北條九代記 賴家安達彌九郎が妾を簒ふ 付 尼御臺政子諫言
○賴家安達彌九郎が妾を簒ふ 付 尼御臺政子諫言
同年七月十日三河國より飛脚到來して申しけるは「室平(むろひらの)四郎重廣と云ふ者數百人の盜賊を集め、國中に武威を振ひ、富家(ふか)に押寄(おしよせ)ては財産を奪ひ、良家に込入(こみい)りて、妻妾を侵し、非道濫行(らんぎやう)宛然(さながら)跖蹻(せきけふ)が行跡(かうせき)に過ぎにり。驛路(えきろ)に出でては徃還の庶民を惱(なやま)し、謀略既に國家を亂さんとす。早く治罸(ぢばつ)を加へられずば黨類蔓(はびこ)りて靜め難からん歟」とぞ言上しける。則ち評定を遂げられ、誰をか討手(うつて)に遣すべきとある所に、賴家の仰(おほせ)として、安達彌九郎景盛を使節とし、參州に進發せしめ、重廣が横惡を糺斬(きうざん)すべし」との上意なり。「多少の人の中に使節に仰付けらるゝ事且(かつう)は家の面目なり」とて、家人若黨殘らず相倶して參州に趣き、國中の勇士を集め、重廣を尋搜(たづねさが)し、誅戮を加へんとするに、逐電して、行方なし。彌九郎景盛が妾(おもひもの)は去ぬる春の比京都より招下(まねきくだ)せし御所の女房なり。容顏、殊に優れたりければ、時の間も立去(たちさり)難く、比翼の語(かたらひ)淺からざりしを、君の仰なれば、力なく國に留めて參州に赴きけり。賴家内々この女房の事聞召(きこしめ)し及ばれ、如何にもして逢(あは)ばやと御心を空にあこがれ給ひ、是故にこの度も使節には遣されし、その留主(るす)を伺ひて、艷書を通(かよは)し給ひて、彼(か)の陸奧(みちのく)の希婦(けふ)の細布胸合(ほそぬのむねあは)ぬ事を恨(うらみ)佗び、錦木(しにきゞ)の千束(ちつか)になれども、此女房更に靡かず。「現無(うつゝな)の君の御心や。守宮(ゐもり)の驗(しるし)も恐しく小夜衣(さよごろも)の歌の心も恥しくこそ」と計(ばかり)申しけるを、中野五郎能成を以て是非なく御所に召入れ給ひて、御寵愛斜(なゝめ)ならず。北向(きたむき)の御所石(いし)の壼(つぼ)に居(すゑ)られ、「小笠原彌太郎、比企三郎、和田三郎、中野五郎。細野四郎五人の外は北向の御所に參るべからず」とぞ仰定められける。翌月十八日に安達彌九郎歸參(かへりまゐ)る所に彼の女房は御所に取られ參らせたり。血の涙を流して戀悲(こひかなし)めども、影をだに見ること叶はねば、况(まし)て二度(たび)逢ふ事は猶かたいとのよるとなく、畫とも分かぬ物思(ものおもひ)、遣る方もなき海士小舟(あまをぶね)、焦(こが)るゝ胸の煙の末(すゑ)、立(たち)も上(あが)らで泣居(なきゐ)たり。讒佞(ざんねい)の者有て、景盛、深く君を恨み、憤(いきどほり)を含みて、野心を挾(さしはさ)む由申しければ、賴家卿、さらば景盛を討(うた)んと計(はか)り給ふ。因幡前司廣元申しけるは「是(これ)強(あながち)に憚り給ふべき事にても候はず。先規(せんき)是あり。鳥羽院は源仲宗が妻(め)に美人の聞(きこえ)有しかば、仙洞(せんとう)に召され、仲宗をば隱岐國に流され、女房をば祇園の邊(あたり)に置れ、御寵愛限(かぎり)なく、祇園女御と名付けて、御幸度々なりしが、後に此女御を平忠盛に給はりて、相國淸盛を生みたり。景盛を討(うた)せられんに何か苦しかるべき」とぞ申しける。是に依て近習の輩一同して、小笠原彌太郎旗を揚げて、藤九郎入道連西(れんさい)が甘繩の家に赴く。此時に至(いたつ)て俄に鎌倉中騷動し、軍兵等(ら)爭集(あらそひあつま)る。御母尼御臺所急ぎ盛長入道が家に渡らせ給ひ、工藤小太郎行光を御使として賴家卿へ仰せらるゝやう、「故賴朝卿薨じ給ひ、又いく程なく姫君失せ給ふ。その愁(うれへ)諸人の上に及ぶ所に、俄に軍(いくさ)を起し給ふは亂世の根源なり。然るに安達景盛は、その寄(よせ)侍りて故殿殊更憐愍(れんみん)せしめ給ふ。彼が罪科何事ぞ。子細を聞遂げられずして、誅伐し給はば、定(さだめ)て後悔を招かしめ給はん歟。若猶追討せられば、我先(まづ)その矢に中るべし」とありしかば、賴家卿澁りながらに止(とゞま)り給ふ。鎌倉中大に騷ぎ、諸人驚きて上を下にぞ返しける。尼御臺所は盛長入道が家に逗留し給ひ、安達景盛を召されて、「昨日相計(あひはから)うて一旦賴家卿の張行(ちやうぎやう)を止(やめ)たりといへども、後の宿意を抑(おさへ)難し、汝野心(やしん)を存せざるの由(よし)起請文を書きて、賴家卿に奉れ」とありしかば、景盛畏(かしこま)りて、之を獻(さゝ)ぐ。