鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 袖浦
袖 浦
靈山崎西ノ出崎、七里濱ノ入口、左ノ方稻村崎ノ海瑞ヲ云ナリ。地形袖ノ如シ。西行ノ歌トテ里民ノ語シハ
シキ浪ニヒトリヤネナン袖浦 サハク湊ニヨル舟モナシ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
重波(しきなみ)に獨やねなむ袖の浦騷ぐ湊(みなと)に寄る舟もなし
「しきなみ」は「頻波」とも書き、次から次にしきりに寄せてくる波のこと。但し、今回調べてみて分かったのだが、これは西行の歌ではなく、公卿で歌人の藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)の作であることが分かった。阿部和雄氏のHP「山家集の研究」の「西行の京師」(MM二十一号)に、
東海道名所図会も記述ミスが多くて、完全には信用できない書物です。同じに[やぶちゃん字注:ママ。]相模の国の項で、
しきなみにひとりやねなん袖の浦さわぐ湊による船もなし
という、藤原家隆の歌を西行歌として記述するというミスもあります。
とある。……もしかするとこれ……この黄門様のミスがルーツか? 但し、この「袖の浦」は「能因歌枕」に出羽国とする歌枕を用いたもので、ここの袖の浦とは無縁である。尤も歌枕であるから、出羽のそれの実景とも無縁で、ただ涙に濡れた「袖」を歌枕の「袖の浦」の名に託し、更に「浦」に「裡(うら)」の意を掛けているのは、以下の和歌群も同じである。以下、和歌注の後に空行を設けた。]
定家ノ歌トテ
袖浦ニタマラヌ玉ノクタケツヽ ヨセテモ遠クカヘル浪カナ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
袖の浦にたまらぬ玉の碎けつゝ寄せても遠くかへる波かな
で定家の「内裏百首」の「恋廿首」(一二六五番歌)に、「袖浦」と前書して、
そてのうらたまらぬたまのくたけつゝよせてもとをくかへる浪哉
(袖の浦たまらぬ玉のくだけつつよせても遠くかへる浪かな)
と載るものである。]
順德院
袖浦ノ花ノ波ニモシラサリキ イカナル秋ノ色ニ戀ツヽ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
袖の浦の花の波にも知ざりき如何なる秋の色に戀ひつつ
となる。「建保名所百首」所収。]
海道記ニ長明此所ニ來テ
浮身ヲハウラミテ袖ヲヌラストモ サシモヤ浪ニ心クタカン
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
うき身をば恨みて袖を濡らすともさしもや浪に心碎けん
となるが、「新編鎌倉志巻之六」の「袖浦」では、
浮身をば恨て袖を濡らすとも。さしもや浪に心碎(くだけ)ん
とある。]
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