芥川龍之介漢詩全集 三十一
三十一
山徑誰相問
開窓山色靑
山頭雲不見
山際一游亭
〇やぶちゃん訓読
山徑(さんけい) 誰(たれ)か相ひ問ふ
窓を開けば 山色 靑し
山頭 雲 見えず
山際(さんさい) 一游亭
[やぶちゃん注:龍之介満三十歳。これ以前、大正一〇(一九二一)年の三月末から初夏にかけて毎日新聞特派員としての念願であった中国旅行を終えている。そこで龍之介は「多くの大陸の実相を見、感懐を得、それは「上海游記」(同年八月~九月)・「江南游記」(翌大正一一年一月~二月)・「長江游記」(大正一一年二月)・「北京日記抄」(大正一四(一九二五)年六月)・「雜信一束」(大正一四(一九二五)年十一月)といった中国紀行文集「支那游記」に結実したが、同時に、この旅は龍之介の肉体と精神を著しく消耗させ、結果として死期を早めさせた遠因の一つにも数えられている。作家としては、円熟期に入り、多くの作品集刊行と、この大正一一年一月の「藪の中」・「俊寛」・「将軍」・「神々の微笑」、三月の「トロツコ」など、数々の新たな試みを施した名作群を生み出している。但し、大正一〇年の中国旅行後は、下痢や神経衰弱に悩まされ、同年末には睡眠薬をなしには眠れない状況に陥っている。それにはまた、「藪の中」のモデルともなった、秀しげ子が弟子格の南部修太郎とも関係を持っていたことが露見するというショッキングな私生活での変事にも起因している(龍之介の中国旅行決断の動機の一つは、彼にとってストーカー的な淫女として変貌し始めていたしげ子から距離をおくためであったとする見方もある。南部との三角関係は私の電子テクスト「我鬼窟日錄 芥川龍之介 附やぶちゃんマニアック注釈」の注釈を参照されたい)。
本詩は、
大正一一(一九二二)年四月二十四日附小穴隆一宛(岩波版旧全集書簡番号一〇二四)
に所載する。なお、龍之介はこの翌日から翌五月一杯、京都を経由した長崎再訪の旅に出ている。
「一游亭」は四阿(あずまや)であるが、同時に小穴の俳号でもある。即ち、本詩は彼へ、一時の旅の離別への挨拶の戯詩である。]