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2012/12/09

北條九代記 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛

      ○ 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛

同六年二月四日右大將賴朝卿、若君賴家、御臺政子上洛して六波羅の亭に入り給ふ。三月十日東大寺大佛殿供養結緣の爲に南都に下向あり。東南院に著御(ちやくぎよ)ある。夜半に及びて主上後鳥羽院南都に行幸ましましけり。賴朝卿の御布施物(おふせもつ)として馬十疋、八木(はちぼく)一萬石、黄金千兩、絹千疋を施入(せにふ)し給ふ。和田義盛、梶原景時是を奉行す。その行粧(かうさう)誠に美々敷(びびしく)ぞ見えたる。先陣は畠山重忠、後陣は和田義盛なり。賴朝卿父子は網代(あじろ)の車に召され、御臺所は八葉の車に出衣(いだしぎぬ)あり。隨兵前後に警固して雲霞の如し。大名、小名列をなし、狩裝束、水干、布衣(ほい)の輩兼てより定められたる所なり。面々召倶(めしぐ)したる家子郎從、更にその數を知らず。同十二日寅の一點(てん)に、和田梶原數萬騎を卒(そつ)して、東大寺の四面を警固す。日出でて、右大將家參堂あり、堂前の庇(ひさし)に著座し給ふ。見聞(けんもん)の衆徒等門内に群りて込人(こみいり)けるを警固の随兵是を咎むるに用ひず。梶原景時是を鎭めんとして、無禮の口論に及び、既に狼藉蜂起の色顯(あらは)る。結城七郎朝光仰(おほせ)に依て、衆徒の前に馳向ひ、跪(ひざまづ)きて右大將家の使者と稱す。衆徒等(ら)その禮を感じて、暫(しばらく)は靜り聞きけるに、朝光即ち嚴旨(げんし)を傳ふ「夫(それ)當寺は是平相國の爲に囘祿(くわいろく)し、空しく礎(いしずゑ)のみを殘す。衆徒尤(もつとも)悲歎すべき事歟。源氏たまたま大檀那となり、造營の初より供養の今に至るまで施功(せこう)を勵(はげま)し、合力を致す。剩(あまつさへ)魔障を拂ひ、佛事を遂(とげ)んが爲(ため)、關東數百里の行程を凌ぎ、東大伽藍摩(がらんま)の結緣(けちえん)に詣で給ふ。衆徒何ぞ歓喜せざらんや。無慚の武士(ものゝふ)猶其結緣を思うて供養の値遇(ちぐ)を喜ぶ。有智(うち)の僧侶爭(いかで)か違亂(いらん)を好みて、我が寺の再興を妨げんや。狼藉の造意(ざうい)頗る當らず。この旨承り存ずべきもの歟」と申したりければ、衆徒理に服し忽に先非を恥(はぢ)て各(おのおの)後悔に及び、數千一同に静(しづまり)て、「使者の勇義美好(ゆうぎびかう)の容貌、辯口利才(べんこうりさい)の勝れたる、武畧の達するのみにあらず、既に靈揚の軏格(きかく)其(その)禮節を存ずる人なり」とぞ感じける。其後に臨みて行幸あり。執柄(しつぺい)以下の卿相雲客(けいしやううんかく)花を飾り、傍(あたり)を拂(はらつ)て供奉し給ふ。未尅(ひつじのこく)の供養の儀あり。