ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 藪野直史
僕の愛してやまない映画「誓いの休暇」をこれより語り始める(なお、新たにブログ・カテゴリ『ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ』を創始し、『映画』ではなくそちらで掲載することとする)。これは僕が野人となる直前に「約束」したことであったが、結局、今日まで実践し得なかった。それには僕なりの「覚悟」が必要であったから、と弁解しておくに留めよう。僕にはそれなりに「覚悟」が出来た気がする。それだけのライフ・ワークにこれはなるということである。
本プロジェクトを――そう言上げした際に――エールを送って呉れた――古い教え子の上海在住の知喜君及び新しい教え子のイタリア留学中の研太君――の二人に捧げる 藪野直史
*
私の愛してやまない映画「誓いの休暇」は、原題を
“БАЛЛАДА О СОЛДАТЕ” (バラーダ・ア・ソルダット 「ある兵士のバラード」)
と言い、そのスタッフは、
製作:モスフィルム Мосфильм
監督:グレゴーリー・チュフライ Григорий Чухрай
脚本:ワレンチン・イエジョフВалентин Ежов/グレゴーリー・チュフライ
撮影:ウラジミール・ニコラエフ Владимир Ивашов/エラ・サベリエワ Эра Савельева
美術:ボリス・ネメチェク Борис Немечек
音楽:ミハイル・ジフ Михаил Зив
キャストは、
スクヴオルツォフ・アレクセイ(アリョーシャ)Скворцов Алексей(Алёша):ウラジミール・イワショフ Владимир Ивашов
シューラ Шура:ジャンナ・プロホレンコ Жанна Прохоренко
アリョーシャの母エカテリーナ Катерина:アントニーナ・マクシモーワ Антонина Максимова
将軍:ニコライ・クリュチコフ Николай Крючков
負傷兵ワーシャ Вася:エフゲニイ・ウルバンスキイ Евгений Урбанский
その妻:エリザ・レジデイ Эльза Леждей
軍用列車の兵士ガヴリルキン Гаврилкин:アナトリイ・クズネツォフ Александр Кузнецов
軍用列車の少尉:エフゲニイ・テレリン Евгений Тетерин
他によるもので、フルシチョフの雪解け時代、
1959年製作
になる、
モノクローム 1時間35分 ソヴィエト映画
である。因みに本邦での初公開は、昭和35(1960)年11月(因みに私はこの時、3歳と9ヶ月であった。無論、初公開は見ておらず、恐らく実見はNHKのTVで小学校高学年の時と記憶する。その後、三度程、同じNHKで観た後、大学生になった1975年頃に初めて映画館で見、その後、映画館ではもう一回、ヴィデオ・レーザー・DVD等、発売されたソフトは総て所持しており、全篇の総視聴回数は映画化を含めて恐らく二十回を下らない)。
本作は1960年のカンヌ映画祭最優秀特別作品賞・サンフランシスコ国際映画祭監督賞・ロンドン国際映画祭監督賞・テヘラン国際映画祭銀メダル(監督賞)・ミラノ国際映画祭名誉賞及び同イタリア批評家連盟賞などを受賞、同年第三回全ソヴィエト映画祭でも最優秀作品賞及び同最優秀監督賞と映画評論家特別賞の三賞を受けた。
執筆に際しては、2000年IVC発売のRUSSIAN CINEMA COUNCIL企画・制作のDVD(RCFF-1018)「誓いの休暇」所収の本編及びチュフライ監督のインタビュー等の特典の映像と邦訳字幕及び英語字幕、映画評論紙「イスクゥストヴォ・キノ(映画芸術)」一九五九年四月号に掲載された同作のキノ・ポーベスチ(文学シナリオなどと訳される。通常の日本で公開される際のパンフレットに載る外国映画のシナリオはスーパー用台本の翻訳に画面を採録して追加したものであるが、これは脚本家の書き下ろしたシナリオそのもののこと)の田中ひろし氏訳になる『〈文学シナリオ〉「ある兵士のバラード」』の全訳(共立通信社出版部発行の雑誌『映画芸術』一九六〇(昭和三五)年十一月号(第八巻第十一号)掲載)を用いた。字幕は極力英語字幕を参考にして私のオリジナルなものとし、邦文訳の著作権を侵害しないよう勤めたが、田中ひろし氏訳の文学シナリオは必要上、多くの引用をさせて戴いたので、特に田中氏には謝意を表しておきたい。