尼御臺所彼(かの)狀を賴家卿にまゐらせ、この次(ついで)を以て申さしめ給ふは、「昨日(きのふ)景盛を誅伐せられんとの御事は楚忽(そこつ)の至(いたり)と覺え候。凡(およそ)當時の有樣を見及び候に、海内(かいだい)の守(まもり)叶(かなひ)難く政道に倦(うん)じて民の愁(うれへ)を知召(しろしめ)さず、色に耽り戲(たはぶれ)に長じて、人の謗(そしり)を顧み給はず、御前近侍(きんじ)の輩更に賢哲の道を知らず、多くは侫邪(ねいじや)の屬(たぐひ)なり。その上源氏は將軍の御一族北條は我が親族なれば、故殿(ことの)頻(しきり)に芳情(はうぜい)を施され、常に御座に招き寄せて樂(たのし)みを共にし給ひて候。只今はさせる優賞(いうしやう)はなくして、剩(あまつさへ)皆實名(じつみやう)を呼ばしめ給ふの間、各々恨(うらみ)を殘す由(よし)内々その聞(きこえ)の候、物毎(ものごと)用意せしめ給はば、末代と云ふとも、濫吹(らんすゐ)の義あるべからず」と諷諫(ふうかん)の詞を盡されたり。御使佐々木三郎兵衞入道この由(よし)言上せしかば、賴家郷は何の御詞(ことば)をも出されず白けて恥しくぞ見え給ふ。
[やぶちゃん注:標題は「妾(おもひもの)を簒(うば)ふ」と訓じている。
「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年七月六日・十日・十六日・二十日・二十六日、八月十八日・十九日・二十日などに基づく。
「室平四郎重廣」は旧渥美郡牟呂村(現在の愛知県豊橋市牟呂町辺りを拠点としていた野武士で、野盗の首領のような者であったか。
「跖蹻」盗跖と荘蹻。魯と楚の大盗賊の名。
「安達彌九郎景盛」(?~宝治二(一二四八)年)は頼朝の直参安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)の嫡男。以下、ウィキの「安達景盛」によれば、この事件を詳細に「吾妻鏡」が記録した背景には『頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる』とある(以下の引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『建仁三年(一二〇三年)九月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年七月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の十一月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている』。『三代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久二年(一二〇五年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)誅殺、宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。建暦三年(一二一三年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。建保六年(一二一八年)三月に実朝が右近衛少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた』。『翌建保七年(一二一九年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久三年(一二二一年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。嘉禄元年(一二二五年)の政子の死後は高野山に籠もった。承久の乱後に三代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた』。『宝治元年(一二四七年)、五代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責し、三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族五百余名を滅亡に追い込んだ。安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。また三浦泰村は北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった』。