一言芳談 四十三
四十三
敬佛房云、資緣無煩人(しえんむほんにん)も、のどかに後世のつとめするは、きはめてありがたき也。これをもておもふに、資緣の有無によらず、たゞ心ざしの有無による也。然ば、某(それがし)は資緣の悕望(けまう)は、ながく絶(たえ)たる也。たゞ後世ばかりぞ大切なる。又自然(しぜん)にあれば、あらるゝ也。後世を思ふ人は、出離生死のほかはなに事もいかにもあらばあれと、うちすつる意樂(いげう)に、つねに住するなり。佛の御心に眞實にかなひて、誠の供養なる事、たゞいさゝかも、出離の心をおこすにある也。有待身(うたいしん)、緣をからずといふことなければ、紙衣(しえ)、自世事おりにしたがひて、いとなめども、大事がほにもてなして、後世のつとめにならべたる樣に思ふ事、返々(かへすがへす)無下(むげ)の事也。
〇敬仏房云、資緣(しえん)の氣遣をやめよとのすゝめなり。
〇資緣、衣食住(えじきじゆう)のたすけなり。
〇悕望ねがひのぞみなり。
〇又自然にあればあらるゝなり、佛藏經の説のごとく、釋尊白毫相(しやくそんびやくがうさう)の餘輝(よき)をたまはるゆへに、成り次第にしてもなるものなり。
〇誠の供養、華嚴行願品云、諸供養中法供養最。所謂、如説修行供養、乃至不離菩提心供養。
〇有待の身、衣食(えじき)をかる血肉の身。
〇後世のつとめにならべたる樣に、今の世の僧はまづ衣食を大事として、後世の事を思はぬなり。浮世(ふせい)の小節(しようせつ)と出離い大事とをわきまふべし。
[やぶちゃん注:「資緣無煩人」Ⅰの本文では「資緣煩ひ無き人」と訓読している。私はⅠの方が直言としてはいいと思う。「無煩人」は心配のいらない人。
「資緣の有無によらず」Ⅱの大橋氏脚注に、「一言芳談句解」に、
峰の通ひ路にすみやき谷のけはしきに、いづみをつるも、すて人の手ばさ(き)なるべし。我雪山童子の仙人につかへたるも、資緣はなく、漁父が澤畔にさまよひしも、たすけある躰にはきこえず、たゞ有ればあらるるまでの事なり。所詮資緣によらず、心による也。
とあるとする(引用に際して正字化した)。
「有待身」Ⅱの大橋氏脚注に、「一言芳談句解」に、
有体身は無常の身をいふ。一年一月一日をおくり、まづは死をとぐる身なれば也。生死の大事と自然にあればあらるゝ世の中とを、同じく思ふは、無下の事といふ。まことに有がたき言葉なり。
とあるとする(引用はママ。「待」でなく「体」とある)。
「自世事」Ⅰは「自」がなく分かり易い。Ⅱの大橋氏は、『「みづからの世事」と読むべきか』とし、続群書類従本でも「紙衣自世事」とある、と記す。
「誠の供養、華嚴行願品云、諸供養中法供養最。所謂、如説修行供養、乃至不離菩提心供養。」の評註をⅠの訓点を参考に書き下しておく(「 」は私の推定)。
誠の供養、華嚴行願品に云はく、「諸々の供養の中に法供養を最もとす。」と。所謂、如説修行供養、乃至、不離菩提心供養。]