導師は興福寺の別當僧正覺憲(かくえん)、呪願師(じゆぐわんし)は當寺の別當權僧正勝賢(しようけん)なり。仁和寺の法親王以下諸寺の碩學龍象衆會(せきがくりうざうしゆゑ)の僧衆一千口に餘れり。誠に是(これ)朝家、武門の大營(えい)、見佛聞法(けんぶつもんはふ)の繁昌なり。昔聖武天皇當寺建立の叡願に依(よつ)て、左大臣橘諸兄公(たちばなのもろえこう)の勅使として、大神宮に祈誓し給ひ、天平勝寳元年に金銅十六丈の廬遮那佛(るしやなぶつ)の大佛を鑄(い)奉り、佛殿その功を成就して、十二月七日に供養を遂げ給ひけり。主上孝謙天皇、上皇聖武皇帝行幸(ぎやうかう)まします。供養の導師は南天竺の婆羅門僧正、呪願は行基僧正なり。かゝる大造の靈場を安德天皇治承四年十二月二十八日平相國の惡行に依て、重衡卿南都に向ひ、堂舍に火をかけて佛像を燒滅(やきほろぼ)す。爰に後白河法皇深く歎かせ給ひて、俊乘坊上人重源(ぢようげん)に勅して、高卑(かうひ)の知識を唱(いざな)ひ、成風(じやうふう)の業(げふ)を勤めしめ、大宋國の佛師陳和卿(ちんくわけい)に仰せて、大佛の御首(みぐし)を鎔範(ようはん)し、法皇御親(みづか)ら開眼(かいげん)し給ふ。重源上人既に先規(せんき)の例に依て、大神宮に詣(けい)して造寺の祈念を致す所に、風宮(かぜのみや)の社より二顆(にくわ)の寶珠(ほうじゆ)を賜る。今に當寺の重寶として寶藏に納めらる。周防國の杣木(そまき)を取て、大厦(たいか)の功を遂(とげ)られ、今日事故なく、供養を遂げ給ひけり。後白河法皇は此大佛殿の事を本願上人に勅し給ひける所に、去ぬる建久三年三月に崩御あり。寶算(ほうさん)六十七歳なり。此君の御在位は僅(わづか)に三年にして、二條、六條、高倉、安德、後鳥羽五代の天子朝政(てうせい)を院中にして沙汰し給ふ事四十餘年なり。その間(あひだ)保元の亂(みだれ)より信賴、淸盛、義仲に惱され給ひ賴朝の軍功に依(よつ)て暫く安穩なりけれども、朝政は武家に遷(うつ)され、王道の衰敗する事は此院より始れり。今是大佛成就せしに先立(さきだち)て崩じ給ふは、御本意を遂げざる誠に残(のこり)多かるべし。同六月三日、若君一萬殿十四歳、網代の車に召されて參内あり。同二十五日に賴朝父子、御臺共に關東に下向し給ふ。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十五の建久六(一一九五)年二月十四日・三月四日・九日・十一日・十二日及び六月三日・六月二十五日に拠る。なお、本文では何故か大姫の随行の事実を外して描いている。実際にはこの時、頼朝は大姫を後鳥羽天皇の妃とするべく、朝廷内での幕府抵抗勢力であった土御門通親や丹後局と親しく接し(逆に彼らの政敵で新幕派の九条兼実とは意識的に疎遠に振る舞った。これは彼の娘が既に天皇の中宮になっていたことや、頼朝にとっては朝廷交渉に於ける兼実の利用価値が殆んど失われていたからでもある)盛んな入内工作を行っている。ここを省略したのは大姫ファンの私としては、とても惜しい気がしている。