『この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治二年(一二四八年)五月十八日、高野山で没した』。彼については『醍醐寺所蔵の建保二年(一二一三年)前後の書状に景盛について「藤九郎左衛門尉は、当時のごとくんば、無沙汰たりといえども広博の人に候なり」とある。「広博」とは幅広い人脈を持ち、全体を承知しているという意味と見られ、政子の意志を代弁する人物として認識されていた。宝治合戦では首謀者とも目されており、高野山にあっても鎌倉の情報は掌握していたと見られる』。『剛腕政治家である一方、熱心な仏教徒であり、承久の乱後に泰時と共に高山寺の明恵と接触して深く帰依し、和歌の贈答などを行っている。醍醐寺の実賢について灌頂を授けられたという』。一方、当時から彼には頼朝落胤説『があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、霜月騒動で一族誅伐に至る遠因とな』ったと記す。……既出の盛長頼朝誤殺説といい、まあ、とんでもない親子ではある……。
「彼の陸奧の希婦(けふ)の細布胸合ぬ事を恨佗び、錦木の千束になれども、此女房更に靡かず」底本頭注には『陸奧の希婦―陸奥の希婦の細布程狹み胸合ひがたき戀もするかな(袖中抄)』とある。「袖中抄」は文治二(一一八六)年から同三年頃に顕昭によって著され、仁和寺守覚法親王に奉られた和歌注釈書。また、「錦木」にも注して『一尺ばかりなる五色に彩りたる木、陸奥の俗男女に會はむとする時その門に立つ』とあるが、これは所謂、能の「錦木」などで知れるようになった奥州の錦木塚伝承を下敷きにした謂いと考えてよい。それは、
陸奥狭布(けふ)の里(架空の歌枕)に、恋する男と恋される女がいた。当地の習慣に従って男は思う女の家の門に錦木を立てる(錦木が家内にとり込められれば求婚が容れられた証左となる)。男が三年も通って、立てた錦木の数は千本に及んだが、それは顧みられることなく、女は何時も家内にあって機(はた)を織り続けるなかりであった。男は悲恋の果て、思い死してこの世を去るが、女も男の執心に祟られ、やがて世を去った。この世にて添うことの叶わなかった二人は同じ塚の下に千束の錦木と細布と一緒に葬られた。塚は錦塚と名づけられて哀れな恋の語り草となった。
というもので謡曲「錦木」は恋慕の執心が旅僧の回向によって救われる複式夢幻能。ウィキの「錦木」によれば、『昔東北地方で行われた求愛の習俗で、男が思う相手の家へ通い、その都度一束(ひとつか)の錦木を門前の地面に挿し立てたという。
女が愛を受け容れるまで男はこれを続けるので、ときには無数の錦木が立ち並ぶことになった。千束が上限であったともいう。いわゆる「錦木塚伝説」はこうした背景から生まれた伝説であり、秋田県鹿角市・古く錦木村と呼ばれた地域に今も塚が遺る』。『また、こうしたロマンチックな習俗については古くから都にも知られ、多くの歌人の詠むところともなった』。として、以下の和歌が示されてある。
錦木はたてながらこそ朽にけれけふの細布胸あはじとや 能因法師
思ひかね今日たてそむる錦木の千束(ちづか)も待たで逢ふよしもがな
大江匡房(「詞花和歌集」恋)
立ち初(そ)めてかへる心はにしきぎのちづかまつべきここちこそせね
西行(「山家集」中 恋)
「錦木」の梗概として私が参考にした、たんと氏のHP「tanto's room たんとの部屋」の謡曲「錦木」の解説頁などを参照されたい。
但し、前の「陸奧の希婦(けふ)の細布胸合ぬ事を恨佗び」の部分は、それでも解し難い。ここは、恐らく、
――あの男女が遂に逢えなかった陸奥の狭布(けふ)の里で女が織り続けたという、細い細いというその布では、細布故に胸元を合わせることが叶わない――合う(逢う)べき筈のものが合わない(逢えない)ことを深く悲しみ恨んで、
の謂いであろう。
「守宮(ゐもり)の驗(しるし)」古代中国で、男性が守宮(ヤモリ)に朱(丹砂。水銀と硫黄の化合物。)を食べさせて飼い、その血を採って既婚の婦人に塗っておくと、その婦人が不貞を働いた場合、その印(しるし)が消えるとされた。これが本邦に形状の似るイモリに取り違えられて伝わったものがこれである。この辺りのことは、私の電子テクストである南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」及び寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)及び「守宮」(ヤモリ)及び「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分等を参照されたい。
