鎌倉日記(德川光圀歴覽記)坤 寶戒寺/葛西谷/塔辻/大町小町/妙隆寺/妙勝寺/大行寺 又は 謎の寺 妙勝寺 の詳細発見!
鎌倉日記 坤
寶 戒 寺
若宮ノ前ノ町屋ノ東南方也。號金龍山(金龍山と號す)。舊記ニ法海寺工作ルハ非ナリ。初ハ律宗、今ハ天台宗也。本尊地藏、左右ニ梵天・帝釋アリ。唐佛ナリ。六地藏ノ一ニテタケタ地藏卜云也。後醍醐天皇ノ御願所、圓頓寶戒寺ト額アリ。此地ハ昔ノ北條屋敷ニテ代々ノ執權此所ニ居ル。尊氏葛西谷ノ東照寺ヲ此所ニ引テ、北條一族ノ骸骨ヲ埋葬テ寺ヲ建立スル也。開山ハ坂本ノ人ニテ、法性寺ノ長老五大國師也。尊氏此僧ヲ尊仰シテ、洛都ヨリ招キ、此寺ニ居セシム。尊氏ノ第二男、幼シテ病氣ナリシヲ、五大ヲシテ祈商セシメ、終ニ其子ヲ五大ノ弟子トナス。普川國師卜云。此寺ノ二代目也。五代後ニ故郷ノ馴シキ由ヲ尊氏へ謂テ洛ニ歸テ、死ストナリ。此寺四宗兼學ニテ、天台律也。戒壇ヲ立ルハ比叡卜此寺トノミ也。聖天ノ木像アリ。五大・普川ノ木像モアリ。川向ニ普川入定ノ地アリト也。今九貫六百文ノ御先印アリ。尊氏ノ守リ本尊ノ地藏、行基ノ作也。不動大山ノ佛卜同作ナリ。高時ヲ德宗權現卜祝ヒテ寺門ノ内ニ山王權現ト兩社相並テアリ。五大ハ慧鎭トモ慈威和尚トモ云タル人ナリ。
寺寶
尊氏自筆地藏畫 一幅
[やぶちゃん注:以下の割注は、底本では三字下げ。]
〔寺僧謂テ云。尊氏平生地藏菩薩ヲ崇敬スル故ニ、鎌倉中ニ木石畫像ノ地藏多シトナリ。〕
[やぶちゃん注:以下は、底本では三行二段組であるが、一段とした。]
平高時畫像〔或云、自畫也。〕 三幅
三千佛唐筆〔本尊、彌陀・釋迦・藥師ナリ。〕三幅
涅槃像唐筆 一幅
五大國師影 一幅
五大自筆狀 三幅
普川國師影 一幅
[やぶちゃん注:「タケタ地藏」六地蔵は六道由来であろうが、そのそれぞれに名前があるというのは不学にして初見。識者の御教授を乞う。
「尊氏葛西谷ノ東照寺ヲ此所ニ引テ、北條一族ノ骸骨ヲ埋葬テ寺ヲ建立スル也」「東照寺」は「東勝寺」(次項「葛西谷」参照)の誤り。これは「新編鎌倉志卷之七」の「寶戒寺」の項も踏襲しており、「新編相模国風土記稿」にも記すが、誤りである。東勝寺は南北朝時代に未だ存在していたからである(「鎌倉廃寺事典」によれば廃寺となったのは永正九(一五一二)年よりも後のことである)。]
葛 西 谷
寶戒寺ノ東南ノ川ヲ踰テ向ノ谷ヲ云。山下ニ古ノ東照寺ノ跡アリ。束照寺谷ト云。時政屋敷ト云モ此所ナリトゾ。相摸守高時、元亭三年五月廿二日、四十二歳ニシテ此所ニテ自害、其時八百七十餘人自害ス。平家九代、一時ニ滅亡シテ、源氏多年ノ憤懷ヲ一朝ニヒラクルコトヲ得クリ。今モ朽骨ヲ掘出スコト多シト云。上ノ山ニ琴引ノ松ト云アリ。松風尋常ニカハレリトナン。
[やぶちゃん注:前項と同じく「東照寺」は「東勝寺」の誤り。
「元亭」は「元弘」の誤り。]
塔 辻
寶戒寺ノ前ニアリ。高時ノ下馬ナリト云。石塔二ツアリ。又云、油井長者太郎大夫ト云シ者、三歳ニ成シ娘ヲ鷲ニ取ラレ、肉ムラノ落クル所毎ニハ菩提ノ爲ニトテ立タル石塔ナリト云。此外所々ニ有トナリ。
[やぶちゃん注:「油井長者太郎大夫」は由井の長者太郎大夫時忠のことであるから、「油井」は「由比」の誤り。]
大町小町
寶戒寺ノ前ヨリ比企谷マデノ間ノ町ヲ云。
妙 隆 寺
叡昌山ト號ス。法華宗、中山院家ノ法宣院ノ末寺也。開山ハ日英也。法理ノ異論有シ故、歴代モ慥ニシレズトナン。
[やぶちゃん注:「中山ノ法宣院」千葉県市川市中山にある文応元(一二六〇)年創立の日蓮宗大本山寺院正中山法華経寺の塔頭の一つで格式の高い四院家と呼ばれる寺。
