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2012/12/08

耳嚢 巻之五 狐福を疑つて得ざる事

 狐福を疑つて得ざる事

 本郷富坂に松平京兆(けいてう)の中屋敷あり。一ト年(とし)彼(かの)屋敷に住(すみ)ける小人中間(こびとちゆうげん)、老分にて屋敷の掃除などまめやかに勤(つとめ)けるが、子狐椽(えん)の下に生れしを憐みて食物抔與へけるに、或夜の夢に段々養育の恩を謝し禮を述(のべ)、何がな此恩を報ずべきと心掛し由にて、來る幾日は谷中感應寺の富札の内何十何番の札を買(かひ)給へと教(おしへ)しと見て夢覺(さめ)ぬ。さるにてもかゝる事あるべきにもあらず、夢に見しを取用(とりもちふ)べきにもあらずとて、等閑(いたづら)に過(すぎ)て札も調へざりしが、暫(しばらく)ありて谷中近所へ至りて感鷹寺富場のあたりを見しに、彼の夢に見し何十何番の札、一の富にてありし故、殘念成(なる)事せしと、其後は彼(かの)狐いよいよ愛して、猶又富の如き福分もあれかしと思ひしが、二度はならざる術にもありしや、其後は一向右樣の事もなかりしと也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。お馴染みの狐狸譚であるが、子狐故か、あとが続かず、またそれを、守株の如、下心から可愛がる小人中間の、如何にもしょぼいところが却ってコントとして面白い。訳の最後は、そうした行間を私なりに透き見て、趣向を凝らしてみた。

・「狐福」は訓読みして、「きつねふく」「きつねぶく」と読んで、思いがけない幸せ。偶然の幸い。僥倖。具体に、予想外の収入の意などを持つが、ここは真正、文字通り狐の齎した(はずの)福ということになるのが面白い。

・「本郷富坂」小石川水戸屋敷(現在の後楽園)の裏(北側)を北西から東へ斜めに下る坂。鳶が多くいたから鳶坂で、転じて富坂となった。切絵図で見ると松平京兆の屋敷は「松平右京亮」として水戸家の東北、現在の地下鉄都営三田線春日駅の東側、文京区民センターのある本郷四丁目付近にある。関係ないが、その真西の見下ろす丘陵のすぐ上に、後に「こゝろ」の「先生」と「K」が下宿する、あの家がある。

・「松平京兆」お馴染みのニュース・ソース松平右京太夫輝高。「奇物浪による事」の注参照。

・「小人中間」小者。本来は中間の下に置かれる武家奉公人の謂い。

・「何がな」「なにをがな」の略で、何か適当なものがあればなあ、の意。

・「谷中感應寺」天台宗。現在の谷中天王寺(日暮里駅南西直近)。元禄一三(一七〇〇)年に徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動・湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった。享保一三(一七二八)年には幕府により富突禁止令が出されたものの、ここでの興行が特別に許可され続け、天保一三(一八四二)年に禁令が出されるまで続けられた。なお、本話柄の頃は感応寺であったが、天保四(一八三三)年に天王寺と改称している。実はこの寺は開創時は日蓮宗で、ファンダメンタルな不受不施派に属していたために、幕府から弾圧を受け、元禄一一(一六九八)年に強制改宗されて天台宗となった。ところが、この天保四年に法華経寺知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であった専行院などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かして、感応寺を再び日蓮宗に戻そうとする運動が起き、結局、輪王寺宮舜仁法親王が動いて日蓮宗帰宗は中止、恐らくは本来の日蓮宗の山号寺号を嫌ってのことであろう、「長耀山感応寺」から「護国山天王寺」へ改めたものらしい(以上は主にウィキの「天王寺(台東区)」の記載を参照にした)。

・「一の富」「大阪商業大学商業史物館」のHPには驚くべき詳細にして膨大な「富興行」についての記載がある。本話より十数年ほど後になろうが、そこに示された「文化年中江戸大富集」のデータによれば、感応寺のそれは毎月十八日興行、富札料は一枚金二朱と極めて高価(当時の平均的江戸庶民の一ヶ月の生活費の十五%程度)で、これが三千枚発売され、百両冨(現在の一等に相当する最高金額が百両)であったことが分かる。

■やぶちゃん現代語訳

 狐福(きつねふく)を疑(うたご)うて福を得られなんだ事

 本郷富坂に松平京兆(けいちょう)殿の中屋敷が御座る。

 ある年のこと、この屋敷に奉公して御座った小人中間(こびとちゅうげん)――かなり年老いた者ではあったが、屋敷の掃除なんどを致いて、まめやかに働いておった――が、子狐の縁の下に生まれた――これ、親も見捨てたものか、一匹だけであった――を、憐れに思い、食い物なんどを与えて可愛がっておったそうな。

 ところが、そんな、ある夜のこと、この小者(こもの)の老人の夢に、

――この子狐が現われ、常々の養育の恩を受けた礼を述べた上、

「……何か……この御恩に報いるに相応しいものがないものか……と、考えておりましたが……」

と呟いて、少し思い込んだ感じになって、

「……来たる×日……谷中の感応寺で売られております富札の内より……※十△番の札をお買求め下さいませ……」

と、言うた――かと思うたら、目(めえ)が覚めた。

「……それにしても……いや……そんなことのあろうはずも、これ、ない……夢に見たことを真面(まとも)に取り合うも。これ、阿呆(あほ)らしいことじゃ!」

と、そのまま気にもせずに日を過ごし、勿論、富札も買わず御座ったところ、暫くして、たまたま十八日、谷中を通りかかって、かの感応寺の富場(とみば)を歩いておったところが、丁度百両富の札が引かるるところに出食わし、

「――一の富ぃ! ※十△番!!」

と高らかに声が上がったを聴いて、老人、

「……※十△番?!……と!!……と、と、とッ、ヒエッッッ!!」

何と――夢に見た番号が――これ、一の富に――当たって御座った。

 さればこそ、

「……こ、これハ!!……い、い、如何にも残念なることを……い、致いたものじゃ……」

と独りごちて、その後は、かの子狐をいよいよ可愛がっては、

『……さてもまた……かの富籤(とみくじ)の如き幸せも……これまたきっと……御座ろうほどに……の……』

と思っておった。……

――ところが……

――子狐なる故……二度とは出来ぬ術にても御座ったものか……

――いや……不用意に妖術を使(つこ)うたがため、稲荷の神より、罰として術封じでも与えられたものか……

――はたまた……老人が、かの子狐の真心を本気にせなんだにも拘わらず、今度はさもしい心根より、穢れた思いにて我らを愛撫するを、これ、鋭く見抜いたものか……

……その後は一向に、それらしきことも、これ、御座らぬ、とのことじゃ。

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