「小夜衣の歌」「新古今和歌集」巻二十の「釋教歌」にある(新編国歌大観番号一九六三)、
不邪婬戒
さらぬだに重きが上の小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまな重ねそ
に基づく謂い。「つま」は「褄」に「妻」を掛けて、不倫を戒める。
「因幡前司廣元申しけるは……」以下は「吾妻鏡」正治元(一一九九)年八月十九日の条に拠るが、あたかも大江広元が頼家を焚きつけているかのように読めるのは、ここは原典の記述の前後が逆転しているからで、筆者の恣意的な作為である。以下に「吾妻鏡」を示す。
〇原文
十九日己卯。晴。有讒侫之族。依妾女事。景盛貽怨恨之由訴申之。仍召聚小笠原彌太郎。和田三郎。比企三郎。中野五郎。細野四郎已下軍士等於石御壺。可誅景盛之由有沙汰。及晩小笠原揚旗。赴藤九郎入道蓮西之甘繩宅。至此時。鎌倉中壯士等爭鉾竸集。依之尼御臺所俄以渡御于盛長宅。以行光爲御使。被申羽林云。幕下薨御之後。不歷幾程。姫君又早世。悲歎非一之處。今被好鬪戰。是亂世之源也。就中景盛有其寄。先人殊令憐愍給。令聞罪科給者。我早可尋成敗。不事問。被加誅戮者。定令招後悔給歟。若猶可被追罸者。我先可中其箭云々。然間。乍澁被止軍兵發向畢。凡鎌倉中騒動也。萬人莫不恐怖。廣元朝臣云。如此事非無先規。 鳥羽院御寵愛祗薗女御者。源仲宗妻也。而召仙洞之後。被配流仲宗隱岐國云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十九日己卯。晴。讒侫(ざんねい)の族有り。妾女(せふじよ)の事に依つて、景盛、怨恨を貽(のこ)すの由、之を訴へ申す。仍つて小笠原彌太郎・和田三郎・比企三郎・中野五郎・細野四郎已下の軍士等、石の御壺へ召し聚め、景盛を誅すべきの由、沙汰有り。晩に及びて、小笠原、旗を揚げ、藤九郎入道蓮西(れんさい)が甘繩の宅に赴く。此の時に至りて、鎌倉中の壯士等、鉾を爭ひて竸(きそ)ひ集まる。之に依つて尼御臺所には、俄かに以つて盛長の宅に渡御、行光を以つて御使と爲し、羽林に申されて云はく、「幕下薨御の後、幾程も歷(へ)ず、姫君、又、早世し、悲歎一(いつ)に非ざるの處、今、鬪戰を好まる。是れ、亂世の源なり。就中(なかんづく)、景盛は、其の寄せ有り。先人、殊に憐愍(れんびん)せしめ給ふ。罪科を聞かしめ給はば、我、早く尋ね成敗すべし。事、問ひもせず、誅戮を加へらるれば、定めし、後悔を招かしめ給はんか。若し猶ほ、追罸(ついばつ)せらるべくば、我れ、先づ其の箭(や)に中(あた)るべし。」と云々。
然る間、澁り乍ら、軍兵の發向を止められ畢んぬ。凡そ鎌倉中、騒動なり。萬人、恐怖せざる莫し。廣元朝臣云はく、「此の如き事は、先規、無きに非ず。 鳥羽院、御寵愛の祗薗(ぎをん)の女御は、源仲宗が妻なり。而るに仙洞に召すの後、仲宗を隱岐國へ配流せらる。」と云々。
・「讒佞」人を中傷し、上の者に諂(へつら)うこと。
・「小笠原彌太郎・和田三郎・比企三郎・中野五郎・細野四郎」頼家直々の指名になる悪名高き愚連隊、五名の近習である。順に小笠原長経・和田朝盛・比企宗員・中野能成・細野四郎(名不詳。木曾義仲遺児とも)。但し、五名には宗員の下の弟比企時員を数えるものもある。
・「藤九郎入道蓮西」影盛の父安達盛長の法号。当時、満六十四歳。
・「行光」二階堂行光(長寛二(一一六四)年~承久元(一二一九)年)。二階堂行政の子で政所執事。後は彼の家系がほぼ政所執事を世襲している。
・「羽林」頼家。近衛大将の唐名。
・「幕下」頼朝。
・「寄」人望・信頼の意とも、仔細(妻を奪ったという頼家側の問題点)の意とも、両方の意味で採れるが、続く文からは頼朝以来の信任という前者の謂いである。
・「鳥羽院」は白河院の誤り。
・「源仲宗」(?~治承四(一一八〇)年)源三位頼政の子。父とともに以仁王の令旨に呼応して平家打倒の挙兵をしたが宇治平等院の戦いで平知盛・維盛率いる平家軍に敗れ、討ち死にした。白河院の寵愛を受けた祇園女御の元夫ともされる(私は年齢的な問題からこの説はハズレだと思っている)。