「法理ノ異論有シ故」これは二代目の日親(応永十四年(一四〇七)年~長享二(一四八八)年)が、室町期から幕末まで厳しく弾圧された日蓮宗のファンダメンタリズムである「不受不施義」を最初に唱えたとされる人物であることに由来する謂いであろう。「新編鎌倉志卷之七」の「妙隆寺」でも注しているが、その経歴も一筋縄ではいかない。永享五(一四三三)年、中山門流総導師として肥前国で布教活動を展開するが、その折伏の激烈さから遂には同流から破門されてしまう。同九(一四三七)年には上洛して本法寺を開くが、六代将軍足利義教への直接説法に恵まれた際、「立正治国論」を建白して不受不施を説いて建言の禁止を申し渡されてしまう。永享十二(一四四〇)年にはその禁に背いたとして投獄、本法寺は破却される。その捕縛の際、焼けた鉄鍋を被せられるという拷問を受けて、その鍋が頭皮に癒着、生涯離れなくなったため、後、その鍋を被った奇態な姿のままに説法を説いたという伝説が誕生、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」と呼ばれるようになった。翌嘉吉元(一四四一)年、嘉吉の乱で義教が弑殺されて赦免、本法寺を再建している。寛正元(一四六〇)年、前歴から禁ぜられていた肥前での再布教を行ったために再び本法寺は破却、八代将軍足利義政の上洛命令を受けて京都に護送、細川持賢邸に禁錮となったが、翌年寛正四(一四六三)年に赦され、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建している(以上は主にウィキの「日親」を参照した)。折伏ガンガン、ファンダメンタル不受不施派、カンカンに熱した鉄鍋被り、自分で十指の爪を抜く――かなり危険がアブナイ、御人である。また、「鎌倉攬勝考卷六」の「妙隆寺」を見ると、
行の池 寺の後にあり。日親此池に手をひたし、一日に一指づつ、十指の爪を放し、百日の内に元のごとく生ヲイかえらば、所願成就と誓ひ、血を此他にて洗ひ、其水のしたゝりで曼陀羅を書、爪切の曼陀羅といふ。當寺の什物とせしが、先年退院の住持が盗み行しといふ。
とあり、「鎌倉市史 社寺編」には『不受不施派の住職が持ち去ったのであろう』と書かれてある。]
妙 勝 寺
常光山ト號ス。法華宗、本尊釋迦、上總ノ妙光寺ノ末也。開山ハ日胤ナリ。
[やぶちゃん注:この寺、現存しないが、「鎌倉廃寺事典」に『宗旨未詳。小町、小町口』にあった寺として、ズバリ、「妙勝寺」という寺が挙がっている、「新編相模国風土記稿」には名を挙げただけで説明もない。と記した上で、亀田輝時編集になる雑誌『鎌倉』の『三の二(九)の七二頁に「小町夷神社前の辻の北側にもと妙勝寺という寺があつてその辻があつてその辻の所に大石があり、其の石が日蓮辻説法の腰掛石だが、現今のところに移されたものだといふ」とみえる。最近昭和三十四年頃まで、祟りがあると噂があって空地であったが、今は宏壮な邸宅となっている』とあり、『同五の二(十九・二十)一一七頁、延宝八(一六八〇)年の「鎌倉中御除地覚」に「本寺上総国茂原 妙勝寺法花」とみえる』とも記す。本光圀の日記は延宝二(一六七四)年五月である。前後の寺から見ても――間違いない! これこそ! 『宗旨未詳。小町、小町口』とされてきた妙勝寺である!]
大 行 寺
長慶山ト號ス。法花宗、池上ノ末寺也。寺領二貫五首文アリトナン。
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