「八木」米の異称。「米」の字を「八」「木」と分解した謂い。

「布衣」本来は狩衣のことであったが、平安中期以降、五位以上が絹の紋織物の狩衣を、六位以下が無文のそれを用いる制法が生まれ、後者を前者の狩衣と区別するために布衣と称するようになり、ひいてはそれが六位以下の身分を示す語としても用いられた。なお、江戸時代の文献では「布衣を許す」という語をしばしば見かけるが、この鎌倉幕府においては、将軍出行の際には随行の大名が布衣を着用、警衞の武士は直垂(ひたたれ)であったのが、その後に両者の格が逆転し、江戸幕府では正装として将軍以下諸大名の四位以上が直垂、狩衣を従四位以下の諸太夫、布衣を無位無官で御目見以上、という区分が引かれたことによる(以上は主に小学館「日本大百科全書」を参照した)。

「同十二日寅の一點(てん)に……」「吾妻鏡」の同条を見よう(随兵一覧は省略した)。

〇原文

十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衞門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。小山五郎宗政持御劍。佐々木中務丞經高著御甲。愛甲三郎季隆懸御調度。隆保。頼房等朝臣扈從連軒。伊賀守仲教。藏人大夫賴兼。宮内大輔重賴。相摸守惟義。上総介義兼。伊豆守義範。豊後守季光等供奉。於隨兵者數萬騎雖有之。皆兼令警固辻々幷寺内門外等。其中海野小太郎幸氏。藤澤二郎淸親以下。撰殊射手。令座惣門左右脇云々。至御共隨兵者。只廿八騎。相分候于前後陣。但義盛。景時等者。依爲侍所司。令下知警固事之後。自路次更騎馬。各爲最前最末之隨兵云々。

 先陣隨兵

  和田左衞門尉義盛(以下、略)

令着座堂前庇給之後。見聞衆徒等群入門内之刻。對警固隨兵。有數々事。景時爲鎭之行向。聊現無禮。衆徒甚相叱之。互發狼藉之詞。彌爲蜂起之基也。于時將軍家召朝光。朝光起座。參進御前之時者。懸手於大床端。乍立奉可相鎭之將命。向衆徒之時者。跪其前敬屈。稱前右大將家使者。衆徒感其禮。先自止嗷々之儀。朝光傳嚴旨云。當寺爲平相國回祿。空殘礎石。悉爲灰燼。衆徒尤可悲歎事歟。源氏適爲大檀越。自造營之始。至供養之今。勵微功成合力。剩斷魔障爲遂佛事。凌數百里行程。詣大伽藍緣邊。衆徒豈不喜歡哉。無慙武士猶思結緣。嘉洪基之一遇。有智僧侶何好違亂妨吾寺之再興哉。造意頗不當也。可承存歟者。衆徒忽耻先非。各及後悔。數千許輩一同靜謐。就中使者勇士。容貌美好。口弁分明。匪啻達軍陣之武略。已得存靈塲之禮節。何家誰人哉之由。同音感之。爲後欲聞姓名。可名謁之旨。頻盡詞。朝光不稱小山。號結城七郎訖。歸參云々。次行幸。執柄以下卿相雲客多以供奉。未剋。有供養之儀。導師興福寺別當僧正覺憲。咒願師當寺別當權僧正勝賢。凡仁和寺法親王以下。諸寺龍象衆會及一千口云々。誠是朝家武門之大營。見佛聞法之繁昌也。當伽藍者。 安德天皇御宇治承四年庚子十二月廿八日。依平相國禪門惡行。佛像化灰。堂舎殘燼畢。爰法皇勅重源上人曰。訪本願往躅。唱高卑知識。課梓匠而令勤成風業。代檀主而可終不日功之由者。上人奉命旨。去壽永二年己夘四月十九日。令大宋國陳和卿始奉鑄本佛御頭。至同五月廿五日。首尾卅餘日。冶鑄十四度。鎔範功成訖。文治元年乙夘八月廿八日。太上法皇手自御開眼。于時法皇攣登數重足代。瞻仰十六丈形像給。供奉卿相以下。目眩足振而皆留半階云々。供養唱導當寺別當法務僧正定遍。咒願師興福寺別當權僧正信圓。講師同寺權別當大僧都覺憲。惣所※衲衣一千口也(「※」=「口」+「屈」)。其後上人尋往昔之例。詣太神宮。致造寺祈念之處。依風社神睠。親得二顆寳珠。爲當寺重寳。在勅封藏。同二年丙午四月十日。始入周防國。抽採料材。致柱礎搆。企土木功。載柱一本之車。駕牛百二十頭令牽由之也。建久元年庚戌七月廿七日。大佛殿母屋柱二本始立之。同十月十九日上棟。有御幸云々。謂草創濫觴者。 聖武天皇御宇天平十四年壬午十一月三日。依當寺建立之 叡願。爲大廈經營之祈請。始發遣 勅使於太神宮。左大臣諸兄公是也。同十七年乙酉八月廿三日。先搆敷地壇。同築佛後山。同十九年丁亥九月廿九日。奉鑄大佛。孝謙天皇御宇天平勝寳元年己丑十月廿四日終其功。〔三ケ年之間八ケ度奉鑄之。〕同十二月七日丁亥。被遂供養。 天皇幷太上皇〔聖武。〕幸寺院。導師南天竺波羅門僧正。咒願師行基大僧正。天平勝寳四年壬辰三月十四日。始奉泥金於大佛。〔金。天平廿年始自奥州所獻也。是爲吾朝砂金之始云々。〕

