一言芳談 四十四
四十四
敬佛房云、むかしの人は世をすつるにつけて、きよくすなほなるふるまひをこそ、したれ。近來(このごろ)は遁世をあしく心えて、かへりて、氣(き)きたなきものに成(なり)あひたる也。
後世者といふものは、木をこり水をくめども、後世をおもふものゝ、木こり水をくむにてあるべきなり。
某(それがし)は事にふれて、世間の不定(ふじやう)に此身のあだなる事をのみ思ふあひだ、折節につけて、起居のふるまひまでに、あやうき事おほくおぼゆるに、御房(ごばう)たちは、よにあぶなかりぬべきおりふしにも、いさゝかも思ひよせたる氣色(けしき)もなき也。まして、うちふるまひたるありさまなど、よに思ふ事もなげにみゆるなり。さればたゞ、無常の理(ことわり)も、いかにいはむにはよるべからず。さゝかなりとも心にのせてのうへの事也。
〇遁世をあしく心えて、されば今の世の遁世者には貪(どん)の字をかくべしといへり。
〇木をこり水をくめども、是は本と末とを知るべしとの心なり。やゝもすれば末が大事になるなり。世俗は身を愛して世をいとなむ。後世者は後世のために萬をいとなむなり。
〇世間の不定に、世間も不定なり。此身もあだなりとなり。
〇あぶなかりぬべき、わが身に病をうけたる時も、又人の死をきく時、世のさはがしき時などなり。
〇打ち振舞ひたる、常になすわざ、支度する事、おほかた常住の思あるに似たりとなり。
〇いかにいはんには、口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。
[やぶちゃん注:師と思う相手から、かく言われる「彼の弟子を自認する」者の気持ちは、いかばかりであったろう。
――「わが身に病をうけたる時も、又人の死をきく時、世のさはがしき時」であっても、ましてや、「おほかた常住の」日常にあっても何も感じていない連中には、「無常の理も」、どんなに説いたとしても、そなたたちには、分かるまいの、だから、「さゝかなりとも」心にかけておくしか、これ、あるまいよ――
ガツンとくる強烈なパンチ、である。
「〇いかにいはんには、口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。」という標註について、Ⅱの大橋氏の脚注には、この文ではなく、
是はいふといはぬとにはとあるべきを、かきあやまりたるなるべし
とあるとする。これはどうもⅠとⅡを合体させたものが、本当の註の全文であるように思われる。即ち推測であるが、この標註は、
〇いかにいはんには、是はいふといはぬとにはとあるべきを、かきあやまりたるなるべし。口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。
というのが正しいのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]
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