苅萱桑門筑紫いへづと 高野山の段
昨日の文楽――その2
「苅萱桑門筑紫※(かるかやだうしんつくしのいへづと)」
(「※」=「車」+「榮」。)
――高野山の段
苅萱道心の吉田和生が絶品であった。
彼の人形を遣うその表情には――失礼乍ら――ややぼうっとした、女性的な印象があって、それが役によっては人形を邪魔することがあると僕はずっと感じて来たのであるが、今回は、それを微塵も感じさせない程、人形が絶妙に生きているのである。――
相手が我が子石堂丸と知ったその瞬間から、遂に名乗ることなく別れ、それを遠く見送ってゆく、その父苅萱道心のその心が、その驚くべき多様に変容する人形の表情(!)に美事に現われているのである。――
吉田蓑紫郎の石堂丸も、抑制的な苅萱道心と対をなす、情の発露を非常に上手く表現している。但し、僕は人形が子役なれば、仕方がないとは思うものの、石堂丸の面が〈過度に振り仰ぎ過ぎている〉と感じた。父と知りつつ山を下り、この後(伝承上は)彼は、再び父と再会する。しかも遂に親子の名乗りをせずに(!)父の弟子となって生涯を終えるのである……即ち、このシーンには「父と子」という現世の契りを断ち切る何かが既に孕まれているのだと思う。さすればこそ、頑是ない石堂丸の挙措動作には――そうした未来の決然たる僧の面持ちが伏線としてあってよい――どこかでもっと内面へと情を潜ませるような面を伏せた演技があってもよいように思われたのであった。
この一段だけのために今回の公演を見てもよい、と、僕は感じたものである。――