手順としては、それぞれのシークエンスごとに、私のオリジナルな映像解析を含めた映像再録を行った上で(但し「□」で示したものは大きなシークエンスの場合もあり、時に1ショット1カットの場合もあり、通し番号全体には絶対的規定属性はない。あくまで、私の再現上での便宜のために仮に附したものに過ぎない)、「■やぶちゃんの評釈」として、私の附言したい解析や「文学シナリオ」との比較などを行った。【始動 2012年12月29日】
□1 プロローグ
〇田舎道。春。
手前の日向の中に、何れも真っ白な十数羽の鶏とアヒルが三々五々に群れを作って、何かを啄みつつ、ゆっくりと動いている。鶏とアヒルの鳴き声。
左奥の向こうの道奥から、黒っぽい服と黒いショールを纏った女性(主人公アリョーシャの母でエカテリーナである。以下、「エカテリーナ」とする)が木蔭の中をゆっくりと、しかし何か毅然とした雰囲気を漂わせながら歩んでくる。
左(左には画面外の左奥に斜めに延びる道があるらしい)から三人の乙女が笑いながら走ってインすると同時に鳥たちが吃驚して少し跳ね飛ぶ。インした三人が画面右手母の方に踵を返すが、その時、右手から更に二人の乙女が彼らに加わる。それに更に加えて、画面右手のやや高くなった方(奥に田舎のログ・ハウスとその手前に車の前半分が見える)から、やはり三人の乙女が五人と等速度の小走りで加わって笑い声が最高潮に達する。その際、娘たちは道の右手に四人、左手に四人に別れる。
エカテリーナを認めて、すれ違う際、彼女たちの笑い声は一瞬途絶え、彼女たちも、何か、神妙な感じで歩む。
が、エカテリーナを行き過ぎると、笑い声が、再び起こり、娘たちはまた陽気なスキップになる。
左の高い位置にも道があり、そこを左手前(自家用車の手前)からインした自転車の男が、速いスピードで奥へと走り抜け、右手にある並木(電柱も立っている)の奥を、娘たちの歩むこちらの道へ抜け、娘たちの彼方へ消える。
この時、カメラはさっきの自家用車の全景が写る位置まで手前に移動している。
さらにここで我々は初めて腹部の前で掌を重ねて(左手で右手を押さえて)いるエカテリーナの表情を認めるが、それはひどく悲しげで、視線は虚ろである。
右手前から赤ちゃんを抱いた若い女が、右に夫らしい若い男を連れてインする。
二人の左手を通過する間際になって、二人が母に気づいて二人同時に軽く会釈をする(しかし何かそれはひどく軽いもので、それは、二人がこの母に対して挨拶を交わすことを躊躇させる何かがあるような感じを与えるものである)。母も女に気づいて、視線をそちらに向けて、これも軽い会釈のような挨拶の雰囲気が表われる(ここと次の母が赤ん坊を見るシーンから彼女が母のかなり親しい知人であることが観客には分かる)。但し、その表情の憂愁に変化は起こらない。寧ろ、娘の顔を認めた時には(その視界には若き夫も入っている)、硬い表情である。
但し、次の瞬間、娘の抱く赤ちゃんの顔に一瞬眼を落とした、その一瞬だけ――本来、きっととても美しいであろう――この母の笑みが射す。
しかし、再び前を俯いて愁いの虚ろな表情に戻り、等速度で行き過ぎ、画面の左へアウトする。
この行き過ぎた辺りで、二人は立ち止まって、左回りで画面正面を向く。映像上、若い男の顔をはっきりと出すために、男は奥で少し左に移動し、女は画面手前右寄りに近づく。女は去ってゆく母の後ろ姿を追っている。
ここでバスト・ショットになる女は如何にも若い。しかし、母である。そして、その表情には、何かいたましいものを見つめるような悲しさがある(彼女は作品の最後の帰郷シーンに登場するアリョーシャの家の隣人の娘ゾイカ(Зоя:ヴァレンティーナ・マルコバ Валентина Маркова 演)である)。[ここまで1シーン1ショット54秒で撮っている。]
〇村外の一面の麦畑の中の田舎の一本道に向かってゆっくりと歩むエカテリーナ(ここは一種のゾイカの見た目になり、前のシーンとの編集が上手い)。
道は一回左にカーブしながら、その先で右に向いた直線となり、その道が一回丘陵上の頂点で見えなくなっている。その彼方にはぼんやりとした高圧鉄塔があって、中央よりやや左にずれて、一種のパースペクティヴの消失点として機能している。なお、道の消えたその遙か向こうには、そこよりもやや高い丘陵が左右に延びているようにも感じられる。