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日丁酉。朝、雨霽る。午(うま)以後、雨頻りに降る。又、地震。今日、東大寺供養なり。雨師風伯(うしふうはく)の降臨、天衆地類の影向(やうがう)、其の瑞揚焉(ずいけちえん)。寅の一點、和田左衞門尉義盛、梶原平三景時、數萬騎の壯士を催し具し、寺の四面の近郭を警固す。日の出以後、將軍家御參堂、御乘車なり。小山五郎宗政、御劍を持ち、佐々木中務丞(なかつかさのじよう)經高、御甲を著け、愛甲三郎季隆、御調度を懸く。隆保・賴房等の朝臣、扈從(こしよう)軒を連ぬ。伊賀守仲教、藏人大夫賴兼、宮内大輔重賴、相摸守惟義、上総介義兼、伊豆守義範、豊後守季光等、供奉す。隨兵に於いては、數萬騎、之れ有りと雖も、皆、兼て辻々幷びに寺内門外等を警固せしむ。其の中、海野小太郎幸氏、藤澤二郎淸親以下の殊なる射手を撰び、惣門の左右の脇に座せしむと云々。

御共の隨兵に至りては、只だ廿八騎、相ひ分れ前後の陣に候ず。但し、義盛・景時等は、侍の所司たるに依りて、警固の事を下知せしむの後、路次より更に騎馬す。各々最前最末の隨兵たりと云々。

 先陣の隨兵

  和田左衞門尉義盛(以下、略)

  梶原平三景時

堂前の庇に着座せしめ給ふの後、見聞の衆徒等、門内に群れ入るるの刻(とき)、警固の隨兵に對し、數々の事有り。景時之を鎭めんが爲に行き向ひて、聊か無禮を現はす。衆徒、甚だ之を相ひ叱(しつ)す。互ひに狼藉の詞(ことば)を發し、彌々蜂起の基(もとゐ)たるなり。時に將軍家、朝光を召す。朝光、座を起ち、御前に參進するの時は、手を大床(おほゆか)の端に懸け、立ち乍ら、相ひ鎭むべきの將命を奉る。衆徒に向ふの時は、其の前に跪(ひざまづき)きて敬屈(きやうくつ)し、「前右大將家の使者。」と稱す。衆徒其の禮に感じ、先づ自(おのづ)から嗷々(がうがう)の儀を止む。朝光、嚴旨を傳へて云はく、「當寺は平相國の爲に回祿(くわいろく)し、空しく礎石を殘し、悉く灰燼と爲る。衆徒、尤も悲歎すべき事か。源氏、適々(たまたま)大檀越(だいだんをつ)と爲り、造營の始めより、供養の今に至るまで、微功を勵まし合力(かふりよく)を成す。剩へ魔障を斷ち佛事を遂げん爲、數百里の行程を凌ぎ、大伽藍の緣邊に詣づ。衆徒、豈に喜歡(きくわん)せざらや。無慙の武士、猶ほ結緣(けちえん)を思ひ、洪基(こうき)の一遇を嘉(よみ)す。有智(うち)の僧侶、何ぞ違亂を好み、吾が寺の再興を妨げんや。造意、頗る不當なり。承り存ずべきか。」てへれば、衆徒、忽ち先非を耻ぢ、各々後悔に及び、數千許(ばか)りの輩、一同に靜謐(せいひつ)す。就中(なかんづく)使者の勇士、容貌の美好、口弁の分明、啻(ただ)に軍陣の武略に達するに匪(あら)ず、已に靈塲の禮節を存じ得たり。「何家(なにけ)の誰人(たれひと)ぞや。」の由、同音に之を感ず。後の爲に姓名を聞かんと欲して、「名謁(ななのる)るべし。」の旨、頻りに詞を盡す。朝光、小山と稱せず、結城七郎と號し訖りて、歸參すと云々。

