魂が救われる因縁ともなるであろう。

・「をそる」「おそる」(恐る)。

・「魔往生」底本渡邊氏の注には、『極楽往生の対。魔性をもって生まれかわること。』とある。

・「宿善開發」前世の善根功徳の種子が現世で開き顕われること。

・「ことごとしき」大袈裟な、仰々しい。

・「妄念あて」「妄念ありて」の促音便無表記。

 

「たゞたのめたとへば人の僞をかさねてこそは又もうらみめ」「新古今和歌集」の「卷十三戀歌」にあるの和歌(新編国歌大観番号一二二三)である(隠岐での除棄歌)。岩波版新古典大系版のものを前書とともに正字化して示す。

   攝政太政大臣家百首歌合に、契戀の心を    前大僧正慈圓

 たゞたのめたとへば人のいつはりを重ねてこそは又も恨(うら)みめ

・「攝政太政大臣」藤原良経。本来の歌は、不実を疑って恨んだ女に対して、それを払拭するための祈誓の歌である。底本の田中裕の訳を参考に以下に私の訳を示す。

――一途に信頼なされよ!……何?……それでも、これ、分かりませぬか? では、こう申せばよいかの?――かく私が申しておきながらも、しかも私があなたを裏切って、まごうかたなき偽りをまたしても重ねたとあなたが感じたその時にこそは――改めて確かに私をお恨みになられるがよい! と――

これは相手の既成の猜疑を踏まえた複雑な謂いであることに注意したい。即ち、「重ねて」である。相手(女)は既に彼を不実と疑っているのであって、その彼女に対して初句「たゞたのめ」と約束すること自体が、既にして疑っている彼女の心情に即すなら「いつはり」なのである。その誓いを万が一私が破ったとすればそれは「重ねて」「いつはり」を述べたことになる――しかし、私がかくも言う以上、私の「たゞたのめ」は絶対の真実である、というのである。]

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