エカテリーナの足音。約2秒後に、本作の印象的なメイン・タイトルの音楽が始まる。
画面中央上寄りまで、エカテリーナが道を進んだところで。
〇煽りのショットで奥から手前へエカテリーナが進んでくる。背後には丘陵の遠景。左右に遠く森が見える。
カメラは左右に見えていた森の尖端が少し見える位置まで、ややティルト・アップして、エカテリーナのバスト・ショットで止まる。この時、彼女は最初は手を左右に垂らしており、バスト・ショットで前で先と同じように腹部の前で手を組む(一度、握って、緩めて、また握っている)。
ここでメイン・テーマが一回切れて、不安を感じさせるテーマが流れる。
なお、服装はショールが(恐らく)黒、黒っぽく見えた服は小さな格子状に編まれたものである。
〇左へのカーブが終わって右に延びる少し手前からの田舎道。(エカテリーナの見た目)
消失点の高圧鉄塔は、今度は画面中央よりもかなり右に寄ってある。
右手前の、道右側の麦の穂が風に揺れている。
音楽はメイン・テーマに戻る。
ナレーションが始まる。
「この道は町へ続いている……」
「この村から出て行く者たち……」
「この村へ帰って来る者たち……」
「旅立ちも帰還もこの道に拠る……」
〇エカテリーナの右手から。肩から上のアップ。痛ましく眉根を顰ませるエカテリーナ。
左の空を電線が四本変わった形(彼女の背後に電信柱が隠れており、そこで直角に電線が折れているようにも見える)右手奥には森と電信柱様のもの、そして別な集落とおぼしいものが見える。
「しかし彼女は誰も待ってはいない……」
エカテリーナは何度か瞬きをするが、その悲痛な眼には涙が光っている。
「彼女の息子――アリョーシャは――戦場から遂に帰らなかった……」
道を見ていたエカテリーナが少し、左の方、広がる麦畑の彼方へと顔と視線をゆっくりと向ける。
と同時にカメラは右回りに回転を始める。
麦畑の向こうに丘陵をすべって、直ぐ近くの麦の中に痩せた木(白樺か)、遠い森、を撮って、
「故郷から遠く離れたロシアの名も附されぬ異邦の地に葬られた……」
また道の左側に戻って、
「彼の墓には見知らぬ人々が花を供えにやって来る……」
道の左カーブが右直線になるところが写し出される(ここまでカメラは九〇度以上右に回った計算になる。最後の位置は、先の同様の画面位置よりもやや後ろの下がった道の左側からの撮影のように思われる。高圧鉄塔は再び画面中央よりやや左手にある)。
その後、カメラは停止せずに、何か、道を撫でるような女性的なやさしい視線(焦点を道の地面に合わせている関係上、下向きの人の視線のように見える)で道を撮りながら、ゆっくりと今度は右側に後退し始め、
「人々は彼を『英雄』『ロシアの解放者』と讃えるけれど……」
「彼女にとってはただ――彼女の一人の息子であり――彼女の可愛い子供――だった……」
この時、画面の右から、道の《右側に立っているエカテリーナの後ろ姿》が現われるのだ!
彼女の黒いスカートが風に搖れている。
「彼が生まれたその日から――前線に旅立ったその日まで――ずっと一緒だった……」
「彼は私たちの親しい友であった……」
「私たちはこれから彼についての話をしたい……」
エカテリーナは左から振り返ってこちらに向く(その時、左肩に掛けた黒いスカーフを何故か、一度、外して、また掛けかける)。
「彼女さえ――彼の母親であるこの女性でさえ――知らないことを……」
そして、黒装束にしか見えないエカテリーナは、眼を落しながら、画面の左方向へ消えて行く。
〇雲のある空に題名“БАЛЛАДА О СОЛДАТЕ”。“Б”及び“Д”の頭が右に大きく伸びた印象的な字体である。ここは静止画像と思われる。音楽、高まる!
〇丘にマリア像のように毅然と佇む、エカテリーナを右に配した、煽りのショット。強い風が彼女に吹き荒ぶ。空の雲は中央に空隙があり、その雲の左には太陽が隠れているように見える。カタストロフのテーマ!
ところが、ここでのエカテリーナのスカーフは《白い》!
〇エカテリーナの眼をしっかりと見開いた顔のアップ!
白で! しかも模様の入った如何にもお洒落なスカーフ!
そして彼女の顔は明らかに《若い》!
その、彼女は表情は何かを目撃したような!
