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2012/12/15

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 大梅寺(光則寺)/大仏

   大 梅 寺

 大佛ヘ行下馬西ノ方也。宿屋トモ云。時賴ノ臣宿屋左衞門入道行時ガ舊跡也ト云。因テ行時山ト號ス。開山ハ日朗、本覺寺ト相持也。山ノ上ニ日朗ガ籠アリ。注畫讚ニ委シケレバコヽニシルスニ及バズ。始ハ光觸寺ト云ケルヲ、近來古田兵部少輔後室再興シテ大梅寺ト云。是ヨリ大佛へユク。西ノ方ハ藤澤へ出ル海道也。

[やぶちゃん注:現在の光則寺のこと。文永八(一二七一)年、日蓮が龍ノ口の法難で佐渡配流となった際、当時の執権北条時頼は弟子の日朗らも捕縛、家臣の一人であった宿屋左衛門尉光則に預け、邸内の土牢に幽閉させた。ところが監視役であった光則自身が日蓮帰依、文永一一(一二七四)年の日蓮の放免後は自邸を寺に改め、日朗を開山に迎えて父行時(彼も文応元(一二六〇)年七月に日蓮の「立正安国論」を北条時頼に建白したとされる人物である)の名を山号に、我が名を寺号にして創建したと伝えられる。その後、衰退したらしく、寺歴は詳しくない。

「古田兵部少輔重恒後室」「古田兵部少輔重恒」は江戸前期の石見浜田藩第二代藩主古田重恒(しげつね 慶長八(一六〇三)年~慶安元(一六四八)年)のこと。ここで妻が出るのであるが、彼は世継問題に絡んだお家騒動である古田騒動で知られる。以下、ウィキ古田重恒より引用する(アラビア数字を漢数字に代えした)。『慶長八年(一六〇三年)、伊勢松坂藩主・古田重勝の長男として山城国にて生まれる。慶長一一年(一六〇六年)に父が死去したとき、四歳という幼少だったために後を継ぐことができず、家督は叔父の重治が継ぐこととなった。そして元和九年(一六二三年)五月、叔父の重治から家督を譲られて藩主となった。同時に叙任している。その後は藩主として大坂城普請や寛永一四年(一六三七年)の京極忠高改易後の松江城在番で功績を挙げている』。ところが、『正保三年(一六四六年)六月、江戸にある藩邸において、古田騒動が始まった。重恒は四十歳を過ぎても子に恵まれなかった。このため、後継ぎが無いために改易されることを恐れた江戸家老の加藤治兵衛と黒田作兵衛は、古田一族の古田左京の孫に当たる万吉を重恒の養子として後継ぎにしようと画策した。ところがその計画を加藤らから打ち明けられたことで知った重恒の側近・富島五郎左衛門が重恒にそれを伝えてしまう。重恒は自分に無断でそのような計画を立てていた加藤や左京らに対して激怒し、その一派全てを殺してしまったのである。そして慶安元年六月十六日(一六四八年八月四日)、重恒は嗣子無くして四十六歳で死去。後継ぎが無く、ここに古田氏は改易されたと言われている』。但し、『この古田騒動には異説が多く、他の説では山田十右衛門という重恒の寵臣が、三名の家老の権勢を疎んじて重恒にこの三名のことを讒言し、それを信じた重恒が三名の家老を殺害。しかし重恒自身もまもなく狂気で自殺してしまったと言われている』。『いずれにしろ、重恒に実子も養子もなかったことは確からしく、そのため重恒の死去により、無嗣断絶で古田氏は改易となった』とある。本文に「後室」とあるから、彼女は正室ではない(正室は前藩主である叔父重治の長女である)が、世継騒動であるから彼女も渦中にあったわけである。彼女は出家後(重恒の死後であろう。彼女の示寂は寛文九(一六六九)年である)、大梅院常学日進と名乗って、如何なる所縁からかは不明であるが、この光則寺の堂宇を再興した。それによって「大梅寺」「大梅院」とも呼称されたのである。]

 

   大  佛

 此所ヲ大澤ト云。初ハ建長寺ノ持分ナリシガ、今ハ光明寺ノ持也。道心者居之(之に居す)。大佛ノ長ケ三丈五尺、膝ノ横五問半、袖口ヨリ指ノ末マデ二尺七寸六分アリト也。東鑑ニ建長六年八月十七日、深澤里ニ金銅ニテ八丈釋迦如來ヲ鑄始メ奉ルト有。此像ノ事ナランカ。然ドモ今ノ像ハ彌陀ノ印相ナリ。又仁治年中ニ、遠江ノ淨光坊、六年ノ間三尊卑ヲ勸進シテ、八丈ノ阿彌陀佛ヲ木像ニ作奉ルトナン。加茂長明ガ海道ノ記ニモ、由井ノ邊ニ八丈ノ阿彌陀木像ノ事ヲ書リ。或云、其木像ハ破壞シテ巖窟ノ内ニ有ト。又曰、山號ハ大異山、寺號ハ淨仙寺ト云トナン。初メ木像ノ釋迦堂ノ號、サダカニシレル人ナシ。東海道名所記ニ、大佛ヨリ右ノ方ニ盛久ガ松トテ磯ニアリ。

[やぶちゃん注:「大澤」「深澤」の誤り。

「道心者居之」というのは、堂宇が存在しないが、庵のようなものを構えて僧が管理している、という謂いであろう。

「長ケ三丈五尺」約一〇メートル六〇センチメートル。現在の公式実測数値は仏身高一一メートル三一・二センチメートル。

「膝ノ横五間半」約一〇メートル弱。

「二尺七寸六分」約八三センチメートル。

「建長六年八月十七日」建長四(一二五二)年の誤り。『十七日己巳。晴。(中略)今日當彼岸第七日。深澤里奉鑄始金銅八丈釋迦如來像』とある。

「加茂長明」ママ。鴨長明。

なお、ここで示される大仏の謎及び最後の「盛久が松」については、新編鎌倉志五」の「大佛」及び私の注と、その三項前にある「盛久頸座」及び私の注を参照されたい。]

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