一言芳談 四十七
四十七
敬佛房云、後世の學問は後世者にあひてすべき也。非後世者(ひごせしや)の學生(がくしやう)は人を損ずるがをそろしき也。虵(へび)の心をば虵がしるやうに、後世の事をば後世者がしるなり。たとひわが心をば損ずるまではなくとも、人の欲をましつべからむ物をば、あひかまへてく不可持之(これをもつべからず)。
〇非後世者、智解(ちげ)胸に滿ちたりとも、無常を知らず、辯論世にすぐるゝとも、來生の事を思はぬ人は非後世者なり。
〇虵の道をば虵が知る、世話にいふ事なり。智論偈曰、智人能知智、如虵知虵足。
[やぶちゃん注:Ⅱは「學生」を「學問」とするが、Ⅰ及びⅢを採った。「蛇」の表記も同じ。
「後世者」念仏によって救われるという純粋「智」を知る者。
「非後世者」Ⅱの大橋氏脚注に「一言芳談句解」には、
非後世者の學生とは、身と口と心とあはざる學者の事をいふ。
とある(正字化した)。ところが氏は、これを『念佛行者でないもの』と訳しておられる。こうしてしまうと、浄土教以外の僧衆を指し、極めて偏狭なファンダメンタリズムに堕すように思われる。ここは前段を受けて、学識に奢った学僧を言っているものと私は解する。
「人の欲をましつべからむ物」人の欲をそそるような対象。
「智論偈曰、智人能智、如虵知虵足。」Ⅰの訓点を参考に書き下す。
智論の偈に曰はく、智人は能く智を知る、虵の虵足を知るがごとし。
「智論」は「大智度論」(龍樹の著作とされる書で「摩訶般若波羅蜜経」(大品般若経)の百巻に及ぶ注釈書)で、これは同書の「巻第十之下」に以下のようにある。
復次唯佛應供養佛。餘人不知佛德。如偈説
智人能敬智 智論則智喜
智人能知智 如蛇知蛇足
以是故諸佛一切智。能供養一切智
個人tubamedou氏のHP「つばめ通信」にある「大智度論入門」の訓読には以下のようにある。
また次ぎに、ただ仏のみ、まさに仏を供養すべし。余人は仏の徳を知らず。偈に説くが如し、
『智人は、能く智を敬い、智論ずれば則ち智喜ぶ
智人は、能く智を知り、蛇の蛇足を知るが如し』、と。
ここを以っての故に、諸仏の一切智は、よく一切智を供養したもう。
また、そこには以下のような現代語訳が示されてある(一部の改行を続け、字配を変えさせて戴いた)。
また次ぎに、ただ、『仏』のみが、『仏を、供養する』に相応しいというのは、その他の人は、『仏の徳』を、知らないからです。これを、歌にして説いてみましょう、――
『智慧をもて智慧を敬い、論議せば智慧は喜ぶ、
智慧にして智慧を知るとは、蛇なれば蛇足知るべし』、と。
この故に、『諸仏の一切智のみが、一切智を供養できる』のです。
また、「偈の別訳」として文語定型訳も併記されおられる。これも引用させて戴く。
智慧ある人は敬わん、智慧ある人を敬わん、
智慧ある人の論ずれば、智慧ある人ぞ喜ばん、
智慧ある人は知りぬべし、智慧ある人を知りぬべし、
蛇なればこそ知りぬらん、蛇の足をば知りぬらん。
この「虵(じや)の虵足(だそく)を知るがごとし」とは面白い謂いである。「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」の諺(この語源説には大蛇(「じゃ」)の通る道は小蛇(「へび」)さえもよく知っていると蛇の読みによる差別化した説もある)に知られた「戦国策」の「斉策」の逸話から生まれた「蛇足」(まさに本条にぴったりの、「知足」(足ることを知れ)で、余計な事や不必要な事の譬えである)を合体させてあり、謂わば――蛇は蛇だからこそ自分に足などないことを知っている、則ち、蛇のような畜生でさえ、足ることを知っているのだ――というのである。実に面白い。]
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