耳嚢 巻之五 意念殘る説の事
意念殘る説の事
中山氏の人の小兒ありしが、出入もの吹けば音をなすびゐどろを與へけるを、殊外歡びて鳴らしなどせしに、其日奧方里へまかれる迚、小兒を伴ひて親里へ至りし故、留守の淋敷を訪ひて予が知れる者至りしに、酒抔出し汲かはしけるが、押入の内にてびゐどろをふく音しける故、驚きて戸を明て見れば、晝小兒の貰ひしびいどろは紙に包て入れ有しが、音のすべき樣なしとて元のごとくなし置て戸を引置しに、又々暫く有て音のしける故、改見れば初にかはる事なし。去にても不思議也と思ひしに、右妻の親里より急使來りて、彼小兒はやくさにも有哉らん、引付て身まかりけるとや。
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。頑是ない子の霊が吹く愛玩の「びいどろ」の音(ね)――短いながら極めて印象的な上質真正の「音の怪談」である。私には「耳嚢」の中の怪談でも頗る附きで、忘れ難い一話である。されば原本の雰囲気を残したいので、一切ルビを振らなかった。今回のみ、注で読みを示しておく。
・「中山氏」不詳。先行巻には現われない。
・「出入もの」出入(でい)る者。
・「びゐどろ」鈴木氏の注は音が聴こえる。『ポンピン、またはポペン、ポコンポコンと称する玩具。ガラスの瓶の底を薄く作り、口にあてて息を出入させるとポンピンと音がするもの』。You Tube のヴィデオで聴ける(和の玩具を紹介なさるという、この画像……たまたま見つけただけなのだが……しかし……この吹いている女性……何というか、飛び気味のライティングによる妙に白い「頬」……情感に乏しい眼付きと言葉遣い……本話の怪奇とは別の……彼女には失礼乍ら……妙にどこか妖しい印象のお方では……ある……まあ、ここに配するのも……悪くはない……な……)。
・「迚」とて。
・「淋敷」さびしき。
・「予が知れる者至りしに」底本は「予が知れる者に來りしに」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の当該部を採用した。底本の「に來」は、書写した者が誤って判読した可能性が窺える上に、文意が通らない。
・「汲かはしけるが」底本では「かはし」は「かわし」であるが、カリフォルニア大学バークレー校版で訂した。「汲」は「くみ」と訓じている。
・「明て」あけて。
・「なし置て戸を引置しに」なしおきてとをひきおきしに。
・「有て」ありて。
・「改見れば」あらためみれば。
・「初」はじめ。
・「かはる」底本「かわる」。カリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「去にても」さるにても。
・「也」なり。
・「彼」かの。
・「はやくさ」早草。特に頬が赤く腫れあがる症状を示す丹毒の異称。連鎖球菌(erysipelas:エリシペロス)に感染することで起こる皮膚の化膿性炎症。菌が皮膚の表皮基底層及び真皮浅層に侵入して炎症反応を起こしたもの(同菌が真皮深層及び皮下脂肪にまで入り込んで炎症を起こした場合は、現在は蜂窩織炎(ほうかしきえん)と呼んで区別する。即ち、丹毒とは皮膚の比較的浅い部分に発生した蜂窩織炎様のものと考えてよい。蜂窩織炎が下肢に多いのに比べると下肢の丹毒は少なく、また何れもリンパ球の浸潤が見られるが、丹毒は好中球が蜂窩織炎に比して著しく少ないことで識別出来る)。感染は術後の傷跡や局所的浮腫等が誘因として考えられ、年齢に関係なく罹患するが、特に児童・高齢者や免疫低下のある患者などが感染・発症し易い。症状は特異的な頬の腫れで、それに伴って高熱・悪寒・全身倦怠の症状が出現する。頬の腫脹部分は熱く、触れると痛みを伴うこともあり、水泡や出血を見る場合もある。この赤変腫脹は頬以外にも耳や眼の周囲・上肢・稀に下肢にも出現することがあり、同時に近くのリンパ節の腫脹し、痛みを伴う。現在はペニシリン系抗菌薬の内服又は注射によって凡そ一週間程度で表面の皮が剥離して治癒するが、放置した場合は敗血症・髄膜炎・腎炎などを合併し、重篤になる場合もある。なお、習慣性丹毒といって、菌を根治し切れないと同じ箇所に何度も再発するケースがあり、この場合は慢性のリンパ鬱滞が誘因となる(以上は信頼出来る複数の医療記載を勘案して作成した)。この子の場合、前駆症状の記載がなく、急性増悪から致死に至っており、もしかすると習慣性丹毒であったものを、油断していた可能性も考えられよう。
・「有哉らん」あるやらん。
・「引付て」ひきつけを起こして。「ひきつけ」は小児が起こす一時的・発作的全身性痙攣で、高熱などの際に見られる症状である。
■やぶちゃん現代語訳
意念が残るという如何にも哀れなる話の事
中山氏と申される御仁に一子(いっし)が御座った。
ある日の朝、中山家に出入りして御座った者が、この子(こお)に、息を吹き入るれば涼やかな音(ね)をなす、かのビイドロをやった。
子(こお)は、たいそう喜んで、
――ポコン
――ポンピン
――ポペン
――ポコンポコン
と、これを鳴らいては、如何にも嬉しそうに遊んで御座った。……
――ポコンポコン
――ポンピン
――ポコン
――ポコペン……
その日の午後、中山殿が奥方は、用あって里方へ罷(まか)るとて、この子(こお)を伴(ともの)うて、親里へと発(た)って御座った。……
その留守居の淋しきを見舞わんと――これ、拙者の知れる知人で御座ったが、暮れ方、中山殿を訪ねて御座った。
さても、気の置けぬ仲なれば、茶の間にて、二人して酒なんど酌み交わして御座ったところ、……
――ポペン
……と……
……近くの押入内より……
……これ……
……確かに……
……ビイドロを吹く、音(ねえ)がした。……
驚いて戸を開けてみれば、その日の昼つ方に子(こお)の貰(もろ)うた――しきりに吹いては喜んで御座った――かのビイドロは、紙に包みて、入れ置かれて御座った。
中山殿は、それを手に取って開いて、よう調べては見たが、
「……いや……音など致すはずは、これ、ない……」
と、元通りにしまい置いて、押入の戸(とお)を、閉めた。
……と……
……暫く致いて……
……また……
――ポコペン
……と……
……ビイドロが……
……鳴った。……
今度は即座に襖引き開け、包みを解いて仔細に閲(けみ)して御座ったものの、これ、やはり元通りにて、何の変わったことも、御座ない。
「……それにしても……不思議なことじゃ……」
と、二人してまた酒を汲み交わしつつも、これ、何とのう、二人ともに黙(もだ)しがちとなって御座った。……
――と!
――妻の里より急使の来たって、中山殿へと告げたことには――
――かの子(こお)――丹毒様(よう)のものに罹患致いたものか――ひきつけを起こして――これ――身罷ったとの――ことで御座った…………
――ポペン…………
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