次に行幸。執柄以下の卿相雲客多く以て供奉す。未の剋、供養の儀有り。導師は興福寺別當僧正覺憲、咒願師(しゆぐわんし)は當寺別當權僧正勝賢。凡そ仁和寺法親王以下、諸寺の龍象衆、會せて一千口に及ぶと云々。

誠に是れ、朝家武門の大營、見佛聞法の繁昌なり。當伽藍は、安德天皇の御宇、治承四年庚子十二月廿八日、平相國禪門の惡行に依りて、佛像、灰と化し、堂舎、燼(もえくひ)を殘し畢んぬ。爰に法皇、重源(ちようげん)上人に勅して曰はく、「本願の往躅(わうちよく)を訪(とぶら)ひ、高卑の知識を唱(いざな)ひ、梓匠(ししやう)に課(おほ)せて成風(せいふう)の業(げふ)を勤めしめ、檀主に代りて、不日の功を終うべし。」の由てへれば、上人、命旨を奉り、去ぬる壽永二年己夘四月十九日、大宋國陳和卿(ちんわけい)をして、始めて本佛の御頭(みぐし)を鑄奉らしむ。同五月廿五日に至るまで、首尾卅餘日、冶鑄(やちう)十四度、鎔範(ようはん)の功を成し訖んぬ。文治元年乙夘八月廿八日、太上法皇手づから御開眼、時に法皇、數重の足代(あししろ)を攣ぢ登り、十六丈の形像を瞻仰(せんぎやう)し給ふ。供奉の卿相以下、目眩(くら)めき、足振ひて、皆、半階に留まると云々。

供養の唱導は當寺別當法務僧正定遍、咒願師は興福寺別當權僧正信圓、講師は同寺權別當大僧都覺憲。惣じて※する所の衲衣(なふえ)一千口なり(「※」=「口」+「屈」)。其の後、上人往昔(わうじやく)の例を尋ね、太神宮に詣で、造寺の祈念を致すの處、風社(かぜのやしろ)の神睠(しんけん)に依りて、親(まのあたり)に二顆(くわ)の寳珠を得て、當寺の重寳と爲し、勅封藏に在り。同じく二年丙午四月十日、始めて周防國に入り、料材を抽(ぬ)き採り、柱礎の搆へを致し、土木の功を企つ。柱一本を載するの車、牛百二十頭に駕して之を牽かしむるの由なり。建久元年庚戌七月廿七日、大佛殿母屋(もや)の柱二本、始めて之を立つ。同じき十月十九日、上棟す。御幸有りと云々。

