一言芳談 二十七
祈請は叶った――本日、0時0分を以って「一言芳談」の穀断ちを止めて再開する。
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二十七
法然上人云、一念を不定(ふぢやう)に思ふは、念々の念佛ごとに、不信の念佛になる也。其故は、阿彌陀佛は一念に一度の往生をあてをき玉へる願なれば、念ごとに往生の業(ごふ)となるなり。
〇一念に一度の往生、願成就の文に乃至一念とあり。二こゑにおよばずして氣(いき)たえたらんものも生まるゝ本願なれば、一念に一度往生の德あるなり。
[やぶちゃん注:大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の注によれば、この一条は国宝「法然上人行所絵図」の第二十一所収の「上人つねに仰せられける御詞」に見える法語とある。因みに、この部分には実に本『「一言芳談」に見えるもの十一カ条が収録されている』とある。本作の中の十一条は実に全体の十八%を占める。
「業」は本来的にはカルマ、人の身・口・意によって行われる善悪の行為若しくは前世の善悪の行為によって現世で受ける報い言うフラットな意味であるが、日本では古くから「業が深い」という言い方で、「業」は「悪業(あくごう)」の意、専ら理性によって制御出来ない心の働きという意味で用いられることの方が多い。なお、フラットな意味にあっても人が現実世界で行う意志や意識の現実形成の作用とも同一視されており、「良き意志」「良き行為」を心掛けることが勧められる一方、実はより究極的に於いては煩悩を滅し、善悪を乗り越えることで、一切の「業」を作らないことこそが理想とされ、それが「業を滅する」等の謂いとなっていると私は考える。さすれば、この部分について、大橋氏が
『なぜなら阿弥陀仏は一声一声の念仏に一度ずつの往生を約束されている本願ですから、一声一声念仏をとなえるごとに往生のはたらきとなるのです。』
と訳されておられるのには違和感を持つ。勿論、この大橋氏の「はたらき」とは「カルマ」の原初的なフラットな謂いが込められているのであろうが、この第一文は明らかに「『たった一度きりの念仏を唱えただけで本当に往生出来るのかどうかと不安に思う』ということは、これ、一声一声の念仏がそれぞれ全く不信心な空念仏となってしまう。」であって、それに対して「其故は」と解している訳で、私は、
なぜそれが「不信心の念仏」となるのか――それは阿弥陀仏は――ただ一念――ただ一声――そのただ一度の瞬間――に対して、必往生を約束なされて誓われた本願なればこそ――『たった一度きりの念仏を唱えただけで本当に往生出来るのかどうかと不安に思う』心で念仏を唱えてしまうことは、まさしく、その業(ごう)を重ねてしまうことに他ならないからである。
と法然は述べているのだと思うのである。]