芥川龍之介漢詩全集 二十
二十 甲
題空谷居士画竹
水邊幽石竹幾竿
細葉疎枝帶嫩寒
唯恐新秋明月夜
無端紙上露團々
〇やぶちゃん訓読
空谷居士の画竹に題す
水邊 幽石(いうこく) 竹 幾竿(いくかん)
細葉 疎枝 嫩寒(どんかん)を帶ぶ
唯だ恐る 新秋明月の夜
紙上 端無(はしな)くも 露團々(つゆだんだん)
二十 乙
題空谷居士墨竹
水邊幽石竹三竿
細葉疎枝帶嫩寒
唯怕淸秋明月夜
無端紙上露團々
〇やぶちゃん訓読
空谷居士の墨竹に題す
水邊 幽石 竹 三竿
細葉 疎枝 嫩寒を帶ぶ
唯だ怕(おそ)る 淸秋明月の夜
紙上 端無くも 露團々
二十 丙
題空谷居士墨竹
水邊幽石竹三竿
細葉疎枝帶嫩寒
唯恐淸秋明月夜
無端紙上露團々
〇やぶちゃん訓読
空谷居士の墨竹に題す
水邊 幽石 竹 三竿
細葉 疎枝 嫩寒を帶ぶ
唯だ恐る 淸秋明月の夜
紙上 端無くも 露團々
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
「甲」は大正九(一九二〇)年三月十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七〇)
「乙」は大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛(岩波版旧全集書簡番号六七七)
「丙」は大正九(一九二〇)年四月四日附空谷先生宛(岩波版旧全集書簡番号六九二)
に所載する。「甲」の「画」はママ。「丙」が決定稿である。それぞれ、詩に関わっては、
「甲」には、
「又一つ拵へたから差上げます 忙中詩で半日つぶしました」
と後書きし、
「乙」には先行する「十九」と後掲の「二十二」の後に載せ、詩題は詩の後に「これは題空谷居士墨竹と號する詩だよ」と添書きしており、更に、
「どうもこんな事をして遊んでゐる方が小説を書くより面白いので困る」
と、漢詩創作への没頭ぶりを述懐している。
「丙」は、謂わば献じる相手への真正の決定稿である。これは書簡全体を以下に示す。
啓
屏風早速御揮毫下さいまして難有く存じます 結構な御出來で皆大さう悦んで居ります
それから墨竹も厚く御礼申上ます あれでは唯今こんな詩を作りました 御笑ひまでに御覧下さい
題空谷居士墨竹
水邊幽石竹三竿 細葉疎枝帶嫩寒
唯恐淸秋明月夜 無端紙上露團々
あの画には水石ともありませんが便宜上詩の中へは採用しました この邊が素人藝の妙と御思ひ下さい さもないと到底詩などゝ号する代物らしくも思はれませんから
いづれ御礼に參上しますが先はとりあへず感佩の意だけ手紙で申上げます 草々
四月四日夜 我 鬼 生
空 谷 先 生 侍史
この書簡によって、本詩が空谷先生から竹を(竹だけを)描いた水墨画を贈られたことへの謝意を込めた贈答詩であることが判明する。
空谷先生は医師下島勳(しもじまいさお 明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。
「幽石」苔むした深山の岩石。
「嫩寒」「嫩」はもと、若いという意から、総て生じたばかりのものを言い、これで薄ら寒さの意である。
「端無くも」何の契機もなしにことが起こる・思いがけなく・偶然にの意の「端無く」と訓じてもよいが、ここはその強調形の本邦の常套句である「はしなくも」で訓じた。
「團々」露が多く集まっているさま。
なお、邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の本詩の『評価』には、転結句を『生き生きとした表現』とし、『このような想像力に富んだ詩句で真に迫る画の素晴らしさを歌い、詩画一体の世界を演出している』と評されながらも、『ただし、中国では「三」という数字が神聖視されてはいるが、詩の象徴性を重視し、読者の想像力を要する伝統的な詩では「三竿」や「幾竿」のような具体的な言い方は好まれない』とあって、中国人と日本人の感覚の相違を感じさせて極めて興味深い。]