草創の濫觴を謂はば、 聖武天皇の御宇、天平十四年壬午十一月三日、當寺建立の叡願に依りて、大廈經營の祈請の爲に、始めて勅使を太神宮へ發遣す。左大臣諸兄(もろえ)公是なり。同じく十七年乙酉八月廿三日、 先ず敷地に壇を搆へ、同じく佛の後山を築き、同じく十九年丁亥九月廿九日、大佛を鑄(い)奉る。孝謙天皇の御宇、天平勝寳元年己丑十月廿四日其の功を終ふ。〔三ケ年の間、八ケ度、之を鑄奉る。〕同じく十二月七日丁亥、供養を遂げらる。天皇幷びに太上皇〔聖武。〕寺院に幸したまふ。導師は、南天竺(なんてんぢく)の波羅門僧正、咒願師は行基大僧正、天平勝寳四年壬辰三月十四日、始めて金を大佛に泥(でい)し奉る。〔金は、天平廿年、始めて奥州より獻ずる所なり。是れ、吾が朝の砂金の始めと爲すと云々。〕

・「揚焉」明白なこと。

・「寅の一點」午前三時。「一點」とは漏刻(水時計)で一時(いっとき:二時間。)を四等分した、その最初の時刻。

・「義盛・景時等は、侍の所司たる」「所司」は、この場合は官庁を代表する役人長官と次官を合わせて言っている。和田義盛は侍所別当、梶原景時は侍所所司である。

・「洪基の一遇を嘉す」「洪基」は大事業の基礎。「嘉す」「善(よ)みす」とも書き、「よみ」は形容詞「よし」の語幹+接尾語「み」(状態がともに存する意)よしとして褒め称えるの意であるから、本東大寺大仏及び大仏殿再建という一大事業の礎の一端を担わせて戴いたことを言祝ぐ、の意。

・「朝光、小山と稱せず、結城七郎と號し」小山朝政は寿永二(一一八三)年の志田義広との野木宮(のぎみや)合戦で勲功を立て、義広滅亡後に下総の結城(現在の茨城県結城市)を初めて拝領して後、結城氏の祖となった(「吾妻鏡」正治元(一一九九)年十月二十七日の条の朝光自身の発言に拠る)。当時の武士が、自身が始祖となる結城氏の表明をする武士朝光の面目の瞬間が、実に凛々しく描かれている私の好きなシーンである。

・「未の剋」午後二時頃。警固の武士たちの継続勤務時間は既に十一時間に及んでいる。

・「執柄」藤原兼実。

・「咒願師」法会の際に、呪願文(じゅがんもん/しゅがんもん:施主の願意を述べて祈誓する文章)を読み上げる僧。

・「仁和寺法親王」後白河法皇次男守覚。

・「龍象」僧の敬称。

・「往躅」昔の人の踏んだ跡。先人の歩いた道。

・「梓匠」「梓」は梓人で建具師、「匠」は匠人で大工の意。

・「成風の業」仕事に励んで竣工をやり遂げる任務。「運斤成風」。「斤(きん)を運(めぐ)らし、風を成す」と訓読する。「運」は斧を振るう、「斤」は手斧、「成風」は風を起こすの意で、手斧を風を起こすほどに勢いよく振りまわすの義から、非常に巧みで優れた技術又はそれを持った職人をいう故事成句。「荘子」雑篇の徐無鬼第二十四に基づく。

