鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 本覚寺/妙本寺
本 覺 寺
妙嚴山ト號ス。法華宗、身延ノ末寺也。關東ノ小本寺。源持氏時代ニ建立也。開山ハ日出、本尊釋迦・文珠・普賢ナリ。
寺寶
日蓮曼多羅
同文書
夷堂橋、小町ト大町トノ境ニアリ。滑川ノ流也。
[やぶちゃん注:「曼多羅」の「多」はママ。]
妙 本 寺
比企谷ニアリ。長興山ト號ス。日蓮説法最初ノ寺ナリ。大學三郎ト云シ者ノ建立、日蓮存生ノ間、日朗ニ附屬スル故ニ、日朗ヲ開山トス。正月廿一日開山忌今ニ怠ラズ。本尊釋迦ノ立像ナリ。日蓮伊豆へ配流ノ時、立像ノ釋迦隨身ノ佛ナリ。後ニ日朗ニ附屬ス。本國寺ニ納リテ有故ニ、此ニモ立像ノ釋迦ヲ本堂ニ置トナリ。影堂ニ日蓮ノ木像アリ。此寺池上トカケ持也。寺中池上ト同ジ塔頭十六アリ。院家ニツアリ。今ノ看主ハ本行院日諦ト云。
寺寶
日蓮蛇形大曼荼羅
[やぶちゃん注:以下の「日蓮蛇形大曼荼羅」の割注は、底本では通常の割注と同じくポイント落ちで全体が三字下げ。]
〔初ハ臨滅度時ノ曼荼羅ト云。池上ニテ臨終ノ時書レタルトナリ。池上ハ在家ナル故ニ(此寺ハ日蓮説法始ノ寺故ニ)納置、或時蓮ノ字ノハネタル所、蛇形ノ如ク見へクル故ニ蛇形ノ曼荼羅ト云。長サ四尺餘、幅三尺餘。〕
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志巻之七」の「妙本寺」注に画像を配してある。]
日蓮曼荼羅 四幅
同消息〔御書ノ第六番目ニ載タルトゾ。〕四幅
同細字法華經 一部
〔八卷一軸口ニ名判アリ。至テ妙筆ナリ。長サ六寸バカリ〕。
同祈禱曼荼羅 一幅
〔散シ書ニテ春蚓秋蛇ノ勢アリ。至極怪奇ナル筆天下ニ一幅ノ名物ナリト云。〕
[やぶちゃん注:「春蚓秋蛇」「しゆんいんしうだ(しゅんいんしゅうだ)」と読み、春の蚯蚓(みみず)や秋の蛇のように、字も行もうねうねと曲がりくねっていること。一般には字が下手なことの譬えである(「晋書」王羲之伝賛に基づく)。]
日朗墨蹟 一幅
東照宮御直判
〔濫妨狼籍禁制之和書、小田原陣ノ時、箱根ニテ惶頂載スルトナリ。〕
[やぶちゃん注:「惶」は日惶のこと。]
水晶塔〔高サ一尺五寸ニ舍利一粒アリ。此舍利塔ハ平重時祕藏タリトナリ。〕
比企谷ノ歌 阿佛
忍音ニ比企谷ナル郭公 雲井ニイツカ高ク鳴ラン
[やぶちゃん注:この歌は「十六日記」に、
しのびねはひきのやつなる時鳥くもゐにたかくいつかなのらん
の、かなり異なった形で出る。「ひき」は地名の「比企」ヶ谷と音(ね)の「低(ひき)し」に掛けてある。期待していたホトトギスの声を滞在していた極楽寺の月影ヶ谷で一声も聴かぬのを、ついそこの比企ヶ谷では既に人も聴いたなんどというのを知っての作で、
――忍び音に鳴くという比企が谷(やつ)の時鳥(ほととぎす)は……いつになったら空高く鳴いてくれるのであろう……
という歌意である。]
本堂ノ北ノ方ニ、頼家ノ娘竹濃御所ノ舊跡アリ。今ハ蘭塔場也。此谷ハ昔、比企判官能員ガ舊跡ナリト云。
[やぶちゃん注:「竹濃御所」「濃」は「の」の意か。竹御所(建仁二(一二〇二)年-~天福二(一二三四)年)は頼家の娘で、寛喜二(一二三〇)年に二十八歳で十五歳歳下の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。四年後に男子を出産したが死産、本人も三十三歳の若さで死去した。位記の名は鞠子(妙本寺の寺伝よれば媄子(よしこ)とする)。これを以って、源家嫡流たる頼朝の血筋は完全に断絶した(以上の事蹟はウィキの「竹御所」を参照した)。
「蘭塔場」卵塔場に同じ。墓地。]