耳嚢 巻之五 こもりくの翁の事
こもりくの翁の事
享保元文の頃の人にて京都に住(すみ)ける老人、郭公(ほととぎす)の歌よみける。
たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公
此歌難有(ありがたく)も叡覽に入りて感じ思召(おぼしめし)、こもりくの翁といへる名を給はりしに、妬(ねた)める者にや又歌の道にねぢけたる人にや、この歌は古人のよみしにはあらぬかと沙汰しけるを聞(きき)て、又詠(よめ)るよし。
一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす
かくよみければ、初め誹(そし)りし人も恥(はぢ)思ひけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。和歌技芸譚。
・「享保元文」西暦一七一六~一七四一年。
・「こもりくの翁」諸本注をしないが、これは江戸中期の歌人である柳瀬方塾(やなせみちいえ 貞享二(一六八五)年~元文五(一七四〇)年)のことで、少なくとも彼をモデルとした伝承譚である。通称は小左衛門、名は美仲、隠口翁(こもりくのおきな)は号。遠江浜松の呉服商で、武者小路実陰(さねかげ)や荷田春満(かだのあずままろ:春満とも言った江戸中期の国学者。賀茂真淵の師で、真淵・本居宣長・平田篤胤とともに国学四大人に数えられる人物。)に学び、賀茂真淵らと遠江に歌壇を形成した。最初の本歌とよく似た、
はつせ路や初音きかまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす
の歌碑が浜松市善正寺に残る(以上は講談社「日本人名大辞典」を参照した)。
・「叡覽」当代は烏丸光栄(からすまるみつひで)に古今伝授を受けた、歌道に優れた桜町天皇である。
・「たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
尋來て初音聞かまし初瀨路や又こもりくの山ほとゝぎす
で載る(正字化した)。
「こもりくの」は初瀬の枕詞。「こもり」は「隠り・籠り」で「く」は場所の意で、両側から山が迫って囲まれたような地形の謂いから、同様の地形である大和の泊瀬(初瀬)に掛かる枕詞となったとする。但し、別に「はつ」は身が果つの意を含ませて(「こもる」にも隠れる、死ぬの意がある)、死者を葬る場所の意を込めている例(「したびの国」(黄泉国)の枕詞とした例や「万葉集」で葬送の場面に用いられた例)もあるとする(後半部は「日本国語大辞典」に拠る)。「初瀨路」「はつせじ」。古くは「泊瀬」とも書いた。初瀬街道。大和初瀬(現在は「はせ」と読むのが一般的なようである。現在の奈良県桜井市)と伊勢国(現在の三重県松阪市)の六軒を結ぶ街道。ウィキの「初瀬街道」によれば、『古代からの道で壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道でもある。また江戸時代には国文学者である本居宣長も歩いており、その様子は彼の著書である菅笠日記に記されている』とある。
――わざわざこの奥深き里へと尋ね来たのだから、やはり聴かせておくれ……この古来の道なる初瀬(はつせ)路の、山ほととぎすよ、その声(ね)を――
なお、底本の鈴木氏注には、江戸後期の京都梅宮大社神官で国学者の橋本経亮(つねあきら)の書いた随筆「橘窓自語」(天明六(一七八六)年)の巻一に、
荷田東滿遠州濱松にありし時、濱松宿に柳瀨幸右衞門味仲といふ人、
初瀨路やはつねきかまく尋てもまたこもりくの山時鳥
といふ歌をかたりしかば、「こもりくの山時鳥といふこと、いまだきかず」といはれたりしに、かの味仲中院通躬卿の門人にて、「すなはち中院殿の點ありし歌也」といひければ、「當時の歌仙通躬卿の子細なく點せさせ給ひし上は一首譬いにしへに例なくとも、これを據に我もよむべし」、と東滿いはれて、その故よしをしるされたりしふみ、いまも濱松にありてみたりしなり
と記す旨の記載がある(原注の引用を正字化し、一部を改行、鍵括弧を補って示した)。「荷田東滿」は荷田春満の別名。「柳瀬味仲」は前出の柳瀬美仲。「中院通躬」は「なかのいんみちみ」と読み、江戸中期の公卿で歌人。但し、話柄の趣きはかなり違う。
・「この歌は古人のよみしにはあらぬか」このままであると、これは古人の盗作ではないか、という風にも読めるが、前注に引用した「橘窓自語」の話柄からは「この歌は古人のよみしにはあらぬが」で、「こもりくの山時鳥といふこと、いまだきかず」、則ち、「こもりくの山時鳥」という詞は堂上の和歌には先例がない、との謂いであろう。現代語訳では、かく訳した。
・「一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす」賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある神域である糺(ただす)の杜(もり)を、人がかくもいちゃもんをつけて咎めた(糺した)ことの意に掛けてある。――京の糺の森なら、よろしゅうおすか? それじゃ、でも、あまりに、不遜で御無礼では?――というニュアンスであろうか? いや、これはもしかすると――下鴨神社の祭神賀茂建角身命の化身である八咫烏(やたがらす)を背後に暗示した――例えば、神域の禁忌を、畏れ多い叡感を得た歌に譬えて、「……あなたはそれでも難癖をおつけになって平気か?」といった一種の呪言歌――というか――脅迫歌なのかも知れないな。……和歌が苦手な私の乏しい知識では、この程度のことしか思い浮かばぬのでおじゃる。……識者の御教授を乞うものである。
――その聴きたかった一声……これが、如何にもはっきりと聴こえぬ……聴こえぬから怪しい?……怪しいから……その森の名さえもどうのこうのと、これ、糺(ただ)いておらるる方があらっしゃるが……さても、神域の――神意の御意に――難癖を附くるとは……これ、あってよきものでありましょうや?……♪ふふふ♪……いやいや、やはり、聴きたいものなのですよ――京の市中の糺の森にては、ではのうて――奥深き、こもりくの初瀬の山の、ほととぎすの一声を、はっきりと――な――
■やぶちゃん現代語訳
こもりくの翁の事
享保・元文の頃の人にて、京都に住んで御座った老人の、郭公(ほととぎす)を詠んだ歌、
たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公
この歌、有り難くも帝の叡覧に入って、お詠み遊ばさるるや叡感に思し召され、
「以後、この者、『こもりくの翁』と名乗るがよい。」
と、畏れ多くも名を賜はっておじゃる。
ところが、これを妬(ねた)んだ者であったか、または、少しばかり歌の道を知れるを鼻に掛けた、これ、性根のねじけた御仁にてもあったものか、
「――こもりくの山郭公――じゃとな?……この歌、これ、古人の詠んだ和歌には、とんと、先例のなきものでおじゃる。」
と如何にも馬鹿に致いて申したを、こもりくの翁、これ、耳に挟んだれば、また、詠んだ歌、
一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす
かく詠んだところが、初めに誹(そし)った御仁も、これ、大いに恥入って、黙らざるを得ずなった、ということで、おじゃる。――