・「壽永二年己夘」「己」は誤り。寿永二(一一八三)年の干支は癸卯(みずのとう)。

・「陳和卿(ちんわけい)」本文では「ちんくわけい(ちんかけい)」とであるが、「和」は呉音が「ワ」、漢音が「カ(クヮ)」であるから問題ない。

・「鎔範」銅を溶かして(「冶鑄」)それを鋳型に流し込むこと。

・「文治元年乙夘」「夘」は誤り。文治元(一一八五)年は乙巳(きのとみ)。

・「太上法皇手づから御開眼……」これは後白河法皇自らが足場(大仏殿建設のための仮小屋の足場)を攀じ登って十六丈(四八・五メートル弱であるが、これは直立した場合の仏身の背丈を云うので、半分)尊顔の眼に正倉院にあった天平時代の開眼に用いた墨を以って開眼するという、驚天動地のパフォーマンスである。横手川雅敬氏の「源平の盛衰」(講談社文庫一九九七年刊)によれば、これは宣伝効果をも狙った重源の懇望によると伝えられるそうだが、それを嬉々として受け入れて、攀じ登ってゆく――これ、大天狗後白河ならでは、という感じではないか。但し、横手川氏によれば、『鍍金(ときん)されたのは顔面だけで、仏身はまだ』、無論、『大仏殿も造られていなかった。しかし源平内乱が終わったいまは、乱世なるがゆえに供養を急ぎ、太平の回復を広く天下に告げなければならな』いという切実な使命感を、後白河も頼朝も、それぞれの政治的安定の企略の中で、同時に持っていたのだということを我々はこの演出から再認識する必要があろう。

・「※」(「※」=「口」+「屈」)は本来は「憂える」の意であるが、これは「衲衣一千口」が僧侶千人の謂いであるから、畏敬して侍する僧といった謂いであろう。

・「太神宮」伊勢神宮。

・「風社の神睠」「風社」は伊勢神宮外宮の風宮。本宮の西南の位置、伊勢神宮公式HPの「風宮」によれば、『多賀宮へ上る石階のすぐ左脇に、土宮とはちょうど反対側、つまり東側のところに風宮が御鎮座』し、祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しなとべのみこと)の二柱で、元来は風社と称していた。但し、「止由気宮儀式帳」及び「延喜神名式」何れにもその社名はみえず、長徳三(九九七)年の「長徳検録」の中に「風社在高宮道棒本」と初見、多賀宮へと続く参道沿いの杉の木の本に坐した小さな社であったと考えられている、とある。それが、内宮域内の風日祈宮と同様、弘安四(一二八一)年の元冦に際し、蒙古軍を全滅に至らしめた神威の発顕によって正応六(一二九三)年、一躍別宮に加列されるに至った。これは「増鏡」に詳しく記されており、元末社格であったものが、弘安四(一二八一)年の元寇の時に神風を起こして日本を守ったとして、別宮に昇格したと記されてある。後のことながらも、幕府の国家レベルの守護神となったものがここに出るというのも因縁(というより「吾妻鏡」の作為というべきか)を感じる。「神睠」不詳。「睠」は顧みるの意で、全知の神の力といった意味か。なお、増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記」(教育社一九七九年刊)には、『僧尼は宇治橋以内に入ることを禁ぜられていたのでここで皇大神宮を遙拝した』とある。皇大神宮とは伊勢神宮の内宮のことである。ウィキの「皇大神宮」によれば、これは古くからの仕来りであって、『明治時代までは、僧侶の姿で正宮に接近することは許されず、川の向こうに設けられた僧尼拝所から拝むこととされ、西行も僧尼拝所で神宮を拝み、感動の涙を流したという』とある。これは知らなかった。

・「同じく二年丙午四月十日、始めて周防國に入り、料材を抽き採り、柱礎の搆へを致し、土木の功を企つ。……」実に入れ物である大仏殿の方は竣工までに実に十二年を要した。因みに重源(保安二(一一二一)年~建永元年六(一二〇六)年)が大仏勧進職の命を受けたのは実に数え六十一歳の時で、この大仏殿落慶法会の際は既に七十五歳、建仁三(一二〇三)年に行われた総供養の時は実に八十三歳であった。そこで行われた大勧進の行脚の肉体的パワーや集金能力、更に巨大仏像仏殿の土木建築技術のために彼が発案した画期的な多数の新技法の発案能力から考えると、彼の八面六臂の活躍は超人的と言わざるを得ない。但し、この周防からの用材切り出しには多くの困難があった。横手川雅敬氏の「源平の盛衰」によれば、『重源は法体(ほったい)の国司として大工たちをともない現地におもむいた。しかし、国内の荘園から人夫を徴収するには抵抗があり、地頭たちは重源にさからって』、逆に『材木採取のための食糧をうばいとり、人夫も供出しなかった』のである。それを援助したのが、他ならぬ本落慶法要の事実上のゲストたる頼朝であった。『彼は源平合戦の最中でさえ、米一万石、砂金一千両、上絹(じょうけん)一千びきを送り、重源への協力を約束』、『地頭たちにも横暴をやめて重源を助けよと命じ』ている。以下、ここでの重源の才気煥発さをも見ておきたい。丁度、当時の『食糧難のおりから、柱に用いる用材を一本見つけたら米一石を与えるという懸賞つきで人夫をはげまし』て大仏殿に必要な巨木探索を奨励させ、また巨木なればこそ『柱一本山出しするのにも、ふつうなら二、三千人の人夫が必要だったが、重源はろくろ(滑車)を使用して、六、七十人で出すことに成功し』ているのである。仏俗何でも来い! の、まさにスーパー・ハイブリッドお爺ちゃんなのであった。

