平清盛は誰が何と言おうと僕の大河随一である事 又は 清盛はトロツキーであった
僕はNHKの大河ドラマで二度だけ泣いたことがある。
一度目は「山河燃ゆ」の、エンディングで松本幸四郎演じる天羽賢治が自死するシーンであり、今一つは、今日の「平清盛」の藤木直人演じる西行と松山ケンイチ演じる清盛のオーバー・ラップのシーンだけである。
清盛の「侍」=軍人による本邦の革命的行動は、まさにトロツキーの「永久革命論」のそれに似ている。勿論、彼が朝廷をもその腹中に食わんとしなながら、自身が結果、ブルジョアジーに憧れてエイリアン化したところで、取り敢えずの終末は来たったのだが、その美味しいところを、巧妙に再生構築したのがスターリン的な頼朝であったとも言える。そこにはレーニンのような辛気臭い説教を垂れる孔子染みた存在も不要だったし、マルクスのような経典をせっせと綴る神も、これ、いらなかったのだ。孔子も神もいなければこそ、戦国を経て、鎌倉の幻影を実体化・大系化するプラグマティックな幻影城としての徳川幕府が生まれ、それは結局、明治天皇という後白河法皇みたような薄っぺらい御旗を掲げた輩による、先軍的「近代」国家建設へと繋がったのではなかったか?
――清盛という「武士の世」を希求する男の悲哀は、確かに、実は架空の「天羽(あもう)賢治」(山崎豊子作「二つの祖国」の主人公)の悲哀に直結していたのではなかったか?
そうして――『より強い日本』を幻想する今の日本人に、確かにそれが繋がっているのではないか?
――戦うがいい、愚かな人類よ――貴賤の差も、総ては下らぬ幻である――
結局は――殺し合って自滅する――それが我々人間という存在の――実相以外の――なにものでも――ないのだ……