その顏が更にアップになりながら、一瞬、ブレて、また焦点が合う! その間、彼女の眼は何かをはっきりと見据えるように、眉が上がり、グッと見開かれる!
目と鼻と鼻唇溝のみまでクロース・アップ!(途中、ピントが外れて、また合う! 皮膚の皺まで見える究極のアップ!)
そこに、向かってくる戦車がオーバー・ラップして!……
■やぶちゃんの評釈
アリョーシャの母を演ずるアントニーナ・マクシモーワは作品の最初と最後にしか出ないが、私は彼女こそが本作の、もう一人の主人公であると考えている。それが、本論の「待つ母というオマージュ」という副題の意味である。
画面に登場する車は、当初、ボンネットしか映っていないために、農耕用トラックのように見えるが、実は自家用車であることが後で分かるようになっている。これは、まさに大祖国戦争(第二次世界大戦をソヴィエトやロシアはかく呼ぶ)後、数年、ゾイカの結婚と出産から五年年以上は経っていないと推せば、上限1946年から下限は1950年がこの冒頭のシーンであろうかと思われる。則ち、ここでは、若い娘たちが、賑やかな笑い声を立て、農民の中には自家用車まで持つようになっていること、このサスノフスカ(後にアリョーシャが語る村名)という田舎の村さえ十全に近代化されて、平和と豊饒の時代が到来していることを示す。但し、最後のシーンのゾイカの家は、居間の上に電灯線のようなものが下がっており、既に電化されている気配がなくはない。もしかすると、これはランプ掛けなのかも知れないが。私ならそこでランプを配し、その時期の、この村の貧しさを示したい感じはする。当時の日本でもそうだったから。
ゾイカはエカテリーナの息子であるアリョーシャと幼馴染みで、そして、その最後のシーンを見ても、恐らくはアリョーシャが好きだったのである。父のいない母子家庭のエカテリーナの隣人として、ゾイカは高い確率で、美少年のアリョーシャと結ばれることを自然と考えていた「娘」であったのだと私は確信する。このトラウマを持った哀しい表情に、私はそれを初回に見た瞬間から、直感してきたのである。
今一つ、驚くべきカメラ・ワークに着目したい。それは、
その後、カメラは停止せずに、何か、道を撫でるような女性的なやさしい視線(焦点を道の地面に合わせている関係上、下向きの人の視線のように見える)で道を撮りながら、ゆっくりと今度は右側に後退し始め、
「人々は彼を『英雄』『ロシアの解放者』と讃えるけれど……」
「彼女にとってはただ――彼女の一人の息子であり――彼女の可愛い子供――だった……」
この時、画面の右から、道の《右側に立っているエカテリーナの後ろ姿》が現われるのだ!
と、私が解説した部分である。これはカメラ位置を十全に認識している鋭い観客から見ると、不思議なのだ。則ち、ここでチュフライはエカテリーナ役のアントニーナ・マクシモーワにカメラの後ろを廻って右手に行くことを指示し、観客がエカテリーナが画面の「左」にいるものと思っている観客の「意識を裏切って」、右から出現させるのである。私はこれと同じ手法を多用する映画作家を知っている。私の愛するアンドレイ・タルコフスキイである。そして、実はチュフライはタルコフスキイの師――それが正しくないとすれば、兄弟子に相当する人物であり、タルコフスキイは終生、彼への敬意を忘れなかった相手なのである。タルコフスキイ作品を語る者は、チュフライを語らずんばあらず――これが私の発見した深い感懐なのである。タルコフスキイの場合は、この手法はある霊的な意味を確信犯で込めているのだが、しかし私は、それをこの法然チュフライから授けられたのだと見る。チュフライは超自然的な力を映画が確かに持っていることを、知っていた。それがこのシーンであり、親鸞タルコフスキイはそれを恐ろしいまでに純化して自身の映像に反映させた――異論のある方は、いつでも応じよう。
次に、文学シナリオを見よう。
冒頭には、
この映画を祖国のための戦いに散った、我々の仲間である兵士に捧げる。
とある(以下、田中ひろし氏訳になる『〈文学シナリオ〉「ある兵士のバラード」』の全訳からの引用)。ここに、チュフライの映画製作の、「心」が示されており、それは、ナレーションの最後に相当する。これをソヴィエト映画の強制的常套語だ、などと言う輩は、これ以上、私の本論を読むことを辞められたい。これは、大祖国戦争を実体験として経験した人間にとって、言わねばならぬ真意であったのである。
