一言芳談 四十二
四十二
又云、裘荷(きうか)・籠負(ろうふ)など執しあひたるは、彼(かれ)を用(もちゆ)る本意(ほい)をしらざる也。あひかまへて、今生(こんじやう)は一夜のやどり、夢幻(ゆめまぼろし)の世、とてもかくてもありなむと、眞實に思ふべきなり。生涯をかろくし、後世をおもふ故、實(まこと)にはいきてあらんこと、今日ばかり、たゞいまばかりと眞實に思ふべきなり。かくおもへば、忍(しのび)がたきこともやすく忍ばれて、後世のつとめもいさましき也。かりそめにも、一期(いちご)を久からむずる樣にだに存じつれば、今生の事おもくおぼえて、一切の無道心のこと出來(いでくる)也。某(それがし)は二十餘年、此(この)理(ことわり)もて相助(あひたすけ)て、今日まで僻事(ひがこと)をしいださざるなり。今年ばかりかとまでは思しかども、明年(みやうねん)までとは存ぜざりき。今は老後也。よろづはたゞ今日ばかりと覺(おぼゆ)る也。出離(しゆつり)の詮要(せんえう)、無常を心にかくるにある也。
〇裘荷、つゞら、かはごのたぐひ。
〇籠負、竹のかごの笈(おひ)なり。修行者の負ひまはるものなり。
〇忍がたきことも、新拾遺の歌に、世のうさもいかばかりかはなげかれん、はかなきゆめとおもひなさずば。新續古今に、是もまたありてなき世と思ふをぞ、うきをりふしのなぐさめにする。兼好家集に、うきこともしばしばかりの世の中を、いくほどいとふわが身なるらん。
[やぶちゃん注:「彼を用る本意をしらざる也」それをどのような目的で用いるのかという本来の意味を分かっていないのである、の意。無論、言わずもがなである。只管、念仏をするため、只管、速やかな極楽往生を「する」ためにのみ、それらは「在る」のである。即ち、「今生は一夜のやどり、夢幻の世」を生きる「便(よすが)のため」に、では、ない。「今生は一夜のやどり、夢幻の世」であることを自覚するためにこそ、ためだけに、それらは「在る」、と敬仏房は謂うのであろう。
「夢幻の世」Ⅱの大橋氏の脚注によれば、「一言芳談句解」には、
ほとけは如露電と説給ひ、一生は唯一そく(息)きたらざれば、死につく事、めのまへの境也。まことにいみじき位に職し、寶心にしたがひしも、かぎり有て、それより年ふりしは、碑の銘きえて、苔のしづく所也き。はては木はたき木、地は畑となる事、いにしへいまはからざりき。とにかくたのむましきは此身、住はてぬはうき世。はてぬこそたのもしなんど、おもふ人はまれなれ。しかし無常もよくよくみれば常にて、つねといへばはやうつり行無常、所詮夢幻の世
とあると記す(引用に際して正字化し、踊り字「〱」は正字に直した)。
「生涯をかろくし、後世をおもふ故、實にはいきてあらんこと」Ⅰでは、
後世をおもふ故實には、生涯をかろくし、生きてあらんこと、
とある。また、大橋氏脚注によれば、「続群書類従」第二十八輯下に所収する版本では、
生涯をかろく後世をおもふ故、實にはいきてあらんこと
とあるとする旨の記載がある。文意は変わらないがⅠの「故實」は、敬仏房の直談の法語としては、私は生硬に思われる。
「いさましき也」心が奮い立つのである。
「一期を久からむずる樣にだに存じつれば」生死の一期――命――というものが永遠に続くもののように思ってしまっただけで。
「僻事」道理に外れたこと。
「今年ばかりか」「明年まで」「今日ばかり」総て主体は隠されており、勿論、総て「己が命」である。
「出離の詮要」生死出離の肝心な大事の意。生死の相対世界の煩悩を離脱し、常住涅槃の境に入ること。
「世のうさもいかばかりかはなげかれん、はかなきゆめとおもひなさずば」国際日本文化研究センター和歌データベース「新拾遺和歌集」の00866番に番外作者として以下の標記で載る。
よのうさも いかはかりかは なけかれむ はかなきゆめと おもひなさすは
「是もまたありてなき世と思ふをぞ、うきをりふしのなぐさめにする」国際日本文化研究センター和歌データベース「続新古今和歌集」の01933番に式子内親王の歌として以下の標記で載る。
これもまた ありてなきよと おもふをそ うきをりふしの なくさめにする
「うきこともしばしばかりの世の中を、いくほどいとふわが身なるらん」国際日本文化研究センター和歌データベース「兼好法師集」の00232番に番外作者として以下の標記で載る。
うきことも しはしはかりの よのなかを いくほといとふ わかみなるらむ
私は以上の三つの歌集本を所持しないので以上以外には注すべき私の側の内実を持たない。悪しからず。]