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2012/12/06

耳嚢 巻之五 春日市右衞門家筋の事

 春日市右衞門家筋の事

 當時猿樂の内百石餘給り春日市右衞門とて笛を業とせる御役者あり。彼(かの)先祖は武功の者、難波夏御陣(なんばんつのじん)に穢多(えた)が崎の一番乘を石川家と一同いたしたる者、今世俗にいふ川びたり餅は渠(かれ)が家の出所に候由。右は穢多が淵の城を乘らんと石川家に屬し進みしが、川水深く船なければ渡り難し。春日前後の瀨を尋(たづね)て、破れ船を才覺して漕(こぎ)渡りて、石川倶(とも)に一番乘をなせし由。其砌(みぎり)殊の外空腹にて石川も難儀なりしに、春日鎧の引合(ひきあはせ)より、出陣の節風與(ふと)持出(もちいだし)し小豆餅ありしを、上下食ひて飢を凌ぎし由。今に石川家よりは彼春日が子孫を他事なく尋問ある由、市右衞門語りしと又人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:戯作者から猿楽者の技芸者譚で連関。

・「春日市右衞門」(天正六(一五七八)年~寛永一五(一六三八)年)の「春日」は「しゆんにち(しゅんにち)」と読む。能役者笛方。父は松永久秀(永正七(一五一〇)年?~天正五(一五七七)年:別名の松永弾正で知られる大和国の戦国大名。ウィキの「松永久秀」によれば、信長に降伏して家臣となるも、後に『信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。一説には、永禄の変や、東大寺大仏殿焼失の首謀者などとも言われ』、『北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、信貴山城近郊の人々からは、連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られている』とある。一説には、信長が欲しがって久秀の助命の条件にしたとされる名器平蜘蛛茶釜『に爆薬を仕込んで』立て籠もった信貴山城で自爆したと伝えられる豪勇である。)の家臣。松永氏の滅亡後は能笛を家業とした。徳川家康から「春日」の号をあたえられたとも、春日太夫道郁(どうゆう)に名字をもらい、笛方春日流二代をついだともいう(以上の事蹟は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「難波夏御陣」慶長一九(一六一四)年~慶長二〇(一六一五)年の大坂夏の陣。

・「穢多が崎」木津川口付近。現在の大阪市大正区で、この付近に穢多崎砦が大坂方出城として築かれたと言われる(但し、この砦は難波の穢多村、現在の大阪市中央区の御堂筋付近とする説もある。何れにせよ、この旧地名から謂れのない差別が行われるようなことがあってはならないことを附言しておく)。

・「石川家」伊勢亀山藩石川家第三代当主石川忠総(天正一〇(一五八二)年~慶安三(一六五一)年)は大坂冬の陣・夏の陣で戦功を挙げた。美濃大垣藩主、豊後日田藩主、下総佐倉藩主、近江膳所藩主と移封され、嫡孫の憲之(寛永一一(一六三四)年~宝永四(一七〇七)年)の時、慶安四(一六五一)年の時、膳所から伊勢亀山に移封されている。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春前後は第九代総博(ふさひろ 宝暦九(一七五九)年~文政二(一八一九)年:寛政八年隠居。)及びその長男第十代総師(ふさのり 安永五(一七七六)年~享和三(一八〇三)年)の代である。

・「川びたり餅」底本の鈴木氏注に、『川渡り餅、川流れ餅という地方もあり、名称は少しずつ違うが、関東とその周辺の諸県で十二月朔日に水難除けにといってたべる餅の名。北九州でも川渡り節供などという。この餅をたべてからでないと川を渡らないという俗信があり、また川渡り朔日といって、体を川水にひたす風習もある』とするも、その理由は明確でないと記されてある。また、岩波版長谷川氏の注には、山崎美成の一大考証随筆「海録」(文政三(一八二〇)年起筆・天保八(一八三七)完成)年の十五に『石川家先祖が大坂落城時堀に漬り主従助かってより、この日餅を搗き祝うのがひろまった』と記す、と記載されておられる。

・「鎧の引合」鎧の胴の右脇で前と後ろとを引き締めて、合わせる部分。

■やぶちゃん現代語訳

 春日市右衛門の家筋の事

 当代、猿楽に関わる者のうちに、百石余りを給わる春日(しゅんにち)市右衛門と申す笛を生業(なりわい)と致す、お役者がおる。この者の先祖は武功の者にて、大阪夏の陣に穢多ヶ崎(えたがさき)の一番乗りを、主家石川家とともに、美事果たしたる者にて、今時(きんじ)、世間に広う行われておるところの「川びたり餅」と申す風習は、これ、かの石川の家を濫觴とすると、申す。

 かの春日先祖の者、穢多ヶ淵の城を攻め取らんと致いて、石川家の配下となって進軍致いたものの、城に至る要衝の川の水が深(ふこ)うして、船もなければ、なかなかに渡り難きと申す場面に陥って御座った。

 この時、春日先祖、前後の浅瀬をよう調べ、破損した船を見出いては修理致いて漕ぎ渡り、美事、石川殿とともに一番乗りを果たいた由にて御座る。

 その川渡りの出陣の折り、皆々殊の外、空腹にて、石川殿もまた、これ、疲れ切って御座ったところへ、春日先祖、鎧の引き合わせより、出陣の折りに、ふと心づいて持ち出だいたところの、小豆餅の御座ったを出だし申し、これ、皆して分け合(お)うて、上も下も、ともに飢えを凌いだ由に御座る。

 今に石川家におかせられては、この笛吹きの春日の子孫にも、今以って親しくお声掛けなさっておらるる由、市右衛門本人が語って御座ったと、ある人が語って御座った。

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