芥川龍之介漢詩全集 三十三 了
三十三
異花開絶域
滋蔓接淸池
漢使徒空到
神農竟不知
〇やぶちゃん訓読
異花(いくわ) 絶域(ぜついき)に開く
滋(しげ)れる蔓(つる) 淸池に接す
漢使 徒(いたづ)らに空しく到る
神農(しんのう) 竟(つひ)に知らず
[やぶちゃん注:これは芥川龍之介が残した現在知られる生涯に最後の漢詩である。龍之介満三十二歳。以下、当時の事蹟その他については、前の「三十二」の注冒頭を参照のこと。
本詩は前の「三十二」と同じく、
大正十三(一九二四)年九月十八日に書かれた芥川龍之介のノート「ひとまところ」
の、掉尾に置かれているものである。以下、前の「三十二」の注に掲載した「ひとまところ」全文を参照されたい。
――実は本詩について私は前の「三十二」と同様、既に二〇一一年五月七日のブログ「龍之介よ、スマトラのわすれな草の花、見つけたよ」で論評しており、その内容以外の新しい附言をする必要を殆んど認めないのだが、「三十二」と同じく、本頁での評釈に合わせて記載をし直して示すこととする。
まず、本詩については平仄と韻を調べた。
異花開絶域
滋蔓接淸池
漢使徒空到
神農竟不知
●○○●●
○●●○◎
●●○○●
○○●●◎
これは平起式の五言絶句の平韻平仄式の、
◐○○●●
◑●●○◎
◑●○○●
◐○◑●◎
に則っており、韻字である「域」「知」はともに詩韻百六種の平声上平の第四韻「支」である。
次に、私の勝手な自在なる現代語訳を示す。
*
……不可思議な一つの花が……遙か遠い……絶海の孤島に……言葉に尽くせぬ美しさで……咲いている……
茂ったその蔓は……あくまで透き通った……そこにある……秘かな……清らかな池に……乙女が美しい手を挿すように……浸っている……
――漢からやって来た勅使――彼らはただ……徒らに空しく……そこに辿り着くだけ……彼らの眼に……その花は……見えぬ……
いや――かの本草の神たる神農でさえも――遂にその花を「示す」ことはおろか……「名指す」ことさえも……出来ぬのだ……
邱氏は「芥川龍之介の中国」の「第四章 中国旅行後の芥川文学」の『「女仙」への帰着』で、本詩を同年に発表した「第四の夫から」と関連させて解読されており、それによれば「絶域」は同作の舞台チベットであり、花はやはり同作に描写される仙境のシンボル桃花とされる。そうして龍之介は『中国に対する幻想を中国旅行によって破壊された芥川は、愛する田園詩人陶淵明らが生きた時代より、さらに古い漢の時代の中国の使者についてゆき、遠い西域で古き美しい夢をみようとしたのである。しかしこのような精神的な旅も、やはり「漢使」とともにしなければならないところが意味深い。芥川及び芥川文学と中国古典の世界とは切っても切れない関係にあることを物語っているのである』とし、先の「第四の夫から」の話との高い近似性を述べた上で、『夢が破れても、なお東洋のエピキュリアンとして、夢のような精神世界を求めずにはいられない芥川がのぞかれる』。そんな『他の誰にも劣らない生命力を持っていた』はずの『芥川からすべてを奪い去り、』『死に追い込んだのは「時代」である。中国旅行後の漢詩』(邱氏の推定を含め「三十一」から本「三十四」まで)『はわずか四首に過ぎないが、芥川文学の神話構築と崩壊の実態が示唆される点で不可欠な資料だと言える』と、この「第二章 芥川と漢詩」の「第二節 芥川の漢詩」を結んでおられる。「第三節 まとめ」などを含め、ここまでお付き合い戴いた方は、是非、邱氏の「芥川龍之介の中国」をお読み戴きたい。
さて、以上の邱氏の「異花」についての見解は至当で十全に腑に落ちる解釈であるとは思うのだが、私は本詩を一読して、
「これこそ、あのスマトラのわすれな草の花だ!」
と思わず独りごちたことも事実なのである。――あの芥川龍之介の「沼」に現われる――スマトラのわすれな草の花――である。
*
沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、 Invitation au voyage の曲が、絶え絶えに其處から漂って來る。さう云へば水の匀や蘆の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匀を送って來はしないであらうか。
*
この「スマトラの忘れな草の花」は、私が非常に高く評価する小沢章友氏の小説「龍之介地獄変」(二〇〇一年新潮社刊)の、龍之介が自死を間近に控えた終盤の、印象的なシークエンスで以下のようにも現れる(地の文は私の要約、『 』は引用)。
*
――龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして、
『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた』。
訝る多加志に龍之介はこう言う。
『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』
『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』
『その花はね、魂なんだよ』
『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』
と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆく――
*
と描かれた、あの花である。私はこの漢詩の「異花」こそ、あの、「スマトラのわすれな草の花」なのだと――大真面目に――信じて疑わないのである。それは邱氏に言わせれば、中国神話の世界の仙境の霊花たる桃の花と同じだ、とされるであろうが――やはりこれは――絶望を知った者だけに見える島「ファタ・モルガーナ」の――常人には見えぬ「非在の異花」――「ときじくの花」――なのだ、と私は最後まで拘りたいのである。……私はかつて、「芥川多加志略年譜」の最後に、後、ビルマで戦死することとなる龍之介の次男『多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――』と書いた……よろしければ、そちらもお読み戴きたい。……さすれば、芥川龍之介と芥川多加志の二人の「スマトラのわすれな草の」花供養とも……なろうかと……存ずる……。]
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