・「天平十四年」西暦七四二年。

・「左大臣諸兄」橘諸兄。

・「天平勝宝元年」西暦七四九年。

 

「天平勝寳元年に金銅十六丈の廬遮那佛の大佛を鑄奉り、佛殿その功を成就して、十二月七日に供養を遂げ給ひけり」とあるが、これでは天平勝宝元年のことのように読めてしまうが、これは天平勝宝四(七五二)年の誤りである。また、「十二月七日」とするが、「吾妻鏡」では上記の通り、「三月十四日」、しかもこれも誤りで、大仏開眼供養会は四月九日に行われている。この「吾妻鏡」の誤りは恐らく、「大仏殿碑文」にある、鍍金が開眼会の直前の天平勝宝四年三月十四日に開始されたことに基づく誤解と思われる。因みにこの年には閏三月があったものの、開眼会まではたった二ヶ月しかなく、実はこの時も開眼会の時点では鍍金は未完成であったと推定されている(後半部はウィキの「東大寺盧舎那仏像」を参考にした)。

 

「後白河法皇は此大佛殿の事を本願上人に勅し給ひける所に、去ぬる建久三年三月に崩御あり。寶算六十七歳なり」「吾妻鏡」の建久三(一一九二)年三月十六日の条を見ておく。

〇原文

月小十六日戊子。未剋。京都飛脚參着。去十三日寅剋。 太上法皇於六條殿崩御。御不豫大腹水云々。召大原本成房上人。爲御善知識。高聲御念佛七十反。御手結印契。臨終正念。乍居如睡。遷化云々。計寳算六十七。已過半百。謂御治世四十年。殆超上古。白河法皇之外。如此君不御坐〔矣〕。幕下御悲歎之至。丹府碎肝瞻。是則忝合體之儀。依被重君臣之礼也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日戊子。未の剋。京都の飛脚、參着す。去ぬる十三日の寅の剋、 太上法皇六條殿に於て崩御す。御不豫(ごふよ)は大腹水と云々。

大原の本成房上人を召され、御善知識として、高聲(かうしやう)の御念佛七十反(ぺん)、御手に印契(いんげい)を結び、臨終正念居乍ら睡る如く、遷化すと云々。

寳算を計(かぞ)ふるに六十七、已に半百を過ぐ。御治世を謂へば四十年、殆んど上古に超(こ)ゆ。白河法皇の外、此くのごとき君、御坐(おは)しまさず。幕下御悲歎の至り、丹府肝瞻を碎(くだ)く。是れ、則ち合體の儀を忝(かたじけな)うし、君臣の禮を重んぜらるるに依りてなりと云々。

・「御不豫」天子・貴人の病気。御不例。後白河法皇の直接の死因は飲水病(糖尿病)と思われるが、ここで腹水の症状が語られるのは何らかの重篤な合併症(肝硬変や腎臓病)が疑われる。

 

「同二十五日に賴朝父子、御臺共に關東に下向し給ふ」帰鎌は翌月承久六 (一一九五) 年七月八日。]

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