・「祗薗の女御」(生没年・姓氏共に不詳)は白河院の妃の一人で、別号を白河殿・東御方と言った。個人サイト「垂簾」の「白河天皇后妃」の記載によれば、寛治七(一〇九三)年頃に白河上皇に出仕したと推定されるが、正式に宣旨を受けた女御ではなく、藤原顕季(白河法皇の乳母子で院の近臣)の縁者で、三河守源惟清の妻かとも、また蔵人源仲宗の妻とも、祇園西大門の小家の水汲女とも伝えられており、当初は身分の低い官女であったものかとも記されてある。子女はもうけず、法皇の猶子であった藤原璋子を養育し、晩年は仁和寺内の威徳寺に暮したが、彼女は実は平清盛の母とも(祇園女御の妹が母という説もある)伝わるが、伝承の域をでない、とある。筆者はここで専ら清盛御落胤説を提示したかったものと思われる。また筆者は、それを歴史的事実として受け入れることで、この後に起こるところの実際の嫡流の断絶という事態を避けるためには、血を残しおくために女は機能しなくてはならない、女とはそういうものである、だからそのための如何なる破廉恥な行為も高度な政治的判断の中にあっては肯定されねばならない、といったことを暗に広元の言に絡めて述べているようにも思われる。筆者は承久の乱の記述で政子という女性の政治介入を厳しく批判している。但し、これは江戸時代に強まった婚家(源氏)が滅び、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に反するという政子への一般通説の批難に裏打ちされていることも事実ではあろう。
「尼御臺所は盛長入道が家に逗留し給ひ、安達景盛を召されて……」以下は、翌日、「吾妻鏡」正治元(一一九九)年八月二十日の条に拠る。
〇原文
廿日庚辰。陰。尼御臺所御逗留于盛長入道宅。召景盛。被仰云。昨日加計議。一旦雖止羽林之張行。我已老耄也。難抑後昆之宿意。汝不存野心之由。可献起請文於羽林。然者即任御旨捧之。尼御臺所還御。令献彼状於羽林給。以此次被申云。昨日擬被誅景盛。楚忽之至。不義甚也。凡奉見當時之形勢。敢難用海内之守。倦政道而不知民愁。娯倡樓而不顧人謗之故也。又所召仕。更非賢哲之輩。多爲邪侫之属。何况源氏等者幕下一族。北條者我親戚也。仍先人頻被施芳情。常令招座右給。而今於彼輩等無優賞。剩皆令喚實名給之間。各以貽恨之由有其聞。所詮於事令用意給者。雖末代。不可有濫吹儀之旨。被盡諷諫之御詞云々。佐々木三郎兵衞入道爲御使。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日庚辰。陰り。尼御臺所、盛長入道の宅に御逗留。景盛を召し、仰せられて云はく、「昨日計議を加へ、一旦は羽林の張行(ちやうぎやう)を止むと雖も、我れ、已に老耄(らうもう)なり。後昆(こうこん)の宿意を抑へ難し。汝、野心を存ぜざるの由、起請文を羽林に献ずべし。」と。然らば、即ち御旨に任せて、之を捧ぐ。尼御臺所、還御し、彼の状を羽林に献ぜしめ給ふ。此の次(ついで)を以つて申されて云はく、「昨日、景盛を誅せられんと擬すは、楚忽の至り、甚だ不義なり。凡そ當時の形勢を見奉るに、敢へて海内の守りに用ゐ難し。政道に倦(う)みて民の愁いを知らず、倡樓(しやうろう)に娯しみて人の謗(そし)りを顧みざるの故なり。又、召仕ふ所、更に賢哲の輩に非ず。多く邪侫(じやねい)の属たり。何をか况や、源氏等は幕下の一族、北條は我が親戚なり。仍つて先人、頻りに芳情を施され、常に座右に招かしめ給ふ。而るに今、彼の輩等に於いて優賞無く、剩(あまつさ)へ皆、實名を喚ばしめ給ふの間、各々以て恨みを貽(のこ)すの由、其の聞へ有り。所詮、事に於いて用意せしめ給はば、末代と雖も、濫吹(らんすい)の儀有るべからず。」の旨、諷諫(ふうかん)の御詞を盡さると云々。
佐々木三郎兵衞入道、御使たり。
・「老耄」北条政子(保元二(一一五七)年~嘉禄元(一二二五)年)は当時満四十二歳。であった。
・「海内」日本国。
・「剩皆實名を呼ばしめ給ふの間」北条を始めとする家臣団の連中を皆、官位や通称でなく、本名で呼び捨てになさるために、の意。本名を呼ぶのは甚だしく礼儀に反し、不吉でもある。ただ、ここは文脈上では「その上源氏は將軍の御一族北條は我が親族なれば」という前文に強く限定されているので、増淵氏の訳のように『他氏と同様に、(将軍家の縁戚でなく)単なる北条氏として呼ばせなさっているので』という、北条氏は家臣団とは別のグレードであるのに、という訳の方が説得力はあるように思われはする。
・「濫吹」狼藉。]
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