一言芳談 三十五
三十五
淨土谷の法蓮上人は、資緣省略(しえんせいりやく)のうへ、形のごとくの朝喰(あさげ)し、往生極樂のつとめに、わすられて、世のつねならず。これがために、これをいとなむ、念佛、心に入(いる)ときは、飯(いひ)にもあらず、粥(かゆ)にもあらぬ體(てい)なり。年にしたがひ、日をゝひて、容顏(ようがん)おとろへ、身力(しんりき)つきぬ。良友たづねきたりて、訪(とふらひ)て返事(へんじに)云、
〽西へゆくすぢ一だにたがはずば骨とかはとに身はならばなれ
〇淨土谷、洛東淨土寺山の北の谷なり。されば白川の法蓮房といへり。
〇資緣省略、衣食道具かろくつゞまやかにし給へるなり。
〇西へゆくすぢ一だに、すぢとは心の事なり。下の句に身とあるにて知るべし。善導の御釋に極樂をねがふ心を白き道筋にたとへられたる事あり。又道理の事をも筋といふ。
[やぶちゃん注:「法蓮上人」法蓮房信空(久安二(一一四六)年~安貞二(一二二八)年)藤原行隆の子。称弁とも。法蓮房という。十二歳で法然の師比叡山黒谷の叡空の室にて得度出家(法然の出家は天養二(一一四五)年十三歳とされる。従って当初、法然は十三歳違いの兄弟子であった)。叡空の滅後に法然に師事、以後、門下の長老として実に五十五年もの間常随し、その臨終にも近侍した。天台僧の念仏弾圧に対して元久元(一二〇四)年に法然が比叡山に送った「七箇条起請文」では執筆役を務め、法然に次いで、門下として筆頭署名をしている。法然流罪後は事実上の後継者として残された教団を統卒、浄土宗の基礎を固めた。「没後制誡」によれば彼の祖父藤原顕時が叡空に寄進した中山(黒谷光明寺の地)の別邸は法然に譲られ、後に法然によって信空に譲られている。これを寝殿造の白川禅房(二階房)と称し、この内松林房において九月九日に八十三歳で示寂した(以上は「浄土宗」公式HPの以下の頁の記載を参照した)。
「これがために、これをいとなむ」念仏をせんがために、食事を摂った。
「わすられて」「忘られて」であるが、この「忘る」はラ行四段活用(通常のラ行下二段ではない)で、「る」は尊敬ではなく自発である。
「善導の御釋」Ⅱの大橋氏注に「觀経疏散善義(かんきょうそさんぜんぎ)」を指し、『白き道筋は著名な二河白道の比喩をいう』とある。「二河白道」は「にがびゃくどう」と読み、善導が喩えた、極楽浄土に往生したいと願う者の、入信から往生に至る道筋。「二河」は南の火の川と北の水の川を指し、火の川は憎しみの燃え上がる謂いから怒りや憎しみを、水の川は欲に流される謂いから貪る心や執着心を表象する。その間に、一筋の白い道が通っているが両側から水・火が迫って、しかも後ろからも追っ手が迫っていて退けず、一心にその白い道を進んだところ、遂に浄土に辿り着いたという寓話である。煩悩にまみれた人でも、念仏一筋に努めれば、悟りの彼岸に至ることができることを説いている。主に掛け軸に描かれた絵を用いて説法を行った。絵では上段に阿弥陀仏と観音菩薩と勢至菩薩が描かれ、中段から下には真っ直ぐの細く白い線が引かれ、白い線の右側には水の河が逆巻き、左側には火の河が燃え盛っている様子が描かれ、下段にはこちらの岸に立つ人物とそれを追いかける盗賊、獣の群れが描かれる。下段の岸が現世、上段の岸が浄土を示し、東岸からは釈迦の「逝(ゆ)け!」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ!」という声がするという。この喚び声に応じて人物は白い道を通り西岸に辿りつき極楽往生を果たすという説法である(以上の絵解き部分はウィキの「二河白道」を参考にした)。]