一言芳談 四十一
四十一
敬佛房云、遁世者は、なに事もなきに、事闕(かけ)ぬ樣(やう)をおもひつけ、ふるまひつけたるがよきなり。
〇なにごとも、人も道具もありあひにすべきなり。衣食住もありあひがよきなり。物をもてあそべば志をうしなふ。無ければ、なかなか心やすきなり。
[やぶちゃん注:これは短いが、本文は分かり難い。標註がそれを解いて如何にも分かり易いように見えるが……いや、これ、なかなか……この湛澄の在り合せで済ませなさいという解は、後に見る兼好法師の解と全く同じく、現実に堕した偽解のように私には思われるのである。
「なに事もなきに」は、如何なる事態にあっても、それに対処するに足る「もの」が全くない場合でも、の意。
「事闕ぬ樣をおもひつけ」不足しているなどと不満を漏らすことなく、対処出来ぬと思うたものを用いて――いや、寧ろ対処するに足る何物も持たないという存在のままに――何としてもその事態に対処し、切り抜けることをのみ心掛けて、の意であろう。実際には無一物即無尽蔵なればこそ如何様にも対処出来るのだという悟りをこそ、ここでは述べているように私には思われる。
「ふるまひつけたる」常に平常心で振る舞うようにする。
なお、本条は、冒頭に示したように「徒然草」に引かれているのであるが、それは、
一、 遁世者は、なきにことかけぬやうをはかひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
とあって、引用ではなく、兼好流に解釈・変形したものなのである。これは本文の謂いとはかなり異なった印象を受ける。即ち、本文の核心にある、
――無一物即無尽蔵故の自在無礙(むげ)という物質的貧の中にこそある――無限の心の豊かさをこそ、理想とせよ――
という哲学を、兼好は、よりプラグマティックに「分かり易く変造」し、
……そのぅ、まあ、なんだ、な……物がないから不自由だ、なんて思ちゃあ、これ、いけないんだ、な……ともかくも、いろいろと使えそうなものをだな、これ、自分で工夫采配してだ、な……そうして、その、何とかしてだ、な、うまく自他を誤魔化してでも、だ……所謂、辻褄合わせをして、そのぅ、何でもいいから間に合わせをして、だわ……そんな風に人生、暮らすんが、これ、最上なんだと思うんだ、な……
と述べているのである。どこかの如何にもな立志伝中の経済界偉人の名言集に出るみたような「徒然草」のこの言葉は、私には、似非も似非、所謂、噴飯物にしか、これ、思われんのだ、な。……]

