鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 荒井閻魔/景政石塔/下若宮/裸地蔵/畠山石塔
荒井闇魔
濱ヨリ少シ北ニ堂アリ、運慶頓死シ、地獄ニテ直ニ間魔王ヲ見、蘇生シテ作タル像ナリ。倶生神・三途河ノ姥、同作也。今按ニ是浮屠ノ邪説ナルコト明ケシ。佛法本朝ニ入ラザル前ニ、死シテ再ビ生ル者アレドモ十王ヲ見タル者ナシ。欽明帝以後、蘇生ノ者或ハ十王ヲ見ズト云者多シ。是本其ナキコトヲ知べシ。誠ニ司馬温公ノ格言思ヒ合セ侍リヌ。運慶ガ見タルコトハ左モ有べシ乎。邪説ニ淫シテ居ルガ故也。其外破レタル古佛多シ。堂ノ内ニ圓應寺一額アリ。別當山伏寶藏院ト云。
[やぶちゃん注:光圀は少なくとも十王思想、いや、その口調からは地獄思想そのものを全く信じていなかったことが分かる。「高譲味道根之命(たかゆずるうましみちねのみこと)」という神号を持つ神道家だからね。]
景政石塔
由比濱ノ北ニ小ナル塔アリ。目疾ヲ患ル者、是ニ祈リテ驗アリト云。
[やぶちゃん注:未確認であるが、ネット上の情報では江戸時代の鎌倉絵地図には材木座辺りに「けいせいとう」(影政塔か)という名の石塔があったとある(現存しない)。その内、図書館で調べてみようと思う。]
下 若 宮
裸地藏ノ東南ノ濱ニアリ。悉ハ鶴岳ノ條ニ見へタリ。
[やぶちゃん注:由比の若宮であるが、「濱」とあり、当時、如何にこの辺りの海岸線が現在よりも後退(貫入)していたかが、よく分かる描写である。
「裸地藏」次項の現在の材木座一丁目にある延命寺のこと。
「悉ハ」は「委ハ」の誤りで「くはしくは」と読む。]
裸 地 藏
中ノ石ノ華表ノ東ニアリ。延命寺ト云。淨土宗安養院ノ末寺ナリ。立像ニテ雙六局ヲフマヘタリ。廚子ニ入、衣ヲ着セテアリ。參詣ノ人アレバ裸ニシテ拜マシムル也。常ノ地藏ニテ女體也。
昔景明寺時賴、其婦人ト雙六ノ勝負ヲ爭ヒ、裸ニ成ン事ヲ賭ニシケリ。婦人負テ此地藏ヲ念ジケルニ、忽女體ト變ジ、局上ニ立ト也。吁浮屠ノ人ヲ欺ク、カヽル邪説ヲナセリ。此等ノ事ハ彼教ニモ有マジキ事也。無禮ノ甚キ禽獸ニ等キ者也。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」の「延命寺」でも、『參詣の人に裸にして見するなり。常の地藏にて、女根(ニヨコン)を作り付たり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六を爭ひ、互ひに裸にならんことを賭(カケモノ)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(バン)の上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總(ソウ)じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲の佛を、何ぞ猥褻の體(テイ)に作るべけんや』と怒り捲くっていたのは、成程! 黄門さま自身が、憤激して許せなかったからなのね!]
畠山石塔
大鳥居ノ西ノ柱ノ側ニアリ。明德二年、比丘道友ト刻テアリ。文字分明ナラズ。畠山六郎ガ爲ニ後ニ立タルカ不審(イブカシ)。
[やぶちゃん注:この部分、日記であるために改行なく続くが、敢えて空行を挟んだ。]
鳥居ノ間ノ道ヲ、ビハ小路ダンカヅラト云也。遂ニ雪下へ入ル。八幡ノ西ノ出サキノ山、日金山ノ西ヲ冑(カブト)山ト云ナリ。薄暮ニシテ旅寓ニ歸リヌ。