《引用開始》
現在の農村。陽気な休日の宵。暮れかけたばかりなのに、家々の窓にはもう灯が明るく輝いている。遠く離れたコルホーズのクラブでは、若者達が集っている。そこでは街灯があかあかと燃え、音楽が聞えて来る。しかし、ほかの村角は空虚と静寂に沈んでいる。こんな時間には路上で人に会うことも稀である。お客に行く若い夫婦者が赤ん坊を抱いて通り過ぎるか、恋人達が黙ってすれ違うか、クラブヘ急ぐ娘達のグループが走り去って行くか、そのくらいのものである。
《引用終了》
実際の映像は『宵』ではないことは明白である。これは光量の問題もあるが、実際の映像の方が、確かに効果的である。「コルホーズのクラブ」という記載は、脚本検閲への配慮のように私には思われる。この時代でも、勿論、ソヴィエトは社会主義的政策への讃歌的内容の有無を脚本に求めていた。
「お客に行く若い夫婦者が赤ん坊を抱いて通り過ぎる」という部分に子を持った母ゾイカを登場させ、本作全体の中に美事に有機的に位置づけて、同時に、本作が如何なる物語となるかを――則ち、私の言う『母の物語』としての――伏線として提示した手腕は、これ、絶妙である。
《引用開始》
一人の黒い衣裳をまとった婦人が村の通りを歩いて行く。娘達は、すれ違う時、一瞬笑声を止めた。しかし、この婦人と挨拶をかわすと、また自分達の道を駆けて行く。ほかの通りで婦人は若い夫婦者と会う。若者は彼女に丁寧に挨拶する。彼女は、ほほえみながら返礼して行き過ぎてゆく。村の囲いを出ると、彼女はそこにたたずむ。そして、広々とした耕地の中を遥かに遠い丘に続いている道を、見つめている。
(ナレーション)
『この道は我々の州都に通じている。そこには、二つの高等学校と一つの工場、そして鉄道の駅もある。我々の村を出て行く者も、やがて故郷に帰って来る者も、この道を通って行き、また通って来るのである。』
『彼女がそこに現れるようになってもう何年の年月が経つだろう。いや、彼女は誰も待ってはいない。彼女が待った息子のアリョーシャは戦争から帰って来なかった。彼女は息子が帰って来ないことを知っている。彼の遺体は、ふるさとを遠く離れた外国の村に葬られた。春がやって来ると異郷の入々は、彼の墓に花をたむけた。人々は彼を、ロシヤの兵士、英雄、また解放者と呼んだ。しかし彼女にとって、彼はただの息子のアリヨーシャであり、生れてから戦場へこの道を去って行くまで、そのすべてを知っていた可愛い子供なのであった。彼は我々の仲間であった。我々は、彼とともに前線にいた。だから我々は、彼の母親もそのすべてを知らない、彼の物語を始めよう。』
《引用終了》
ナレーションは文学シナリオをほぼ忠実に再現している。則ち、このナレーションこそが、どうしてもチュフライの言いたかったことである、ということを我々は心せねばならぬのである。
《引用開始》
……黒い衣裳の婦人の姿が、ゆっくりと変る。それははるかに若いが同一の婦人である。彼女は同一の場所に立っている。しかし、彼女の背景には新しい村の明るい家屋はない。そこには、戦時中の陰鬱な百姓家が建っている……。
強風が彼女の着物の裾を吹き上げ、頭からネッカチーフを吹き飛ばす。黒雲が空に渦巻いている。
婦人は遠くを見つめている。風は、さか立ち、ひん曲った大地を吹きまわる。バラ線に唸りを上げ、黒々とした塵埃を原野に吹き上げる、
ここは戦場の最先端である。
《引用終了》
ここは脚本を忠実に再現する(というか、文学的な時間の跳躍を映像化する)ことが難しい。実際の映像はそれを、エカテリーナの若返りで、非常に上手く表現している。ただ、過去への回帰が、非常に短い映像であることから、観客には十全にそれが理解されなかった可能性は拭えない。実際に愚鈍な私は、三度目ぐらいで、初めて、彼女のスカーフの違いや表情の若々しさに気づいた。それにしても、メイクもさることながら、汗腺まで見えるような超アップでも怖気ぬアントニーナ・マクシモーワの「若さ」の演技に、私は脱帽するのである。
最後に。実は、これらのシークエンス全体にはオープニング・タイトルが被る。その解説は一切、行っていない。この時代としては普通な仕儀ではあるのだが、私としては、折角の印象的な冒頭シークエンスなだけに、少し残念な気がしている。