一言芳談 三十八
三十八
又云、たとひ八万の法門を通達せりとも、凡夫の位(くらゐ)には程(なを)あやまちあるべし。佛助(たすけ)玉へとおもふ事のみぞ、大切なる。
〇八万の法門、八万四千の佛教也。三賢十聖(さんげんじつしやう)の菩薩も、なほ因分にして、果海の佛には及びがたし。いはんや凡夫のあさきさとりは、あやうき事也。たゞをろかに信ずるがよき也。是を果分不可説といふ。淨土宗の故實なり。一枚起請に、たとひ一代の、とあるも、この心なり。
[やぶちゃん注:標注はⅠでは「八萬の法門、八萬四千の佛教なり。」(表記はママ)で終わっているが、実際には以上のように長い。Ⅱの脚注にあるものを正字化して復元した。
「法門」悟りに入る門の意で仏法、仏の教え。
「通達」隅々まで通じること、滞りなく通じることであるが、ここは、目を通す、学び尽くしたつもりになる、といった皮相的謂いでとらなくては意味がそれこそ「通達」しない、通じない。
「八万四千」仏教では「非常に多くの」「無数の」「総ての」の意で用いられる一種の法数(ほうすう:定型化された仏教の教理を数によって仮に示すもの。)である。
「三賢十聖の菩薩も、なほ因分にして」「三賢十聖」は大乗仏教の菩薩の修行階梯の内で、上位の聖位である十地(十聖)及びそれ以前の十住・十行・十回向(三賢)を総称する謂い。三賢十地とも。間違ってはいけないのは、彼らは未だ菩薩(修行者。これを悟りを得た仏の謂いと誤解している人が案外多いように思われる)であるから、未だ「因分」や果報の世界、即ち、因果応報の世界に住んでいるのである。
「果海」空海の密教教学で言う因果を超越した世界。第十住心。
「「果分不可説」因分(原因)となる対象については説くこと(解析)が可能であるという「因分可説」の対語。果分(結果)である存在については解析は不可能であることを示す。仏教の真の究極の結果たるものが悟達(悟り)であるから、果分不可説によってそれを説明することは出来ない、という謂いである。]